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5
あたしは一人で自分のアパートに帰ってきた。
部屋は真っ暗。電気をつけないまま畳の上にごろんと仰向けに寝転がった。
なんだか疲れた……。
朝一番に大家さんにゴミの件で叩き起こされて、お昼には松井さんから電話があって、出版社に行って、病院に行って、それで……。
ああ、もうなにも考えたくないっ、このまま寝ちゃおう、そうしよう!
敷きっぱなしだった布団に潜り込もうとしたとき、ドアをノックする音がした。
「マリナ?」
シャルルの声だった。
「帰ってるんだろ? 開けてくれ」
ガチャガチャッとノブを回している。
あたしは無視して、布団をかぶった。
すると、カチャリという小さな金属音がして、ドアの開く音がした。パチンと部屋の電気がつけられる。
今さらながら、シャルルに合鍵を渡したことを後悔した。
けど、たとえ合鍵がなくても、シャルルなら開けてしまうんだろうし。
ああ、どっかに消えちゃいたい。シャルルの来ないところに。
「……どうしてでない?」
パタンとドアの閉まる音がして、シャルルの声が近くなった。
あたしは布団をさらに頭の上に引き上げた。
「もう寝てるからよっ!」
だから放っておいて。
あんたはピンクさんと仲良くやってればいいじゃないのよ。
「マリナ……さっきのことを説明させてくれ」
「なんのことっ!? あたしは別にっ」
「君が来ているなんて思わなかった」
そうでしょうとも。
びっくりさせるつもりだったんだから。
驚かせられちゃったのは、あたしだけどねっ。
「あたしがいないと、あんたは別の女の人と、けけけ、結婚の約束までしてるってわけねっ、この女たらし!」
こんなヤツだとは、思わなかった。
そりゃあもともと人嫌いだし、天才だし、完璧主義のあげく唯美主義で、しかも容赦のない厳しい性格ときたものだから、冷たい目でひどいことをグサッと言われる時も少なくないけど、でも……。
シャルルはフランス人らしく、毎日仕事が終わると、どんなに遅くても必ずあたしの部屋をノックして「愛してる」と言ってくれる。
それだけ。
あとは瞼の下にキスして帰っちゃうの。
それ以上の進展とかはまったくないんだけど、そのキザな振る舞いの奥に、胸が熱くなるようなトキメキと、今まで味わったことのないドキドキを感じていたのよ。
愛されるってこういうことなんだ。
あたしはどんどんシャルルを好きになっていった。
恥ずかしいから、あたしから積極的に思いを表すことはなかなかできなかったけど、でも、それは、彼にも伝わっていると思ってた。
なのに……!
「それは……事情がある」
「どんな事情よっ!?」
あたしはガバッと布団をはねのけた。
「言えない。けれど、オレは、君を裏切るようなことはしない」
病院で見たままのシャルルがドアを背に、戸口に立っていた。蛍光灯の下のその顔が、冷静であればあるだけ、いらついた。
あたしは病院で目撃した出来事とそのときのシャルルの言葉に、自分がものすごく傷ついていたことに、気づかなかった。
そして、傷ついた分、相手に同じだけ傷をつけないと気がすまなくなってることにも。
「オレを信じてほしい」
「実験動物とか言われて信じられるわけないでしょ!」
「それは……」
「あんたなんか最低よっ! 学長の娘に逆らえないぐらいなら、アルディ家当主のまんまでいたらよかったじゃないのっ! なんでわざわざ日本に来たのよ!? あたしの解剖のため? あたしが死ぬのを待ってるのっ!?」
「マリナ、落ち着いて聞けよ」
「もうたくさん! 出て行って!」
あたしは思わずそばにあった枕を取り上げて、力いっぱい投げつけた。
「ゴミ出しでは大家さんにあんたの代わりに怒られるし、あんたが来てから、なにひとついいことなんてないものっ! 結婚でもなんでもすればいいわ! やっとしつこいあんたがいなくなって、あたしもせいせいするっ!」
枕はシャルルの顔のすぐ側の壁にぶつかりながら落ちた。
「……それ、本気で言ってるの?」
「本気よっ! どうぞお幸せにねっ!」
シャルルは首をかすかに横に振って、背中を向けた。
「話にならない。帰る」
「やっぱり認めるのねっ、あの人と結婚するって!?」
「違う」
「うそっ! このうそつきっ!」
シャルルが顔だけで振り向いた。
「違うと言ってる。オレが信じられないのか?」
こわいぐらい真剣な目。
信じたい。
瞬間、シャルルのその顔に重なるように、ピンクさんの顔が浮かんだ。
信じられない。
その二つの思いで、心も身体も引き裂かれてしまいそうだった。
「………」
あたしは答えられなかった。
気がつくと、自分の頬をぬるい涙が伝っているのを感じた。
シャルルがすっと視線をはずした。
「……だったら、もういいよ。理解しようとしない人間に、説明する気はない。君の好きに考えればいい」
シャルルっ!?
「しばらく帰らない。元気で」
シャルルはドアを開けて出て行った。カンカンと階段を下る音がして、やがて消えた。
それでもあたしは動けなかった。
シャルルのバカ……っ!
あっさりとあきらめすぎよ……。
なんでもっと粘ってくれないの。
どうして違う、信じろって、怒鳴ってくれないの。
説明してくれれば、きっとわかったのに。
そして、いつもみたいに「愛してる」ってささやいて、瞼の下にキスを……っ。
あたしは自分が無茶苦茶なことをいっているのも、シャルルにひどいことを言ってしまったのもわかっていながら、それでも、もうどうしていいかわからなくて、ただ、布団に突っ伏して泣くことしかできなかった。
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