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今から一時間前、あたしの手を引いてジルが向かったのは、ホテルの一室だった。
きょとんとするあたしをゲストルームに待たせておいて、十数分後、メインルームから出て来たジルに、あたしは心底ビックリした。
「シャルルっ!?」
「ふふ。マリナさん、私ですよ」
シャルル、もといジルは笑った。
突然、なんのじょーだんよっ!?
「万が一の事態に備えて、パリからアイテムを持参していました。男性用スーツ、靴、白金髪のカツラ。以上三点。役に立ってなによりです」
満足げにそう言ったジルは「では作戦開始です」と、高らかに宣言した。
結果、あたしは、いまこうして、シャルルに扮したジルとともに、東京国際医科大学病院のシャルルの研究室に、ふたたび忍び込んでいるってわけ。
「さ、マリナさんは隠れてください」
あたしは慌てて前回と同じ、ソファ裏に身を潜めた。
椅子に深く腰掛けて、デスクの上の書類を手に取って退屈げに眺めるジルは、どこからどう見てもシャルルそのもので、あたしはソファの背からこそっと顔を出しながら、はぁ~っと深いため息をついた。
すごく似てる。
でも、どんなにシャルルに似ていても、彼女にはときめかないわ。
ああ、よかった。
あたしはやっぱりノーマルだわ。
「もうすぐシャルルが外来をおえる時間です。その頃合いを見計らって、パリの本家からシャルルに電話を入れるように命令しておきましたので、足止めしてくれるでしょう。同時に、学長の娘という円城寺カナコさんには、先ほどこの部屋に来るようにシャルルの名前で連絡しておきました。すべては順調です」
つまり、シャルルのふりをして、ピンクさんに会おうっていう作戦なわけね。
でも、あたしが知りたいのはシャルルの気持ちよ。
そんなことしてどうなるわけ?
あたしがソファの影から聞くと、ジルは椅子を揺らせて振り返った。
さらっと揺れる白金の髪の隙間から、ブルーグレーの瞳に熱く見つめられて、ついつい胸がキュンキュン!
ちがう、断じてあたしはノーマルよっ!
ただしばらくシャルルに会ってないものだから、シャルル禁断症状がでてるだけなのよ、お願い、信じてっ!
「シャルルの気持ちは、シャルルからお聞きになった方がいいと思います。他人を介在した説明では、真実がかならずどこか歪曲してしまうものですから」
「じゃあ、なんでこんなことするの?」
「アルディ流百倍返しです」
「へ?」
「シャルルとマリナさんの間を引き裂いた彼女に、とくと思い知っていただきましょう」
ニヤッとジルが笑って、あたしは背筋がぞくっとした。
うわーんっ、ジルがこわいよぁ!
あたしははじめてピンクさんに同情しながら、そのときをドキドキしながら待った。
それから、三十分ぐらい経ったころだったかしら。
窓の外はすっかり暗くなっていた。
静かな病院の空気をかき乱すように、突然、廊下からバタバタという足音が近づいてくるのが聞こえて、あたしは慌てて首を引っ込めた。
来たっ!
と思った瞬間、バタンと弾けるようなドアの開く音がした。
「アルディ博士っ!」
部屋中に響き渡る怒鳴り声。
これ、ピンクさんの声よね?
「勝手にどういうことですかっ!?」
「……は?」
「ここまであなたに誠意を尽くしてきた父を裏切る気っ!? ひどいわっ!」
なんのこと?
わけがわからなくて、そーっと顔をのぞかせると、今日はさらに色の鮮やかなピンクのスーツに身を包んだピンクさんが、顔までピンク色に染まる鬼の形相で、椅子に座ったシャルル、もといジルに食ってかかっている。
ジルがなにかやったの?
でも……。
ジルを見ると、彼女は口を開けて唖然としている。
あれはどう見ても、あたしと同様、まったく事態が飲み込めないという顔よ。
「アルディ博士、患者のキョウダイはどこですかっ!?」
「え? こちらにいるのではないのですか?」
「とぼけないでっ!!」
「だって、彼らをこの病院に収容する代償に、あなたはシャルルに結婚しろと言ったのでしょう? だったら……?」
さすがのジルも、自分がシャルルのふりをしていることをすっかり忘れてしまっているみたい。
けれど、興奮したピンクさんはそれにも気づかない様子で、さらにジルに向かって叫び立てる。
「あなたがどこかに連れていったと看護士が言っています! 医療チームの医師も全員いなくなって、父も困惑しています! 一体どういうおつもりっ!?」
ジルが「知らない」と首を横に振った。
キョウダイって?
あたしの頭にクエスチョンがポンと浮かんだ、まさしくそのときだった。
「カナコさん、病院中に響いてますよ」
廊下から静かな声がした。
この声……!
ピンクさんもジルも、雷に打たれたようにバッと振り返った。ドアの影から、白衣姿のシャルルがゆっくりと姿を見せて、あたしは息が止まりそうになった。
……ああ……。
何日ぶりだろう。
なにも変わっていない。
あたしは思わずシャルルの名を呼びそうになってしまったけれど、当のシャルルは、ソファの影に隠れるあたしにはまるで気づいていない様子で、部屋に入ってきた。
一方のジルは椅子に座ったまま片手で額を押さえ、まいったという顔をしている。
うーむ、やっぱりそっくり。
そんな鏡合わせのような二人に、大混乱したのは、もちろんピンクさんよ。
「アルディ博士っ!? じゃあ、こちらの博士は…?」
ピンクさんは狐につままれたような顔で、ジルを振り返った。
「彼女は、私のいとこです」
「いとこっ!?」
「昔からよく身代わりをしてくれた、ね。―――それよりもカナコさん。病院内で大声をだすのは慎まれた方がいい。学長の娘としては恥ずかしいですよ」
ようやくピンクさんは我に返ったように、カッと顔を赤らめてから、本物のシャルルに向き直った。
「じゃあ、ご説明願いますわ! キョウダイをどこにやったのですか?」
「きちんと治療していますよ」
「どこでです? 父が秘密裏に作ったこの病院の特別医療チーム以外で、あなたがパリから連れてきたあの二人を治療できるとお思いっ!?」
あたしは『キョウダイ』が誰のことを言っているのか、それでわかった。
ドキンとした。
「可能です。年明けに私が創設する、アルディ総合医療センターならね」
「えっ…?」
ピンクさんの黒いふさのような睫毛の下の大きな目が凍りついたのを、あたしはハッキリと見た。
シャルルは淡々と説明した。
日本に来てすぐに、進行中だった数種類の開発を立て続けに成功。その資金を元に、所轄の大臣と管理省庁に根回しし、以前から構築してきた政財界関係の人脈と医療関係のコネクションを駆使して、異例中の異例と言えるスピードで、このほど都内の再開発地に総合医療センターを落成させたことを。
シャルルが新病院っ!
……すごいっ!
「そんなバカな。あなたひとりでそんなことできるわけがっ」
「おや、私はそれほどの男に見えませんでしたか? それは残念です。対外的な病院機能の開始は一月十五日ですが、医療体制はすでに整っています。二人は本日移送しました。なお、彼らの治療について、法務大臣の許可は内々にいただいています」
「な…んっ!?」
「今の大臣とは、三才のころからチェス仲間でしてね。彼は私に借りがあるんですよ」
シャルルは面白そうに身体を揺らしてから、一度姿勢を正し、今度はおもむろに右手を胸の前にかざして、丁寧におじぎをした。
「医療チームの医師をはじめ、数十名のスタッフも新病院に移りたいと希望しています。あしからず」
ピンクさんはわなわなと震えはじめた。
「……信じられない。まさか、最初からそのつもりで父を利用して……?」
「いえ。本当は円城寺学長のお世話になっていたかったのですよ。ただどうしても私は、虫酸の走る女が嫌いでしてね」
「あの汚らしいアパートを出たりまでして、私をだましたのっ!?」
「解釈はご自由に、と言っただけです」
そう言うと、シャルルは顔を上げて微笑んだ。
まるで不遜な天使のように、息をのむほど美しい笑顔で。
「あなたが用意した婚約発表の場を使わせていただいて、つい今しがた新病院の発表をさせていただきました。感謝しますよ、ありがとう」
ピンクさんはみるみる真っ青になって、身を翻して部屋を出て行った。
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