《ご注意》シャル×マリ、和×マリ要素あり。不倫ミステリです。オリキャラ多数。
これらの設定を受け付けない方は、閲覧を自己規制ください。
15万ヒット記念創作。全5~7回程を予定。
+++++++++++++++++
愛の波、罪の海
1
不倫―― それはドラマの世界だと思ってた。
限られた人たちだけが踏み入れる、禁断の世界。
どうしてみんなもっと愛し合えないんだろう。
大切な人を悲しませるなんて、ひどい。
私なら、絶対にしない。
でも、そう思っていた私は、なんと浅はかな子供だったのだろう。
世の中に絶対なんて――ないのだ。
*
私は今、不倫をしている。相手は、夫の親友だ。
その相手は、目の前で私に背を向けて、白いYシャツの背中を向こう側にかがめるようにして、ネクタイをしめている。
「じゃあ、また。次は19日に来るよ。このホテルでいいかい?」
シュ、シュル。上等な絹のネクタイのすれる音がする。
私は、ベッドの中でのそりと起き上がった。
「別に無理して来なくていいけど?」
「無理じゃないよ。9のつく日は日本って決めてるから」
ネクタイをしめ終わった気配。男の手はクローゼットに伸びる。紺色のジャケットを取り出すと、白いシャツに覆われた上腕から脇腹へのしなやかなラインを見せて羽織る。
この仕草に私は弱い。男の色気を感じてしまう。
「ねえ、今年、うるう年よ」
サイドテーブルに置いてあった財布とキーケースを胸ポケットにしまいながら、男が首をかしげた。
「うるう年?」
「今月は29日まであるわ。当然、29日も来るんでしょ?」
途端、男の微笑。
「じゃあ、罪がひとつ増えるわけだ」
「今更よ。罪なんてもう数えないわ。一回も百回も同じでしょ?」
その時、初めて、彼は振り返った。にやりと笑う、余裕たっぷりなその顔がにくい。
「人妻の割には大胆だな」
「誰がそうさせたのよ。こんな女にしたのは、シャルル、あんたでしょ?」
男がベッドに戻ってくる。そして、私のほおに手を伸ばす。
「いい度胸だ。愛してるよ」
それをキーワードに、私は唇を彼に許した。
二時間後、私はホテルを出て、自宅に帰った。すでに夜の十時を回っていた。
空気が底を打ったように冷たい。
自宅は、都心から電車で小一時間ほどの、県営住宅の二階だ。
階段をのぼってすぐの玄関には、私お手製イラスト入りのネームプレート。モチーフはもちろん、私たち夫婦だが、私の若いころのトレードマークだった赤いちょんちょりんが色あせて、いやにみじめったらしく見えた。
これ、もう外そう――と思いつつ、鍵を回し玄関を開けた。
「ただいま」
声をかけながら家に入っても、応答はない。
キッチンにすぐ行くと、夫のために出かける前に用意していった夕食が、手つかずで、そのままテーブルの上にあった。
私が書いたメッセージカードも、そのまま。
“お仕事お疲れ様!
大好きなコロッケと筑前煮
チンして食べてね”
ぐしゃっとカードを握りつぶしてゴミ箱にすててから、ストーブのスイッチを入れ、食器棚からグラスを取り出して、冷蔵庫の冷えた麦茶を注いだ。飲みながらテーブルの前に座る。
電話が鳴った。
「もしもし? あ、お義姉さん?」
夫の姉からだった。
「ご無沙汰しています。お元気ですか? ――ええ。変わりはないです。はい、ありがとうございます。和矢はまだ帰宅してないですが――え? コンゴ? アフリカの? 和矢はコンゴに行ったんですか?」
思わず声が大きくなる。びっくりする私に、義姉は説明してくれた。私に連絡を取ろうとして、居所がつかめず、夫は姉に私への伝言を託したのだ。
伝言内容は――急に仕事が舞い込んで、アフリカのコンゴ共和国に行くことになった。このまま今夜の便で発つ。滞在場所、帰国日ともに未定。急用はいつものように事務所に入れてくれ――以上だ。
「……留守してすみません、ちょっと出かけてて」
受話器の向こうで、義姉の明るい笑い声が上がった。
『いいのよ、あの子はいつも急なんだから。そもそも戦場カメラマンなんて難儀な商売を選んだ和矢が悪い! アフリカの現状を伝えたいって情熱はわかるけど、危険と隣り合わせだし、ほとんど日本にいないし、あんなわがままな弟に付き合ってくれるマリナちゃんには感謝してるのよー』
義姉はいいひとだ。ただし、優しすぎるところが欠点。弟と同じ。
『マリナちゃん、我慢してない? 大丈夫?』
我慢はしてません――ちっとも。
「大丈夫です」
『本当に?』
「はい。安心してください」
くれぐれも和矢をよろしくね、と念押ししてから、義姉は電話を切った。受話器を置くと、静寂が音を立てて聞こえた。
シャルルとの次の約束は、19日。
それまで、夫は帰国しないだろう。
作り笑いをする必要もなく、絞り出したような会話もいらない。ただ指折り数えて、恋しい男に会う日を待てばいい。
私は、コロッケにかかっているラップをめくって、指先で一口つまみながら、麦茶をがぶりと飲んだ。
いつから、私たち夫婦はこんな風にすれ違うようになったのだろう。
愛し合って、結婚して、片時も離れていたくなくて、一緒に居られるときは、ずっと肌をくっつけていた。なのに、いつの間にか、そばにいない方が楽に呼吸できるようになっていた。
いつからだろう?
私は、その答えにすぐに思い至った。
――そうだ、あれは去年の夏。
夫を信じられなくなった日からだ。
あの日は、朝から編集長の機嫌が悪かった。うちわで首筋をパタパタ扇ぐ回数がいつもより激しい。
「おい池田、丸岡先生の原稿はあがったか?」
私はその前の年から、以前、まんが家として出入りしていた出版社の文芸誌『彷徨』編集部に勤めていた。
「すみません、まだです」
「ばかやろう! この能無し!」
怒号が飛んだ。部内中の視線が一気に私に集中し、いたたまれず、うつむいた。
「一年もこの仕事やってて、原稿一つまともにとってこれねぇのかよ? 原稿があがるまで、相手に張り付いてろっていっただろ?」
「でも、丸岡先生が帰れって」
「そーいう時は、近くの茶店ででもねばれよ! 時間見計らって顔だして、相手にプレッシャーかけるんだよ。やったか、そういうこと?」
「あ」
やっていない。帰れと言われて、素直に帰ってきた。
「ご機嫌を損ねてはいけないと思って……」
「――ったく、ちったぁ、頭使え、このノータリン!」
編集長は口が悪い。罵詈雑言はいつものことだ。私は身を小さくして耐えるしかない。
「だから、使いたくなかったんだよ。まんが家崩れの中卒なんか。黒須先生のごり押しも勘弁してほしいよな。いくら自分の女房だからって、こんな使えない女押し付けてさ」
「やばいですよ、編集長」
そばにいた若い部員が、口を挟んできた。
「そんなセリフが黒須先生の耳に入ったら……。黒須先生は、ピューリッツァー賞を取ってから、ものすごい人気で、今度うちで出す写真集は、ミリオンセラーは固いって噂じゃないですか。今へそ曲げられて、違う出版社に変えるなんて言い出されたら、社長から大目玉くらいますよ。無事に写真集が出せるまで、ここは我慢ですよ。我慢我慢」
「……ちっ」
編集長は、面白くなさそうに、腰を下ろした。私はようやく解放された。
「もう一度、原稿取りに行ってきます」
一礼してから、編集部を出た。背中に大量の冷ややかな視線を感じながら。
夫の黒須和矢は戦場カメラマンだ。アフリカの実情を伝える写真集でピューリッツア賞をとったことで、急に脚光を浴びた。そのツテで出版社に就職した私を、周囲が快く思ってはいないことは、仕事初日からわかっていた。今更、そのことを悲しむつもりはない。
「池田さん、私もご一緒します!」
振り返ると、編集部で一番年下の西島多香子が走って追いかけてくるところだった。ふわふわとしたゆるいカールが肩で跳ねているのが、とても可愛らしい。
「ひとりでいけるわ。大丈夫よ」
「そうですか? じゃあ、これ」
と言いながら、彼女は紙袋を差し出した。
「名楽堂の最中。丸岡先生の好物なんです。よかったら、先生に」
にこりと笑うかわいい顔に、私は驚く。
「いつの間に買ってきたの?」
「お昼休みです。池田さんが丸岡先生の原稿とりに行ったと伺ったので、もし、お役に立つならと思って」
暗に、でもはっきりと、失敗を予想していましたと告げられて、私はカァッと顔に血がのぼるの感じた。
「そういえば、昨日、黒須さんから電話がありました」
「え? 和矢から?」
一週間前から和矢はエチオピアに出かけている。国境紛争の取材だ。
和矢が大学時代、まだ高校生の西島多香子と、NPO活動で一緒だったことがあると聞いてはいたが、彼は一度出国すると、めったなことでは連絡をよこさない。だから彼女に電話をしたと聞いて、さらに驚いた。
「はい。撮影は順調で、毎日が充実してるそうです。でも、忙しくて、二キロぐらい痩せちゃったらしいです」
「そう……」
「黒須さんは、撮ることにすぐ夢中になっちゃいますものね。生活も二の次になっちゃって、ご飯とか適当だし、すぐにそこらへんで寝ちゃうし。だから私が一緒に行くって言ったのに、意地はるんだから――あ!」
西島多香子はわざとらしく、右手を口にあてた。
「ごめんなさい、私ったら奥さんに。聞かなかったことにしてくださいね」
私は動揺を押さえ込んで、苦笑した。自ら暴露しておいて、聞かなかったことにしろ、とは片腹痛いとは思ったが、それは言わないことにした。
もともと、二人の仲を怪しいと思っていた。確証が得られて、かえってよかった。
「心配しないで。最中ありがとね。いただいていくわ」
私は紙袋を受け取って、彼女に背を向けた。直後、後ろで西島多香子の声。
「丸岡先生のお宅の前の通りを50メートルほど左にいったところに、“チロル”って喫茶店があります。コーヒーが美味しいですよ。時間をつぶすなら、そこがベストです。原稿とり、がんばってくださいね!」
私は答えずにエレベーターに乗った。
総ガラス張の一階に降りると、真夏の太陽がまぶしかった。
汗で肌にはりついたブラウスの襟を直しながら、急いで地下鉄の駅に向かおうとした私は、ビルのエントランス前で、大勢の取り巻きに囲まれてこちらにやってくる男性に、正面からぶつかった。
「す、すみません! 私、前を見ていなくて」
痛む鼻をさすりながら目を上げて、心臓が止まった。
目の前にさらりとこぼれ落ちているのは、白金色の長い髪。
息を飲んで視線を上げれば、青に近い灰色の二つの瞳。
「えっ。あんた、シャルル?」
彼――シャルル・ドゥ・アルディは、十代のひとときを一緒に過ごした友人だ。けれど、何年も会っていない。理由は簡単だ。友情以外のものが芽生えたからだ。けれど、私には和矢がいた。だから、シャルルを受け入れられなかった。
「君は……マリナか? これは、驚いたな。こんなところで会うなんて」
彼は笑った。ふわっと花のような美しい笑顔。
思わず見惚れた。
それを隠すように、私は早口で言った。
「あんた、どうしてこんなところにいるの?」
「仕事だよ。今度、アメリカのテッド・ハリンソン教授と共同執筆で脳移植に関する研究本の日本版を出すんだ。その契約をしに来た。君はまんがの打ち合わせか?」
「……ううん。私、まんが家やめたの。今はOLしてるわ」
「へぇ、意外だ。君は一生まんがを描くと思った」
「そうしたかったんだけどね。いくら頑張っても認められないもんだから、描くことがだんだん苦しくなっちゃったのよ。で、自分から、ジエンド。去年から、ここの文芸部で働いているのよ。和矢のコネでね。ほら、和矢って出版社に顔がきくから」
屈託のないシャルルの様子と、十代のころを思い出す軽快な会話に、つい口が滑ったと気づいたときには後の祭り。
一瞬の間のあと、シャルルは言った。
「男にすがる人生か、みじめだな」
その時、何があったなんて、説明できない。
ただ、私と彼は数瞬だけ見つめあった。瞳を閉じずに。
そのあと、シャルルは何もなかったように、身を翻して、ビルの中に消えていった。
夕方、編集部の私の元には、ホテル名の入ったルームキーとメッセージカードが届けられた。
カードにはたった一言。
“愛してる”
私の中で、何かが弾ける音を聞いた。その夜、私は家に帰らなかった。
――去年の夏を思い出したその感慨を断ち切るように、私は、二個目のコロッケを口に運んだ。
あれから半年。
季節は夏から秋、そして冬に変わったが、私は不倫を続けている。9のつく日に、シャルルは日本にやって来て、私たちは会っている。西島多香子と夫に、見た目の変化はない。
罪を数えることはもうしない。だから、夫の罪も数えない。
それでいい。今、私はしあわせだ。
*
週明けの午後、私は半年ぶりに丸岡先生のお宅に伺った。
「丸岡先生、お久しぶりです」
熊のような大男である丸岡孝蔵は、五年前に芥川賞をとったベストセラー作家だ。
「おお、池田君じゃないか! また君を担当に回されるとは、僕はよっぽど編集部にバカにされとるんだな。僕の原稿なんかいらんと思われてるわけだ!」
「えー、先生、どういう意味ですか?」
「わっはっは。君は『帰れ』と言ったら素直に帰っちまう編集だからな」
「もう帰りません! 私も修行しました!」
胸を張ってみせると、丸岡先生は笑った。顔じゅう黒ひげで覆われたしかめっ面が、笑うと、五十九歳という年齢よりずっと若く見えるから不思議だ。
「じゃあ、上がって待ってくれ」
書斎に向かった丸岡先生を応接室で待つこと五時間。出来上がった原稿を確認して、帰ろうとした時だった。玄関で丸岡先生が言った。
「今度、食事にいかないか?」
「え?」
「美味いエビを食べさせる店があるんだ。どうだ?」
悪くない誘いだ。食べることは大好きだし、作家の誘いはできるだけ断るな、作家との良好な関係を常にキープして、よい作品を書かせることも編集者の大事な仕事だからと言われている。
「もちろんご一緒させてください」
「そうか。じゃあ、19日の夜はどうだ?」
私はぎくっとした。シャルルが日本に来る日だ。
「すみません、その日はちょっと……」
「なんだ。都合悪いのか」
丸岡先生は明らかに機嫌を損ねた様子だ。
「他の日なら! いつでもいいです」
「別に無理しなくていいよ。西島君を誘うから。じゃ」
そう言うと、丸岡先生はさっさと家の中に入ってしまった。私は嘆息しつつ、原稿を手に出版社へ戻った。
早速、苦虫を潰した顔の編集長。
「おい池田。おまえ、丸岡先生の誘いを断ったんだって? 西島がうまくとりなしてくれたから良かったけど、作家を怒らせてどうするんだよ?」
どうやらあのあとすぐ、丸岡先生は西島多香子を誘ったらしい。
「大丈夫ですよ。編集長。私、エビ大好きなんです。だから、池田さんの代わりに丸岡先生とお食事に行けてラッキーです!」
デスクで、西島多香子がにこりと笑う。
「まったく……仕事できるやつは気遣いもできるって本当だよな。私用を優先するどっかのごり押しさんとは雲泥の差だよ。西島、おまえ、出世するぞ」
「そんなに褒めても何もでませんよー」
「池田からちゃんと礼もらえよ」
「やだ、お礼なんていりませんよ。あ、でも、せっかくならいただいちゃおうかなー? 素敵なご主人様とか?」
「おいおい、それはさすがにまずいだろ」
「えへへ。やっぱりダメかー」
と自分の額をぱちっと叩いて、ぺろっと舌を出す西島多香子。
「ま、黒須先生がそうしたいって言ったら別だけどな」
編集長は大笑いした。私は迷惑をかけたことを謝罪して、原稿を渡した。
淡々と通常業務をこなし、夜八時過ぎに自宅に帰った。ネームプレートがぶら下がっているドアに鍵をさそうとして、ドアポストに白い封筒が差し込まれていることに気づいた。
手に取ると、普通の洋封筒。切手はない。きっちりと糊付けされている。表書きも裏も何も書かれていない。
なんだろう?
玄関に入って、鞄を廊下に置いてから、封を手で切った私は、中の白いメッセージカードを取り出して、身体中が凍りつくかと思った。
そこには、このように、ワープロ文字で印字されてあった。
“9は裏切り者”
私はその文字を凝視して、しばらく玄関に立ったまま、動くことができなかった。
next