《ご注意》シャル×マリ、和×マリ要素あり。不倫ミステリです。オリキャラ多数。
これらの設定を受け付けない方は、閲覧を自己規制ください。
15万ヒット記念創作。全5~7回程を予定。
+++++++++++++++++
愛の波、罪の海
3
“8にも制裁を”
どうして?
昨夜決めたばかりの約束なのに!
向かいのデスクにいる城之内祐典がたずねてきた。
「どうしたんですか? すげー悲鳴でしたけど……」
そう言われて、ハッと周囲を見ると、部内中の視線が私に集中していた。不審そうな彼らの顔を見て、ようやく私は、自分が椅子から立ち上がっていたことに気づいた。
「あっ……ご、ごめんなさい、なんでもないです!」
慌てて椅子に座ると、他の部員に社内便を配っている最中だった西島多香子が、私のほうまで戻ってきて、背後から私の手元を覗き込んできた。
「脅迫状でも来てましたー?」
ぎょっとしながら私は、急いで例の手紙を伏せた。
「まさか! 違うわ!」
「でも今、悲鳴あげてませんでした?」
「ほら、このオフィス用品のセール案内のハガキで指切っちゃったの。あまりにも痛かったから、つい声をあげちゃっただけ」
「あー。それ、総務に返すんです!」
西島多香子は私からそのハガキを奪うと、胸ポケットから、キラリと三日月の飾りが光る銀色のペンを取り出して、掌を机にして「総務返却」と書き込んだ。
「それにしても池田さん、指、切れてるように見えませんけどー?」
「面の皮と一緒で指の皮も厚いの! でも、痛いから、絆創膏貼ってくるわ!」
私は脅迫状をデスクにしまい、ミニポーチを手に席を立った。
広いフロア奥の休憩室。二台の自動販売機と公衆電話、あとは喫煙台があるのみの狭い部屋だ。始業間もないため、人気はない。ほっとしながら私は、すぐに公衆電話を手にとり、暗記してある番号を押した。
『アロー? ご用件をどうぞ』
機械的な音声。ガチャッという音が受話器を通して聞こえて、録音が始まったことがわかった。
これは、シャルルが私に与えてくれた秘密ダイヤルだ。留守番電話の応用で、私がメッセージを残すと、パリに住む彼が、私のメッセージをパリで聞くことができるシステムになっている。
普通の恋人たちのように家の電話で語らいあうことは、私たちはできない。彼の多忙な仕事、時差、そして不倫という関係が、私たちにそれを許さない。
秘密ダイヤルにいつでもかけていい。どんな些細なことでも。君の望みをできるだけ叶えたい。彼はそう言った。だが私はこれまで、一度約束をキャンセルした以外、この秘密ダイヤルを使ったことはなかった。
こんなことを言う日が来るなんて――。
私は泣きそうになるのをこらえて、早口で言った。
「シャルル、お願いすぐに日本に来て! 誰かが私を脅してきてるの。手紙、手紙で……。どうしていいかわからない。すごく怖い。お願い、助けて。お願いよシャルル、すぐに会いたいの……!」
声を殺してそれだけ言って受話器を置いた途端、肩をポンと叩かれた。
「ひぃっ!」
振り返ると、すぐ後ろに、城之内祐典が立っていた。
「池田さん、探しましたよ!」
まさか、今のを聞かれた――?
城之内祐典はにこっと笑った。
「今夜、食事に行きませんか?」
「え?」
「今日は9じゃないから誘ってもいいんでしょ? 実は、西島さんが丸岡先生に僕を紹介してくれたんです。それで今夜、丸岡先生と西島さんと僕で食事に行くことになったんですけど、池田さんも一緒にぜひ行きましょうよ。そんで今日こそUFO歌いましょう!」
屈託のない笑顔に、私はひとまずほっとする。どうやら聞かれてはいないらしい。
「ごめんなさい。私はいいわ。お二人で行って」
「どうしてです? 丸岡先生に気に入られるチャンスなのに」
「いいのよ」
「そんなこと言わないで行きましょうよ? ね?」
城之内祐典は私の顔を覗き込むように誘ってくる。脅迫状を受け取ってから、心の余裕をすっかりなくしていた私は、ついカッとして叫んだ。
「行かないって言ってるでしょ! しつこい!」
私の大声が狭い休憩室に響き、城之内祐典が驚いた顔になった。
しまった、と瞬時に思った。
「あ、ご、ごめんなさい……あの、私、今日は体調が悪くて」
「いえ。僕もすみませんでした」
素直に頭を下げる城之内祐典。私も再度謝罪する。
気まずい空気。それを払うように、彼はおもむろに尻ポケットから財布を取り出して、自動販売機で温かい缶コーヒーを二本買い、一本を私に差し出した。
「どうぞ」
「そんな、お金払うわ」
「いいですよ。僕のおごりです」
「……ありがと」
彼の気遣いを、私は柔らに受け取った。彼は部屋の中央にある喫煙台に腰をもたれて、プシュッとプルトップを開け、
「なんか缶、あんまり熱くないですね。この自販機、調子悪いのかな?」
愚痴りながら、グイッと一気にコーヒーをあおる。
「池田さんって、変な人ですね」
「え?」
「だってどうみても、部内の全員が、池田さんをばかにしてるでしょ? 仕事で見返してやろうって気も全然ないみたいだし、黙ってネチネチやられてるだけなら、いっそ会社を辞めちゃえばいいじゃんって僕なんか思うんですけどね」
「はっきり言うわね」
「すいません、こういう性格なんです」
ちっとも悪いとは思っていない様子の城之内祐典に、私は苦笑する。もらった缶コーヒーの蓋を開けた。普段は飲まないブラック。苦いが、美味しい。
「私の夫ってね。いいひとなの」
唐突な私の言葉に、城之内祐典は驚く様子を見せない。
「黒須先生ですか? まぁ、ピューリッツア賞ですもんね」
「賞をとったこともすごいんだけどね。性格もいいの。優しいし、思いやり深いし。アフリカを題材にしてるのだって、若い時に激戦のモザンビークに行って、その惨状を見てきたからなの。こんな苦しい思いをしている人たちがいることを世間に伝えたい――って。一途でまっすぐで、世界一素敵な人よ」
「じゃあ、幸せでしょう。ピューリッツア賞ももらって、経済的心配もないでしょ? それとも、戦場カメラマンってそんなに金食うんですか?」
「お金は別に……」
「じゃあ、何のために働いているんですか?」
城之内祐典は、最後の一口をすする。
半月以上会っていない夫を思い出しながら、私は言った。
「夫の生活ってね。私なしで完結しているのよ。私がいなくても、夫はアフリカで写真を撮って、キラキラ輝いて生きていくでしょう。だから私は、私を必要としてくれる世界が欲しかったの」
「ふーん。で、この会社は池田さんを必要としてましたか?」
私をじっと見る目は遠慮がない。
「それは意地悪すぎる質問でしょ?」
私がちょっと睨むと、彼は缶を持った手を伸ばして喫煙台に突っ伏すようにして、叱られた子供のように口をすぼめた。
「だから9のつく日に、毒リンゴを作ってるんですか?」
「覚えてたの? かなり酔ってたみたいだったのに」
「強烈なセリフでしたからね。でも、僕は普通のリンゴがいいなぁ」
「……城之内さんは彼女いるの?」
「今はフリーです。三年前までいたんですけど、バンコクに移動が決まったとき、振られました。遠恋なんてヤダって」
城之内祐典は、喫煙台に突っ伏したまま言った。
「池田さん、知ってました? 平木さん、月末に鳥取支局に移動するんです」
「えっ。知らない」
平木国夫。文芸部の中でも一番年長の編集者だ。優秀な編集者だが、あまりしゃべらない彼について、目立たない穏やかな人という印象しかない。城之内祐典の歓迎会のとき、ピンクレディの話題を振られて、困ったように笑っていた。
通常、移動は四月だ。もしくは欧米支社の場合は九月。二月末など聞いたことがない。
「どうして鳥取に? それもどうしてこんな時期に?」
「僕が戻ってきたからですよ」
「え?」
「文芸部の定員は8人なんです。誰かが入ると誰かが押し出される。僕が三年前、バンコクに移動させられたのも同じ理由でした。新年明けにコネ新人が入るからって、クリスマス前に突然辞令が出て文芸部を出されたんです」
私は返事に詰まった。だって、新年明けのコネ新人とは――私のことだ。
城之内祐典は手の中で缶を弄びながら、淡々と喋り続ける。
「編集長は、平木さんの送別会も僕の歓迎会も、どちらもしないつもりだったみたいですけどね。平木さんが自分の送別会はいらないから、バンコクで三年我慢した僕の歓迎は盛大にしてやろうと言ってくれたらしいです。歓迎会の日、僕を恨まないんですかって平木さんに聞いたら、それが会社組織だろって笑ってくれました。あの人は優しいですね。僕とは大違いだ。僕はバンコク行かされたとき、すごく恨みましたから」
言い終わると、城之内祐典はいきなり身を起こして空の缶を捨てて、再び自販機に向かった。チャリンと小銭の投下音に続いて、ガコンと受け取り口に缶が落ちる音。
はい、と手渡されたのは、100%リンゴジュース。
「普通のリンゴの方が美味しいですよ。手間もかからないし、体にいい。毒リンゴを作る奴なんて、現実を受け入れられないみじめなおばさんだけですよ」
にこやかな笑顔の城之内祐典。
私は黙って冷たい缶を受け取った。
その時、フロアの奥の方角から、編集長の怒鳴り声がした。
「――池田はどこだよ? あいつんとこで台割とまってんだろ! 探せ!」
「あ、やばいですよ! さあ、戻りましょう!」
城之内祐典に背中を叩かれて、私は編集部に戻った。
*
シャルルが日本に来たのは、翌日の夜だった。定時退社した私は、息を切らせた彼を会社ビルのエントランス前で見つけて、息が止まりそうだった。
「ごめん、ここに来るのはまずいってわかってたんだけど」
そういう彼に、たまらず駆け寄った。
「いいの。いいの。来てくれてありがとう……」
見つめ合った。彼の瞳が優しくにじんだ。
が、数秒後、彼は歩きだした。そのまま私の横を無情に通りすぎようとする。驚く私の耳に彼のささやき。
「駅と反対側に車を用意している。その車に乗れ」
「え。ちょっと待って」
呼び止めても、彼は足を止めなかった。男の姿がビルの中に完全に消えた頃、それが彼の配慮だということがようやく私にもわかった。
ビルの正面から25メートルほど離れた交差点に、一台の黒いベンツがバザードランプを点けて停車していた。私が行くと、運転手が降りてきてドアを開けた。ひとりでそれに乗った。車が向かったのは前回のホテルとは違うホテルだった。
運転手から預かったルームキーで部屋に入った。すぐにチャイムがなりシャルルが来た。私たちは抱擁を交わしたが、いつものように直ちにベッドになだれ込むことはなかった。
彼は私の両腕を強くつかんで、たずねてきた。
「どうした? 何があった?」
私はこれまでのことを伝え、二つの手紙を見せた。ベッドに腰を下ろして、厳しい眼差しで手紙を見ていた彼は、やがて深いため息を吐いた。
「ひとりで怖い思いをさせてすまなかった」
私は首を強く振った。忙しいのに、こうして駆けつけてくれただけで嬉かった。
「許せない。絶対に犯人を捕まえる」
それから彼は、私にカバンを見せてくれ、と言った。私はカバンを彼に渡した。彼はまず外側を丹念に見てから、中身を一つずつ取り出し始めた。財布。ハンカチ。化粧ポーチ。文庫本。畳んだビニール袋。ぐしゃぐしゃになったレシート。お菓子数種。
ちょっと気恥ずかしい思いになっていると、彼の視線がカバンの底で止まった。
「これは……?」
彼が出したのは、ポップな柄のローン会社販促用ポケットティッシュだった。
「道で配ってるティッシュでしょ。でも、そんな派手なの、いつもらったかしら?」
すると、彼は突然、ティッシュを持ってバスルームに入っていった。間もなく戻って来た彼に、私はたずねた。
「どうしたの?」
「盗聴器だ」
「え?」
「ティッシュの内側に、盗聴器が仕掛けられてた」
私は驚いて、バスルームに行った。洗面台の上に乗せられたティッシュはポップなカバーが外され、白い柔紙は二つに分けられていた。その中心には、見たこともない、サイコロのような四角い形をした小さな白い機械が挟まれていた。
部屋に戻ると、シャルルが言った。
「日本人は道でティッシュをもらうことに慣れて、カバンの中に見たことのないティッシュが紛れ込んでいても、あまり気にしない。それを利用した盗聴行為だ。ちなみにこの盗聴器は無線受信できる世界最小タイプとして、一般流通している。受信機は、一見すると普通のペンだが、柄の部分に三日月がついている。周りで誰かそういうものを持っている人間はいないか?」
私はその瞬間、思い出した。
『それにしても池田さん、指、切れてるように見えませんけどー?』
にこりと笑ったあの時の西島多香子の手にあった、銀色の美しいペンを。
next