冬の厳しい寒さが緩んだ二月後半のある午後のことだった。
私は彼と一緒にゆっくりとした足取りで都内の某駅に向かっていた。彼も私も口をきかなかった。
あと数分でついてしまう。そうしたら私だけ電車に乗らないといけない。
わかっている。だから私はちょっとだけ足の運びをさらにゆっくりとした。そうすると隣を歩く彼も歩幅を合わせてくれることがわかっていたから。
彼はいつもそう。私の言うことを聞いて、私のやることに従ってくれる。
本当な強い力で私を引っ張っていってほしいのに。
だけど私はそうはいわない。困らせたくないから。
人気のない街角を通って繁華街に出た。駅が数十メートル先に見えた。
「これからどうするの?」
すぐそばの大通りを走る車のノイズにかき消されないように大きめな声で訊くと、「特に決めていないよ」と彼は言った。
「とりあえず、毎日を過ごすだけさ」
「とりあえずって」私はくすっと笑った。
「忙しいでしょ? 知ってるわよ。あんたのことを待っている人たちが大勢いるのは」
「関係ないね」
彼は言った。前を向いたままの表情は穏やかだったけれど、口調はとんがっていた。
「あいつらは俺のことを理解していない。ただ俺のことを利用したいだけさ」
「利用?」
「そうさ。あいつらの欲望をかなえるのに、俺が都合いいから使いたい。それだけだ」
「そんなのさびしいわね」
「そういうもんだろ、世の中なんて」
「まあ、そうかもしれないけど」
「とにかく、そんなことは君の心配することじゃない」
「そう?」
「そうさ。君は君の心配だけしていればいい」
鼻の中に濃厚な揚げ物の匂いが飛び込んできた。私たちはマクドナルドハンバーガー店の前を通り過ぎていた。駅についた。半円の形をしたロータリーを回る。ケーキ屋、持ち帰りの寿司屋、パン屋、ドラッグストア、交番。それらの前を通り過ぎ、改札の前に立つ。
カバンから財布を取り出して、ピンクのデザインが施されたパスカードを取り出した。残高はまだあるはずだ。チャージをしなくても飯田橋に帰るぐらいはできるだろう。
財布をカバンにしまい直し、カバンの肩紐を肩にかけた。深呼吸をする。
笑って別れよう。じゃあねって笑って言うんだ。私は自分に言い聞かせる。楽しかった思い出が胸をよぎる。一緒に食べたご飯。一緒に歩いた道。くだらないおしゃべり。ウィンドウショッピング。物欲しそうにする私を見て、彼が買ってくれた小さなウサギのぬいぐるみはカバンの中に大切にしまってある。
ありがとう、とても楽しかった。
私も大丈夫よ。これでも色々忙しいから、あんたのことなんて普段はあんまり考えていられないの。
だからなにも心配はいらないわーー。
私は改札の前で振り返って、『さよなら』に変わる言葉を言った。
「元気でね。体に気をつけて」
その瞬間のことだった。私は腕を掴まれて引き寄せられた。あ、という暇もない出来事だった。私は彼の胸の中にいた。
私たちはキスをした。駅の、改札の前で。周りの人たちのざわめきが一瞬だけ頭の中に聞こえ、すぐにそれが消えた。
彼は唇を離して、私の体を少し離して私を見つめながら言った。真剣なまなざしだった。
「今生の別れみたいなこというなよ。すぐに戻ってくるからな」
私は彼の胸を押し戻した。人のざわめき。駅のアナウンス。横断歩道のメロディ。中洲のように改札前に立ち尽くした私たちの周りを、波のような人の群れが迷惑顔で通り過ぎていく。
「仕事はどうするのよ?」
「仕事と女を天秤にかけるほど落ちぶれちゃいないよ」
「自信家ね」
「君以外のことではね」
そう言って首をかしげて苦笑気味に笑う彼の顔に、私はしてやられた。どうやら私が何を言っても彼は別れないと決めているらしい。まったくと思う。私の悲壮な決意はどうなるのだ。
でも……。
「ありがとう」
「え?」
きょとんとする彼の首に私は飛びついた。再び周囲がざわついた。駅前でこんなことを自分がする日が来るとは思わなかった。そもそもフランス貴族の御曹司であり世紀の大天才と恋に落ちた日から、私の人生は波乱に満ちたものに変更されたのだろう。
「やっぱり別れたくない。あんたが大好きだから」
私が言うと、彼は満足したように「そうだろ?」と言って抱きしめる腕に力を込めた。
私は目を閉じ、ついでに彼以外への知覚をすべてシャットアウトした。
この世界には彼しかいない。彼と私だけーー。
それでいい。二人ならきっとやっていける。この先たとえどんなに大変なことが待っていようとも、人生の荒海をこの人と一緒に漕ぎ切ってみせようと思った。
《Fin》