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Channel: りんごの木の下で
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シャルマリの流儀 4

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タイトル「シャルマリの流儀」


プロローグ
1、小菅拘置所の別れーー「もう離さない、俺のものだ」の真意
2、恋人試用期間?ーー飯田橋と横浜はわりと近い
3、マリナの処女性議論ーーオレ、もらっちゃダメでしょ?
4、期待される別れ方ーーパリ行きの航空券は用意しましょう
5、友情継続問題ーー唯一の親友という十字架
6、将来の希望は?ーー友としてシャルマリを支えます!(模範的回答)
エピローグ
最後の対決


◇◇◇



4、期待される別れ方ーーパリ行きの航空券は用意しましょう




白いぼんぼりのような大きなライトが夜の空に浮かび上がる。じゃりじゃりという砂の音を立てて重機が動いていた。シャベルを持った四人の男たちがその間で作業をしている。彼らは黙々と地面にシャベルを突き立てて穴を掘っていく。ゴーストのような蒸気が地中から湧き出ていた。
「おーい、昌さん。そろそろいいかー?」重機の男が声をかける。一斉にシャベルを持った他の男の手がとまる。全員が首にかけたタオルで滝のようにしたたる顔の汗をぬぐった。
「オーライオーライ」昌さんと呼ばれた男が手を挙げる。「だいぶ掘ったからな。やってくれ」
「おっしゃ」重機がゆっくりと近づいてくる。男たちは後ろに下がった。6メートルはあろうかという重機の手がぶるんと空を舞い、男たちが掘った穴に慎重に降りていく。鈍い音がして、穴の中から砂利をかきよせすくい上げる。その作業を見守っていた金田昌信はふーっと大きな息を吐いた。彼は40年以上の経験を持つベテランの現場主任で、見た目は「演歌の似合いそうなおっさん」だ。現場での通称は昌さんと呼ばれている。
「さすが牧さんのユンボはうまいなぁ、そう思わねぇか?」
「そーっすね。上手っすね」と、シャベルを地面に突き刺すようにして体をもたせさせながら泰樹が答えた。地元の定時制高校に通う苦学生、と聞いている。仕事熱心で体力もある若者だった。だが空気を読まない言動をして時折年長者といさかいを起こすことがある。どうやら今夜も一発起きそうだ。泰樹は口をくちゃくちゃ動かしていた。ガムを噛んでいるらしい。作業服のポケットにしのばせていたのだろう。
「おい、泰樹」
厳しい声が飛んだ。声の主は草村という四十代の中堅作業員のものだった。彼は渋い顔をして泰樹を睨んでいた。「ちょっと手が空いたからってガム食うな」
「いーじゃないっすか。ガムぐらい」泰樹は眉を寄せた。
「ダメだろうが」
「なんでですか?」
「俺たちは今、仕事中なんだよ。仕事中にガム噛んでちゃ、不謹慎だろ」
草村は眉間を露骨に寄せて、不快感をあらわにした。色白で背の高い彼はエリートサラリーマンといった感じだが、土木作業員一筋で生きてきた男だ。今日の現場では唯一土木施工管理技士の免許を持っている。仕事に関して草村が真面目な人間であることは、誰もが認めるところだった。
だが、そんな草村の流儀など若い泰樹にとってはなんの関係もないらしい。
「だーって、ユンボが動いてる間は、俺たち見てるだけじゃないっすか?」
草村は首を振る。「事故が起きないように、注視してるのも仕事だろうが」
「それはそうっすけど」
「じゃあ、これからはガム食うな、わかったか」
「えー…。一方的っすよ。この現場は草村さんが神様なんすか?」
「なんだと? もっぺん言ってみろ」草村の声が尖った。
「あんたが神様なんですかって訊いたんですよ」
二人は一触即発の雰囲気になった。睨みあったその二人の間に割って入ったのは昌さんだ。
「二人ともやめろ」ドスのきいた声で一喝する。「めんどくせぇ言い争いしてんじゃねぇよ。お前ら、ションベンたれのガキかよ。俺たちは今夜中にこの現場は仕上げないといけないんだよ、そのことだけ考えてろ、ばかやろう」
途端に、しゅんとなる草村と泰樹。昌さんのツルの一声には誰も逆らえないのだ。
その時、ユンボの方からハリのある声がかかった。
「おーい、昌さーん」
ユンボを操作していた牧野ーー通称牧さんの声だ。
「おう、なんだ?」と昌さんが口に手を当てて訊いた。
「ここ、もうちょっと掘ってくれよ」重機の運転席から身を乗り出して、人差し指を地面に突き出す。
「足りなかったか?」
「あとちょっとな」
「ちっ、仕方ねえな。いくぜ、草村、泰樹」
はい、という気持ちのよい返事があがる。それから昌さんの目がこちらに向いた。
「おい、かっこいい兄ちゃん。ばてたんなら帰っていいぜ? そんな細い体で穴掘りはきついだろ?」
「いえ!」オレは強く首を振った。地面に座り込んでいたのだが、急いで立ち上がる。にやりと笑ってみせた。
「まだまだです。大丈夫です!」
「そうか。今日で三日目だな。片手一本しかきかねぇのによくがんばってんなぁ。じゃいっちょ一緒にやるか?」
「はい、やらせてください」
元気よくオレが答えると、昌さんはシャベルを持っていない方の手で、オレの背中をバーンとぶちのめすかのような勢いで叩いた。ひりひりと痛む背中を感じながら、オレはシャベルを抱えて暗がりに照らされた土の塊に向かった。




二時間後、無事に現場での作業が終了した。次にAという現場に向かうことになっていた。時刻は午前二時を過ぎていた。
「草村、泰樹を連れて先行っていてくれるか?」
「あれ、昌さんは?」
「俺はこのかっこいい兄ちゃんと道具の整理してから行くよ」
「わかりました」
草村と泰樹は直ちにライトバンで出発した。Aという現場が2キロほど先であることは聞いていた。重機担当の牧さんは、そこまでユンボに乗っていくらしい。車で運ばないのかと驚いたのだが、このぐらいの近距離だと直接乗っていた方が早いんだよと昌さんは言った。
オレは、とりあえずその辺にあったシャベルや麻袋などを片付け始めた。
「えっと、なんの整理をしたらいいですか?」
作業現場の撤収係は別の連中が来る手筈になっているはずだった。だからどの辺まで片付ければい良いのだろうかとオレは戸惑った。整理整頓しておけばいいのかな?
「おい、兄ちゃん」と後ろから声をかけられ、振り向くと、小さな何かが突然放り投げられた。手にしていた道具類を放り出して慌てて胸元で受け取ると、それは缶コーヒーだった。ボスという銘柄で、ブラックだった。皮膚が張り付きそうなほどキンキンに冷えている。
「飲めや」
「あ、ありがとうございます」
お礼を言うと、昌さんも自分の缶のプルトップを引き上げながら、オレの隣にきて、地面にどんと腰を下ろした。
ぐいっと缶をあおり、「かーっ」と顔をしわくちゃにして声を漏らす。
「うまいなぁ。今夜はクソ暑いからなぁ。ハラワタにしみるぜ」
あまりにも昌さんがうまそうに飲むので、オレも彼の隣に座って飲んだ。冷たい液体が喉を通過していくとき、メントールを飲み込んだような爽快感を覚えた。
思わず「くーっ」とオレも声を漏らした。
「うまいです」というと、「だろ?」と昌さんが笑う。
「はい」オレは頷いた。本当にうまかった。人生で一番うまいコーヒーかもしれなかった。
「外で飲むインスタントで喜んでるんだから、俺たちって安上がりにできてるよなぁ?」
オレは笑った。「本当ですね」
「なあ、黒須。おまえ、なんでこんなところで働こうと思ったんだ?」
驚いた。昌さんはこれまで三日間、オレのことを「かっこいい兄ちゃん」としか呼んでくれなかったからだ。名前で呼んでくださいともちろん頼んではみたのだが「そんないい面してんだから、それも立派な名前だ」とかよくわからないことを言って、却下され続けてきたのだ。
なのに、突然どうしたかな?
不思議に思いながら、オレは答えた。
「金が欲しいんです」
「そりゃそうだろ」昌さんはあほか、と言った。「なんの仕事でも金が欲しくてやるんだろ。でも、穴掘りなんて、若い兄ちゃんが好んでするアルバイトじゃねぇぜ? あんた、大学生なんだろ? しかもあの一流大学。だったら、いくらでもバイト先は見つかるだろう。家庭教師とか、いっそのことその面生かしてホストとか」
「昌さん、ホストって」
勘弁してくださいよ、とオレは缶を持つ手を顔の前で振った。冗談を言ったつもりではなかったようで、昌さんは真剣な顔をしていた。
「だってその方がてっとり早く金を稼げるだろうが? うちは体力仕事だ。きついし、汚ない。しかもあんたは片手しか使えないだろ? だから日給は半額しかやれない。なのになんでわざわざって思うよ、そりゃあさ」
「まあ……」
「なんでだよ。なんでうちの現場で働きたいなんて思ったんだ?」
詰問されて、オレはくいっと缶をあおった。最後の一滴まで飲み干してから、おもむろに缶を唇から離してほうっと息をつく。両肩をうごめかした。片方の肩しか動かなかった。動かない方の肩に目を落としながらオレは言った。
「この腕を治したいって思ったんです」
缶を持ったままの手で、動かない腕をさすったオレに、昌さんは怪訝な目を向けた。
「その腕を治すために働いてるのか? 治療費なら、親が出してくれるだろ? 親、いないのか?」
ストレートな質問にオレは苦笑する。「親いますよ。母は死んじゃいましたけど、父は元気です」
「なら、なんでだよ」
「これはオレの金で治したかったんです。この腕がこうなったのは、オレの責任だから」
昌さんは缶を地面に置いた。そして両手を体の前で組んだ。
「おまえ、何をやったんだ?」
「いや……」
「いえねぇようなことか?」
オレはちょっと考えてから、思い切って言った。「オレと喧嘩したせいで、大事な友達がアフリカの紛争地帯に行っちまったんです。だから、オレはそいつに謝りたくて、そいつを追いかけて行ったんです。そしたら、ゲリラ軍の襲撃に巻き込まれて。マシンガンで撃たれて、命は助かったんですけど、肩が粉砕骨折して、このザマです」
「おいおい……それまじか? 映画みてぇな話だな。ーーで、その友達はどうなったんだ?」
「元気ですよ。無事に戻ってきました」
「そっか、ん、じゃ、ま、よかったな」動かないオレの肩をちらちら見ながら、なんと言っていいのかわらかない様子で、切れ切れな言葉で昌さんは自分の膝をポンと叩いた。オレは小さく首を縦に振った。
「ええ。本当に良かったです。あいつが無事でオレは心の底から嬉しかったんです。もしあいつに何かあったら、オレは自分の人生すら呪ったかもしれません」
深い皺とシミの刻まれた目尻を緩ませながら、昌さんは何度も頷いた。「そいつは本当におまえの親友なんだな」
「はい。一番の親友です」
オレは言った。
「あいつはこの腕のことも滅茶苦茶心配してくれていて、自分が治すっていってくれたんです。あ、その友達って医者なんですよ。でもオレ、あいつにそういう風に頼りたくはなくて。だから、自分で治療しようと思ったんですけど、親父の働いてくれた金は使いたくないんです。オレの勝手な行動の尻拭いを親父にさせるわけにいかないから」
「へえ……」昌さんは驚いたような顔をしていた。十秒間ほどオレの顔をまじまじと見つめていて、やがて、缶を蹴飛ばしながらオレの方を向いて、オレの両肩をがしっとつかみ、ぐっと顔をちかづけてきた。鼻の下のほくろがでけえな、と思えるぐらいに近距離だ。
「偉いじゃねぇか!」
昌さんはオレの背中を叩いた。
「自分の尻は自分で拭う。なかなかできることじゃねぇ。かっこいい兄ちゃんが遊びでこんな泥クセェ現場に来やがったのかと思ってたけど、見直した。黒須、お前は男だ! 正真正銘の男だ!」
「あ、ありがとうございます」
「いやー、こんないい話を久しぶりに聞いたなぁ」
昌さんは感動がおさまらないとばかりに、オレの肩から手をはなしても、今度は自分の顔をぬぐって、激情を存分に味わっているようだった。心の温かい人なんだなーーそう思った。
「ツラもいい、中身もいいじゃ、黒須、おまえモテるだろ?」
「いや、特には……」
「隠すな隠すな。彼女だっているんだろ?」
昌さんは躙り寄るようにしてオレの脇を肩でつついてくる。つい三十分ほど前までの厳しい現場主任の顔はどこへやら、今や三流芸能レポーター顔負けの風情だ。
やれやれ。でも、これって親近感をもってくれたってことなのかな?
オレはそう結論して、嬉しく思うことにした。
「いますよ、彼女」
昌さんはほらやっぱり、という顔をした。そして訊いた。
「可愛い子か? 芸能人にたとえると誰だ?」
オレは視線を空に向けた。暗い夜空に、星が光っていた。はっきりと目に見えた星は数個だけだったが、土の匂いにあふれた現場に座りながら見つけた星は、冒険家が宝物を発見した時のような喜びをオレに感じさせてくれた。
「誰にも似てません」オレは一度言葉を切って、深呼吸をした。そして続けた。「誰とも交換ができないオレのたった一人の女なんです」
オレの言葉に昌さんは「はーっ」とため息を漏らす。不良のように足を大きく広げて、股の間に両手をぶらんとさげて、仰ぐようにオレを覗き込んでくる。
「すげぇ惚れてるんだなぁ」
「はい。すっげぇ惚れてます」オレは言った。「でも、もうすぐ別れます」
「はぁ?」
昌さんが目をぱちくりとした。「別れるぅ?」
「ええ」オレは昌さんの顔をまっすぐに見て頷く。「金が貯まったら、彼女にパリ行きの航空券をプレゼントしてやるつもりなんです」
「パリ?」
「彼女の運命の相手が、パリにいるんですよ」
「はぁ? 運命の相手?」
お前が恋人だろーー?と昌さんは言いたいようだった。彼の言葉を待たずにオレは先を続けた。
「そいつ、さっき言ってた、オレが喧嘩してアフリカに行っちまった医者なんですけどね」
「え? お前の親友の?」
「ええ」オレは頷く。「そいつがパリに住んでるんです」昌さんは一層困惑顔になった。
「仕方がないんですよ。だってこれはそいつーーシャルルと、オレの彼女ーーマリナがカップルになることを願う『シャルマリ流派』のための二次創作なんですから」
オレの説明に、昌さんは完全に混乱したようだった。日に焼けた顔を曇らせて、目を何度も何度も瞬いている。人のいい彼を戸惑わせていることに罪悪感を覚えた。
「なんだかわかんねぇけど……がんばれよ」
しばらく黙っていたあと、昌さんは首をひねりながらもオレの肩をたたいてそう言ってくれた。はい、とオレは答えた。そのあと、オレたちは周辺を片付けて、昌さんの運転するライトバンで次の現場に向かった。



家に帰ったのは、日が昇って少しした頃だった。雲ひとつない夜明けだった。今日も暑くなりそうだ、と思った。
どろどろに疲れていたオレは家に入るなり、バスルームに直行した。着ているものを乱暴に脱ぎ捨てて洗濯機につっこむと、浴室に飛び込んでシャワーのコックをひねった。ほとばしるように湯が出てきた。頭から足の先までくまなく洗うと、皮が一枚ずるっと剥けたような感触がした。
気がすむまで洗い、二十四時間風呂に身を沈める。
「ぷーっ……」
おやじくせぇ、と思いながらも顔をこすりながら湯を堪能したオレは、風呂から出て、リビングに向かった。
「ぼっちゃま、おはようございます」
キッチンには家政婦の市原悦代さんがいた。第一話をご覧の方は知っているだろうが、彼女は名前が示す通り、素晴らしい眼力をもつスーパー家政婦だ。
「おはよ。いい天気だね」
ソファにどんと座ると、市原さんが盆に載せたコーヒーカップをオレに運んできながら言った。
「お留守の間にお電話がありましたが」
「ん? 誰から?」
すると市原さんはカップをオレの前に置きながら、フンと鼻息を思いっきり吐いた。
「アルディ様です」
ああ、とオレは頷く。そろそろかかってくる頃だと思っていた。アルディ家の当主復権問題が片付いたと国際ニュースで知った。となればシャルルが次に望むことは決まっているからだ。
「わかった、ありがとう。オレから電話してみるよ」
「ぼっちゃまのお友達だとわかってはおりますが、あたくし、あの方、嫌いです」市原さんがお盆を体の前に押し付けるように持ちながら小さな声でつぶやいた。オレは驚いた。家政婦という立場の彼女が、こんな風に言うのを初めて聞いたからだ。
「どうして?」
「あの方は贅沢すぎるからです」
「贅沢?」
「はい」彼女はうなずいた。「あの方はなんでも持っておられるでしょう? お金も才能も力も。人が羨むようなものは全部。それで満足すべきです。なのに、ぼっちゃまの大切なものまで横から掻っさらうような真似をすることはないと思います」
オレの大切なものーーマリナのことだ。オレはどきっとした。一瞬呼吸も止まった。
市原さんはオレとシャルルのやり取りをしっているらしい。例のシークレットラインでかわした会話を聞かれていたのかな。彼女はよくドアの陰からじーーっと見ていることもあるから、さもありなんだ。
マリナのことは違うんだ。それはシャルルへの友情であり、シャルマリ流派へのファンサービスなんだ。とオレは言おうとした。だけど、何かがオレの口を止めた。その何かをオレは自分の中で認めなくなかった。
難しいんだ。この問題はとても難しい。
オレ自身、本当のところは解決できていないなんていえないーー。
テーブルのそばに立って顔をこわばらせる彼女をなんとかごまかそうと、オレは苦笑しながら立ち上がった。
「オレだっていっぱい持ってるよ。健康もある。家もある。学校にも行けてる。親父もいる。十分に幸せだよ」
「でも、ぼっちゃまっ」
オレは市原さんの前に手をかざして、彼女の言葉を制した。彼女自身がいつかこれ以上言ったことを後悔してほしくないからだ。
「ありがとう、オレのことを思ってくれてとても嬉しい。市原さんがいるから美味しい飯も毎日食えてる。やっぱオレは恵まれてるよ、ね?」
「……ぼっちゃま」
「市原さん。オレはすべて納得づくで動いてるんだ、だからわかってほしい」
市原さんは、悲しそうな目をしてオレを見た。オレはそんな彼女に背を向けて、玄関ホールに置いてある電話台に向かった。受話器をとって、まず東京03から始まる番号にかけた。朝6時過ぎだ。寝ているだろうとは思ったけど、どうしても声が聞きたかった。30回ぐらいコールしてやっと出てくれた。
「もしもし、池田です……」
どう聞いても寝ぼけた声。
「オレ、和矢」
「え? 和矢ぁ? なんの用なのよ、こんな朝早くに」
訝しそうな様子のマリナにオレは言った。
「好きだよ」
電話の向こうで息が乱れる気配。これはおそらく「はあ?」といったのが、声にならなかったのだろう。オレはそれだけを確認して「じゃあな。おやすみ」と電話を切った。それから、再び受話器を取り上げて、かけ慣れたシークレットコールのナンバーを押した。
ワンコールで、あいつの声が耳に聞こえた。
「アロー? ジュ マペール シャルル ドゥ アルディ」
冷ややかなテノール。声に色や質感があるとしたら、こいつの声は濃紺の絹なんじゃないかと思う。なめらかですべるような魅惑的な感触なんだけど、実体感がないのだ。
「久しぶり」とオレは上を向いて日本語で言った。反抗しているつもりはないが、日本語を選ぶ点では、オレはどこかで意地になっているのかもしれないなとも思う。「元気か?」
聞くと、オレの惑いなど関係ない様子で、シャルルは淡々と答える。
「オレの方は変化はない」
「アルディ当主に戻ったんだろ?」
「ああ、まあな」
「おめでとう」
「ありがとう」あまり感動の感じられない礼の言葉をシャルルは言った。「カズヤ、君はどうしていた?」
「何にも変わりはねぇよ。そうだ、オレ、大学生になったんだぜ」
オレは四月に入学した大学名をシャルルに告げた。ほう、という感嘆の声が上がった。学部はどこだ、と聞かれて「法学部」と答えた。
「裁判官目指してるんだ。母親を殺された事件をきっかけに、罪について深く考えるようになってさ。罪を弁護する立場でもなく、罪を追求する立場でもなく、公正なジャッジメントをする立場である裁判官になりたいと思って」
「そうか」とシャルル。
「思えば、オレの将来って、知的職業が多いんだぜ、知ってたか?」
水を向けると、「知らない」という返事が返ってきた。シャルルが知らないことがあるというのがなんだか快感で、オレは二次創作界におけるオレの職業事情について少し解説した。
オレの進路についてはたくさんの二次創作でいろいろな進路が設定されている。父親の跡を継いで貿易商、医師、検事、弁護士……な、知的職業が多いだろ? 母親の才能をついでデザイナーになる、なんて設定も面白いと思うんだけど、未だに二次創作界でそれは見たことがない。クロスカズヤってブランド名、割合いけてると思うんだけど、オレにはセンスはないってことかなぁ?
「センスは遺伝しないからな」
あっさりと切り捨てられて、オレは少々ふてくされた。受話器を顎と肩で挟んで、その腕を壁に伝わすようにして上に高く伸ばした。
「マリナのことだけど」
オレから切り出した。
「あと一ヶ月ほど待ってくれ。オレ、今、金を貯めてるんだ。別れる時マリナにパリ行きの航空券をもたせてやりたい。だから、そのためにさ」
「航空券なら送ろうか?」
「いらん」オレはきっぱりと断った。それじゃあ、意味がない。
「別れぐらいカッコつけさせてくれよ。シャルマリ流派のみんなだってそれを望んでると思うぜ?」
「そうか?」と若干懐疑的な様子のシャルル。ああ、とオレは頷いた。
「シャルマリ流派の書くシャルマリの再会は、大きく分けて3パターンある」

①マリナがパリへ行く
②シャルルが日本に来る
③日本でもパリでない異国で再会する

「この3つだ。そのうちで最も多いのがマリナがパリにいくケースだ。オレは今回、①を採用する」
「オレが日本に行ってもいいぜ?」とシャルルはやや早口で言う。
こいつ、そんなにマリナに会いたいのかと鼻白んだ。ほとんどマリナ禁断症状だなと思いながら、オレは「ダメだ」とピシャリと切って捨てた。
「なぜ?」
シャルルの声が不機嫌そうになる。
「②のようにシャルル、お前が動いた形の再会でも、③のように異国での偶然の再会でも、マリナの積極性はあまりない。マリナがやっぱりシャルルを好きだったという展開にするには、②、③は二次創作家の力量が非常に求められる。なぜならば、シャルマリ流派は原作で、ものすごいストレスを抱えているからだ。このストレスの源(ストレッサー)は『自分たちの大切なシャルルをマリナは選んでくれなかった』という事実だ。シャルマリ流派の二次創作の使命は、このストレッサーを取り除くすることにある。つまり、マリナがシャルルを選ぶという物語が一番ストレス解消になるわけだ。そのためには①がマストだろう」
「ふーむ。オレってみんなに愛されているんだな」
ふんとオレは鼻息を荒くする。あたりまえだ、ばかやろう。シャルマリ流派は日本中にいるんだぞ。いや、海外からだって「ブログを見てます」という声が届くんだぞ。今や国境なきシャルマリ団なんだぞ? ……とそこまで考えて、和マリって多分国内限定だろうなとなぜか思った。
気をとりなおして、オレは吹き抜けになっている玄関ホールの天窓を見上げながら言った。
「だが、①の場合に突き当たる問題としてマリナの経済事情がある。知ってのとおりマリナは三流漫画家で食うにも困るほどの大貧乏だ。1990年代の飯田橋、おそらく神楽坂よりだと思われるが、あのあたりのアパートの家賃は6~8万はしただろう。プラス光熱水費と漫画の原材料費を捻出していた彼女には、パリへの旅費などどうやっても出せない。よって、なんらかのミラクルな技がなければマリナは永遠にパリにいけないんだ」
シャルルは「ふむ」と唸る。オレは続ける。
「最もよく使われるのが、漫画家としての仕事が入るというものだな。普通漫画の仕事は入稿後の支払いだから、漫画を描かないと金にならないのだが、口約束の段階でパリ取材というものが多い。大人になったマリナが漫画家では食っていけなくて、イラストレーターになってパリ取材というのもあるあるだ。あとは美女丸や薫が助ける。海外からジル、カーク、ガイ、ミシェルがやってきて援助するケースもある。だがやはり流れとして一番スムーズなのはオレ(黒須和矢)だ。別れる時オープン券を渡してやるのが、スマートで展開的に無理がない」
「なるほど。しごく合理的だ」
受話器の向こうで、白金の髪を揺らしながらシャルルが頷いているのが目に浮かんだ。今頃パリは深夜のはずだ。シャルルはおそらく全裸で、シルクのシーツの海にねそべっているのだろう。シャルマリ流派の悶絶する姿もまた目に浮かぶな。
「ただ、1990年代の成田発ドゴール空港行きの一年期限のオープン券は、二十万円程度だ。オレはこの金を自分が汗して稼いだ金で作りたいんだ。これはオレのプライドだ。三日前からアルバイトを始めた。日当は五千円。だから一ヶ月ちょっとだけ待ってほしい。金が貯まったらすぐにマリナと別れるよ」
シャルルの沈黙が三十秒ほどあった。それから、わかった、と低い声で彼は言った。
「一ヶ月待てるか?」
訊くと、一瞬の間が空いたあと、「待てるよ」という答えが返ってきた。嘘つき野郎め。声が微妙に揺らいでいるぜ。ガキの頃からの親友をなめるな。
シャルルは言った。
「上げ膳食らわされても待ったんだからな、オレは」
「それ、華麗の館のことか?」
「そうだ。好きな女と同じベッドだ。それで待ったオレはしつけのきいた犬だと思わないか?」
犬ね。オレは笑った。シャルル=犬と考えて、ボルゾイという猟犬を連想した。気品があってクールな大型犬で、頭がよく物静かだが、攻撃的な一面もある美しい犬だ。知らない方はネット検索してみてほしい。長毛の華麗な姿がヒットするはずだ。
電話を切ると背中に視線を感じた。振り返ると、やはり市原さんがキッチンのドアの陰からこちらをじーーっと見ていた。でもその視線は好奇心にあふれたものではなく、母性を感じさせた。オレが生まれる前からこの家にいる人だ。オレのことを心配してくれているのだ。
オレはやっぱり幸せだーーー。
市原さんがさっと顔を引っ込めた。オレはリビングに戻った。市原さんは対面式カウンターの中で、素知らぬ顔をして食器を布巾で磨いていた。
「めっちゃ腹が減ったんですけど、がつんと食いごたえのあるもの、ありますか?」と声をかけた。市原さんは待ってましたとばかりに「もちろんですよ」と答えて皿をカウンターに置き、冷蔵庫に向かった。




昼は大学、夜はバイトという生活にすっかり体が慣れた頃、オレは二十万円を貯めた。
それでパリ行きの一年期限付きオープン航空券を買った。その間、オレはマリナに会いに行かなかった。すれ違いを生むように努力した。マリナは電話をしょっちゅうかけてきた。「忙しくて」そんな言い訳を繰り返した。不満そうな、不安そうな彼女の様子を黙殺し続けた。最後の方は市原さんに頼んで居留守をつかった。自分がひどいことをしている自覚はあったけど、前に進むしかオレには道はなかった。
9月最後の日、西の空が焼けたように染まった夕暮れの中で、オレ達は別れた。男が恋人に別れを切り出す場所ランキング1位は、カフェorレストランだ。人目があることから、騒がれずスマートに別れられるということらしい。オレは街の普通のコーヒーショップのテラスで別れを告げた。マリナは覚悟してきたらしく、何もいわなかった。オレはテーブルに航空券を差し出した。チケットの入った封筒を、水のグラスに触れないように気をつけて置いた。
「パリ行きチケットだ」
マリナは目を開いてそれを見つめた。黙り込んでいる。驚いて声がでないのか、怒りか、困惑か、オレへの幻滅か、オレには正確な判断がつかなかったが、もういいと思った。
「金に変えたければ好きにしろよ。餞別だ。じゃあ、元気でな」
それだけ言って、マリナを残して店を出た。紫っぽいグラデーション色の空を見上げて息を吐く。シリーズ正統的ヒーローでありながら、この世界ではアンチヒーローであるオレ。アンチとしての最大の役目を今果たしたぜ、とつぶやいていた。
どうだい、シャルマリ流派のみんな。マリナと別れたぜ。これで君たちは満足なんだろう?
ーーごめん、オレ、嫌な言い方をしているな。でも今日ぐらい許してくれよ。
マリナのことは中一の時からずっと好きだった。誰にもやりたくなかった。でも、この世界ではオレ達は別れないとならなかった。別れる作業は待ち合わせ時間も含めて十五分ほどで終わった。夕焼けの空の色が変わる程度の短い時間だ。人間関係って作るときは気を使うし、時間もかかるのに、切るときはあっという間だと思った。
オレは駅へと急いだ。一旦家に帰って、作業着に着替えないと現場入りに間に合わなくなる。肩の治療費がたまるまではあと半年はかかる計算だった。



5につづく


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