《ご注意》第一話の注意事項をご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧下さい。7~53、58、60~62、66話はお気に入り登録者様限定です。シャルルが病気設定です。閲覧は自己判断でお願いします。
愛という名の聖戦(67)
カンヌ空港で無事にジェット機に乗り換えて、パリのドゴール空港を経由してアルディ本家に戻ったあたしたちを迎えてくれたのは、看護師ベネトーだった。
薫があぶないってあたしに電話をしてきてくれた若い男の看護師さん。
とっても神経質そうで、幽霊みたいに青白い顔をしているのよ。
ジェット機のパーサーから連絡を受けていた彼は、屋敷の玄関先で、あたしたちの到着を今かいまかと待っていたようだった。
「お待ちしておりました」
そう叫ぶと、すぐさま、リムジンに乗せられた意識不明のシャルルの元に駆け寄り、一瞬で彼の容体を確認すると、用意した担架にシャルルを運ぶように配下の者に命じた。
待って、あたしもついていくわ!
屋敷に入ったシャルルの担架を追いかけて、長い廊下を走ること数分、シャルルは奥の治療室に運び込まれて行き、あたしもさあついて入ろうとした途端、あたしの鼻先でがちゃーんと扉が閉鎖っ!
なっ、なんなのよっ!?
あたしはシャルルの妻よ、どーして入れてくれないのよ!?
あたしは、閉じられた扉をドンドンと叩いて暴れた。
あたしも入るっ、入れて!
シャルルのそばについていたいのよ、お願いだから、入れてってばーっ!
「お静かに。ジル様から連絡を受けて、用意しておりました。これより直ちにシャルル様の造血幹細胞移植に入ります」
いつの間にかあたしのそばにやってきていたベネトーが、子供をたしなめるような口調で説明をはじめた。
その中の言葉に、あたしはハッとして、耳を立てた。
造血幹細胞移植が始めるっ!
「この移植は、きわめて繊細な作業を要する治療です。まず、レシピエント、つまりシャルル様に致死量ギリギリの放射線を照射して、健康なものもろともすべての造血幹細胞を死滅させます。そのあと、ドナー、つまりミシェル様から採取した健康な造血幹細胞を移植するわけですが、この造血幹細胞が死滅した移植前の状態というのは、体のすべての免疫力を失った状態と同じなのです。普段ならかからない感染症などにもかかりやすく、かかった場合はすぐさま重篤化して死につながる危険性が非常に大です。
よって、放射線照射から移植完了まで、患者は無菌室で過ごさねばなりません。そこは限られた看護師と医師しか出入りできません。むろん、面会謝絶です」
あたしは、ごくんと唾を飲んだ。
すごく痛そうだし、こわそう……。
もちろん楽な治療で命が助かるなんて思ってなかったけど、あたしの想像をはるかに超える苦しい治療なんだと知り、あたしはますます黙っていられなくなった。
何かしたい。
シャルルのために、働きたい。
ただここでじっとなすすべもなく待っているなんて、やだわ。
「あたしにもお手伝いさせて」
あたしがそう言うと、ベネトーは細く切れ上がった目を伏せがちにして、首を小さく横にふった。
「申し訳ありませんが、それは致しかねます。ここより先は、専門のスタッフチームを組んでおります。この私も入れません。報告を逐次受けることになっておりますので、それでご了解いただけないでしょうか。どうか、ジル様の選んだチームを信じて下さい」
その言葉に、あたしは後ろを振り返った。
そこには、ジルが来ていた。
ミシェルと衣装をとりかえたままで、毛足の長いペルシャ絨毯の廊下と、フレスコ画が描かれた天井のあいだに立つジルは、その細い体にぴたりとした白シュミズと黒の乗馬ズボンにブーツ、そして短くなった髪で、一瞬男の子のように見えて、あたしは胸がつかれた。
彼女はあたしを見つめて、静かにうなずいた。
「マリナさん、大丈夫です。きっとシャルルは助かります」
シャルルによく似た澄んだブルーグレーの目を見ながら、あたしは訊いた。
「治療がすべて終わるまで、どのくらいかかるの?」
ジルははっきりと告げることが自分の務めだとばかりに、白い顔の表情筋を一本もゆるめずに答えた。
「約2ヶ月です」
2ヶ月!
それが長いといっていいのか、短いといっていいのか、あたしには正直わからなかった。
でも!
シャルルに会いたい。
会って、手を取り合って、励ましあって、治療を乗り切りたい!
「ジル、やっぱりあたしただ待ってるだけなんて、できないわ。お願い、あたしもチームに入れて」
「マリナさん」
とジルが言った。
「造血幹細胞移植に伴う放射線照射には、様々な副作用があります。下痢や軟便、吐き気、高熱、悪寒、頭髪が抜けるなど、それは激しく苦しいものです。いつものあの美しい彼のままではいられませんし、おそらく精神も不安定になるでしょう」
あたしは少し息を飲みながら、しっかりと答えた。
「あたしはかまわないわ、看病したいの」
ジルはあたしのそばに駆け寄ってきて、あたしの両腕をつよく握りしめながら言った。
「マリナさん、シャルルの身になってあげてください。誇り高い彼が、愛する人にそんな姿を見られたいと願うでしょうか?」
あたしは思わず沈黙した。
ジルは、強い信念を秘めた目であたしをじっと見た。
「――答えはノンです。彼の誇りをぎりぎりで傷つけずに看病できるのは、彼とは無関係な人間だけです。金で雇った医師や看護士は、その報酬に見合うだけの仕事しかしません。つまり対価の関係です。ですが、それがシャルルを楽にするのです。彼が精神的負担を感じずに身を任せられるのは、ビジネスライクで結ばれた人間なのです」
理路整然としたジルの説得に、あたしは返す言葉を失った。
そばにいたい。苦しい時にこそ支え合って、励ましあって一緒にいたい。
あたしたちは夫婦になったのよ。
だったら、こんな時に支え合わなくてどうするのよ。
「でもあたしはシャルルのそばにいたい。彼の力になりたいのよ」
あたしが半泣きになって叫ぶように言うと、ジルはあたしを掴む手にさらに力を込めた。
「ええ。マリナさんのお気持ちはわかっています。ですからマリナさんはマリナさんのできることしませんか?」
あたしにできること?
あるのっ!?
震えながら彼女を見ると、ジルは少しだけ首を斜めにかしげて、にこっと微笑んだ。
「まず第一に健康であること。移植が終了してシャルルがここから出てきたとき、マリナさんの方が病気になっていては、彼が悲しみますからね。第二に、お二人の新居を整えること。お二人は結婚されたのでしょう? だったら、新生活のことを考えなくてはなりません。移植が終了してもシャルルは当面ベッドの上ですから、新生活についてはマリナさんが頑張らなくてはなりませんよ?」
ジルはきらきらと弾むような言葉で続けた。
「最後に、祈ることです。医療や看護は専門の免許がないとできませんが、わたしたちは祈ることができます。シャルルが回復するように、移植が無事に成功するように祈りませんか? これこそ、ビジネスライクの人間がけしてしない、愛する人だけができることです」
あたしは、胸が熱くなった。
ジルの言葉が、鼓膜から体の中に入り、毛細血管を通って、すべての細胞にめぐっていくのをありありと感じたの。
シャルルを理解し尽くしたジルの言葉は、まるでシャルルがあたしに語りかけてくれているようだった。
マリナ、オレは大丈夫。
君は知っているだろう?
たとえ太陽が西から昇っても、このオレが間違えることなんかないって。
だから、信じて待っていてくれ。
再会したら、お茶を一緒に飲もう。
おすすめのレストランにも連れて行ってあげる。
そして、夜は抱き合おう。
いいかい? 一晩中眠らせないからね。
いまからちゃんと覚悟をしておいで――
彼がそう言っているように思えたの。
いつものあのちょっともの憂げな、でもとびきり優しい笑顔で。
シャルル、あたし……っ。
すぐ前にはジルが心配そうな顔であたしを覗き込んでいる。
あたしは鼻を大きくすすってから、強く頷いた。
「……わかった。あたしは祈る。治療がうまくいきますように、成功しますようにって祈ってるわ!!」
ジルはまぶしそうに目を細めて、何度も何度もうなずいた。
そんな彼女の面ざしに、愛しいシャルルの面影を探しながら、あたしは思った。
シャルル、待ってるわ。
お医者様、看護士さんたち、どうかよろしくお願いします。
そして神様、シャルルを助けて。
あたしのパワーを全部あげるから、シャルルの命を永らえさせてくださいっ!
だから、シャルル、あんたも頑張んのよ!
もし、もし死んだりしたら、あたしが天国まではっ倒しにいくからねっ!!
その時、
「ところで、ミシェル様はどちらに?」
と不思議そうなベネトーの声が聞こえた。
あたしは一瞬、目をぱちくり。
え? ミシェル?
もちろん、一緒に来たわよ。
あれ、その辺にいない?
と思って周囲を見わたせば、廊下のどこにもミシェルの姿がない。
影もかたちもない。
げ。
「なんでいないの?!」
ジルもあたしと同じことを思った様子で、優美な感じのする目をこぼれそうなほどひんむき、顔をこわばらせている。
「まさかこの期に及んで逃げたのではないでしょうね……?」
げげげのげ。
冗談でしょ!?
もし、そうなら、あいつに最後の望みを託した、泥を舐めてあいつに頭を下げてまで生きることを願ったシャルルは一体どうなるのよっ?!
あたしとジルは、元来た方向に向かって狂ったように廊下を走った。
アルディ本家は迷路のように廊下が入り組んでいて、あたしはこの数ヶ月間の暮らしですっかり慣れたつもりでいたけれど、それでもミシェルのいそうなところなんて見当がつかなかったので、次々に扉を開けていくジルにひたすらついて行ったの。
けれど、ジルはすらりとした長身、イコール、足も長くて走るのもはやいっ!
結局あたしは、ジルが部屋の中に飛び込んでいって、その部屋にミシェルがいないことを確認して出てくる頃にようやくおいついてという有様で、あたしは息も絶え絶えに、ただただジルの後ろ姿を追っていくのが精一杯だった。
うわーん、この短い足と広すぎる屋敷がにくいわっ!
そうして何十もある部屋を見て回った後、どんどん屋敷の奥に向かっていたのだけど、ついにシャルルの部屋に入ったジルがそこから出てこず、代わりに、
「ミシェル!」
という叫び声がして、酸素不足でちかちかするあたしの頭が沸いた。
やっといたんだわ!
つっ、疲れた~、きっと10000歩は走ったわねっ。
くっそミシェルのやろう、ひっぱたいてやる!
と最後の力を振り絞って足を動かしてその部屋に飛び込んで、あたしは、びっくりした。
広い部屋の中央に置かれたクイーンサイズのベッドの上に、ミシェルが天を仰ぐ形で横たわっていた。
え、なんでこいつはシャルルのベッドで寝てるの?
わけがわからないあたしは、おそらく同じ思いで立ち尽くしているのであろうジルのそばに寄って行った。
「何してるの、この人?」
訊くと、あたしと違ってちっとも呼吸を乱していないジルは、肩で小さな息をついた。
ジルのその様子は、何かを知っているけれどもあえて言葉にすることをやめたという雰囲気が漂っていた。
「……とにかく戻りましょう。骨髄液を採取するための準備をしなくては」
そう言って、ジルはベッドに近寄って行き、腰をかがめてミシェルの肩を揺すった。
「ミシェル、起きてください」
すると、ミシェルはぱちっと目を開いた。
透き通るほどクリアーなその目は、まっすぐに天井を見上げていた。
横たわった人形のように、ミシェルは言った。
「思ったより寝心地がよくないな。当主の寝台って、もっと別世界かと思ってたよ。前にちょっとだけこの部屋を使ってたことはあるけど、その時はシャルルを追いかけることに忙しくて、寝台の感触を確かめる暇はなかったからね」
言い終わると、ミシェルは身軽な動作で、上半身を起こした。
彼はベッドの上で膝を立て、背中をまるくして膝を抱え込むと、顔を強く横に振り、目元にかかった髪を乱暴に払った。
「ドナーになる報酬を、まだちゃんと決めてなかったと思って」
ミシェルの言葉に、あたしもジルも身構えた。
「やはり当主の座ですか?」
ジルが抑えた声で訊いた。
ミシェルは膝小僧を抱いたまま、肩をわずかに揺らせて笑った。
「いや、それはやめた」
え?
当主の座がいらないですって?
あたしは驚いた。
ジルもまた一瞬返事に窮した様子で、
「本気ですか?」
と訊いた。
ミシェルは短く答えた。
「ああ、いらない」
嘘みたい。
なにか、また企みがあるのかもしれないわ。
ジルもまた美しい眉を寄せて、ミシェルを審議するかのように凝視している。
そんなあたしたちをベッドの上から静かに見回していたミシェルは、苦笑をこぼし、ゆっくりと甘美な感じのする唇を開いた。
その声はドラムのように低く、ブランデーボンボンのように芳醇に響いて、凄みすら感じさせた。
「その代わり、オレの自由を保証してほしい。移植が無事に成功して、シャルルが健康を取り戻した暁には、もう一度オレはシャルルに挑戦する。もちろん、あいつを当主の座からひきずりおろし、オレがその場所に座るためにだ。今度こそどんな手段を使っても、オレはシャルルに勝つ。――勝ってみせる!」
ミシェルの灰色の瞳の中に、きらめくような誇りが燃え上がり、あたしは一瞬見とれ、そして心底驚いた。
だって今までのミシェルなら、絶対にこんなことは言わなかったと思う。
ミシェルにとってシャルルは憎むべき相手で、決して対等に向き合いたい存在ではなかったはずだもの。
だけど、今、あたしの目の前にいるミシェルは、シャルルが生きることを望んでいる。
それはつまり、シャルルを認めたということよ。
ミシェルはおそらくシャルルの品性と強靭な精神を目の当たりにして、そんな彼と正々堂々と戦ってみたくなったのにちがいない。
生まれてすぐに名家の勝手な理屈で離れ離れにされ、憎しみあい、蹴落としあってきたこの兄弟が、たとえシャルルの病気という悲しいきっかけにしろ、これまでとは全く違う新しい関係に踏み出そうとしているのだとあたしは思った。
……すごいっ。
あたしはとても感動した。
このミシェルの決意を聞いたならば、きっとシャルルも喜ぶだろう。
ひねくれてるから、素直に声に出してそうは言わないだろうけど、きっと……!!
「だから逃げずにオレと戦えと、シャルルに伝えてくれ。オレの最終条件はそれだけだ」
目にしみるほど鮮やかな笑みを浮かべてミシェルはそう言うと、あたしにちらっと甘やかな視線を流した。
首を傾げサラリとした髪を立てた膝に垂らして、唇を蕾めてみせる。
「ねぇマリナちゃん。その暁にはさ、オレに乗り換えなよ。絶対シャルルより君を満足させてあげるからさ」
だっ、誰が乗り換えるもんですか!
そりゃ、いっ、一瞬は見とれちゃったけど、それはシャルルに似てたからよ!!
やっぱりあんたなんかシャルルに似てない、シャルルはこんなに軽薄じゃないもんっ!
あたしは満身の力を込めてぷいとそっぽを向き、ミシェルはあははと声をたてて笑った。
ジルは、そんなミシェルをしばらく黙って見つめていたけれど、ややして眉根を寄せながら目を閉じて、言った。
「わかりました。シャルルにかならず伝えます……ありがとう、ミシェル」
その時のジルの声は、今までミシェルに向けたどんな時よりも穏やかな優しい声だった。
一生あなたをゆるさないと言っていたジルだけど、ほんの少しだけミシェルのことを受け入れはじめたのかもしれないな。
あたしがそう思った瞬間だった。
突然、後ろの扉が乱暴に開く音がした。
あたしは振り向き、そして見てしまった。
怒りの形相に顔をひきつらせたマルグリット総督ノーマン・ランサールが、島で見たスーツ姿のまま、何かを大声でわめきながら、部屋に入ってくるのを。
その手にしっかと握られている黒い小さなものは、間違いなくピストルっ!
あたしが天にもとどろく悲鳴を上げるのと、あたしのそばに立っていたジルが、あたしに飛びつくようにして床に伏せるのとが同時だった。
ジルに抱えられたものの、あたしは絨毯の床にしこたま額を打ち付けて、頭の中に星が飛んだ。
と間髪を入れずに上がる二発の銃声!
直後、ジルのするどい悲鳴!!
えっ!? 何が起こったの?
あたしは意識を振り絞り、体にかかるジルの腕を払いのけて、顔を上げた。
すると、目の前にはあたしたちをかばうように、両手を広げて立つ広い背中があった。
青いツナギのその背中には、肩甲骨のあたりにこぶし大の黒い染み。
それはみるみるうちに背中一面に広がっていったのよっ!
ミシェルがっ!
ミシェルが、撃たれたっ!?
一瞬だけ時が止まったかのように停止していたミシェルの体は、そのまま一言も発することなく、ガクンと床に膝をつき、前のめりに崩れ落ちていった。
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