《ご注意》第一話の注意事項をご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧下さい。7~53、58、60~62、66、68話はお気に入り登録者様限定です。シャルルが病気設定です。閲覧は自己判断でお願いします。
愛という名の聖戦(71)
治療室のいちばん奥、病院によくある乳白色のスライドドアの向こうに、シャルルはいた。
大きな窓の前に据えられたベッドを斜め四十五度に起こして、そこに上半身をもたれかけさせながら、こちらを見て、とても穏やかな微笑みを浮かべていたの。
肩にかかるぐらい長くてつややかだった髪はなく、美女丸のようにすっきりとしたショート・ヘアになっていた。
けれど、それ以外は変わりがなかった。
高く通った鼻筋も、象牙のようになめらかな額も、完璧なラインを描いた顎も、天使のようなカーブの頬も、甘美な感じのするバラ色の唇も、透き通るような青灰色の瞳も、記憶の中にいるシャルルそのままだったの。
彼はフリルのついた純白のシュミズを着ていた。
点滴はない。
相も変わらず超然とした人をよせつけない空気と、見るものを魅了せずにはおかない甘やかなムードを漂わせる彼を見て、あたしは金縛りにあったように、戸口で立ちすくんでしまった。
あたしたちはしばらく距離を置いて無言で見つめ合い、やがて彼がゆっくりと両手を広げ、そのグレーの瞳を輝かせて言った。
「マリナ、おいで。もっと近くで顔を見せて」
急かすようなシャルルの声に、あたしの足はようやくフラフラと動き出し、一歩、また一歩と彼へ近づいて行った。
ベッドのそばへ寄ると、シャルルは手を伸ばして、あたしの指先をぎゅっと掴んだ。
「会いたかった」
掴まれた手はあたたかくて、命をあたしに伝えてくれるその体温を感じて、ようやくあたしは心が落ち着いて、こわばっていたほおがゆるんだ。
ああ……夢じゃない。
シャルルがここにいる。
あたしはペタンとひざまずき、ベッドにすがりついて、両手でシャルルの手を包み込むようにきつく握り返した。
「あたしも会いたかった。ずっと、ずっと……っ」
うっとりとするほど魅惑的な彼の瞳を見つめながら、あたしはあとからあとから溢れてくる涙をどうしてもこらえることができなかった。
どんなに会いたかったか!!
会いたくて、会いたくて、でもゆるされなくて、ただベネトーから一方的に与えられる情報を待つ日々は、不安で不安でしかたがなかった。
今朝は具合が悪いようです。
数値が安定しません。
そんな報告を聞くたびに、二度とシャルルに会えないんじゃないかと怖くて。
彼が死んでしまう夢も何回も見た。
その中でもあたしは何もできず、ただ目の前で彼の命が尽きていくのを黙って見ているだけだった。
これほど自分が無力だと思ったことはなかった。
情けなかった。
パン屋さんで働き、空いた時間には漫画を描いて、いつか元気になったシャルルとの新生活を具体的に考えることだけが、愛する人と同じ屋敷に暮らしながらも看病も見舞いすらできないあたしのみじめな心を支えてくれたのよ。
でも、本当はシャルルと一緒にいたかった。
苦しむ彼のそばにいたかった!!
あたしはわんわんと泣き、シャルルは、そんなあたしの気持ちをわかっているのか、
「ごめん」
細い指を伸ばして、あたしのほおをぬぐいながら言った。
「移植中に君を絶対に入れるなと命令したのは、オレだ。前もってジルに頼んでおいたんだ。ちょうどカズヤが、円城寺教授の協力を得たといって我が家にやってきた直後だ。この先、万が一、オレが移植を受けるような事態になった場合は、マリナを立ち会わせるなと、言い含めておいた」
あたしは驚いた。
あたしがシャルルの元にとどまると決めたとき?
そのときから、シャルルはひとりで病気と闘うと決めていたの?
どうして!?
あたしなんか何の役にも立たないから!?
かなりのショックを受けながらたずねると、シャルルは、厳しい顔になって、
「ちがう」
と強く首を横にふった。
「骨肉腫って病気をしっているかい?」
突然、変わった話題に、あたしは一瞬ポカン。
骨肉腫? 知らないわ。
素直に首を横に振ると、シャルルは呆れたと言いたげなかすかな苦笑を浮かべた。
「簡単にいうと骨肉腫とは骨にがんができる病気だよ」
ふーん。
よくわかったわ、ご苦労様。
で、その病気がどうしたっての?
首をかしげるあたしの前で、シャルルは、記憶をたどるように話し始めた。
「医師免許を取得して、大学病院で研修をしていたころのことだ。ひとりの中年男が骨肉腫で入院してきた。彼は闘病する意思をはっきりと示し、放射線治療を望んだ。彼には別居している妻がいたんだが、夫の病気を知って駆けつけてきて、それからというもの、実に献身的な世話をするようになった。夫は妻のためにも希望を捨てずに治療に励んだ。だが放射線治療は辛い。重篤な副作用を伴う治療を、何回も何回も、がん細胞を完全に根絶できるまで繰り返すんだ。患者自身はよく耐えていたが、妻の精神が先に限界を迎えた」
そこまで聞いて、あたしは唾をごっくんと飲み込んだ。
ううっ、何だか不吉な展開だけど……。
「それで? その奥さんはどうなったの?」
シャルルは短く答えた。
「疲れ果てて死んだ。それから間もなく、彼も死んだ」
そんな!
あまりに悲劇的なその結末に、あたしは言葉をうしない、ようやくわかった。
シャルルは、あたしがその奥さんと同じようになるのを恐れたんだ。
「あたしはそんなに簡単に死にゃあしないわよ」
瞬間、シャルルがあたしの両腕を掴んで、自分に引き寄せた。
シャルルは、まるでキスをするように顔と顔とがくっつくぐらいの距離で、透明感のあるまなざしをランランと光らせながら自分の中の激情を隠そうともせず、言った。
「違う。マリナ、君はまちがってる。人は簡単に死ぬんだよ。人間はそんなに頑丈じゃない。
君はカオルを忘れたか。彼女がどうして死にかけたのかを忘れちまったか?
カオルはタツミの死刑を受け入れ、覚悟をしていたはずだ。その覚悟は月日をかけて積み上げたものだ。だが実際にその死を前にしたとき、彼女の心臓は破裂した。こつこつと積み上げた覚悟は、一瞬で木っ端みじんに砕け散り、彼女は自分自身を殺そうとしたんだ。
いいか、よく聞け。どんなにしぶとい精神の持ち主だったとしても、愛する人間が死神と向かいあっているのを、そばで直視しつづけることのできるやつなんか、ざらにはいないんだよっ!!」
いつもの冷静さをかなぐり捨てて、押し付けるように激しい口調でまくし立てるシャルルにあたしは息をのみ、驚き、ややして「ん?」と思った。
ちょっと待ってよ、あんたの言ってることって……。
あたしがあんたを失う恐怖に耐えられないかもしれないってことでしょ?
それってつまり……。
あたしは思わず、目の前の真剣なシャルルの顔をまじまじと見て、大きな声で言っちゃった。
「えーっと、それはつまり要約すると、あんたはそこまで愛されてる自覚があるって、そういうことね?」
瞬間、シャルルの目が大きく開き、直後、彼はパッとあたしから手を離した。
見る間にその顔がカッと赤くなっていく。
あら。
「いや、別にそういうわけじゃないっ。ただ病人の世話というのは、かなりの確率でストレス障害を起こすんだ。それはこれまでの臨床結果から明らかな事実だ。だから、たとえ移植が成功するにしろ、わざわざ悲惨な状態に付き合わせて、君の心に傷を残してはいけないだろうと思って、それで、あの、オレは……っ」
視線をあちこちに落ち着きなくさまよわせながら、らしくもなく動揺をあらわにして、しどろもどろになるシャルル。
……へえ、なるほど。
なんだかんだ言って、シャルルってば、あたしに愛されている自信をたーっぷりと持ってたのね。
知らなかったわ、この自信家さん!
あたしはニヤニヤして彼を見つめ、シャルルは不愉快そうに黙り込んで、ぷんと顔をそむけた。
「あたしのためだったのね。ありがとう」
お礼を言うと、シャルルはそっぽをむいたまま小声で答えた。
「……別に。オレが勝手にしたことだし」
小学生が親に怒られたみたいなその答えに、あたしは笑いを噛み殺した。
だけど、そのうちどうにも我慢ができなくなって、きゃはははと笑い出してしまったの!
だってあのシャルルが照れてる!
しかも思いっきりすねてる!
あーー、シャルルって、かわいい♡
愛されすぎちゃって心配だったんだと素直にいえばいいのに、それを認めるのが恥ずかしいのかなんなのか、過去の事例がどうのストレス障害がどうのとガッチガチに理論武装するあたりが、面倒くさい男全開でもう最高、おかしすぎるっ、くっ、くっ、くぅっ!
あたしは、ベッドをどんどんと叩いて笑い続け、そんなあたしにシャルルは心底ムッとしたらしく、低い声でつぶやいた。
「おい、いい加減に……」
その直後、ぐいっと二の腕を掴まれベッドの上へと引き寄せられて、あたしは後ろからきつく抱きしめられてしまったのよ!
「このやろう! もう笑うな!」
憎々しげに吐き捨てる彼の胸の中に包まれて、あたしはドッキン!
それはもちろん抱きしめられて胸キュンしたからなんだけど……それだけだけじゃあない。
シャルルの腕が、細くなっていたの。
くっきりと、腕だけじゃなく、他のところも。
背中にぴたりと当たる胸板は肋骨の存在がはっきりとわかるし、振り仰いで目に入った首は、喉仏が痛々しいほどツンと尖っていて、以前と比べると、まるでボディスーツを一着まるごと脱ぎ捨てたみたいだった。
そこにあたしは壮絶な彼の闘病の証を見て、強く胸をつかれた。
「やせたね……」
あたしがぽつりと言うと、シャルルの笑い声が頭の上でした。
「君は太ったな。ほら手が回りにくくなった」
そう言いながら、彼は前に回っていた手をあたしの胸のあたりの、ブラウスのボタンの隙間からするりと入れて、ゴソゴソしはじめたのよっ!
きゃあ、どこ触ってんの!!
あたしは焦って彼の体を引き剥がそうともがいたんだけど、思いの外シャルルの力は強く、もう片方の手で腰をがっちりと抑えられていて、まったく身動きがとれない!
あわわ、もしかしてこのまま、メイクラブ!?
うーむ、まさか、再会した今日いきなりこういう展開になろうとは……。
びっくり。
でも、安心したな。
これほど力があるのなら、もう大丈夫ね。
ホッとしたあたしが体の力を抜くと、胸をまさぐっていた彼の手が、ブラウスから出て、そのまま下に降りていき、ほんの少し膨らみ始めていたお腹に触れた。
あ…と思ったその瞬間、ぐいっと引き寄せられて、耳元で彼のささやきを聞いた。
「腹の子も順調に育っているようだな」
あたしは頭がどっかーんと破裂したかと思った。
いま、なんて言ったぁ!?
あたしは目をカッと開き、首をねじってシャルルを見た。
彼は静かなまなざしで、あたしを見ていた。
「あんた、赤ちゃんのことを知ってるの!?」
シャルルはうなずいた。
「ミシェルが死んだことも?」
彼はまた首を縦に動かす。
「どうして!? ジルが言ったの!?」
「いや」
言いながら、シャルルは首を横に振った。
「ジルからは何も聞いてない。というより、彼女にまだ会ってない」
「じゃあ、誰から聞いたの!?」
興奮してたずねるあたしに、シャルルはゆっくりと口を開いて答えた。
「君もジルも忘れているようだが、ベネトーはもともとオレの部下だ。もしオレが意識を失うようなことがあった場合、覚醒後、その間に起こったすべてを報告するように厳命してあった。彼は忠実にその任を果たしたよ。もちろん、君たちには内緒でね」
あたしは愕然。
言われてみると、ああなんて当たり前のことなのかしら。
どうしていままでその可能性を考えてみなかったんだろう?
ジルと二人で話すの話さないのと大騒ぎしていたけれど、そのころにはすでにシャルルに報告が入っていたってことよね、がっくり。
あたしは肩を落としてうなだれて、そのあと、シャルルに向き直って、ピンと背筋を伸ばした。
そして言った。
「今度一緒にミシェルのお墓参りに行かない?」
「墓参り?」
「うん。だってあんたの命の恩人だもの。あたし、彼には心から感謝してるの」
たちまちシャルルの表情が曇った。
するどく細まったその目は、あたしの言葉の真意を探ろうとしているみたいだった。
あたしは決めた。
よし、ちゃんと自分の気持ちを言おう。
いまこそ伝える時だわ。
「あたしね、この子を産むつもりよ。あんたも知ってのとおり、この子はミシェルの子よ。感謝はしても、それ以上の感情をミシェルには持っていないわ。でも授かった命を殺すことはあたしにはできない」
そう言うと、シャルルは手を伸ばして、その繊細な指先で、あたしの顎をくいっと持ちあげ、凛と光る眼で見つめた。
「綺麗事を言っているが、オレよりもミシェルを好きになったんじゃないのか?」
シャルルの瞳の中には、はっきりとした嫉妬の色があった。
持ち前の自尊心と理性で暴れださずに抑えられているそれが、彼の心をひどく苦しめ、追い詰めているのがありありとわかり、あたしはそんな彼の眼から目をそらさずに言った。
「何言ってんの。さっき、あんたはあたしに愛されてる自信があるって言ったばかりじゃないの。その通りよ。あたしにはあんただけ。
これはあたしからの一方的なお願いよ。一緒にこの子を育ててほしいの。あんたとあたしと、それから赤ちゃんとで、家族になりたいのよ」
すると、シャルルは左頬だけをぴくんとゆがめて、ワントーン低い声で言った。
「オレの気持ちは二の次か?」
あたしはちょっと笑って言った。
「うん、あんたの気持ちは悪いけど無視する。そう決めたの。つまり、あんたはあたしと家族になるしかないのよ。
その代わり、泣いてもわめいてもいいわよ。生きてる実感がするから、せっかくなら盛大にやってちょうだい。ドーンと全部受け止めてあげるから。
これから長い人生の中で、あたしも泣いたりわめいたりすると思うけど、お互いに賑やかにやっていきましょうよ」
すると、シャルルはびっくりしたように目を丸くしてあたしを見て、じいっとのめり込むように見つめて、やがて目の力をふっと抜いた。
やさしい笑いを含んだその瞳は、荒れ狂う海のようだったさきほどまでの様子から一転し、穏やかで、透き通るブルーグレーに変わっていたの。
彼はあたしの顎から手を離して、言った。
「……よくわかった。そこまでの覚悟があるのなら、問題はない。生まれてくる子の父親となって、良い家庭を作るために努力しよう」
うわあ!
「ほんとっ!? シャルル!?」
と、叫ぶと、シャルルは、思わず見惚れてしまうぐらい綺麗な微笑みを浮かべた。
「ああ。約束しよう。だが、それにはひとつ条件がある」
条件? なに?
あたしが訊くと、急にまじめくさった顔をしてシャルルは言った。
「子育ての方針はオレが決める。生まれてくる子はアルディの直系だ。それにふさわしい最高の教育が必要だ。断じて、君のデタラメな生き方を踏襲させるわけにはいかない」
むかっ!
あんた、あたしのこと好きなんでしょ!?
なのに随分とクソミソに言ってくれるわね!
目をむいて抗議するあたしに向かって、シャルルが言うことに、
「オレは君が好きだよ。でも」
でも!?
「君のすべてが好きだというほど狂ってはいない。改善してほしい点はビシバシと指摘していくから、どうぞそのつもりで」
わーん、ひどいわっ!!
狂ってほしい、そんな狂気なら大歓迎!!
むくれてあたしがにらんだとたん、シャルルはあたしの腰に両手を回して力強く自分へと引き寄せて、ぐいっと自分の顔をちかづけてきたのよ!
「……たまらないね。その顔。オレの一番好きなマリナだ」
情熱的なかすれた声と色っぽいまなざしに、ああドキドキが止まらない!
あたしは心臓が口から飛び出る思いで、彼を見つめ、シャルルもまたあたしをじっと凝視していたんだけど、やがて彼は顔をわずかに斜めに傾けて、長い睫毛を伏せて、自分の唇をあたしの口に覆い被せたのだった。
そのやさしい唇の感触に、あたしは泣きたくなった。
喜びと感動と、しあわせが胸いっぱいにあふれて溺れ死にそう♡
大好きよ、シャルル。
ずっと仲良く暮らしていこうね!
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