《ご注意》第一話冒頭の注意事項をよくご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧してください。
3
この年のイースターは四月十四日だった。
一週間前頃から、パリの街には世界中からの観光客が集まり始め、グッドフライデー(受難日)を迎える頃に、それはピークとなる。商業施設をはじめ、あらゆる観光地はそれこそ芋洗いのような人ごみ状態だった。
シルヴァンのアパルトマンがあるサン・ルイ島も世界遺産ということもあり、戸口の前まで人波が途切れることない。
「だ――っ! もう我慢できないっ!」
マリナはシャルルクッションを壁に投げつけた。
「あたしも遊びにいきたいっ! ずっとこんなオタク部屋に閉じこもってるなんて嫌っ!」
「いいよ。じゃあ、明後日のイースターは好きに出ておいで」
「ほんとっ!? シャルルっ!?」
「ああ」
椅子に優雅に腰掛けて本に目を落としたまま、いつもになくにこやかに応じるシャルルに、マリナは一瞬おかしいなとは思いながらも、せっかくのチャンスを逃がすものかと「そうするわっ」と頷いた。
「へえ。マリナ、お前、そんなに勉強がしたかったんだ?」
いつの間にかやって来ていたカークが笑いながら、テーブルの上のバナナを一本手に取る。
「パリのイースターは、店という店が全部閉まるんだ。ストアもレストランも全部ね。開いてるのは美術館とか博物館とかそんなぐらいだよ。ああ、あと公園も大丈夫だけどさ」
それを聞いた途端、マリナは針を突き刺された風船みたいに、喜びと興奮が一気に萎んで、へなへなと床にへたりこむ。カークはくすくすと笑うと、皮を剥いたバナナを一度に口に放り込んで食べてから、シャルルに言った。
「エルネストは順調だよ。今月中には確かな証拠を挙げられると思う」
「ご老体でもまだ使えるか?」
「いや、息子のユーゴだ」
シャルルが初めて顔を上げた。青灰色の瞳がちかりと光る。
「……大丈夫か?」
「ああ。信用できると判断したよ」
自信に裏打ちされたカークの微笑みをシャルルはじっと見て、すぐに「それならいい」とだけ答える。マリナはのそりと身体を起こしてその二人のやり取りを見ながら、この十日余りを振り返る。まさしく奇跡とも言えるほどの素晴らしい成果に、二人の有能さをありありと見せつけられていた。
シルヴァンはまず、アルディ家第二十九代当主マクマリオンの二番目の子であり、第三十代当主ロベールのすぐ下の弟である自分の兄リシャールを連れて来た。最初、入るなりシャルルグッズだらけの部屋の様子に驚いていた彼は、直後、本物のシャルルを目の前にして、度肝を抜かれたように硬直してしまった。その後、シャルルとリシャールとの二人だけの対話のために部屋を追い出されたマリナがハラハラしながら待っていると、やがて合図があってカークだけが呼ばれる。
「あたしはっ!?」
シャルルは「茶でも入れてろ」と言って、鼻先で扉をバタンと閉ざした。悔しさと腹立ちと、そして心配とがない交ぜな気持ちのまま、主不在のため勝手のわからないキッチンで適当にお茶の用意をしていると、扉が開いてようやく三人が姿を見せた。
「Justice et victoire !(正義と勝利を)」
握手を交わす男達を見て、マリナは上手くいったことを知る。
―――ああ、良かった!
ホッと胸をなで下ろしながらシャルルを見ると、彼は笑みを浮かべながらも、瞳は笑っていなかった。
その後も、シルヴァンは一人ずつ、アルディ家の人間を連れて来た。
自分の兄であるマクマリオンの九番目の子ピエリック、ロベールの妹婿ドニス、分家オーレリー、分家ダリウス、分家ベルナール、分家アラン、分家アレクサンドル=エティナンヌ、そして最後にマクマリオンの弟である長老エルネストだ。
「エルネストは権威と道理を何よりも重んずる老人だ。本来であればこのような裏工作を最も嫌うタイプと言える。けれど、彼はまたアルディの最後の良心と言うこともできる。つまり、彼を落とせれば、第一作戦は完了だ」
シャルルの言葉通り、その最後のエルネストを見た時、マリナは、これは大変そうだと思った。ひょろりとした長身、四角いフレームの眼鏡、まっすぐな銀髪、一分の隙もない濃紺のスーツ姿。細い切れ長のグレーの瞳は睨んでいるように見えるぐらい鋭く、冗談や泣き落としなんかは欠片も通じそうにない。行ったことはないけれど、大学の教授というのはこんな感じじゃないかと、思わず緊張するマリナをよそに、シャルルはそれまでと同様ににこやかな笑顔で迎える。
「上手くいきますように……!」
ひたすら祈ること二時間。扉が開いて出て来た二人の力強い握手を見た時、マリナは思わず「やった――っ!」と叫んでしまったぐらいだ。
シャルルの立てた第一作戦は順調だった。あまりにも順調すぎた。ルパートの影すら感じないまま協力者は十人となり、シルヴァンは「僕とアンドリューを入れて十二人、幸福の数だ」と満足そうに笑う。シャルルは交渉時間以外はいつも一人でシルヴァンの書斎にこもって、何やら自分だけでやっているようだった。カークは一日に一度、ほんのわずかな時間だけ来て、報告をしていくだけで、風のように去って行く。
男三人の顔にはいささかの憂いもなく、それは事態がすべて滞りなく進んでいることを表していた。
「ま、それでいいんだけどね」
マリナは最後の一枚になったスケッチブックの最後のラインを引く。そこには目の前で話し合うシャルルとカークの素描があった。
パリに来て、シルヴァンのこの部屋に来てからの十日余り、マリナがしたことと言ったら、スケッチをしたこと、それだけだった。協力者との交渉の席からはつまみ出されるし、カークとの打ち合わせは目の前でやっているけれど、何か言おうものなら「黙ってろ」と一蹴されるし、書斎のシャルルに「何か手伝おうか?」と声をかけても、「いらない」とピシャッと目の前で扉を閉ざされるだけだった。
「マリナ、お前の出番はいつかあるから」
そういう時、カークがいれば彼が取りなすように慰めてくれるが、シャルルは何も言わない。自分の内面だけを見つめたような無表情で、マリナのことなどまるで見えていないように思えた。
「じゃあ、オレはこれで」
この日もカークが帰ると、シャルルは、
「大人しくしておいで」
それだけ言いおいてすぐに書斎に戻っていった。マリナはテーブルの上のバナナを掴み取ると、乱暴に皮を剥いて口に放り込む。
「なにふぉ。いいもん、そっちがその気ならあたしだって―――っ」
まあ、別にいいけど。食べて飲んで絵を描いて。これって天国よね、と思った途端、飯田橋のアパートに置き去りにしてきたマンガのことを思い出した。松井さんにこてんぱんにされたままの自分のマンガ。「やめた方がいい」とハッキリと言われたけれど、自分にとって本当に大事だとわかったから、やり直そうとあの時確かに思った。
バナナを咀嚼する口が止まった。
「あたし、何でここにいるの?」
シャルルがアルディ家当主に戻る作戦は順調で、きっと遠からず叶うだろう。カークの仕事も同時に片付くに違いない。二人は今度こそ手を取り合ってひとつのことを成し遂げられる。もう大丈夫。―――だったら。
「今日がその時ね」
マリナはごくんとバナナを飲み下すと、シャルルとカークを描いた素描の端を三角に破り、そこに小さな字を書き込む。それから、東側の壁の端にかけてあった菜の花色のバレルバッグを掴んで、なけなしの荷物と残りのバナナ全部を入れ、それを肩からかけた。先ほどの切れ端を大理石のカウンターの上のバゲットケースに挟んで、シャルルクリスタルを蹴飛ばさないように注意して部屋からそっと出る。
石階段を下りアパルトマンから外に出ると、燃えるような日没の太陽が目に痛い。時間は夜二十時、受難の金曜礼拝のためにサン・ルイ島の聖トマス教会が特別な号鐘を鳴り響かせる中、人波に入っていったマリナは思う。
和矢、いま行くわ―――と。