《ご注意》この記事はいわゆる二次創作です。苦手な方は閲覧しないでください。
テーマソング創作「夜も昼もハッピーエンド」の続編。
予告では「ライトに、楽しく」と言っていましたが、シャルルの心情を思いっきり描いて見たくなったため、予定していた文体とタイトルをすべて変更いたします。(4,000文字。読了時間8分)
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札幌物語
第一話
和矢や美女丸らに見送られて、札幌の駅に向かった。ホテルの裏通りからJRの高架下を回って、札幌駅の正面に出る。横に長く伸びた灰色の駅ビルが、登りはじめてまだまもない清潔な朝日をあびて、オリンポス神殿のごときだ。
「その服は問題ね」
と、マリナに言われて、シャルルは改めて自分を見下ろして、なるほどとうなずいた。パリから東京にやってきて一度も着替えていなかった絹混じりのシャツは、彼自らが前身頃を引き裂いた通り、すべてのボタンが失われ、そのはだけた隙間から、白磁を思わせる胸がのぞいている。先ほどから、無遠慮な通行人の視線がよこされるのも、これが原因であろう。
札幌駅前に二人はついた。JRと地下鉄を結ぶコンコースの前で、立ち止まる。日本人らしいスーツ姿の通勤客や大きなリュックを背負った外国人観光客が、いかにもせわしない足取りと押し殺した無表情で彼らの周りを通過していく。シャルルの様子を奇異に思う眼差しも、ほんの一瞬注がれるだけで、足が止まることはなく、札幌の朝は通常通り行われていた。まだ真新しい床のタイルには朝の汚れない太陽がまばゆく反射して、照り返しを見ているだけでも十分に楽しいのだが、人々は光のオーナメントを容赦なく踏みつけてゆくので、犠牲となった光らはシャルルたちの周りに「助けて」と訴えながら集まっていた。
今日は日曜日であった。
「一旦はホテルに戻ろう」
「ホテル?」
「ああ。ホテルのコンシェルジュに頼めば、シャツの一枚ぐらい調達してくれるだろう。幸い、俺たちが泊まっていた日航ホテルはそれなりのホテルだ。宿泊客へのケアをしてくれるはずだ」
「でも、まだ」と、マリナは周囲を見渡し、駅ビルの反対側にある地下街入り口の前にそびえ立つ、大きな三角錐をした飾り時計をみた。パリのルーブル美術館の玄関口にあるガラスパビリオンを小さくした感じのものだ。
「朝の七時前よ。いくらホテルでも、服を用意できるかしら?」
「一流のホテルにはブティックが併設されてある。だから問題ない」
「そこって朝から売ってくれるの?」
それもサービスの一環である。
「わかったわ。じゃあ、行きましょうか。あたしもポーチを置いたままだし」
ホテルに戻って、その旨を告げると、フロントマンはすぐさま快く、地下のショッピイング街へと二人を案内した。開業前ゆえ非常灯以外の電気は落とされており、死んだ街に似て、物音ひとつせずしんと静まり返っていた。贅を尽くした絨毯が敷かれた長い通路は、闇に飲まれて先の方は、薄ぼんやりとしか見えず、ますます実体感のない店だけがあるようで、合わせ鏡をした時に永遠に我が身が映るように、店主のいない店は永遠にずっと先まで続いているような錯覚に陥った。マリナは気味悪がり、シャルルの腕にいもりを思わせる張り付き方ですがりついて離れようとしなかった。フロントマンはひとつの店のシャッターを開け、電気を灯した。一瞬光が頭の中で炸裂した。
「こちらからお好きなものをお選びください」
シャルルは絶句した。
「ぷっ! あっはっは!」と、笑い出すマリナを、シャルルは冷たい目で睨んでおいてから、フロントマンにその視線を移した。
案内された店は、北海道のアンテナショップだった。主に北海道の土産品を置いてある。コンビニを百倍つまらなくしたような生活品も置いてあり、衣料品も数点あった。スカーフや手袋、下着にTシャツ、特にTシャツは北海道の特色がいかんなく発揮されていて鮭をくわえた熊や、あざらし、エゾシカなどの絵が大胆にあしらわれている。
「他の店はないのか?」
フロントマンは顔を曇らせた。
「申し訳ございませんが、他のテナントはそれぞれのブランドの直営なのです。私共が勝手に販売することはできかねます」
「わかった。もういい」
シャルルはその場を立ち去り、正面からホテルを出た。あまりに早足であったため、ボタンを失った前身頃がひらひらと蝶のように舞い、細身なわりにたくましい胸板が完全に人目に晒されていたが、彼にはそれを気にする余裕すらなかった。
「まってよ、シャルル」
マリナがシャルルの腕を掴んだのは、ホテルを出て、再び札幌駅のコンコース前にやってきた時だった。彼の足は速いのだ。
腕を掴まれても彼は彼女のほうを見なかった。怒りに裏打ちされた氷のような青灰色の瞳を輝かせたまま、自分と同じ色の空の高い一点を凝視して黙り込んでいる。
「もう、勝手に行っちゃうんだから、まだポーチを部屋から取ってきてないのよ」
「…………」
だからなんだといわんばかりの彼に、マリナは嘆息する。
「わかった。ここで待っていて。ポーチを取ってくるから。いい? 絶対に待っていてよ? どっか行っちゃったら怒るからね!」
マリナは親が子供をたしなめるような口調でそう言うと、彼の腕を離し、元来た道を駆け出して行った。
シャルルは少しだけ振り返って、四年前とほぼ変わらない可愛い彼女の後ろ姿を見送った。
彼女がホテルに戻り、部屋に入ってポーチをとって、再びここにやってくるのにかかる時間が約五分。もしかしたら歯を磨いたりぐらいはするかもしれない。いやしてほしいという願いがシャルルにはあった。今更妙齢の女性らしい振る舞いをマリナには期待していない。彼女は床でも寝られる女であるし、海外旅行をするのにもポーチに下着を三枚しか持たない女なのだ。女という区別ではもはや語れない。男でももっと繊細な人間はいくらでもいる。つまり、彼女は変な人間なのだ。だが結局、自分はその変な女が欲しいのだと、改めてシャルルは自らに言い聞かせるのだ。そのきわめてまれな変な女が、シャルルのために歯を磨き、顔を洗い、少しでも綺麗に見せようという心づもりをしてからやってくるのならばどれだけ嬉しいだろうと思うと、シャルルは胸の中に熾火に似た火が燃えるのを感じた。つい先だって重なる直前で中断した口づけを思い出して、四年以上もの歳月を投じて愛した女との甘やかな触れあいとこれからに期待を馳せて、シャルルの心ははばたいた。
シャルルは近くにあった自動販売機に立ち寄った。ズボンの尻ポケットからクレジットカードを取り出して、ミネラルウォーターを買おうとしたら、クレジットカードでは買えないことに気づいた。チッと舌打ちしながら、一度自覚してしまった喉の渇きはますます激しさをまして、喉の奥にひっかかりのようなものを作りながら、飢えていく。先ほどマリナが見た時計を見た。七時半にようやく差しかかろうというところだった。この国で、早朝にクレジットカードが使える店がどれだけあるか、シャルルは知っていた。その答えは彼の渇きをますますひどくした。
時は198X年。まだクレジットカードの普及率が低かった時代である。
「おまたせ。じゃあまずは朝ごはんを食べにいきましょうか?」
じっと見ても、顔を洗ったかどうかはわからなかった。
「もうチェックアウトしたのか?」
まだチェックアウトしていないのならば、ホテルの朝食が利用できる。あのバイオリニストは、まさか朝食抜きプランなどを設定してはいないだろう。
「チェックアウト? したわよ、ちゃんと」
朗らかに笑われて、シャルルはいまいましさを覚えた。続いて「何食べる?」と訊ねられて、「ちょっと黙って」と答えてしまったのは、正直にいって彼の焦りである。
周りを見渡すと、ありの子が砂糖にむらがるみたいに、通勤客の姿が増えて、札幌の駅に吸い込まれていた。誰もがシャルルたちには無関心なのだが、いつもは快いはずのそのつれなさが、無性に寂しく感じられてならない。誰かマリナに飯を食わせてやってくれないかと頼んでしまいそうで、そんなあさましい自分にシャルルはついぞ戦慄した。ちぎれそうな眼差しで空の一点を睨んでも、自分を慰める言葉はみつからないし、このような時にどう対処すれば良いのか誰も教えてはくれなかった。生まれた時からシャルルは金に困ることはなかったので、まさか一生を賭けて愛し、その相手から愛を誓われた直後に相手を飢えさせることになるとは考えもしなかったのだ。正直に嘆くすべを教わっていないシャルルはひたすらに、彼女に満足を与える最上の方策を考えるしかなかった。
「ついてきて」と、彼はいって歩き出した。どこへと訊ねられたが、シャルルは何も答えなかった。
シャルルが向かったのは、先ほど自分たちが救出されたホテルの裏だった。万が一にも和矢たちがそこに残っていないかと彼は考えたのだ。
「あら、薫たちもう帰ったのね」
そこは、先ほどの騒ぎなど何もなかったように、閑散としており、上から降りた時には気づかなかった青いペールのゴミ箱が3個、行儀よく並んでいるだけだった。ハッピーエンドの名残は跡形もなくは消え去り、アスファルトは毎回出されるゴミの汁で汚されきっており、ただれた黒色が北海道の強い太陽を反射して、これほど爽やかで清潔な朝なのにそこだけ男女の情が混ざり合う深夜の匂いがした。
「薫たちに何か用事があったの?」
「いや、礼を言いたかっただけだ」
シャルルはひどく己を蔑んだ。
「お礼? あんたが?」
嘘だろうと言いたげな彼女の声音が、氷の像を鎌で削いでいくように、シャルルの屹立した誇りを二度と戻れない形へと削いでいく。あとに残されたのは、いつもと変わらない泰然とした無表情の天才だった。
マリナは空腹を持て余したらしく、いった。
「ねえ、あたし、札幌に知り合いがいるの。小さなころから日本中を引っ越してきたんだけど、札幌にはなんと二回も住んだことがあるのよ。だから地理もわかるし、知り合いも結構いるの。前に住んでいた家のとなりのおばちゃんがとても親切だから、いけばご飯ぐらい食べさせてくれるわ。行ってみない?」