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Channel: りんごの木の下で
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雪の果珈琲館

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《ご注意》シャルマリ二次創作です。一話完結。(5,000字。読了時間14分)


 雪の果珈琲館



朝、ホテルを出るときに、選んだコロンはいつもと違うブランドで、麝香をベースにした強い男性香にした。昨夜のうちに支配人に申し付けておいたものだ。日頃であればこの類の強い香りは選ばない。節度と教養を感じさせる香りの選択。それが貴族のたしなみであるからであり、もう一つの理由は恋人のためだ。
これまで使ってきた香水は、チュベローズをベースにした花の香。女性用の香水だ。つけた瞬間に香るトップノートを強めに、あとに続くミドルノートは誰にでも好かれるように穏やかに、一日の終わりまで余韻を残すラストノートは、疲れた体臭とまざりあって官能をたちのぼらせる。
この香水を選んだのは、十八歳のときだった。初めて本気で好きになった女性と相思相愛になれた記念として、自分の香りを変えた。それまで纏っていた香りを脱ぎ捨てて、彼女専用の香りを纏う――いささかロマンチックに聞こえるこの儀式めいた行いは、彼女への専心を意味していた。女性香であるこの香水を纏っていれば、恋人の存在を無言のうちにさとり、女たちは遠ざかる。虫除け以外に最大の理由が、いつも彼女を感じられるということだ。仕事をしているとき、彼女と離れてパーティに出ているとき、そして海外にいるときでさえ、この香りがありさえすれば、彼女の存在を感じられる。離れていても笑っているその顔がまぶたの中にありありと浮かぶ。声、息遣い、肌触り、抱き心地まですべて思い出せる。恋しくてたまらない夜は、香水を数プッシュ多めにピローに吹き付けて、それを抱きしめて眠る。彼女の夢は見られなかったけれど、ぐっすりと眠れた。家に帰ってそれを話すと、喜んでいるような、気持ち悪がっているような、鼻の片側だけがひきつった薄笑いを浮かべた。だが嫌悪はその中にはないように見えた。おそらく彼女もわかってくれているのだろう。それだけ自分は惚れられているということを。
「仕方がないわねぇ」
とため息をつくその顔には、ほんの少しだけうぬぼれがあって可愛かった。


何十年も昔からあるような、駅前の喫茶店に入ると、一番奥の窓際の席で彼女が待っていた。ごめん、といって向かい側に座る。彼女は腕も足も組んで、深く背をソファにもたれて、窓の外を見ていた。すぐに髭面のマスターがやってきて注文を聞いた。カフェを頼んだ。
「おそい」
こちらを見ようともしないまま、彼女はいった。
「香水、変えた? 強い匂い」
「ちょっとね」
「まあそんなことはどうでもいいわ。それより待たせすぎよ。ミルクティー、もう二杯あけちゃったわ。パンケーキだって」
その言葉の通り、テーブルには空になったティーカップと皿があった。皿はメイプルソースと生クリームで汚れていた。真っ赤なチェリーだけが隅に残っている。
「出るときに電話が鳴ったんだ」
「また電話? あんたって電話か来客か、そればっかり」
「しかたがないだろう。仕事なのだから」
「そうね。仕事ですものね。仕方がないわよね。わかっているわ。貴族の当主やら鑑定医やらオートエコールの所長やら掛け持ちしてやっているのだもの。そりゃあいそがしいでしょうよ。そういうの、日本でなんていうか知っている? 三足のわらじを履くっていうのよ」
「知っているさ。その言葉くらいは」
「あっそ。博学なことで結構ね。あたしがあんたに教えられるのは、何にもないわね。あんたから教わることばっかり。やれ経済の仕組みだの、アピタイザーの作り方だの、果ては漫画の書き方までご教授頂いちゃって頭が下がるわ。どっちがプロかわからないわね。こうなったら」
「そのことを恨みに思っているのか? 君の仕事に口を出したことは謝罪しただろう?」
「恨みになんか思ってないわよ。あんたの教えは正しいもの。今回もまたひとつ教えられちゃったわ。愛って簡単に憎しみに変わるってことをね」
一瞬、むりやり猿轡をかまされた思いがした。それも口が裂けそうなほどの力で。
何を言おうか戸惑い、彼女の顔を見た。つんとすました彼女は相変わらず窓の外を凝視していた。外は歩行者専用の駅前商店街で、レンガ色のブロック舗装がされていて、小洒落たまちづくりをしていた。ドラッグストアや不動産屋などが並び日本ならばどこにでもある街並みだ。特に見たい光景でもあるまいに、ずっと凝視しているのは、決してこちらを見ないという、彼女の壮絶な意志表示だろう。
「おまたせしました」
とカフェが運ばれてきた。白い湯気が螺旋を描いて、彼女との間に温度の違う空気層を作った。
「……まだゆるせないのか?」
押し殺すように、緊張しながら訊ねると、
「どのツラ下げて、そういうこというの?」
と、彼女の目がこちらを睨んだ。はじめて彼女の瞳が動いたことを喜びたかったが、半眼のまなざしの見たこともない冷たさに、反応を得たことの喜びなど一瞬で吹き飛んでしまった。
「別れましょう」
「本気か?」
「もちろん」
「後悔しないか?」
「後悔ならあんたがしなさいよ。一生ね。でもあんたみたいな人は、すぐにあたしのことなんか忘れてしまうわ。そうでなきゃこんなことしないわよ。これできっぱり別れましょう。死ぬほど愛していたわ。だからいまは死ぬほど憎んでいる。もう顔も見たくない」
「懺悔してもダメか?」
「懺悔なら神様にして。バイバイ、浮気者」
そういうと、彼女は水の入ったグラスを手に、一気に呷った。最後まで飲み干した瞬間、わずかに苦しげな顔をして、片手の甲で口元をぬぐい、音を立ててグラスをテーブルに置いた。それからまた首を傾けて窓に視線をやった。これは決してうぬぼれではないと思うが、必死で激情をこらえて、大人の女を演じようとしているようにしか見えなかった。下唇から顎にかけての皮膚がかすかに痙攣している。
水は苦手なの、むせそうになるし、味がないから、と笑っていたいつもの彼女を思い出して、心からすまないと思った。


過ちを犯したのは、一週間前。どうしてそうなったのか覚えていない。いつものように形式的なパーティに出て、決まり切った退屈な挨拶のやり取りをしていたはずだったのに……気がついたら、ベッドの上にいた。しかも裸で、隣には見たこともない裸の女がおり、自覚できるレベルで、自分の体には情交の痕跡がいたるところに残っていた。酔った勢いで連れ込まれたとその女は申し立てたが、そんなことがあるわけはなかった。
不審に思ったので調べると、仕事上でトラブルのあった相手が、美人局のような連中を使って、パーティ会場で睡眠薬を使ったとのことだった。その相手を突き止め、痛い目に合わせたので、今後こちらに何かしてくることはないだろう。命が惜しくない限りは。
罠にかけられ、睡眠薬で朦朧としていたとはいえ、彼女以外の女と一夜を共にしてしまったことにちがいはない。
連中の始末を終えてから、すべてを正直に彼女に打ち明けた。彼女は驚いた顔をしてから、いたわりの言葉をくれた。
「大変だったわね。お疲れ様。少しゆっくりと休むといいわ」
笑う彼女に安心して、もちろん謝罪もし、彼女だけの愛を心でも体でも見せてから、再び仕事に邁進しはじめたところ――
彼女は突如いなくなった。書き置きにはひとこと。
『ごめん。無理』
それだけだった。


ぬるくなったカフェを一口飲んだ。
「もう春だな」
「そうね」
「桜を一緒に見ようと約束していたな」
「気の早い桜ならもう咲いているわ。来るときも一本、日当たりのいい場所で咲いていたわよ」
「三月上旬だぞ。早くないか? 今日は特に寒いし」
「だから気が早い桜って言っているでしょう。ばかな桜なのよ。焦って咲いたって、みんなが綺麗な時にひとりだけみじめなのにね。その時に後悔するわ。もう少し待っていればよかったって。でもきっとあの桜は来年も早く咲くわ。なーーんにも学習しないのよ。そういうおばかちゃんって」
くすりと彼女が笑った。黙ってカフェをすする。苦い。
「じゃあ、そろそろあたし、行くわ」
と、彼女は腰を浮かせた。「最後のお茶ぐらいおごってね」
「ああ」
テーブルの端にあった伝票を引き寄せた。
「バイバイ」
「わかった、元気で」
彼女は立ち上がった。トレンチコートを羽織って、ストールを首に巻きつける。天井を向いて一度息を吐いて、肩を上下した――
そんな動作を繰り返していて、彼女はすぐにくるりとこちらに向き直った。ものすごい速さだった。
「なんで止めてくれないの? あたしはバイバイって言っているのよ? このまま行かせちゃっていいの?」
「だって、俺はもう謝罪もした。こうして追いかけてもきた。これ以上どうすればいいんだ?」
「わからないわよ、あたしにだって」
「わからない?」
「そうよ、わからない!」
と、彼女はそこが喫茶店の中であることも忘れて、大声で叫びだした。両手で顔を覆った。
「あんたが悪いんじゃないってわかってる。でも、あんたが他の女性と……と考えるだけで頭が狂いそうになるの。あたしだってゆるしたいわ。でもゆるし方がわからないのよ。どうしていいかわからない!」
「だから別れるのか?」
「だってこのままじゃつらすぎる。あたし、あんたを嫌いになりたくないのよ!」
絶叫するようにそう言って、泣き出した彼女を、どう慰めていいのかわからなかった。好きなのも、愛しているのも、抱きたいのも彼女だけだ。だがこの心、伝わらない。興奮していく彼女と反比例して、しんしんと冷えていく己の気持ちを感じていた。愛する人と気持ちを共有できないもどかしさが体を硬直させた。泣く彼女へ駆け寄る足。震える彼女を抱きしめる手。どれも何一つ動かないのに、ただ鼓動だけが津波のごとく波打つ。
命を刻む正確さ!
身体中に血を巡らせる力強さ!
彼女を失うことは、このすべての生命活動を止めることと等しいのだと、全細胞が声を枯らして叫んでいた。……
マスターがやってきて、新しいミルクティーとカフェを置いた。
「どうぞ」
と、彼は微笑しながら、空になった食器をトレイに下げた。
「でも」と、彼女が戸惑った。「注文していませんけど」
「いま暇だからサービス。だってほら、他にお客さんいらっしゃらないから」
そう言われて、店内を見渡すと、確かに誰もいなかった。入ってきたときは他の客の姿を見たと思ったのに、いつのまに出ていったのだろう。
「今日は冷えるよね。外はたぶん10度を下回っているんじゃないかな。だから、もうちょっとあたたまっていってよ」
「でも……」
「今度来たとき、他のお客さんには内緒にしておいてね」
マスターはウインクをしてから、銀のトレイを器用に片手の指先でくるくると回しながらカウンターに戻っていった。テーブルの上に縦に並んだ二つのカップは、ピンクのバラ柄の揃いのものだった。白い湯気も二つ。同じ軌道を描きながら上へ立ち上っている。
「座らないか?」
彼女はためらいながらも、おずおずと座り直した。小さな体をますます縮めるように肩をすくませる。
「本当は別れたくない。君が好きだ。俺の人生には君しかいない。マリナしか共に生きていきたい人間はいないんだ」
瞬間、彼女は泣きはらした顔を弾けさせた。
「あたしも……っ」
と、彼女はまた泣いた。
「一緒に生きていきたい人なんて、シャルルしかいないのよ。別れたいなんてあるわけないわ。ただ助けて欲しかったの。この苦しさをあんたにわかって欲しかったのよ」
そう言って、彼女はテーブルに頬杖をついて思う存分泣いた。
やがて涙が出尽くしたころ、二人で穴があきそうなほど互いの顔を見あった。それから山が海へと崩れていくように笑った。
テーブルの下で、彼女が足を蹴ってきた。すねを勢いよく一発。結構痛かったのだが、平気な顔をしていると、さらにドカスカ蹴ってきた。顎を引いて、ちらっと上目遣いに見やると、まだまだよ、このぐらいの罰なんかじゃすまさないんだから、と顔に書いてあって、思わず失笑した。
おそらく明日にはすねが青アザだらけになっているだろうと思われるほど、彼女の蹴りが炸裂したころ――
「あっ」
と彼女が声をあげた。
「どうした?」
「雪」
「雪?」
「うん。外を見て」
その言葉に導かれて外に視線をやると、白い小さなものが天からひらひらと舞っていた。薄曇りの日光を浴びて、真珠のかけらが散っているように見える。
「もう春なのに、雪なんてね。ここにもいた。季節外れのおばかちゃんが」
でもとっても綺麗――、と微笑む彼女の横顔を眺めつつすするカフェは、ぬるくなってしまっていたけれど、とても美味かった。




おわり



みなさま、こんにちは。
年度末に入り、多忙を極めていらっしゃるのではないでしょうか。私もその中の一人で、少し落ち着かない日々を過ごしています。そんな中、応援メッセージをくださった方々への感謝の気持ちを込めて、小さな短編を書いてみました。
こういうのもたまにはいかがでしょうか? 
「雪の果(ゆきのはて)」は春の季語です。その春、最後に降る雪のことです。シャルマリの大人の恋模様を、三寒四温の季節に託して描いてみました。楽しんでいただければ嬉しいです。


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