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D・N・A

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《ご注意》シャルマリ創作です。モンシク来春の設定。(10,000字。読了時間22分)
 S・O・S、U・F・Oの続編(sakura シリーズ最終話)です。


 D・N・A


翌日の夕方、松井氏からの連絡が入った。
「ダメ? 嘘でしょう?」
梓は携帯電話を耳に当てたまま、立ち上がった。部内中の視線が一気に集まるが、そんなことは構っていられない。
「本当にごめん。手は尽くしたんだけどさぁ」
「あなた約束したじゃないの、まかせろっていうあの言葉は嘘?」
「いや、もっと簡単に見つかるかと思っていて。池田ちゃんの実家に連絡して、友達を当たった。そうしたら、母親が笑っていうんだ。マリナの友達なら千人以上いますけど、誰のことですかって」
「千人?」
梓は目を見張った。再び同僚の視線を身体中に感じる。
「そうなんだよ。千人だよ、千人。中国の山の上に立っている仙人様じゃないよ」
こんな時によくもこんな笑えないジョークを言えるものだ。声にならない梓の怒りを感じたのか、
「本当にさ」と松井氏は慌てた感じで先を続ける。「議員じゃあるまいし、そんなに知り合いがいる一般人って聞いたことがないよ。しかも昔の知り合いってだけじゃなくて、母親がいうには、娘が頼ったら、全員が親身になってくれる友達だって言うんだ。だから、誰がいちばんの友達だと聞かれてもさっぱりわからないわって笑うんだよ~。これでどうしたらいいっていうんだよ~」
「なるほど。それですごすごあきらめたっていうわけ?」携帯を持つ梓の手が震えた。込み上げてくる激情を必死でこらえて、冷静な声にする。きっと口元はひきつっていただろう。
「待ってよ。俺だって、そこであきらめたわけじゃないよ。とりあえず母親が百人教えてくれたから、片っぱしから連絡したんだけど、どこにもいないんだぁ」
「母親はどういう基準で百人選んだの?」
「さあ? でも、女ばっかりだったぜ」
カチンとする。梓の勤めるこの会社は、多くの出版物を出しており、どれも世間的に認められた大手出版社だ。何年も前から男女平等雇用を謳い文句に、その実践に勤めているが、社員たちにその意思はまだまだ浸透していない。「女は楽でいいよ。家庭を背負ってない」「女はいざとなればやめて旦那の稼ぎで食える」というささやきはしょっちゅうで、ひどい時には、「眉村さんもそんなに頑張らないで再婚すれば?」と言われたことすらある。
今回の松井氏の発言も、本人は何も自覚はなかったのかもしれないが「女」という言い方に、梓は明確に差別化された蔑視を感じた。
「ふーん、女に百人電話したのね。それは楽しい捜索だったわね。母親が男友達を教えてくれなくて何よりね」
松井氏は、梓の皮肉にまったく気づく気配もなく、情けない声で答えた。
「冗談じゃないよ。知らない女と池田ちゃんの話をして、何が楽しいもんか。しかもこれで社長賞を逃しちまうんだろ? くっそ、それもこれも、池田ちゃんがあのフランス人とさっさとくっついてくれればよかったんだよ。そうすれば何も問題がなかったのに、どうして逃げるんだよぉ。逃げる前に、自分の顔面と相談してから逃げるべきだよ。――そうだ。やっぱり女のところに逃げてるんだよ。だって、あんないい男でもダメなら、池田ちゃんは女が好きなんだ。きっとそうに違いない!」
突飛な発想だが、そのうちの一部に梓はなるほどと思う。どうしてマリナはシャルルを置き去りにして去ってしまったのか。桜を見に来たというシャルルに激怒したというところに、彼女の心の扉を開く鍵がありそうだ。
シャルルが好きだから、自分に会いに来たのではなく、桜を見に来たと言われて、悔しくて怒ったのかしら? これならシャルルにとって吉報だ。
それとも、長い間音信不通だったシャルルが、挨拶や報告(いわゆるホウレンソウ)に来たのではないと知って怒ったのか? この場合、マリナはシャルルに対して恋愛感情を抱いていないということになり、シャルルの思いは一方通行で終わる。
梓は二人の気持ちに関知するつもりはない。ただ、世話になった友人のために、できる限りの奉仕をしてあげたいだけだ。実際のところ、恋愛とは当事者同士が決めるしかないものであり、梓はその橋渡し役として、二人の面会をセッティングするのみ。
そのあとは、シャルルの誠意次第である。女というものを梓はよく知っている。シャルルの名前を聞いた時や千鳥ヶ淵でのマリナの表情を見ていると、けしてシャルルに悪感情を持っていないことはよくわかる。友情から愛情へと転換するために、必要なものはただ一つ。好意を示して、それが真剣で、生涯変わらぬものであることを誓えばいい。それでも女が落ちぬ場合は、男は自己改革をした方がいいだろう。
その前に、と、梓の思考は一時止まる。
マリナはいま現在フリーなのかしら? それを確かめる間もなく、ただのお花見として彼女を千鳥が淵に連れ出したけれど、もし彼女にちゃんとした恋人がいるのなら、これ以上シャルルとマリナを会わせない方がいいのかもしれない。シャルルが傷つくのは見たくない。
「本当ごめん、眉村さん。俺も残念だよ。社長賞」
梓の無言を怒りと受け取ったのか、電話の向こうで松井氏はひたすら謝り続けていた。シャルルのためにどうするのかいいか考えつつ、それを耳に流していた梓は、やがてひらめきを得た。
シャルルの言葉を思い出したのだ。
『二度と会いたくない人間が君にはいないのか』
あれは、もしかしたら――
「松井さん!」
突然、電話に向かってきっぱりと呼びかけた梓に、松井氏が変な声で驚きを表す。
「池田さんと仲よかった男の子に記憶はない? アルディ氏以外でよ」
「仲よかった男の子?」
「そうよ。彼女が……そうね」思い巡らして、シャルルがマリナとの約束を交わしたのは、18歳の頃だと言っていたのを思い出す。だとすれば、彼らの間に色々あったのは――
「三年前ごろ。池田さんが17歳の頃よ。どう? 彼女に周りに親密そうだった男の子が誰かいなかった?」
松井氏は、あっ、と声をあげた。
「そうだ、ハーフのあいつ! 確か家は横浜だって」
横浜!
松井氏はすらすらと、一人の男の名前をいった。
「長い名前」
「だろ? フランスと日本の二つの国籍を持ってるかららしい。今度、ヒロインの相手役で使えそうな名前だなぁって思って、それで覚えていたんだよ」
「すごいわ。松井さん。三年前に会っただけの人の名前を覚えているなんて」
「いやあ」
ごそっと音がしたので、松井氏は頭を掻いているようだった。
「じゃあ、そこにいるのかもね。どうもありがとう。これでなんとかなるわ」
「男から逃げて男のところか。池田ちゃんもやるね。でも横浜の住所は俺、わかんないよ。どうやって探すの?」
「それはもちろん」そこで言葉を切って、梓は携帯電話を耳に当てたまま、ケーブルが垂れ下がったままむき出しになっている天井を睨んでにっと笑った。「マリナに聞くのよ」




その夜、ホテルの喫茶室に、梓はシャルルを呼び出し、考えた作戦を打ち明けた。
「マリナをあぶり出すためよ」
梓の説得に、彼は対面や見栄など一切気にしないが、やはりマリナに誤解されることを恐れたのだろうか、小さく首を振って拒否の意を示した。そこで梓は、マリナが横浜にいるらしいという情報を彼に与えた。とたんに、顔色を変えるシャルルに、梓は昨日、彼が言っていた『二度と会いたくない人間』が横浜の男であることを確認する。
マリナの昔の男というところだろうか? それをあえて追求したいとは思わない。目の前のシャルルは、激しい屈辱とそれに打ち勝とうとする愛情とで、必死に戦っているように見えた。顔は白く見えるほどに青ざめ、目尻から青灰色の瞳に向かって稲妻のように血走り、顎はかすかに震えていた。
「もういい。パリに帰る」
自分の殻を脱ぎ捨てるように、傷ついた心を隠そうともせず、小さな声でつぶやいたシャルルに、梓は寸暇を開けずにいった。
「アルディ。最近私、思うの。あの時ああしていればよかったなぁって。前の結婚についてもそう。もっと夫を理解するようにしていればよかった。もっと夫と話をすればよかった。もっと夫の好きなことを一緒にやればよかった。でも、時は戻せない。タイムマシンはないから、誰も時間だけは戻せないのよ。後悔することばかり増えていく人生って、辛いわ。一応歳はとっているから、後悔や辛さをごまかす術は覚えているけれどね」
シャルルはこちらをじっと見ていた。そのガラスのような繊細な心に届くように、梓はゆっくりと語りかける。
「私の若い時はもう失われてしまったけれど、私には翔がいる。だから、翔とは後悔のないように付き合っていきたいと思うわ。アルディ。あなたとマリナもまだ何も始まっていないはずよ。私のように歳をとって、関係が壊れてしまってから、後悔しても遅いの。いま目の前にあるチャンスを、自分からどぶに捨てないで」
梓は続ける。
「マリナの気持ちを聞くまでは、あきらめないで。失望は二十四時間営業、絶望は年中無休よ。あきらめることはいつでもできるわ。ベストの結果は後からついてくると信じ切って、できることをすべてやりましょう。それがいまのあなたがとるべきベストの方法よ」
「あきらめるなんて俺の辞書にはないね」
梓は少しほおの緊張を解いて、微笑んだ。
「だったら、話は早いわ、この提案に乗るわね?」
黙り込むシャルルの葛藤に、梓はそっと語りかける。
「大丈夫。もしマリナが私たちの関係について怒っていたら、事情を説明すればいいだけよ。誤解するってことは、脈があるってことだもの。というよりも、そうやって彼女が出て来てくれることを期待しているんだけどね。つまり、湖に網を下ろして、魚がかかるのを待つ漁夫の気分?」
一瞬黙って梓を睨んだシャルルは、すぐにほうっと全身から力を抜いて、ソファにもたれた。
「君は思ったより怖い女だったんだな」
不思議だ。松井氏が「女」といった時にはカチンとしたのに、シャルルがいうと、ごく自然に聞こえる。なぜだろう。
これはきっと文化の違いだろう。フランス語は、男性と女性では語彙の表現からして違う。母語が違うシャルルは、日本語を完璧に操るとはいえ、独特の優美なイントネーションが彼の日本語にはあり、それが「女」という粗野なワードを、まろやかなものに変えているのだ。
「私が怖い?」
「ああ。とても」
「それはどうも。でも、そんなこと今更よ。だって、モンスターシークレットを追いかけた女だからね。それはアルディ、あなたがこの世で一番よく知っているでしょう」と言ってから、梓は人差し指を立て口の前にかざした。
「こんな私は誰にも内緒よ。私、一応大和撫子で通ってるんだからね」
シャルルは声を立てて笑った。



翌朝発売の週刊誌に、フランスを代表するアルディ公爵家当主と、日本人女性のアバンチュールがスキャンダラスに掲載された。相手女性は、子持ちのバツイチ。二人が腕を組んでホテルに入っていく写真が掲載され、派手な見出しで、一夜限りの密会を扇情的に報じていた。これはもちろん梓の企みで、目を隠されたその相手女性は、梓自身だった。



―――――――――――

「おかしいわね」
梓はデスクの上でつぶやいた。目の前には、山のような抗議書。それらはすべて梓に宛てて送られたものだ。週刊誌発売から三日。目を隠していたとはいえ、貴族当主のアバンチュールの相手が眉村梓であることはどこからともなく露見したらしく、「いい歳のくせに!」「恥をしれ!」などといった罵倒の言葉とともに、抗議書が毎日送られてくるのだ。
梓はそれらを丁寧に開封して、校閲チェックをする。手書きで字の汚いものは真っ先に捨てる。誤字脱字ももってのほか。文章力がちょっとはあるなと思うものはとっておくことにして、他はすべて折りじわを伸ばして、裁断機で四つに切る。そうして形を整えてから、てっぺんに水糊をたっぷりとつけて、クリップで止め、丸一日乾かしておけば、立派なメモ帳の完成だ。
向こう一ヶ月分のメモ帳を作り終わったところで、梓は嘆息する。色々と世間からの反応があるのはいいが、肝心のマリナが出てこないのだ。梓のところにも、シャルルのところにもやってこない。せっかく彼の滞在ホテルがわかるような写真を週刊誌に載せたのに、これでは意味がない。なお、シャルルは週刊誌に掲載されたあまりの美麗さににわかファンが恐ろしい勢いで生まれ、その連中がホテルの周囲を四六時中うろついているため、ホテルに缶詰になってしまった。
電話でシャルルに連絡をとった。
「マリナからの連絡は?」
「ない」
「そう」梓はあえて暗くならないように答えた。「でもそのうちに連絡がくるわ。そうしたら私にも知らせてね」
「ああ。そうだな」
シャルルはさからおうとはしなかった。声にも失望も絶望もない。けれど、だんだんと口調の中に虚無感が漂うになってきた。梓は彼が、自らの内部に閉じこもり、外界とシャッターを下ろし始めたことを察した。千鳥が淵で屈辱を受けたシャルルの忍耐は、すでに限界を突破していたのだろう。
「きっと来るわ。だから待ちましょう」
そんなことしか言えない自分が、梓はもどかしく、情けなかった。
しかしマリナからの連絡はどこにも入らないまま、さらに二日が経ち、シャルルが離日する日を迎えた。ホテルを取り巻くファンから逃れるため、シャルルはホテルの地下駐車場からハイヤーで出発した。もちろん梓も彼を見送るために、出版社を出て電車で成田空港に向かった。
エールフランスの出発ロビー。ファーストクラス専用エントランスで、シャルルに会った。
「ごめんなさい。なんの役にも立てなかった」
梓が頭を下げると、その梓のほおに大きなあたたかい手がすっと差し伸べられた。目をあげると、微笑むシャルルがこちらを見ていた。
「ありがとう。君に感謝する」
梓は夢中で首を横に振った。シャルルはすばやく梓の手をとり、力任せに彼女を引き寄せて、唇にキスをした。それはほんの一瞬のことで、梓は驚き、息を飲んだ。
梓がうろたえている間に、シャルルは笑顔を残して、颯爽と手荷物検査場に入っていった。梓は慌てて追いかけて、ゲートの向こう、人混みに消えそうなシャルルの後ろ姿を見つける。
「私はあきらめないわ」周りの客らが梓を見たが、構わず叫ぶ。「必ずマリナを見つけるから、そうしたらまた日本に来て、絶対よ」
彼の背中は、もう見えなかった。



梓は屋上の展望デッキに向かった。シャルルの便が離陸するまで一時間ほどある。その間、離着陸する飛行機をずっと見送っていた。風に桜の匂いがしたので、見渡すと、滑走路の端に桜の木があるのが小さく見えた。
やがてシャルルの乗った飛行機が滑走路に向かう番になった。エールフランスと胴体に大きく書いてあるので、すぐにわかる。シャルルはファーストクラスだから、機首近くだろう。見ていないかもしれないが、梓は大きく両手を振った。飛行機は滑走路に入って、ゆっくりと走りだし、爆音を立てて飛び立った。
その姿が青空に溶けて行くまで、梓は手を振っていた。
「あーあ、行っちゃった」
と、思わずひとりごとをつぶやいたその直後だった。
「帰ったわね。よかった」
と、梓の背後で女性の声が聞こえた。耳馴染みのある声だった。バッと振り向くと、そこには数日前に千鳥ヶ淵で会った時とそっくり同じ姿をした池田マリナが立っていた。癖のある髪が顔にかかっている。化粧気はまるでない。ほっとしたような表情。
梓はあとずさりをしながら、
「あああ、あなた、どうして?」
マリナは肩をすくめて、大したことじゃないという顔をした。
「あたし、ずっとあなたのあとをつけてたのよ。気づかなかった?」
「私のあとを? どうしてそんなことを?」
「シャルルがいつ帰国するのか、知りたかったから」
そういうと、マリナは梓の横の柵にもたれかかって、空を仰いだ。どういうことかまるでわからず、梓は混乱する。
「あなた、いままでどこにいたの?」
「家よ。飯田橋のアパート」
梓は驚いた。
「アルディを千鳥が淵でまいたあとは、どこかに逃げてしまったんでしょう? アルディがあなたの部屋の中を捜索したのよ。でもいなかったって」
「確かにあのあとすぐには帰らなかったわ。シャルルが来そうな気がしたから。やっぱり来たのね。予想通り。それで、そのあと、シャルルはまたうちのアパートを確かめに来たのかしら?」
「たぶん、行っていないと思うわ。ここ数日はホテルに缶詰だったし」
「ああ、あの週刊誌ね。びっくりしちゃった。梓さんもすごいことをやるんだもの。でも、あんな記事、嘘だってわかるもの」
「どうしてわかるの?」
「だって梓さん、最初にあたしをシャルルの元に誘いにきたじゃない。どうしてその人がシャルルと変な関係にあるのよ? それってつじつまが合わないわ。それにあたし、こういってはなんだけど、人を見る目だけはあるのよ。だから、梓さんには絶対に別の意図があるんだってわかったの」
「そうか。完敗。でも、家にいたなんてね。ああ、灯台もとくらしとはこのことだわ」
額に手をおいてうなだれる梓に、マリナはクスッと笑う。
「人間は一度調べた場所を、もう一度調べようと思わないものよ。あたし、前に北海道で殺人事件に巻き込まれたことがあるんだけど、その時、ミーシャって男の子が礼拝堂の二階に忍んでいたの。でも、その二階は一度調べた場所だから、みんなまさかそんなところに誰か隠れているとは思わずに、彼は潜伏できたってわけ。今回はそれを応用させてもらったわ」
「なるほど……じゃあ、横浜にいなかったのね?」
マリナは驚いたとばかりに、目を白黒させた。
「ええっ? 横浜って、まさか和矢のこと? いやだ、梓さんがどうして和矢のことを知っているの?」
「いえ、何も知らないんだけど」
ひとまず、あなたを探して、松井さんに、あなたの知り合いを訊ねた、とだけ説明した。シャルルの言葉『二度と会いたくない人間』は胸にしまって。
「松井さんか、そういえば和矢と面識があったわね」マリナは納得してくれたようで、「でも、和矢は関係ないわ。というよりも、彼はいま日本にいないし」
「どこにいるの?」
「アメリカのマサチューセッツ大学。宇宙飛行士になるために勉強しているの。あっちで金髪の彼女までつくって、アメリカ生活をエンジョイしているわ」
つまり、横浜の男は、まったく関係ないということだ。
梓は気の抜けた思いで、くらくらしながら、マリナを見やる。
「だったら、あなたはどうしてアルディを千鳥ヶ淵で置き去りにしたの?」
「あたしから卒業してほしかったからよ。漫画も売れない。部屋も汚い。太っちょでチビでブス。こんなさえないあたしのことなんかとっとと忘れて、広い世界で華々しく活躍してほしいの。フランスの誇る大天才らしくね。あたしはそんなシャルルが見たいわ」
そういって微笑むマリナは、丸みのある桜色のほおがぷくりとして、それが余計に寂しそうだった。風になびいた髪が、口に一筋二筋はりついては、また飛ばされる。
「好きなのね、彼のこと」
梓の横でマリナは、柵を持ったまま小さくうなずいた。
それは万感の思いを込めた返事だと、梓は思った。
「でも、これでいいの?」
「いいの」
「後悔しない?」
マリナは下を向いたまま、はっきりとした声で答える。
「たぶん、後悔すると思う」
「だったら」
と言いかけた梓の言葉を、マリナが遮って話し出した。
「あたしはこの選択をした自分を間違っているとは思わないわ。もしこの先、辛くなって後悔したとしても、やり直したいとは思わない。だって、それはいまのあたしを否定しているってことになるでしょう? もちろん、どうしてそうなったのかを考えて、これからはそうならないようにと、反省も成長もしていかなきゃならないけれど、そういうことに気をとられすぎて、肝心なことを見失ってはいけないのよ。
みんな、いつも何かを選択して生きている。でも、自分の選んだ道は自分自身がいちばん愛してあげなきゃあいけないわ。後悔なしの人生がほしいなら、それがいちばん近道だと、あたしは思うのよ」
言い終えてから、マリナは再び滑走路に視線を戻して、もう数分も前に飛びたってしまったシャルルの飛行機に向かってだろう、空をかき混ぜるような勢いで手を大きく振った。それから彼女はそろりと手を下ろして、その手を柵にのせて、いった。
「いってらっしゃい」
眩しそうに空を見るマリナの横顔には、大切に培ってきたただ一人への愛情がひしひしと宿っていた。大きな瞳の端には、淡く浮かび上がった涙がかすかにあって、その透明な盛り上がりが、平凡な彼女の容貌を包み込み、際立って注意を惹くものに変えていた。幼い女性だと思った自分の眼を悔やむほどの、立派な大人の女性の顔であった。きっと恋愛ってこういうものだ。梓は、長い間忘れていた胸の高鳴りを覚えた。耐えて久しいその高鳴りに、目が初めて開けた赤子のような思いになったのである。
「わかった」梓は自分のうちに生じためまぐるしい思いに嘆息しながら、柵を手に顎をあげてのけぞった。「アルディの活躍はうちの社が全力で報じるわ。だからちゃんとうちの雑誌を買って読んでね」
「あら、見本誌があるでしょう。それ、ちょうだいっ」
「けち臭い」
「あたしは貧乏なの。見本誌を持って来てくれるときに、ついでに差し入れなんかしてくれると、すごくしあわせっ!」
梓は思わず噴き出した。マリナは最初きょとんとした顔をしたが、梓があんまり笑うので、そのうち一緒に笑い出した。しなやかで強い子だ。こういう子がアルディのそばにいてくれたらいいのに、と心の底から残念に思う。
と、そのとき、後ろから聞き慣れた声がかかった。例のまろやかなフランスなまりの日本語だ。
「盛り上がっているところを悪いが、ただいま」
梓もマリナもネジかけの人形みたいに、激しく振り返った。そして息を飲む。
「シャルル!」
マリナは手で口を覆った。顔がたちまち真っ赤になり、大きな目がこぼれ落ちそうに見開かれる。
「あんた、どうして?」
シャルルはゆっくりと歩いて梓たちに近づいてきた。
「空港で君の姿を見かけたから、キャンセルした。マダム・眉村の周囲を張っていたら姿を表すだろうと考えた」
マリナはぐっと黙り込む。シャルルは彼女の真正面に立った。
「マダム・眉村から聞いたかもしれないが」と前置きをしてから、シャルルはいった。「フランスで今年の夏、俺の開発したロケットの打ち上げがある。目的地は月。一緒に乗らないか?」
「月?」マリナは恐る恐るという風情で、シャルルに視線を合わせた。
「ああ」
「あたし、いかない」
シャルルはちっとも残念そうな様子はなく、やわらかに苦笑をした。
「そうか。ということは、ロケット計画自体が取りやめだな」
「どうしてよ? ロケット、飛ばせはいいじゃない。あたしなんかに関係なく」
「実は、君のDNAを発射システムに埋め込んであるんだ。だから、君が乗り込んで、髪の毛なり唾液なり、君のDNAがロケット内で提供されないと、ロケットは発射できない」
マリナも梓も、唖然とする。そんな。藁人形じゃあるまいし、三年前にマリナのDNAを勝手に採取していたというのだろうか。それはかなり怖い。
「なによ、それ! 勝手にそんなことして、冗談じゃないわ。あたしはロケットなんて乗らないわよ。絶対に!」案の定、マリナは怒った。
「別にいいよ。そうしたら、フランス国内で俺の名誉もガタ落ちになって、俺の仕事が減るだけだ。たぶん、オートエコール所長も解任になるし、内閣府の委員ももちろん首。アルディ家の当主資格も剥奪されてマルグリット島に送られるな」
「マママ、マルグリット島?」
「そりゃ、そうだろ。ロケットは国家予算並みのビックプロジェクトだぜ? それが失敗するんだ。仕事は失敗したら責任を取らなきゃならない。社会の常識だろ? わかるよね、三流まんが家のマリナちゃん?」
見ているのがかわいそうなほど、マリナは青ざめてしまった。シャルルが活躍することを思って、身を引こうとした彼女だ。梓はシャルルの意地悪さに、やれやれと思いつつ、成り行きを見守ることにする。
ややして、マリナが絞り出すような声でいった。
「行くわよ。ロケットに乗ってやる!」
ところが、シャルルの意地悪は止まらない。
「そう。だったら、その体験記をまんがにしたらいいんじゃないか? 世界広しといえど、ロケットに乗ったことのあるまんが家なんて、マリナちゃん以外にいないぜ。その赤裸々な体験記を面白おかしく漫画にしたら、絶対に売れるぜ。たちまち一流まんが家の仲間入りだ」
シャルルの提案に、屈辱にまみれていたマリナの顔が一気に輝いた。
「きゃあ、そうね、そうする!」
「――あ、でも。やっぱりロケットの最終仕上げをやめようかな」
と、マリナの興奮に水をさすように、シャルルは彼女に背中を向けた。
「なんでよ、シャルル!?」
「千鳥ヶ淵で殴られた顔がまだ痛いから、パリの家に帰ってカプセルで眠ることにする」
そういって、展望デッキの出口に向かおうとするシャルルの腕を、マリナがむんずとつかんだ。
「謝るから! ごめんなさい。あたしが悪かった! あんたのいうことをなんでも聞くから、だからロケットが飛べるようにしてちょうだい!」
半顔で振り返ったシャルルは、それはもう、見ているだけでときめくようなあでやかな顔で笑った。
「い・や・だ・ね!」
シャルルはマリナの腕を振り払って歩き出し、マリナは大声をあげて彼のあとを追いかけた。騒々しいその声を聞きながら、梓は柵にもたれた。瞼を閉じると、千鳥が淵の桜を思い出す。
昨夜降った雨で、ほとんどは散ってしまっただろうが、まだ少しは残っているはずだ。帰ったら、千鳥ヶ淵に出かけてみよう。
一度は遠かった二人の声がまた近づいてきた。追いかけっこが展望デッキに移ったらしい。目を開けると、華麗にマリナの手をかわしながら、子供のような顔を見せるシャルルがいた。
アルディ、あなたはこんな顔もできるのね。素敵よ。
いつの間にか、梓は男について垂直の壁を作っていたことに気づいた。離婚以来、育児と仕事で毎日が矢のようにすぎていって、心を振り返る暇さえなかった。そうするうちに、傷ついた自分自身を置き去りにしてきた。翔を守ることだけで精一杯だった。
でも、いま目の前でじゃれ合う二人を見ながら、梓は無性に恋愛がしたいと思った。たとえまた後悔してもかまわない。私だってまだまだこれから! 思いっきり恋をして、来年の舞い散る桜は愛する人と眺めたい。
「しつこい。ロケットはやめるといったらやめるんだ」
「ダメ、絶対飛ばして!」
「俺のことをどう思っているか、正直にいってくれたら考えてもいい」
「ウッ。ぐぐぐ……卑怯者! 男の風上にもおけないわ。だいたいあんたって昔から人の話を聞かないところがあるわよね。そういうところは直した方がいいと思うわよ。なに? これが俺だって? いい歳して自分を変えられないなんていうんじゃない! だったら君が俺を変えろですって? どうしてそういう方向にすぐに話をもっていくのよっ。梓さんっ、お願い、助けてぇ。シャルルがひどいの、いうことが無茶苦茶なの~っ」
「がんばれ、マリナちゃん」
梓は手を振って声援を送った。花見を終えたら、バツイチ子持ちでもいいという男を探して、熱い恋をしよう。





おわり

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