《ご注意》シャルマリ2次創作。大人向け。
第二十話
パリに戻って三ヶ月後の夕方。オート・エコールで仕事中だったオレは、急な腹痛を覚えて倒れ、市内の病院に搬送された。アルディ家の主治医が間に合わないまま、その病院で激しい吐き下しを繰り返した挙句、そのまま意識を失い、三日後に目覚めた時には自宅のベッドの上にいた。
「一体、どうしたの? なぜ、こんなになるまで放っておいたの?」
シャルロットの顔がオレを覗き込んだ。
「こんなになるって……オレ、どうしたんだい?」
見ると、左腕には点滴の針が刺さっており、点滴スタンドには、輸液と抗生剤の二種類のパックが連結されていた。
「胃潰瘍ができているのよ。腸炎も起こしているって。最近、食が細くなってきたと思っていたら、そのせいだったのね」
「オレが胃潰瘍?」
「そうよ。仕事量を減らしてってあれだけ言っていたじゃないの」
オレは自分の体を見下ろして、ほっと息をついた。そうか、胃潰瘍か。
「そんなつもりはなかったけどなぁ」
とたん、シャルロットの厳しい声が飛ぶ。
「お医者様がそういうんだから、間違いないわよ」
「でも、オレも医者だぜ」
「なら、出来損ないの医者ね。自己管理もできないなんて」
「ひどいいわれようだな」
「当然よ。このポンコツ」
いいながら、シャルロットは腕を組んで顔を背けた。そのほおが赤く染まっていた。オレは手を伸ばして、彼女のほおをそっと撫でた。
「悪かったよ。心配かけて」
ゆっくりとシャルロットが振り返った。
「そうよ。本当にもう、心配したんだから……もし、このまま目が覚めなかったらどうしようって」
「そんなことあるわけないだろ。胃潰瘍で」
「それぐらい心配だったって意味よ! ばか!」
シャルロットは泣きながらオレの胸にすがった。そんな彼女の頭を、オレは優しくなでた。
「ごめん。本当に悪かったよ。これからは無理しない。きちんと静養をとって体を治すから、勘弁してほしい」
シャルロットは涙に濡れた顔を上げた。
「本当に? 約束してくれる?」
オレは微笑みながらうなずく。
「約束する」
ようやくシャルロットの顔に笑みが戻った。彼女は恥ずかしそうに、濡れたほおを手の甲でぬぐうと、すっくと立ち上がり、扉の方を振り返っていった。
「子供達も心配しているのよ。お部屋にいれていいかしら?」
もちろんかまわない、とオレは了承し、シャルロットが二度手を部屋の外に向かってパンパンと打つ。すると、扉が弾かれたように開き、ピンクのワンピースを着たエロイーズが風のように飛び込んできた。
「パパ! パパ、パパ!」
オレは起き上がって彼女を迎えようとした――が、猛烈なむかつきを覚えて起き上がれない。その間にエロイーズは到着し、横たわるオレにすがりついた。
「パパァ……」
大きな目に涙をいっぱいにためたエロイーズが愛しくて、彼女のほおを指先でなぞりながら、大丈夫だよをオレは繰り返した。乳母からサミュエルを受け取ったシャルロットがそばに来て、「そうよ。パパはもう大丈夫」と励ました。
ふっと気がつくと、エロイーズの金の髪の上に木漏れ日が落ちていた。ああ、今日は晴れているんだな、オレは思った。
だが、胃潰瘍の治療をしても、吐き下しが止まることはなく、オレはみるみる痩せていった。真水を飲むのもつらく、ごく薄いコンソメスープをすするのが精一杯。あとは何も食べられない日々が続いた。
体を動かすのは、トイレとバスのみで、残りの時間はひたすらベッドで仰臥するしかできず、体力がおちていくのが自分でよくわかるのだ。動こうと思っても手足に石の枷を装着されたように、体が重く、動けないのである。
オレは母の部屋に移り、そこで集中的に静養することにした。
オート・エコールには休職届を出し、パリ市警に当分鑑定医の仕事はできないと断りを入れた。アルディ家の当主代理としてルパートを指名して、内外の実務を頼んだ。
シャルロットは、子供たちの世話を一手に引きつけつつ、できる範囲で、オレの看護をした。エロイーズは「パパがよくなりますように」といって枕元で絵本をよんでくれたり、お気に入りのピンクのおもちゃをオレの枕元に並べてくれたりした。
オレはそんな彼らのためにも、一日も早く治りたいと願った。
「ごめん、迷惑をかけて」
オレが謝ると、シャルロットは聖母のようにいってくれる。
「いいのよ。病気は仕方がないわ」
慈悲深い声をかけられればかけられるほど、自分が情けなくて、懸命に食べようとした。しかし、そうすると、たちどころに吐いてしまい、食べる前よりも一層衰弱するのだった。やがて目眩、動悸、息切れがはじまり……シャルロットがやさしい言葉をかけてくれても、反応することが億劫になっていった。表情がなくなり、辛そうに寝てばかりのオレの部屋に、シャルロットは子供達を連れてこなくなった。
だが、エロイーズは母親の目を盗んで、よくオレの部屋にやってきた。
「パパァ、起っきしてる?」
ドアを恐る恐る開けて、その隙間からオレの様子を伺ってくる彼女がかわいくて、オレはだるくても微笑んでしまう。
「大丈夫だよ。こちらにおいで」
エロイーズは嬉しそうに、ぴょこぴょこと走ってオレの元に駆け寄ってきた。そしてベッドの上に寝そべって、伏したままのオレに顔を突き合わせた。
「パパ、いつ元気になる?」
「うーん、いつかな。エロイーズはパパに元気になって欲しい?」
「うん。パパとムースしたい!」
「ハハハ。君の目的はそれか。単純だなぁ。じゃあ、ムース以外のパパはいらない?」
「お土産! ピンク!」
「まだ恨んでるのか。そのうち買いに行ってあげるといっただろう?」
「ブー、ブー」
エロイーズは、ベッドに頬杖をついて、拗ねた顔をしながら、首を左右に振った。オレは彼女の顔の前に手のひらをかざした。
「約束。ほら、パパの手に手を合わせてごらん」
人形の手のようなエロイーズのかわいい手に、オレは指を絡めて、キュッと握りしめた。
「パパの手、冷たい」
エロイーズの瞳は、生まれたときは淡いグレーだったのに、いまはオレそっくりのブルーグレーになっていた。深い二重まぶたの下に、長い睫毛があり、その影を含んだ青灰色の瞳は、時々どきっとするほど美しい。
「病気が治ったら、パパはエロイーズとピンクを買いに行きます。――君とパパのつながりが真実であるように、この約束も真実となるように」
いいながら娘を強く抱きしめると、エロイーズは「キャハハ、苦しい」と笑いながら身をよじった。
そして、満足したように、「じゃあね、パパ」といって、来た時と同じようにこっそりと出て行った。
それは十一月とも思えない蒸し暑い夜だった。シャルロットは子供達を連れて、実家に帰った。コンデ家で行なわれる晩餐会に出席するためである。
「でもあなたがこんな状態なのに、私はいけないわよ」
シャルロットはオレを気遣い、最初は欠席するといっていたのだが、オレが行くように促したのだ。オレの病気のせいで、彼女も家に閉じこもりがちになって、疲れが蓄積していた。そうはいわないが、顔色が悪く、言葉数も少なくなっていた。
「いっておいで。コンデ侯爵にもぜひよろしく伝えてくれ。オレがこんなことになって心配をかけているだろうから」
「……そう?」
「ああ。子供達も連れていってあげて。きっと喜ぶよ」
コンデ侯爵の後妻が生んだ息子アベルは、今年で5歳になる。エロイーズたちにとっては叔父だ。
「そうね」シャルロットは弾んだ様子を見せた。「こないだアベルはまた入院したっていっていたものね。心配だし、顔が見たいからいってくるわ。ジャネットの顔は見たくないけど」
ジャネットとは父親の後妻のことで、シャルロットと彼女はひどく仲が悪いのだ。その後妻がいる家で羽を伸ばせというのは無理だろうが、今日は特別だ。
華やかな晩餐会での着飾った人々とダンスは、彼女の気を引き立て、リフレッシュさせてくれるだろう。元来のシャルロットは派手好きな女なのだから。
シャルロット達は出発し、彼女の命令で、ジルがオレの看護をするために部屋にやってきた。
「少し風を入れましょうか? こんな気持ちのいい風は今年最後かもしれませんわよ。厳しいパリの冬はすぐそこにやってきていますから」
といいながら、ジルは窓を押し開けた。
ボイルカーテンがふわっと巻き上がり、緑の匂いがする夜風が部屋を吹き抜けた。
オレは眼を細める。怠さがわずかに和らいだ。
「確かに気持ちいいな」
「そうでしょう。さあ、体も起こしてください。寝てばかりだと、腰を痛めますわよ」
いいながら、ジルはオレの体を支えて、起き上がらせた。枕を腰とヘッドボードの間にさっと差し込んで固定する。
「それは困る。腰は男の命だ。もっと違うことで使いたい」
ジルがニヤッと笑った。
「それだけ下品なことがいえるのであれば、大丈夫ですわね」
「ちえ。君は昔からからかい甲斐がないよな。何をいっても型通りの答えしか返ってこなくて、たまに焦れるよ」
「ほめ言葉として受け取っておきます」
ジルは笑いながらそういうと、ベッドサイドのワゴンへ行き、ポットからカップへコンソメスープを注いだ。風に負けない旨味溢れる香りが広がる。
彼女はそれにスプーンを添え、オレの枕辺にあるテーブルに置いた。
「どうぞ――ところで今夜はお聞きしたいことがあったのですが」
オレはカップを取った。
「ん? なんだい?」
「あなたはとっくにご自分の病気がなんであるか、お分かりなのでしょう? 胃潰瘍なんて完全な誤診。本当はバーンアウト症候群の再発」
「なぜ、そう思うんだい?」
「7年前と症状が同じだからです。胃潰瘍の治療と並行して、精神科の治療も行わなければ寛解は見込めません。それなのに、なぜ、適切な治療をしようとしないのですか?」
オレはスプーンで、カップをかき混ぜた。コックが腕によりをかけたスープの匂いが、今はたまらなく気持ち悪い。
「ジル、君は失恋とはどういう意味だと思う?」
「は? それはもちろん、恋をした相手に思いが通じないことでは?」
「オレもそう思っていた。ところが違った。本当の失恋とは、恋する相手と相思相愛になりながら、その恋に自ら終止符を打つことだったんだよ」
オレは、三ヶ月前にマリナとの間であった全てのことを打ち明けた。ジルは驚いた顔をしながらも黙って耳を傾けていた。
やがて話し終わると、彼女は辛そうに小さなため息を吐いて、
「では、マリナさんはあなたを愛しているのですね?」
オレは黙って頷いた。
「なんという……」
ジルは声を詰まらせた。
「そうですわ。私はあなたが体調管理が悪くて倒れたなどと信じていませんでした。7年前のバーンアウト症候群の再発だとしても、おかしいと思っていた――だってあなたは天才です。あなたであれば、バーンアウト症候群を再発しないために、自己改造しているはず。なのに、再発した。それはあなたの予想を裏切る事態が起こったからです」
「いうね、ジル」
「いいますわ。いわせてください。あなたは頑張りすぎたのです。あなたはシャルロットの良い夫であろうとした、子供達の良い父親であろうとした。あなたはマリナさんへの愛情を押し隠して、家族への献身を決めた。けれど、家族関係というものは、終わりがありません。家族はずっと愛情を求め続けます。いつでもどんな時も。そんなシャルロット達の相手をすることに、あなたの精神は疲労し、限界を迎えてしまったのです。どうかそんな自分を認めてください。あなたは確かに天才ですが、神ではない、血も涙も流す人間なのですよ」
オレは、スープを一口飲んでから、ジルを見た。非難と憐れみを孕んだジルの顔は、壮絶なほどに美しく、そんな彼女を美しいと思えば思うほど、オレは自分が傷ついていくのを感じた。
内臓も心臓も三半規管も、オレの意志では何一つ自由に動かないのに、同じ体内に存在する脳だけは、本来のオレらしく、自尊心より屈辱より、美しいものを最高として崇めようとする。
オレは、最上の美を持ってオレを打ちのめしたジルに平伏することを自分に許した。
「ああ、そんな顔をするんじゃないよ。わかっている。オレが弱いんだ。もっと強ければいいだけだよ。ジル。オレは家族を捨てる気はない。だから、マリナとは何も始めずに別れてきた。カズヤのことから手を引いたのもそのためだ。オレはここで、シャルロットを愛して生きていく」
「でもシャルル」ジルが震え気味の声でいった。「それで本当にいいのですか? あなたは耐えられるですか?」
オレはニッと笑った。
「耐えられなければ、体が先に逝っちまうだけさ。問題ない」
「なんてことを! 縁起でもない」
「ハハハ、冗談だよ。ごめん」
少し言葉が過ぎたなと反省しつつ、オレは窓を仰いだ。風が強くなってきていた。
「すまないが、そろそろ窓を閉めてくれるか? せっかくのスープが台無しだ」
まだ険しい顔をしながら、ジルは窓によって閉めた。窓枠にすがりつくように、ボイルカーテンのはためきが止まった。
「人生はスープと同じだ。熱すぎると舌を火傷するし味もわからない。かといって冷めたら、まずくて飲めたものじゃない。もっとも美味しい時間は、あっという間に過ぎ去ってしまう。まるで白昼夢のように」
ジルは三重になっているすべてのカーテンを下ろした。しばらくオレもジルも黙ってそのまま動かなかった。犬の鳴き声が遠くで聞こえた。
スープをひとさじ掬って口に流し込むと、すっかり冷たくなっていた。
それから一週間後の夜。
ふたたびシャルロットは晩餐会に出かけていた。我がアルディと同格の有力貴族ガール家よりの招待を受けたのだ。先週の実家での晩餐会がよほど楽しかったらしく、今度はオレの承諾もそこそこに、週初めからドレスやアクセサリーの準備にとりかかっていた。彼女が喜ぶなら、それでオレも嬉しかった。病人に付き合って陰気な生活を送ってほしいとは思わない。
母親が幸せであること。それが子供にとって一番の願いなのだから。
エロイーズにはピンクのドレス、サミュエルには小さな燕尾服が新調された。
彼女たちが出発した後、オレの看護のためにジルがやってきた。先週とは違い、今夜は冷え込んでいたので、窓を開けようとは彼女はいわなかった。代わりに、ジルは違うことをいった。
「これをご覧になってくださいませんか?」
そういって、ジルが取り出したのはビデオカメラだった。液晶画面が本体についているタイプの、小型のものである。
「なんの真似だい?」
「いいですから、再生しますので、画面をよく見てください」
ジルが再生ボタンを押すと、一瞬画面にノイズが現れて、それからオレもよく知っている横浜の黒須邸が登場した。サワークリーム色の壁をもつ洋館は特徴的で、間違いない。ただ、どうやら反対側の街路樹の隙間から撮影しているらしく、玄関がわずかに見える程度で、すこぶる視認性は悪かった。
「これは今週の月曜日の朝の光景です。隠し撮りですので、見づらいと思いますが」
そういわれて画面の右上にあるデジタル表示を確認すると、ジルのいった通りの日時になっていた。
隠し撮りだと? なぜそんなことを?
オレの疑問は、直後に答えが与えられた。
画面の黒須邸のドアは開き、スーツ姿の和矢が出てきた。黒い大きなスポーツバックを肩から下げて、靴先を地面に叩きつけている。
あいつ、帰ってきていたのか!
驚くオレの視線の先で、さらに驚く光景が展開された。
「待って、和矢。お弁当!」
ビデオの中からよく通る明るい声がして、マリナが玄関から顔を見せたのである!
小さな手提げのようなものを和矢に渡している。和矢はそれを左手で受け取り、素早く、玄関ポーチを駆け抜けて出ていった。マリナは和矢の消えた方向に手を振ってから、扉を閉めて家の中に消えた。時間にしてほんの数十秒、瞬きするような間の出来事だった。
ジルが停止のボタンを押し、ビデオを自分の胸元に収めた。
「火曜、水曜と撮影してみましたが、ほぼ同じ光景です」
オレは、ジルの声を洞窟の底にいるように聞いていた。
「嘘だろ……マリナは家を出るっていっていたぜ? カズヤのことも連れ戻さないってはっきりといった」
「カズヤさんの勤務先の小学校に確認しましたところ、9月の新学期より、きちんと勤めておられるということです。つまり、シャルル。あなたが帰国した直後、カズヤさんは横浜に帰宅なさったのです」
「……どういうことだ……?」
「わかりません。わかりませんが、シャルル」
ジルはそこで言葉を切った。オレが彼女を見ると、ジルは悲しそうにオレを見つめていた。
「マリナさんとカズヤさんは現在、幸福に暮らしているということです」
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