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Channel: りんごの木の下で
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悲しみも愛の言葉に 16

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第一話の注意事項をよくお目通しください。


16


マリナはシャルルの隣にいき、彼と並んで壁にもたれた。
シャルルは不思議な人だと改めて思う。これほど美形な人は見たことがないし、街中を歩いていたら絶対に目立つはずなのだけど、人混みを挟んでモナリザと向き合う彼は、もともと宮殿だったと言う美術館に溶け込むように馴染んでいた。
そう、まるで絵画の一部。
誰も、シャルルに特別な注視を払っていない。東洋人のマリナの方が目立つくらいだ。
「どれぐらい前からここにいたの?」マリナは尋ねた。
「三十分」
シャルルは前を向いたまま答えた。
「以前のあんたなら怒って帰るところね。忍耐力がついたわね」
とマリナは首を傾げて、シャルルの顔を覗きながら笑った。
シャルルの青灰色の目は依然としてまっすぐ前を見ていた。その先には人の群れとモナリザがある。小さなモナリザに人が集まる様子は、砂糖に集る蟻を思わせた。
「マリナ」
「ん?」
「これから話すことを黙って聞いてくれ」
シャルルは言った。
そして前髪を鬱陶しそうにかきあげた。
あまり楽しくない話題になるだろうことが流石に察せられて、マリナは身構えた。
「い、いいわよ。どうぞ」
シャルルはふっと息をついてから、話し出した。
「成田で君と別れてから、一旦パリに戻り、それからプラハに行った。例の剣がプラハにあるという情報を得たからだ。そこで何があったかは詳しいことは省くが、負傷したオレは記憶障害になって、一人の女性と婚約し、彼女の家で暮らしていた」
今聞いたことが信じられなくて、マリナは耳をこすった。え? 聞き違いじゃなくて?
「婚約? 本当に?」
「ああ。記憶が戻るのがあと二週間遅れていれば、正式に結婚していただろう」
胸がカッと熱くなった。シャルルの悪びれもしない様子に、マリナの自尊心は激しく傷つけられた。
婚約して一緒に暮らしていたということはーーもちろんそういう関係だったということでーーああ、記憶がなかった時のことだから、あたしを覚えていなかったのだから、あたしは許さなければならないというのかしら?
自問自答がさらにマリナを傷つける。こちらを見ようともしないシャルルにも。
怒り、妬み、嫉み、憎しみ……少しでも気をぬくと悪感情に支配されてしまいそうだ。
「つまり、その女性がいるから、あたしとの約束を反故にしたいというわけね?」
マリナは必死で声を押し殺した。理性を総動員する。
シャルルがなぜ話し合いの場所をルーブルの、しかもモナリザの部屋にしたのかわかった。もしアルディ家のサロンだったら、人目がなかったら、マリナは泣き喚いていたかもしれない。
冷静にね、と忠告してくれた美馬の言葉が、内側からマリナの胸を刺す。
彼もこのことを知っていたのだ。
マリナは懸命に怒りを制御する。
「彼女とは別れたよ。記憶がもどったその朝に。以来、二年半会ってない」
と、シャルルは感情の籠らない声で言った。
「彼女は例の剣を収めた城の持ち主でね。その事で彼女はオレをひどく恨んでいたんだ。オレの方はそんなつもりはなかったんだが……モーリスの時と同じだな。自分の言葉が相手を傷つけた自覚がオレには欠如している。オレが記憶障害になったのを知り、彼女は城の権利を敵対するミカエリス家に売り払う一方、弱ったオレを支配して楽しんでいたんだ」
支配する、という言葉にマリナは胸がかきむしられるような嫉妬を感じた。会ったことも見たこともないその女性とシャルルがいやらしく絡み合う姿がリアルに頭に浮かんでしまい、震え上がりながら目をぎゅっとつぶる。
「素直に君に打ち明けて謝ろうと思って日本に行った」
シャルルの話は続いた。
「そうしたら君は和矢と仲良く過ごしていた。君はオレなんか待っていない気がして、パリに戻った」
「そんな」マリナは絶句する。「なんで……ちゃんと話してくれれば」
シャルルは前かがみになって、自嘲的に笑った。
「話して納得できるか? オレは永遠に君だけを愛すると言った。君もその約束を覚えているはずだ、たとえ記憶障害であったにしろ、別の女を受け入れたオレを、君は本当に許せるか?」
痛いところをつかれた。なぜ自分が責められなければならないのか、とマリナは釈然としないながらも、シャルルへの愛を精一杯告白する。
「ゆっ、許すしかないじゃない。だって、あんたが悪いわけじゃないし……」
「なら、オレが触れても」言いながらシャルルはマリナの手を掴んだ。心臓が止まってしまうのではないかと思うほどドキッとした。
恋? 触れられて嬉しい? 
いや、ゾッとするこの感覚は違う。
「オレとキスできるか? オレとベッドを共にできるか?」
掴まれた手を引き寄せられて、胸の中に招かれそうになり、思わずマリナは彼の手を振り払った。
ハッとする。
シャルルは卑屈そうに微笑んだ。
「その顔ーーその顔を見たくなかったんだよ」
マリナは両手で顔をこすった。
「あんたはそれで和矢がどーのこーのなんて言ったの?」
シャルルは静かに否定する。
「和矢のことで、君に腹を立てたのは事実だよ」
「でもそれだけじゃあないでしょう?」
「他に何があると?」
とシャルルは尋ねた。
声がいつもより低かった。マリナは手を握りしめた。シャルルが向けてくる拒絶の空気に飲み込まれてしまいそうで、懸命に自分を鼓舞する。
「あたしをわざと怒らせて、帰国させようとしたのよ。あんた、本当は、そのプラハの女性が忘れられないんじゃないの⁉」
「馬鹿なことをいうな」
「だって、そうまでしてあたしを遠ざけたい理由って何なのよ?」
「プラハとは関係ない」
「そうは思えない。絶対プラハよ」
「うがち過ぎだ。プラハのことは二度と口にするな」
シャルルはイライラしているようだった。深い灰色の瞳を眩しそうに細めている。右手の親指と人差し指を擦り合わせて、パチパチ鳴らしていた。
「じゃあただあたしが嫌いになっただけ?」
シャルルは答えない。
「それとも、浮気者って怒られるのが嫌だった? プライドにさわる? そうよねー。永遠に愛するっていった舌の根も乾かないうちに他の人と婚約したなんて、漫画の世界みたい」
「!」
怒気を孕んだ眼差しで振り向いたシャルルに向けて、
「卑怯よ!」
とマリナは大声で怒鳴った。周囲の目が集まるが、もはや声を押さえていられなかった。
「婚約したことを卑怯だといってるんじゃないわ。記憶がもどってから連絡をしてくれなかったことよ。あたしがどんな思いで三年間待っていたと思うの⁉ もしかして死んじゃったりしてるんじゃないかって心配で、でも誰に聞いても分からなくて……不安で不安で。明日から行方不明になってあげようか。そうしたらあたしの気持ちがわかるかもよ、ふんっ!」
言いながらマリナは涙ぐんでいた。鼻を啜り上げる。
「やめてくれよ」シャルルは顔を歪ませた。「そんな取引みたいなことは嫌いだ」
「だってそうでもしないと、あたしの気持ちなんてあんたはわからないわ」
「君の気持ちはわかるよ」
言ってシャルルは目を背けた。
「わかってない!」
マリナはここがどこかも、もう忘れていた。
「……婚約が何よ。プラハの女だろうがマルサの女だろうが、どんとこいよ」
シャルルは悲しみに満ちた青灰色の目をマリナに向けた。
「それより何よりあたしはあんたが生きていてくれたことが嬉しい」
「マリナ」
「何より嬉しいのよ……!」
マリナは思いっきりシャルルに抱きついた。背の低い彼女は、シャルルの胴回りにしがみつく形である。薄いシャツ越しのシャルルの体は、少しだけ熱かった。強い花の香りがする。
この体に触れた女性がいる。
この体を毎日我がものにしてーー
「本音を聞かせて。今でもあたしのこと好き?」
シャルルはマリナを攫うようにかき抱いた。
そして、血を吐くように言った。
「愛してる。君だけだ」
息をするのが苦しいほどキツく抱きしめられて、マリナは彼の胸に頬ずりした。
胸が熱くて切なくて。幸福に酔いそうだった。
「それならいい」マリナは吐息と共に囁いた。「許してあげる」
嫌だけど受け入れていくしかない。
好きだから。大好きだから。
別れたいなんてどうしても思えない!
シャルルは「愛してる」と言ってくれた。情熱的に吐き出されたその言葉は心の傷を優しく修復した。
ーーけれど。
と、マリナはシャルルの胸の中で奥歯を噛み締める。
シャルルはけしてプラハの三ヶ月を忘れないだろう。愛の所在に関係なく、正常ならばシャルルは経験したすべてを記憶する知能の持ち主だからだ。
記憶がなかった時のことまで責めたくない。シャルルが無事ならそれだけでいい。こうして彼の体温を感じられる日をどれだけ待ち望んだことか。
辛かった三年間が彼女を大胆かつ情熱的にした。顔も知らぬプラハの女への妬みが、胸の高鳴りに加勢したことは言うまでもない。
勝ちたい。
プラハの女を脳の機能的に忘れられないなら、上書きするしかない。
彼にすべてを捧げる日はどうせいつか来る。
この三年間、華麗の館で彼に抱かれていれば良かったと何度も思った。今更ためらうことはない。
マリナは決心していった。「ねぇシャルル」
「なに?」
シャルルの声は優しい。
勇気を出してその言葉を口にする。
「あたしをあんたのものにして。今すぐに」
シャルルはビクッと震え、直後マリナの肩を掴んで引き離した。透き通るように美しいブルーグレーの瞳に、思い詰めた顔をした自分が映っていた。




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