Quantcast
Channel: りんごの木の下で
Viewing all articles
Browse latest Browse all 577

悲しみも愛の言葉に 19

$
0
0
第一話の注意事項をお目通しください。


19


パリ、アルディ家。
pm1:00

 ノックの音。応じると、音を立てずにドアが開いてマドモアゼル・ヒスが入ってくる。
「シャルル様。お仕事の時間でございます」
「ああわかっているよ」
「昨日は急なキャンセルでしたので、お仕事が溜まっております。お覚悟を」
「おいおい。怖いな」
「無断欠勤の罪ですわ」
 痛いところを突かれて、シャルルは苦笑することしかできない。マリナとともに夜を過ごして、アルディにーーマドモアゼル・ヒスに今日は休むと連絡を入れようかと思ったのだが、なんとなく気が削がれた。なぜ?と聞かれれば答えにくいし、聞かれなくても勝手にあて推量されているようで嫌な感じがする。
 それで結局連絡せず逃げた。
「それにしても」
 いつものバインダーを胸に抱えながら、マドモアゼル・ヒスが静かにシャルルを見下ろした。まるで標本箱に磔になった蝶を観察するような感情のこもらない目だ。
「シャルル様がこの屋敷をお出になるとは驚きました。いえーーもちろん足があるのですからお出になれるでしょうけれど、シャルル様は出かけないと思っておりました」
「まあ、ね」
 また痛いところを突かれる。本当に胸が痛い気がしてきて、右ひじをデスクについて、その手の平でほおを支えた。
「出る気はなかったんだけど、ちょっと野暮用で」
「その理由について問いただす気はございませんけれど、早速、多くの面会客が訪れております」
「何人だ?」
「300名ほど」
 シャルルは背もたれにもたれ、口笛をぴゅうっと吹いた。
 幼少時からシャルルに面会を求めてくる人間は多かった。プラハから帰宅後、家の中で潜伏していたのは、そういった面会客を寄せ付けないようにするためでもあった。誰からも身を隠し、すべての人の目を逃れて生きていたいという強烈な欲望がシャルルを支配していた。
 クリームヒルトとの婚約。ミカエリスに一旦奪われた聖剣。
 記憶のないままに行った自分の行動が、罪悪感と恥辱と絡み合い、シャルルのプライドに真っ赤な血を流すほどの深い傷を負わせていたのである。
「午後三時から面会開始です」
「世の中暇人が多いらしいな。オレになんの用事があるというんだ」
「さあ、存じません」
「よくオレがパリに戻っているとみんな知っているな」
「昨日、よっぽど目立つ行動をされたのでは?」
 ルーブルやセーヌ河岸を歩くことが目立つことなのかと、自問自答してみる。観光客のるつぼといっていい場所だ。目立つか? テレビに出たわけでもない。ただ歩いていただけである。
 マリナと歩いていたからかな、とシャルルは思った。喜びが顔に出ていたのだろうか。そう思うと悔しいような、くすぐったいような。
 サングラスでもかければよかったかとも思うが、そんなことをしてマリナに変なふうに思われたくなかった。彼女は日陰の恋人ではない。
「日本に行きたい。時間の調整を頼む」
 早くマリナに会いたい。別れたばかりなのに、もう我慢ができなくなっている。こんな有様でよく二年半も会わずにすんだものだと思う。
「面会のお客様をさばいてからです」
「300人以上増えないだろうな」
「さあ」
 マドモアゼル・ヒスの声は冷淡だった。



***


 美馬は、タクシーで自宅まで送ってくれた。
 数日ぶりのアパートは空気が淀んでいて、窓を開けて空気の入れ替えをする。十一月末の冷涼な風が入り込んで、寒いけれど気持ちがいい。
 小腹が空いたので、お湯を沸かしてカップラーメンに注いでから、お茶も入れた。それから窓を閉め、ラーメンを食べた。
 シャルルは今頃何を食べているのかな。アルディ家の晩餐を思い出した。夕食は必ずシャルル指定のメニュゥが並ぶ。豪華絢爛な食事を思うと、美味しいと思っていたラーメンが悲しい味になってきた。
 ここでマリナは時差のことを思い出した。パリはまだ午か。だったら素敵なスイーツとコーヒーだろうか。たっぷりとイチゴの乗ったケーキに香り高い紅茶が彼に似合う。
 早く会いたい。別れたばかりなのにもう我慢ができなくなっていた。新花織の漫画化の仕事を成功させて、次は自分のお金でパリに行ってみせる。
 第一回の原稿を入稿したら、その足でパリに行こう。パックツアーの空きを見つければ安く行けるかな。それとも片道だけなんとかお金を作って、帰りはシャルルに頼もうかな。一緒に日本に行こうって誘ってみようかな。……
 電話したくなったけれど、意思の力でやめた。パリにずっととどまりたかったのけれど、意思の力でそれもやめたのだ。一旦タガを外すと、ずっと彼と一緒にいたくて、いないと自分を保てなくなりそうで怖い。まずは自分がちゃんとしてなくちゃならいとマリナは自分に言い聞かせる。メロメロに甘い時間をずっとシャルルと過ごしていたいけれど、自分を取り戻したくて、日本に帰ってきた。 
 ラーメンのカップを片付けてから、仕事用の机を前に、プロットをもう一度見直してみる。一緒に旅行をしてみて、美馬という男の魅力を改めて発見した気分だった。ただかっこいいだけではなく、紳士的な男だった。立ち居振る舞いから女性を立てる仕草、その全てがパーフェクト。流れる水のように淀みがない。
 その夜はプロットとネームの直しをして、花純の事務所に面会のアポイントメントをとって、寝た。
『愛してる、愛してる、愛してる』
 闇の中から、シャルルの吐息交じりの声が聞こえてくる。これは初めて抱き合ったおとといの彼のささやき。耳元で何度も愛を告げて、マリナを陶酔に導いて……
 思い出してしまうと、独り寝はわびしく寂しかった。布団は十分にあるのに、手足が冷えてたまらない。
 切なくて苦しくて、マリナは寝返りを何度も打って、心地いい体勢を探しながら、今もなお甘い言葉を囁くシャルルの声を強制的に絶った。


 翌日の午、恵比寿にある花純の事務所をたずねると、
「漫画化、オッケーしてもいいわ」
と花純が突然の了承を出したので、マリナは驚いた。
「あ、ありがとうございます」
 花純はつけまつげを施した大きな目で、マリナをじっと見つめながら、
「あんまり嬉しそうじゃないわね。やっぱりやめましょうか?」
「いえ! とても嬉しいです!」
「そ」
 花純は立ち上がり、
「じゃあ、そういうことでね」
 さっさと事務所の奥に消えていってしまった。マリナはあっけに取られた。どうして突然変心したのだろう? よくわからないが、ともかくこれで漫画が描けるんだ!
嬉しくて、飛び上がりながら事務所を辞して、地下鉄に乗り、久保の待つ編集部へと向かった。
 久保は、美馬と花純、双方の了承を得たというと、両手を叩いて喜んだ。
「よし、いよいよ、漫画化ね。池田さん、がんばってよ!」
「はい! ……あ、これ、美馬さんとパリの写真です」
 マリナが差し出した“写ルンです”を、久保はひったくるように受け取った。
「きゃあ、ありがとう! ああ美馬様をようやくこの目でみられるのねっ、感激だわ。私の目がつぶれちゃったら、池田さん、どうしてくれるの!?」
 肩を押されて、マリナは「ははは」と笑ってごまかした。ページ数と締め切りの打ち合わせを経て、編集部を出ると、夜になっていた。
 家に帰り、マリナはすぐさま漫画にペン入れを始めた。



Next

Viewing all articles
Browse latest Browse all 577

Trending Articles