《ご注意》第一話の注意事項をご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧ください。
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帰りの電車の中で、マリナは和矢に言った。
「あたし、明日、薫の家に行ってみるわ」
「響谷んちに?」
「うん。いるかもしれないでしょ。放っておけないわ。どうして帰ってきたのか、兄上はどうしているのか、聞かないで、じっとしていられないの。本当ならこのまま行きたいぐらいだけど」
披露宴が終わって、美女丸たちを見送ったマリナは、薫を探しに式場を飛び出そうとした途端、呼び止められた。弾上家の使用人、小錦こと蘭子さんだ。受付をした自分たちに、美女丸からのこころづくしの振る舞いがあるという。それよりも薫を追いたかったけれど、和矢のとりなしもあって結局固辞できず、そのまま美女丸の晴れ姿にむせび泣く蘭子さんにつきあっているうちに、最終的に式場を出たのは夜更けになっていたのだ。
今日は日曜の夜だ。電車は空席が目立ち、マリナは引き出物の紙袋を抱きしめて座り、和矢がその前に立っていた。
次は飯田橋、とアナウンスが響いた。
「もう時間が遅いし、ゆっくり話したいから、明日行くことにする」
「そっか……」
和矢は片手でつり革を握りしめて、暗い窓の外をじっと見つめた。電車がゆっくりと減速して、飯田橋駅に到着した。
「じゃあね、和矢! 今日はお疲れさま!」
マリナが手を振ってから、電車から降りたときだった。
「オレも!」
後ろで和矢の声があがって、マリナが振り返ると、閉まりかけたドアをすり抜けるように、和矢が飛び降りるところだった。彼の背後でドアが閉まった。
「オレも響谷のところに行くよ。だから、今夜、おまえんちにとめてくれる?」
電車がガタンと動き出す。
「……あんた、学校は?」
「休む」
「ズル?」
「たまにはいいさ。友達のためなら」
ゴーッと風を起こして走る電車の前で、ちょっとだけ肩をすくめる和矢を見ながら、マリナはくすっと笑った。
ふぅん、それなら―――。
「じゃあ、今夜のあたしたちは『友達』よ? それでもいい?」
和矢は引き出物の紙袋を無言で奪い取って、二人分を肩に担いで出口に向かった。
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「たしかこの辺りだったと思うのよ……あ、あった!」
ヒマラヤ杉の鬱蒼としげる森を指差したマリナに、びっくりした様子で、和矢が黒い瞳を丸くした。
「へ? これ、公園?」
「あれ、あんたはじめて?」
「そうだよ。というか、数えるほどしかアイツに会ったことないもん、オレ。家なんか知るわけないだろ。バイオリンを預かったときは、弁護士さん伝いだったし」
今さらながらにマリナは納得した。
そう言えばそうだ。
かつて、拘置所の見える病院に入院している薫に再会したとき、和矢が一緒にいた。その後、薫はユキ・辻口への弟子入りのためにコンテストに参加することになり、軽井沢に向かった。そのままずっと和矢は一緒にいて、果ては兄上の危篤を聞き、取り乱した薫の無茶な運転を止めようとして、薫もろともバイクで渓谷に突っ込むはめになったのだ。
ふたりで仲良く死にかけたというのに、実は家も知りませんでしたとは、意外というか、面白いと思いながら、マリナは和矢とともに庭を抜け、やがて現れたギリシャ風の洋館のチャイムを押した。
「はい」
家政婦さんらしき、エプロン姿のふくよかな中年女性がでてくる。
名乗ると、「どうぞ」と中に通された。
久しぶりに入る響谷家は、以前と何も変わっていなかった。モダンなのに、古めかしくて。建物の大きさのわりに窓が小さいから、昼間なのに、吹き抜け下のシャンデリアが煌々とついている。その光の影の扉から、
「失礼、お嬢さん」
と兄上が顔を出しそうで、マリナは思わず感慨に襲われた。
あれは―――まだ兄上がいたころ。
薫は音楽学校の生徒で、ガダニーニをめぐる争いが起こっていて、と思ったら、その候補のうちの二人が兄上と恋愛関係で、しかも薫から兄上を愛していると打ち明けられて、力になるぞと決心した矢先、殺人事件が起こって……。
なつかしいというのではない。
むしろ、生々しい。
この家も、自分の記憶も、あのときとちっとも変わらない、と思った。
「薫様はお部屋です。どうぞ」
そう言われて、ようやくハッとして階段を上がり、他とは全く違う、薫が自分で打ち付けた西部劇のようなウエスタンドアをノックした。
「薫? あたしよ。和矢も一緒なの。入るわよ」
ドアを開けて、マリナはそのまま立ちすくんだ。
薫がいた―――兄上とともに。
「……っ!?」
「何やってんだよ、マリナちゃん。入んなよ」
薫は言った。
大きな窓から、室内にはレースカーテン越しの光があふれている。
壁側に配置された愛想のない本棚がキラキラと陽光を反射するだけで、あとは床に楽譜が雑然と散らばる、女の子らしさの欠片もない部屋だ。
むかしそのままの薫の部屋の中央に、むかしにはなかった大きな天蓋のついたベッドが置かれていて、兄上はそこに目を閉じて横たわっていた。
ベッドの傍らには背もたれ付きの椅子があり、猫背の薫が座っている。
「……ねむってるの……?」
「ああ。ずっとね」
「ずっとって……」
「アレ以来、一度も目覚めてない」
『アレ』という言葉がさす意味がなんのことか、マリナにはすぐにわかった。―――兄上が受けた死刑のことだ。
「マリナ、入ろう」
優しく和矢に背中を押されて、マリナはおずおずと室内に足を踏み入れた。
「治療は全部おわってるんだ。どこも問題はない」
薫は振り返らないまま、ポツリと言った。
「移植された人工脳も正常に機能してるし、自発呼吸もできてる。その他も大丈夫って話だ」
「話ってだれの……?」
「そりゃ、アルディ家の大先生に決まってるだろ」
―――シャルル。
小菅でのことを思い出した。
兄上が死刑を受けて、薫が倒れて、拘置所の門前にとめた車の中で二人分の大手術をして、ルパート大佐が来てカウントを始めて―――。
マリナの頭の中に、あのときの光景がはっきりと浮かび上がる。
あれから、あっという間に数年がたってしまった。
薫のことも兄上のことも、それ以外も一切わからなかった。和矢も知らないと言った。知りたかった。けれど、日本の一マンガ家には、パリの貴族事情や、さらにその中に突っ込んだ話など知るよしもなかった。もともと、住む世界が違うのだから、和矢が知らないのなら、知ることなんかできないのだ。
「アイツは天才らしいけど、あたしに言わせればクズだな。兄貴を眠り姫にした能なしヤロウだ。だから、出て来た」
「……大丈夫なの?」
「大丈夫さ。この家なら、兄貴も目が覚める。きっと、絶対に目が覚める」
薫は今度はハッキリと言った。まるで自分に言い聞かせるかのような、強い口調だった。
そのあと、薫は静かに目を伏せた。マリナはそんな薫のそばによって、ベッドの上の兄上を見つめた。
そのあと、薫は静かに目を伏せた。マリナはそんな薫のそばによって、ベッドの上の兄上を見つめた。
薫によく似たラインの顎は丁寧に剃り込まれていて、少し長めの黒髪もきちんととかされて清潔そうだ。きっと薫がその手で毎日ひげを剃り、髪をとかしているのだろう。
拘置所で最後にあったときに比べると、若干やせたように感じた。少し頬はこけ、目の下はくぼんで青い影に見えた。
それでも、彼は美しかった。ほんのわずかに刻まれた眉間の皺すら、彼を飾るためのなくてはならないアイテムのように、眠る兄上は美しかった。
一番よい時代を旅しているのだろうか、甘美な口元には、おだやかな微笑すら浮かんでいる。
こんな笑顔はみたことがなかった。
思えば、はじめて兄上に会ったとき、もうすでに、彼はあの計画に手を染めていた。
だから、マリナは平和な兄妹を知らなかった。
おそらく幼いころは、こんな風に微笑んで、はしゃぐ薫をみまもっていたのだろう。そう思うと、胸が痛くなった。けれど同時に、自分には到底いきつくことのできない、とてつもなく貴い世界をみたような、そんな気もした。
「のんきに笑ってるだろ? 兄貴」
「うん……そうね」
「まったく。こっちはこんなに心配してるってのにさ。いい気なもんだよな。起きたらパンチを一発お見舞いしてやるつもりさ」
薫は右手で拳をつくり、ベッドに向かって殴りつける格好をした。粗暴な仕草、ののしる言葉。けれど、その目元には、押さえられない愛情があふれでていた。マリナはそんな薫を見ながら、もう一度兄上を見た。兄上は静かに微笑んで眠っている。
「あー辛気くさいな。いっちょやるか!」
突然薫はそう叫ぶと、がたんと椅子を蹴飛ばすように立ち上がり、長い脚で部屋を突っ切って壁際の本棚に歩み寄った。
―――あっ!
とマリナが思う間もなく、ガラス扉を開けた薫は一気に秘密の扉を開けた。かつてマリナが驚いた秘蔵のコレクションボトルが、さらにパワーアップして、ずらーっと顔を見せた。
「せっかく来たんだ。マリナちゃん、今日は飲もう」
その中から、一本のブランデーボトルを取り出した薫に、マリナは慌てて言った。
「でも、兄上が眠ってるわ!」
「だから、あたしやおまえさんが枕元でにぎやかにしてたら、うるさいって起きるかもしれないだろ? 黒須、そんなとこで突っ立ってないで、おまえさんもこっちこいよ。一緒にやろうぜ?」
「いいよ」
それまでずっと黙って扉の近くで立っていた和矢が、頷きながら薫の元に近づいてきた。
「そうこなくっちゃ」
ニヤッと笑って薫は順番にグラスを渡した。
「リシャールだ。ヘネシーの最高級品だぜ。おっとマリナちゃん、ラッパ飲みは勘弁してくれよ。おまえさんのマンガ百年分でも買えない逸品だからな」
と言いながら、バイオリンを逆さにしたような瓶の栓を片手で器用に開けて、とくとくと琥珀色のブランデーをついで回った。それから最後に自分のグラスを満たした薫は、少し考えるようにボトルの動きを止めて、和矢の顔を斜めに見た。
「それにしても、なんで黒須まで来たんだ? ヒマなのか?」
「ヒマって! 和矢はあんたが心配だからって、わざわざ来たのよ!」
和矢は笑いながら、憤るマリナをあいている右手で制する。
「そうだよ。ヒマなんだ、オレ」
「同い年なんだから、黒須はどっかの大学に行ってるんだろ。今日は月曜だぜ。ガッコはどうした?」
「休んだ」
「……ふーん」
「薫、何が言いたいのよ?」
「おまえさんたち、昨日、甲府の殿様の結婚式で一緒だったんだろ? で、こうやって今朝、あたしんとこにも一緒に来てるってことは、わーざわざ、待ち合わせでもしたのかなぁって思ってさ」
『わざわざ』というところにアクセントをおく薫に、ふたりは頬を染めて黙り込んだ。薫はそんなふたりの顔を、かわるがわる面白そうに眺めてから、おもむろに「じゃあ乾杯しよう」とグラスを天井に向かって掲げた。慌ててマリナも和矢も続いた。
午前中の強い太陽がきらきらと差し込み、チィンとグラスが重なった。薫が叫んだ。
「マリナちゃんの処女喪失に乾杯!」
マリナはブランデーをぶーっと吹き出した。
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