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Channel: りんごの木の下で
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愛に濡れた黙示録 5

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《ご注意》第一話の注意事項をご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧ください。





とにかく部屋を探そう。
マリナは水で顔を洗って、身支度を整えた。すでに外は真っ暗だ。飯田橋の駅前まで行けば、不動産屋があいているだろう。事情を話して、すぐに入居できる格安の物件を世話してもらうしかない。
飯田橋がダメなら、水道橋でもこのさいどこでもいい。
直ちに引っ越せるところを見つけるんだ。そうしないと、明日からホームレスだ。
強い決意を胸に、流し台の上の蛍光灯ひとつを残して、部屋の照明をパチンと消した。靴を履こうとしたちょうどそのとき、コンコンと目の前のドアをノックする音が聞こえた。

「マリナ、オレだよ。いるんだろ?」

和矢の声だった。
マリナがドアを急いで開けると、廊下の薄暗い蛍光灯の光に反射する、黒革のジャケットが目に飛び込んできた。

「和矢! 急にどうしたの?」
「響谷んちからおまえがちゃんと帰れたかどうか気になって……。おまえこそ、こんな時間にどこ行くんだ?」
「あたしは不動産屋さんにっ」

和矢は右腕で抱えていたメットを左手に持ち替えながら、首を傾げた。

「不動産屋さん? なんで急に?」
「明日、この部屋を追い出されるの!」
「明日? なんだそれ」

わけがわからないという顔の和矢に、マリナは戸口に立ったまま、懸命に説明した。和矢は黙って聞いていて、マリナの説明が終わると同時に言った。

「おまえ、それで素直にでていくつもり?」
「え? どういう意味?」
「東京都の道路拡張工事っていっただろ? 東京都からの指導で、アパートの住民を立ち退かせるんなら、普通、土地買い上げ金の中から、代替の住宅を用意するもんなんだよ。もしくは、それに見合う見舞い金とか。裸一貫でいきなり出てけって、ちょっとおかしいと思うんだけど」

びっくりした。

「だって、大家さんは問答無用であたしに出てけっていったのよ! あれじゃかよわい東京都民を踏みつぶすゴジラといっしょだわ!!」

和矢はさらに真面目な顔をして言った。

「権利はちゃんと主張した方がいいぜ。リトルゴジラの反撃だ!」

和矢をゴインと一発ぶん殴っておいてから、マリナはその手をぐっと握りしめた。
出て行かなきゃと覚悟していた心に、一筋の燭光が見えた気がした。
―――そうだ。負けてたまるもんか。
あちらが飯田橋のドンなら、こちらは誰にも負けない貧乏マンガ家だ。底意地を見せてやる。

「いってぇ……。まったく、おまえはいつまでも変わんねぇな。とりあえず、その通達っていうの? それ、見せてよ」

頭をさすりながらそう言う和矢を、マリナは慌てて部屋の中に通した。放り投げるように座布団を勧めておいてから、自分は散乱する本棚を引っ掻き回して、ようやくその封書を見つけ出し、彼に手渡す。

「はい、これよ」
「ん……」

和矢は中身を取り出して広げ、注意深く目を通していたが、やがてほうっと深い息を吐いた。

「ダメだ」
「え?」
「ここの大家さん、どんな人?」

こちらを見つめる和矢に、マリナはキョトンとした。そんなもの、一言で言える。

「がめつい人」

和矢はさもありなんと言わんばかりに苦笑した。

「うまいことやってるよ。東京都の道路買収とは全く関係なく、老朽化でアパート事業から撤退するから、入居者に退去を願うってことにしてる。多分、入居時の契約に貸し主の権利として、そんな条項があったんだろ。これだと、代替住居は提供されない」
「それってつまり……」
「そ。大家さんのまるもうけ」
「じゃ、じゃあ、あたしの反撃は……っ?」
「ゴジラの一方的勝利だ。あきらめるしかない」

頭の中で、大家のお気に入り黒ニット帽を被ったどでかいゴジラが暴れくるって、「もしかして」と期待した心が、木っ端みじんにされていくのを感じた。
ああ―――なんだか二度目のショック。
すまなさそうに和矢が両膝を抱え込んだ。

「ごめん。期待させちまったな」
「そうよ、和矢のバカっ!」

マリナはプンと頬を膨らませながら、顔を背けた。

「せっかく部屋探しに行こうと思ってたのに、足止めするから遅くなっちゃったわよっ。どうすんの、不動産屋さん、きっともう閉まっちゃったわ! ああ、明日からあたし、ホームレスよっ!!」
「大丈夫だよ。心配すんな」

思わずムッとして振り返る。

「だって明日には出て行かないといけないのよ? どうしろっていうのっ!?」
「オレんちにくればいいじゃん」

再びびっくりして、和矢の顔をまじまじと見た。
和矢は真剣そのものという顔だ。冗談の気配はちらりとも感じないし、どうやらつかの間のホテル代わりにしろという意味でもないことが、じんじんと伝わってくる。
―――ということは。

「それって、けけけ、結婚しようってこと!?」

和矢はため息をひとつついた。

「そこまで深く考えんなよ。とにかく住むところを確保する必要があるだろ? だから、オレんちに下宿したらどうだって、提案してるんだけど」
「そ、そうか、下宿!」

慌てて頭をぽりぽりとかきむしった。

「ごめん、あたしったら、早とちりしちゃって、あははは!」
「でも、それくらい覚悟はしといてほしいけど」
「え?」

いきなり手をぐいっと引っぱられて、和矢の腕の中に転がり込んだマリナは、強く抱きしめられた。

「オレんちに来たら、オレはおまえを離さないよ。朝も昼も夜も、ずっとだ」
「は? だって、あんた学校があるじゃない!」
「休む」
「ななな、何言ってんの!? 学生の本分は勉強、マンガ家の本分はマンガよ! ここはお互いに本分を尽くしましょう、そうしましょう!!」
「……そうだな」

素直に頷いた和矢にホッとした途端、彼が言った。

「オレはおまえの恋人としての本分を尽くすよ」

マリナはぎょっとして目の前の和矢を見た。直感的に、本気だと感じた。
とんでもない。そんな本分―――尽くしてくれなくていい。

「ダメよ! そんなこと言うなら、あたし、あんたの家なんていけない……あっ!」

和矢がいきなり頭をねじりこむようにして、首筋に唇を這わせてきた。

「ああ、ダメだ、今すぐおまえがほしい」
「今もダメ! あたし、引っ越しの準備をやんなきゃいけないもん!」
「そんなもの、オレがあとでいくらでも手伝ってやるよ、だから……!」

和矢はマリナをもう一度強く抱きしめて、そのまま畳に押し倒した。

「バカ和矢! 放して、ダメだってばっ!!」
「……ダメ? 本当に?」

いつもと違う少しかすれた和矢の声に、マリナは暴れるのをピタリと止めた。
和矢がこんな声を出すことを知ったのは、はじめて彼に抱かれた夜だった。彼が甘えることがあるなんて知らなかった。かわいいとすら思った。そして、今、大きな逞しい身体と強い力で、自分を押さえつけている和矢は、確かに愛しい存在だった。

「……ダメって言ったら、あんた泣く?」
「泣くかも」
「じゃあ、ダメ」

和矢が口を尖らせて睨んでくる。

「おまえってやっぱ性格わりぃ…」

マリナはくふっと笑った。
あんたこそ普段は頼りがいがあるくせに、こんなときだけ、やっぱりかわいい―――。
仕方がない。あとで荷造りをたっぷりと手伝わせよう。
すねた頬をツンとつついた。

「泣かないの? 泣いたら『いいわ』って言おうと思ったのにな~」
「このやろ…っ。もう黙れ…!」

少し乱暴気味に押しかぶせられた唇に、抗う気はもうなかった。







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