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Channel: りんごの木の下で
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愛に濡れた黙示録 9

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《ご注意》第一話の注意事項をご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧ください。






夕方になって、家の中には、香ばしいかおりがただよっていた。

「チキン、できた?」

マリナがキッチンに行くと、花柄のエプロンをつけた及川がマリナを振り返った。耐熱ミトンでオーブンからこんがりと焼き上がったチキンをちょうど取り出したところだった。

「ええ、できましたよ。あとは飾り付けるだけです」
「うわあ。おいしそう!」
「もちろんおいしいですよ。私の自信作ですからね。巽様も薫様もこれを食べて育ったんですから」

チキンを天板ごと台にドンと載せて、胸を張る及川にマリナはつい笑ってしまう。兄妹はこれを食べて育った。この言葉は及川の口癖だ。もう何十回聞いただろう。

「なんですか?」

笑いを見とがめられて、慌てて背筋を正した。

「いいえ! なんでも!」
「そうですか。なら結構。食べたら止まりませんよ。舌がとろけるような味ですからね。幼い頃の薫様なんて、おかわりをせがんで泣いたものです」
「薫がねぇ……食べ物よりお酒の方が好きそうだけど」
「それはあなた、薫様をご存じないんです。薫様は本当に美味しいものがわかる方です。だから、私の料理しかお口にあわないんですよ。まぁ、どんなものでも量があれば良いという方には理解できない世界かもしれませんけどねぇ」

どうもあてこすられているような気がしないでもなかったけれど、その件については無視することにした。

「巽様はいかがですか?」
「変わりないわ。でも、そろそろ時間だから」

及川は壁の高い場所にかかる時計を見上げてから、エプロンの肩ひもに手をかけた。

「そうですね。では、私はちょっと失礼して」
「うん。よろしく」

マリナはそそっとチキンに近づいた。途端に、及川がきらりと目を光らせた。

「マリナ様、何も触らないでくださいよ」
「えっ」
「お手伝いをしよう、なんて気は起こさないでくださいまし」
「あ、あたしはただっ!」

及川は外したエプロンをきちんとたたんで、台に乗せた。

「あなた様が手伝ってくださると、チキンは骨だけになりますからね。私は薫様に犬のように骨を食べさせたいわけじゃないですからね。いいですね。くれぐれもお手を触れないでくださいまし。くれぐれも―――ですよ?」

呪いの言葉のように及川は言うと、キッチンを音もなく出て行った。マリナは目の前のチキンを見た。飴色に光ってこの上なく美味しそうだ。匂いまでが美味しいよと誘っている。
ああ、このチキンと一緒に甘美な世界へ羽ばたきたい。
マリナは目を逸らした。
ここは辛抱のしどころだ。及川はこわい。
一度、彼女の目を盗んで食材を食い尽くしたことがあった。結果、ここは修道院かと思うほど、ひどい目にあった。食事はひたすら石のように固いパンと水のみに変わった。頼りの薫はまったく助けてくれず、ひとり目の前でごちそうを平らげる。及川は「食物を冒涜する者は食する資格なし」と言って、マリナが心から懺悔するまで許してくれなかった。
五日間だ。飢えて死ぬかと思った。
もうあの二の舞はごめんだ。
特に今夜はクリスマスパーティだ。ひとりだけ石パンは避けたい。
マリナはありったけの忍耐力を総動員して、キッチンを飛び出した。
階段の下のホールから、二階を見上げると、わずかな水音が聞こえる。及川がもうひとつの仕事をしている音だ。
彼女は使用人だが、同時に看護士でもあった。響谷家の家事一切とともに、昏睡状態の兄上の健康管理も引き受けている。毎日定時に行われる栄養補給と衛生管理は、兄上にとって欠かせないものであった。
その手当がすばらしいのか、薫の必死な願いが届いているのか、兄上自身の体力の問題なのか、いずれにせよ不思議なくらい彼は変化がなかった。
ほとんど痩せず顔の色つやも良く、美しいままで眠っていた。及川の優しい声が聞こえた。

「巽様、早くお元気になりましょうね」

階上から聞こえてくるその声を背に、マリナは玄関ホールから窓の外を見た。枯れ木に茶色の葉が二枚残っていた。風が吹いた。一枚が散った。くるくると地面に舞ってから、どこかに飛ばされていった。
もうすぐ薫が帰ってくる。和矢も来る。
あとは兄上が目覚めてくれたら―――。
神様お願い、チキンだってなんだってあげるから、どうか薫に兄上を返してと、手を組んで祈った。
ホール後方の玄関ドアがガチャッといきなり開いた。

「おやマリナちゃん、こんなとこでなにやってんだい?」

薫が少し紅潮した顔を見せた。外はよほど冷たいらしい。はぁっと息を吐いた唇がわずかにかさついている。マリナは駆け寄った。

「おかえりなさい!」
「ただいま。ほら、おまえさんの待ち人を連れてきたぜ」

薫はぐいっと玄関ドアを押し開けた。

「門のところでばったりさ」

マリナは胸の前で手を握りしめた。

「和矢…っ!」

薫に引っ張られるように玄関に入ってきた和矢は、照れくさそうに笑った。







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