《ご注意》第一話の注意事項をご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧ください。
和矢は何度もキスを繰り返してから、
「マリナ、オレ……」
思い切ったように顔を上げた。
「この家で役に立ちたい。ただの居候じゃなくて、存在価値のある人間でいたい。それを確認できるまで、この家ではもうおまえに近づかない。でないと響谷にも巽さんにも顔向けできないから」
一方的にそう言うと、和矢は勢いよくマリナを離し、廊下を駆けて行った。足音が階段を降りて、一階の一番奥の部屋のドアが閉まる音がした。
マリナはしばらくぼんやりした。
「……なによそれ…っ」
じゃあキスなんかするな。それもこんなに情熱的に。
三度目のクリスマスも清純じゃなくていい、と覚悟したこのあたしをどうしてくれる。
部屋の中から、ビロードのようなバイオリンの音が聞こえた。『きよしこの夜』だった。薫が兄上に弾いているのだろう。
マリナはずるずると廊下に座り込んだ。ひとりで火照った頬が、ゆっくりと冷めた。
5
お正月がきた。
響谷家のお正月は門松もないし、しめ飾りもない。かがみもちも置かないし神棚も元からないから、榊や御酒を奉ることもない。
正月らしくないなとマリナが思っていると、及川が教えてくれた。
「海外からのお客様が多い響谷家ならではです」
そう言いながら、及川はキッチンでおせちを作っていた。
「でもそれ、おせちよね?」
「今年は日本風でいいかと思いまして」
「どうして?」
「お客様がおいでになる予定は、ありませんから」
巽様が昏睡状態のままだから―――。
言外のそのメッセージを受け取ったマリナは、ようやく納得した。
そういえば、以前この家を訪れたとき、沢山のお客がいた。薫も言っていた。知らない人がいつの間にかいて、いつの間にかいなくなっている。そういう家だと。
その中には、外国の客もいただろう。それぞれの習慣に合わせるのではなく、客が自由に振る舞えるように、あえて自家の習慣は排除するのが響谷家流だと、及川は言った。
だから、これまでクリスマスすら祝ったことがなかったらしい。
「じゃあ、薫はおせちを食べたことがないの?」
マリナが尋ねると、及川は、美しい格子柄の焼き目がついた伊達巻きをお重に詰めながら、こともなげに答えた。
「巽様も薫様も、幼い頃から響谷家の一員として、立派にお育ちになりましたからね。一般家庭の食するものは召し上がる必要がなかったのですよ」
マリナはふーん、と頷いた。
つまんない家だと言うと、及川は手を休めることなく、反論した。
「そんなことはありません。その証拠に、響谷家はお客様が途切れる日がなかったのですから」
「でも、おせちがないお正月はつまんないわよ。ふわっとして甘くておいしい伊達巻きの味を知らないで生きてきたなんて、人生大損だわ! 数の子に黒豆、大好きな栗きんとん!! じゃ、もしかして、薫ったらお年玉をもらったこともないのかしら?」
「これはまた。おふたりはお金のことなど、考えたこともないはずです」
「信じらんないわ。それじゃお正月の楽しみがなにもないじゃない!」
「あなた様の言われるお正月は、食べ物とお金ですか。なんとも下卑た話ですこと。巽様も薫様も、もっと高尚な世界におられるのです」
及川は呆れたとばかりに深いため息をついてから、ふと箸を持つ手を止めて、皺のよった目を閉じた。
「もっともどの世界にも、余計なことをする人間は必ずいるものですが」
「えっ…」
「いえ、なんでも」
マリナは及川を見た。彼女はすぐに自分の発言を後悔するように、無言で作業に戻った。
なるほど、と思った。
その余計なことをする人間って、きっと及川だ。
「薫は幸せ者ね。こんなに思ってもらえて」
マリナは台に両肘をついて、重ねた手に顎をのせながら、皿に残った伊達巻きを指差した。
「ところで、この残った伊達巻き、もらっていい?」
及川の返事はなかった。マリナは口をすぼめて、どんどんつめられていくおせちを仕方なく眺めた。
今、二階では和矢が兄上の世話をしている。薫は出かけていて留守だ。
クリスマスの次の日、和矢は薫に申し出た。
「オレにも巽さんの看病を手伝わせてほしい」
薫は冗談だろ、と笑って相手にしなかった。和矢は本気だと答えた。薫がすっと顔色を変えた。
「黒須、おまえ、なんのつもりだ? マリナと違って、おまえさんはちゃんと家賃を払える立場だろ? だったら余計な介入は不要だ。関わってくるな!」
「ダメだよ。オレは決めたんだ。マリナが巽さんを看てるのは平日の昼間だったよな」
「そうだけど……」
マリナが頷くと、和矢はひとりで条件の提示を始めた。
「大学はちゃんと行く。だから、ガッコが休みになる土日と、平日の夜を君と交代で看病しよう」
「いらないって言ってるだろ、迷惑だ!!」
薫は本気で怒っていた。兄上のことに関して、彼女は普段のニヒルさを失うのが早い。まるで初冬にできた薄い氷のようにもろく傷ついて、瞬間湯沸かし器のようにあっという間に熱くなる。兄上を大事に思っているからだ。兄上を愛しているからだ。その兄上が目覚めない。彼女はその辛さを、思春期から身に着けてきた男前な装いで必死に見まいとしている。同時に、そんな強がりを他人から悟られることを、極端に嫌う性格であることも、よく知っている。
両手を血管が浮き立つぐらい握りしめて、顔をそむけている薫を見ていると、心がずきりと痛んだ。
助けてあげたい。力になりたい。
ひとりで抱えないでいいんだよ、と教えてあげたかった。
でも、そう言ったら、「今、行き場のない三流マンガ家を抱え込んでいるのはあたしだろう?」と薫はあざ笑うだろう。
友情とは異質な賃貸関係にある自分を恨んだ。まったくお金というものは、どうしてこう人間関係を簡単にぶっ壊すのだろう。
「シャルルには頼りたくないんだろ?」
和矢の言葉に、薫がピクンと身じろぎした。
「でもこのままだと、君の方が先に、シャルルの助けが必要になるよ」
「……勝手なこというな」
「そうかな。ひどい顔色だけど」
それで、はじめてマリナも気づいた。
確かに薫の顔色は悪かった。もともと透き通るような素肌の彼女だったけれど、言われてみると、病的に白いとさえ言えた。
「連日の音楽活動に、看病。巽さんはいつ目覚めるかわからない。その緊張感で、君はおそらくほとんど熟睡してないだろう? 普通の人間だってホネだよ。なのに、病み上がりの君にはハードすぎるよ。分け合おう」
「必要ない!」
「なら、いざとなったら、シャルルに助けてもらうか?」
薫がぐっと黙り込んだ。
薫はそのまま部屋を出ていった。和矢は小さく肩をすくめた。マリナはハラハラして見ているしか出来なかった。
その日の夜から、和矢は兄上の看病を始めた。薫は抵抗しなかった。
今日は元日。和矢は大学が休みで家にいる。薫はユキ辻口の友人が主催するニューイヤーコンサートに参加している。これで認められれば、再び音楽界の第一線に戻れるかもしれない大事なコンサートだった。
及川がキッチンを出て行った。マリナは皿に残っていた伊達巻きをつまんだ。すこぶる美味だった。
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