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Channel: りんごの木の下で
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愛と別れのカイロス 37

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《ご注意》第一話冒頭の注意事項をよくご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧してください。






ジェルブロワ郊外のサン・カルバリの丘にマリナは立っていた。

「うーん、気持ちいい!」

身体をいっぱいに伸ばして背伸びをする。上品なコートレバーレースで縁取られた緋色のドレスがつんとつっぱった。その感触さえ心地よくて、ふふっと笑いが漏れ出る。だって、外に出ることすら久しぶりで、目に痛いほどのお日様も、頬にかかる風も、髪の毛が巻き上げられる爽快さも、それから空気の甘さも、すべてが快感だった。

「それにしても奇麗な場所ねぇ~。見渡す限り一面の草原で、しかもところどころに色とりどりの薔薇がいっぱい咲いているって珍しいわよね。誰かが育ててんのかしら?」

不思議に思って薔薇に近づこうとした途端、「ちょっと、そこのメガネザル!」と背後から声が飛んだ。

「何やってるわけ? そろそろはじめるってさ!」

振り返ると、カメラ機材のすぐ側に仏頂面の燕尾服姿のシルヴァンがいた。

「わかってるわよ! さっさとやりましょう。あんたこそ、なんでいつまでもカメラの側にいるのよ?」
「台本読んでないの? 最初はあなたひとりでしょ!」

そう言われて、マリナは台本なんてほとんど読んでなかったことを思い出した。なにせ、最初開いたあの時、『ワルツを踊る』の文字を見た瞬間、竜巻もごめんなさいと退散しそうな勢いでバシンと閉じて、猛烈にシャルルに抗議に行ったまま、存在自体忘れていた。まるで読んでおりませんとは今更言い出せず、「あはは、大丈夫、ちゃんとわかってるわよっ!」と胸を叩いて、恐る恐る草の上に足を踏み出す。

「まぁ、なんとかなるでしょ!」

持ち前のくそ度胸で開き直る。そうよ、ここまで足に血豆を作ってワルツは踊れるようになった。それだけは確かなんだから、あとは野となれ山となれ。そんな思いでマリナは草原の中央まで歩み出ると、空を見上げた。どこまでも青くて、透き通るように奇麗。風はさきほどと変わりなく吹いて、やはり気持ちいい。

「はぁ~、こんなときはやっぱり……っ」

つぶやきながら、ごろんと草っぱらの上に仰向けに寝転がった。目を閉じていると、強い日差しと、草の匂いと、風の感触だけを感じる。幸せだな。そう思った瞬間、ぐるる、とお腹がなる。昨夜からひたすら踊っていて朝食抜きだったことを思い出し、ああ、ご飯を忘れるなんて、自分ももう死期が近いのかもしれないしれないと世を儚んでいたその時、ふわっと芳ばしい香りが鼻先を掠めた。

「おぉ? これはもしや…?」

パチッと目を開けると、目の前には美味しそうなエッグタルトが山盛り!

「うきゃきゃ! いっただきまーす!」

がぶっと食らいついてあっという間に平らげてから、ハッとして顔を上げると、そこには呆れ顔のシャルルがいた。

「君は差し出されれば、確かめずに何でも食べるのか」

空に浮かぶ白い雲よりも純白のタイブラウスをよじるようにして腕を組みながら、どうしようもないバカだ、と最後につけくわえることも忘れないシャルルに、マリナはフンとそっぽを向く。

「だって、ここにはあたしとあんたとシルヴァンしかいないでしょうよ。誰が何を持って来るって言うのよ。魔女が毒リンゴでも持って来るって言うの?」
「魔女が狙うのは世界一美しい姫君だ。君は永遠に心配無用だろう」

言い終わるが否や、笑いを爆発させるシャルルに、マリナは怒りを爆発させる。

「ああ、そう! じゃあ、美しいあんたが毒リンゴでももらえばっ!? フンだ!!」

両手を怒らせてマリナが立ち上がった途端、シャルルが「ちょっと待て」と彼女の右手を掴んだ。

「オレの最終テストを受けてもらおうか」

そう言うと、力強くマリナの手を引いて踊り始めた。ワルツだ。

「あ、あんた、傷が! 身体が!」
「ほら、足が違ってる。次はスピンターンだぞ」

シンプルな黒のパンツに包まれた長いシャルルの右足がぐいと大きく前に出て、マリナの身体を弓のように右に揺らしながらくるりと一回りする。

「あわわわ…っ」
「軸足がぶれている。この時はつま先からかかとに重点をすばやく移動するんだ」
「そんなこと言ったって、ヒールが草にとられてうまく動けないんだものっ!」
「それは意識が足にばかりいっているからだ。自分を鳥だと思ってみろ」

マリナが「とりって、チキン?」と言うと、シャルルは「ちがうっ!」と叫んでから、ぐいと彼女の右手を大きく引き寄せる。慌ててマリナは必死で右足をシャルルの左足に添わせてステップを刻んだ。

「軽やかに、自分に羽が生えたように軽やかに踊るんだ。頭でアンドゥトロワの三拍子の波に自分を委ねながら、身体がその上を舞うようにして。そうすれば足が勝手についてきてくれる」

そんな簡単にできれば苦労しないわよと思いつつ、それでもマリナは必死でアンドゥトロワ、アンドゥトロワと念じながら、職業上お得意の空想力を最大限に働かせて、自分が鳥であると妄想してみた。すると、だんだんと身体が軽くなってきた気がしてきた。草の上を問題なくヒールを滑らせながら、歩幅の大きいステップも難なくこなす。この十日間、身体が覚えた技術がすんなりと表され、シャルルの隙のないリードに合わせて、ニコリと笑う余裕すら生まれてきた。

「いい感じだ。続けるぞ」

それは不思議な感じだった。最初はアンドゥトロワのリズムを刻んでの基礎だったし、少し踊れるようになってからはワルツ曲をかけて練習だった。常にシャルルの激しい怒声やら、シルヴァンのかけ声やら、手拍子やら、スピーカーからの曲から、何かしらの音声が鳴り響く中で、にぎやかに踊りつづけて来たと言える。
でも、今は静かだった。ただ草を揺らす風のわずかなささやきと、自分たちの動く音。それしかしない。手拍子もない。ワルツ曲もない。それなのに、無音の草原の上で踊っていることが、なぜかマリナには、とても自然なことのように感じた。
アンドゥトロワ、アンドゥトロワ。
緩やかで茫洋としたドナウ川を愛して生み出されたと言われるワルツの調べが、音はないはずなのに、ハッキリと聞こえてくる。それは初めて知るシャルルのダンスせいだとマリナは思った。

―――シルヴァンよりもはるかにうまい……!

それだけじゃない。支えてくれて、引っ張ってくれて、そして必要な時に力を抜いて自分を前に出してくれる。マリナはいつの間にかシャルルとのダンスを楽しんでいた。

「ワルツって音楽がなくても踊れるのね、知らなかったわ!」

マリナが面白そうにそう言った時だった。

「カズヤの情報が入ったよ」

マリナが「え!?」と声を上げた。

「以前と同じオーベルジュにジルと留まったままだそうだ。それ以上は何もわからない」
「そう……」

少し俯いてから、マリナは「ありがと!」とニコッと顔を上げる。「さあ、このあとの撮影のためにダンスの質をあげなくっちゃね!」と言って、威勢良く足を踏み出した。そんな彼女のステップに応えるように大きく左に揺れてターンを作ったシャルルは、フッと唇を歪めて微笑みをこぼす。

「……マリナちゃん、ひとつだけ聞いてもいい?」

首を傾げるマリナにシャルルは言った。

「今でもオレが君を愛してると言ったらどうする?」

びくんとマリナは身体を震わせて、足を急ブレーキさせた。反動でシャルルの胸に飛び込みそうになって、慌てて身体を起こすと、目を見開いてシャルルを見上げる。

「あの、シャルル、冗談でしょ?」

シャルルは答えない。ただ、空の青にも負けない青く澄んだ瞳でマリナをじっと見つめていた。

「あたし、あたしは……!」

くっと下唇を噛み締めて、シャルルから手を離そうとすると、ぐいっと強く掴み直されてそれが許されない。驚いてもう一度振り仰いでシャルルを見たマリナは、蒼い炎のように煌めく意思を感じ取り、覚悟を決めた。目を閉じて心の中の思いを形にする。深い深呼吸をしてから、ゆっくりと目を開けて、シャルルをまっすぐに見上げた。

「シャルル、あんたはあたしにとってとても大事な友達よ。助けたいし、協力したい。力になりたいし、あんたには幸せになってほしいと思ってる。でもね、あたしは、あたしは……和矢が好きなの」

シャルルは瞳を一瞬たりとも逸らさない。

「心が変わるチャンスは?」
「―――ないわ」
「一生オレが君しか愛せないと言っても?」
「……ごめん」
「この世でオレが手に入れられるすべてを君にあげると言っても?」

マリナは首を横に振った。

「確かにそれは魅力的だわ。でもね、あたしは絶対に心を変えないと決めたの。神様にだって仏様にだって、世界中の人に誓ったっていい。あたしはもう同じ間違いは繰り返さないと決めたのよ」
「間違い、か。……君らしいね。とても君らしい」

そう言うと、シャルルはマリナの手を離し、彼女に背中を向けた。白金の髪が風にたなびいて、きらきらと光を振りまく。それが美しければ美しいほど、哀しく見えて、マリナは何と言っていいかわからなかった。ずっと危惧はしていた。けれど、考えないようにしていたと言った方が正しかったのかもしれない。愛だの恋だのという問題が絡み合いながら当主復権を戦った前回と同じ過ちを繰り返したくはなかった。それでは、最後の最後でシャルルの手を離したあの時を再現するだけになるのだから。

「ごめんね、シャルル……っ」

シャルルは、首を横に振って、かすかな笑みを浮かべて振り返った。それは青い空に溶けてなくなりそうなほど、奇麗な笑顔だった。それ以上言うべき言葉も見つけられずに、黙って俯いたマリナは、直後に後方で上がった「OK、終了!」というシルヴァンの合図の意味を、すぐには理解できなかった。








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