《ご注意》第一話の注意事項をご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧ください。
和矢が響谷家に来て、はじめて彼の部屋に入る。樫の木でできたデスクとベッドとチェスト。もともと響谷家にあったであろうと思われるこれらの家具とミニキッチン以外は、デスクの上に無造作に積まれた数冊の本があるだけの、きわめて簡素な部屋だった。
「突然どうしたんだ?」
マリナは和矢のベッドに腰掛けた。
「ちょっと話したいことがあって」
「……コーヒーのむ?」
「うん」
和矢はミニキッチンに向かった。
「兄上、ガラスは大丈夫だった?」
「ああ。どこもケガはなかったよ」
「よかった」
マリナはほっと息をついた。和矢がサイフォンに水をセットした。すぐにコポコポと音がし始めて、香ばしい匂いがただよってきた。
「ね、このままでいいと思う?」
「なにが?」
「薫」
和矢は「ああ…」と頷きながら、天吊りの戸棚からマイセンのマグカップを二つ出してきて、流し台の上にトンと置いた。
「このままじゃダメだと思うの。兄上はいつ目覚めるかわかんないんでしょ。こんな状態が続くと、薫の方が先にまいっちゃうわ」
「……うん」
「兄上は、ちゃんと病院に行った方がいいと思うんだけど」
和矢が振り返った。
「病院になんか行けないってわかって言ってる?」
和矢の声が、少し非難めいた響きを含んだ。マリナはちょっと顔をしかめた。別にあたしは兄上をつかまえさせたいわけじゃないわ、と思った。
「だから、シャルルに頼むしかないでしょ?」
和矢との間で、シャルルの名前が出たのはこれが二回目だ。一回目は美女丸の結婚式のときだった。三年の間で二回しか名前が出ないというのは、少ないのかもしれない。
特に避けていたというわけじゃない。でも、わざわざ話題に出すこともないと思い、和矢もまた彼の話をすることはなく、今までずっと触れてはこなかった。口に出すと、紙やすりで肌を撫でられたように胸の中がざらついて、少し後悔した。
コポコポというサイフォンの音がくぐもった音に変わった。
和矢は黙ったままで、何も答えない。マリナは焦れて、いま後悔したばかりの話題を、さらに矢継ぎ早に言った。
「きっとシャルルなら兄上をなおせるわ。もともと薫が飛び出してきちゃっただけなんだし、パリに戻るか、シャルルに来てもらうか、どっちかにすればいいのよ。薫は嫌がってるけど、もうそんなこと言ってられないと思うわ」
「だけどさマリナ、それで響谷はよろこぶかな?」
ようやく答えが返ってきた。
「響谷はアルディ家を自分の意思で出てきたんだろ。リスクは承知だったはずだ。その彼女の意思をオレたちが勝手に無視していいとは、オレには思えないよ」
「そうだけど……」
サイフォンがカチッと音を立てて、出来上がりを告げた。
「もう少し様子を見よう。オレたちがこの家にきて、まだ二週間しか経ってない。何かを判断するにしても、早すぎるよ。そうだろ?」
まるで幼子をあやすように和矢はいうと、くるりと背中を向けて、サイフォンからマグカップにコーヒーを注いだ。
淹れたてのコーヒー独特の目がさめるようないい匂いがさらに強まる。
和矢はカップをマリナに渡して、もう一つを手に彼女の隣に座った。
「砂糖とミルクある? あたし、ブラックだと眠れなくなっちゃう」
とたん、和矢が弾かれたように立ち上がった。
「ごめん、ないんだ。キッチンでもらってくる」
「待って! いい、いらない」
「そうか?」
「うん。たまには眠れない夜もいいわ」
一瞬、間が空いた。
「そっか、マンガがんばらないといけないもんな。響谷に言われてるんだろ。次こそって。応援してるから、がんばれよ」
和矢が笑いながら腰を下ろした。
マリナは黙ってコーヒーに口をつけた。
……やっぱり苦い。今夜のコーヒーは頭の芯までしびれる気がする。
和矢もマグカップを口に運んだ。
シンと音が聞こえるような沈黙が広がった。
なにか話さなくちゃ。
頭の中を必死でさがした。半年前ほど前、アパートの部屋でふたりで過ごしていたとき和矢がした話をふと思い出した。
「知ってる? 昔はコーヒーって媚薬だったんだぜ。コーヒーはコーヒー豆を焙煎して作るんだけど、恋を成就させるために香りの強い飲み物を作ったっていう説が有力なんだ。つまり、ハグしたいときは浅煎り、キスしたいときは中煎り、って感じで使いわけるわけ」
もらったばかりのコーヒーに、ミルクと砂糖をたっぷり入れて飲んでいたマリナが「これは何?」と尋ねると、びっくりするような答えが返ってきた。
「深煎り」
「えっ…」
「バーカ。信じただろ? ぜんぶ作り話だよ」
そう言って抱きしめてきた彼は、いま隣で静かにコーヒーを飲んでいる。
やっぱり和矢は変わった。というか、一言で表すならヘンだ。それは、薫の心配をできる程度に普通で、マリナのコーヒーの好みを忘れるほどに深刻らしい。
いったい何だろう。
「和矢」
直接、本人に聞いてみるしかない。
「ん、なに?」
彼らしい優しい笑顔が向けられた。瞬間、切ない気持ちが胸の中で爆発した。
「こ……」
「こ?」
和矢が首をかしげる。
―――今夜、一緒に過ごしたいの。
そう言おうとして、マリナは全く違う言葉を言っていた。
「このコーヒーおいしいわねっ! どこのコーヒー!?」
和矢がリスのようにキョトンとした顔をする。
「エチオピア産だよ。深煎り」
「そう! ごちそうさまでした!」
マリナはまだ熱いコーヒーを無理やりぐいっと飲み干し、彼にカップを押し付けて立ち上がった。
「おやすみ、腹出して寝るなよ」
和矢の声を背中に感じながら、部屋を後にした。
ひとりでひどく空回りしてる気がした。
6
「ありがとうございますっ!」
マリナはもう何回目かわからないお礼を口にした。泣きそうだ。
「じゃあすぐこっちに来て。いいね?」
「いますぐ、とんでいくわ、いきますともっ!」
切れた子機をマリナは丁重に置いた。それにむかって両手を合わせる。松井さんありがとう。これまでひどいことを言ってごめんなさい。あなたは本当はいい人だったのね。
三か月ぶりの仕事の依頼だ。しかも編集部からのお声かかりなんて―――ひょっとして今夜にでも世界が終わるんだろうか。
マリナはぎゅっとほっぺたをつねった。痛い。夢じゃない。
ふふんと部屋の中を舞った。かわりばえしない古臭い部屋が、薔薇色のダンスホールに見えた。
よし、すぐに出版社にいこう。
と勢い込んだ瞬間に、思い出した。
「……そうだ、兄上!」
後ろのベッドで兄上は静かに眠っている。
今日は薫がいない。新都フィルの首席としての初参加の日だ。和矢は大学に行っている。及川は買い物に出かけて留守だ。つまり、兄上をみることのできる人間は、自分以外誰もいない。
まさか放っていくわけにはいかない。薫との約束があるし、友情だけがあたしの財産だ。それを捨てて何が残るかと考えれば、価値のあるものはひとつも残らない気がした。
けれど、ここで巡ってきたチャンスをみすみす捨てるのも惜しい。
せめて及川が帰ってくるのを待とうか。いや、彼女の買い物は長い。「薫様には一級品を」と言って、こだわりの品を求めて都心まで出かけるので、ゆうに四時間はかかる。その間に短気な松井さんは心変わりしてしまうだろう。
意味なくあたりをきょろきょろ見渡す。
「どうしよう……」
すると突然、後ろから低い声がした。
「行っていいよ」
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