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Channel: りんごの木の下で
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愛に濡れた黙示録 22

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《ご注意》第一話の注意事項をご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧ください。フィクションであり、実在の団体とは一切無関係です。






10


二月に入っていた。空気が底を打ったように冷たい。
マリナは車の中でわめいた。背中が汗ばんできたからだ。少し厚着をしすぎたようだと後悔しきりだ。もともと寒がりで、かつ貧乏に耐えてきた彼女は、基本的に厚着の傾向がある。それは暖房の行き届いた響谷家のひと冬でも根本的に変わらずにいた。後部座席から「暑い」「暖房を下げて」と何度も要求した。
一方、助手席に座る和矢は、Tシャツにブルゾンだけと薄着だ。マリナの隣にいる薫もまた同様だ。上品な灰色のパンツスーツと着流したようなトレンチコートが彼女らしい。和矢はカーエアコンのダイヤルに手を伸ばした。

「えっと、このぐらい?」
「もっと!」
「え? これ以上だと冷房になるぜ」
「いいわ。じゃんじゃんきかせてちょうだい!」

薫がため息をついた。

「いい加減にしろ。冷蔵庫にするつもりか」

和矢はダイヤルを戻した。マリナは憮然とした。
確か理科で習った。魚やイモリなんかは周囲の温度で体温も変化してしまうという。きっと薫も和矢も人間じゃなくて変温動物なんでしょ。そういうと、
「それなら、寒がりのおまえさんの方がそうだろ」
という答えが返ってきた。
果たして寒さに強い方が変温動物か、弱い方が変温動物か。
すっかりマリナが悩んでいる間に、車は高速道路を降りて目的地に到着した。和矢が先に降りてドアを開けてくれた。ガラス張りの巨大な建物が、冬とはいえ真昼のまぶしい太陽を強く反射した。飛行機が離発着する地響きのような音が連続して聞こえる。
マリナは両手を伸ばして思いっきり息を吸い込んだ。火照った体に冷気が気持ちよかった。が、あっという間に体が冷えて震えが走った。

「寒い、すごく寒い」カチカチ歯を合わせる。
「いちいち文句の多いヤツだ」続いて降りてきた薫が、呆れ顔で言った。
「だって!」
「なら車にいればいいだろ。あばよ、マリナちゃん」

薫はバイオリンケースを担ぎ上げて、さっさと自動ドアを入っていった。運転手から薫のスーツケースを受け取った和矢もだ。

「うわーん、おいてかないでよ!」

迷子になるでしょと、マリナは慌てて彼女たちの後を追った。
成田空港に来るのは一ヶ月ぶりだ。
兄上が去った直後、薫は渡欧を決意した。兄上が提示した再会の条件「楽友協会のニューイヤーを獲る」を果たすためだ。彼女は今日からウィーンに移住する。そのために、ずっと連絡すら取っていなかった父親に薫は頭を下げた。

「あのオケは女性を認めないんだ」

和矢が事情のわからないマリナに教えてくれた。

「伝統的に男性しか入れない。しかも巽さんの条件はソリストとしてだ。ニューイヤーでバイオリンのソロが立ったという前例は、これまで一度もない」
「ということは……」
「ああ」和矢が膝の上に立てた両手で下顎を押さえた。「ほぼ不可能な条件だ」

マリナは窓辺にたつ薫を見た。

「不可能がなんだっていうんだ」薫は言った。
「だって、あんた……」
「男だって女だって関係ない。前例なんかいらない。必要なのはバイオリン一丁。それだけだ。どんな手だって使ってやってやる」
「薫……」

薫が振り返った。

「ああ、やってやる。ウィーンに殴り込みだ!」

彼女はニヤッと自信ありげに笑って、右手を拳に握りしめた。マリナは感動した。ああ、やっと本当の薫に出会えた―――そんな気がした。

「そうよ。あたしはあんたなら絶対にやると信じてる。兄上もそのはずよ」

マリナは言った。

「伝統をぶっ壊して、伝説を作るのよ。響谷薫伝説よ!」

もちろんそのつもりだ、と薫は答えた。

「そうだ、君ならできるよ」

和矢も力強く言った。そのあと、マリナと和矢だけの演奏会が響谷家で開かれた。マリナにはわからない曲をたくさんと、キラキラ星を薫は弾いた。
それから一ヶ月、兄上と一緒に及川も姿を消した響谷家では、家事や雑事に慌ただしかったが、薫は準備を順調に整え、いよいよ出発の日を迎えた。








手続きを終えた薫は搭乗口で振り返った。渋皮色のバイオリンケースだけを片手にさげている。

「じゃあな、ふたりとも元気で」
「薫、まって。忘れ物よ」

マリナが彼女を呼び止めた。

「及川がいないと不便でしょ。連れていって」

薫が怪訝そうな顔でマリナを見る。

「なんのことだ?」
「だーかーら! あんたの生活の面倒を見てあげようっていうのよ!」
「は……?」
「だってあんたって完璧なお嬢様育ちでしょ。ご飯も作れない。洗濯掃除もできない。クローゼットにベッドの上のものを押し込んで、片付けたと言ってのけるあの神経じゃ、ウィーンで屋内ホームレスになるのがいいところよ。あたし、心配でとてもじっとしてられないわ」
「あのなぁ……マリナ」

薫がやれやれといった風情で額に手をやった。

「おまえさんに心配されるほどあたしは落ちぶれちゃいないよ。バカにすんじゃない」
「だめよ。もうチケットも取ってあるんだから。ね、和矢?」

隣の和矢を見る。彼が「ああ」と頷いた。

「和矢を連れていって」

薫はこれ以上びっくりすることはないというように、目を見開いた。







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