《ご注意》第一話の注意事項をご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧ください。
シャルルは彼女に背中を向け、消火のため部屋の奥に位置を変えたテーブルの上に手にしたピッチャーを置いた。黒いシャツの背中が凛としている。
「あの飛行機で、あんたとワインをたらふく飲んだわね」
マリナはそこまでしか言えなかった。無論、忘れているわけはなかった。二人でワインを痛飲して、ひどく酔っ払い、そのあと嵐のようにシャルルに抱かれたことは、脳と体に刻みこまれている。
「あたし、忘れてないけど……?」
蚊の泣くような声で囁いた彼女に、シャルルの硬い声が響く。
「いや、君は忘れてる」
マリナは首を傾げた。もう一度自分の頭の中を整理する。けれど、どうしても何も見つけられない。少なくともシャルルの語勢にひそむとげとげしさに呼応するだけの回答は発見できなかった。
「ぜんぜんわからないわ。はっきり言いなさいよ。一体なんなの?」
シャルルは振り返り、一呼吸おいてから、明瞭に言った。
「君はカズヤの名前を呼んだんだ。飛行機のベッドの上で、オレに抱かれながら何度も何度もね」
マリナは黙る。文字通り言葉を失った。シャルルも黙りこんだ。二人のあいだに重苦しい沈黙が流れた。
シャルルが何に苦しんでいたのかを知って、マリナは青ざめた。確かにあのとき和矢を思い出したのは事実だった。
「あたし、そんなこと言った…?」
声が裏返った。泥酔していため、自分の行動にもかかわらず、霞にかかったように覚えていない部分があることに気づいた。結果、語調が弱くなる。
「別にいいよ。忘れるためにセックスすればいいと提案したのは、オレだ。心が弱った君につけこんだわけだから、文句をいう気はない。だけど」
シャルルは真剣な表情で、うろたえるマリナを眺めていた。
「娼婦は、少なくともオレの腕の中ではオレだけを思ってるふりをする。彼女たちはそれが仕事だから当然だ。だが、君は違うし、演技なんかできないだろう。なら、中途半端に男を受け入れるのはやめたほうがいい」
先ほど頭の片隅に追いやった“娼婦以下”発言の真意をようやく悟って、マリナは動揺した。目を何度もしばたかせ、声を上げようとした。うまく言葉にできず、もつれるように叫んだ。
「それはっ、あんたがそうしろって言ったから!」
シャルルが吹っ切るように強く首を振った。さらっと白金のくせのない髪が音を立てて散った気がした。
「そうだ。だからいいじゃないか。君を抱きたいというオレのわがままに、君は付き合ってくれただけだ。お礼に君の生活は保障する。その代わり、オレのことは放っておいてくれ」
「放っておけって?」
「ああ。君を傷つけることはしないから」
「あたしを傷つけないですって?」
シャルルは頷いた。
「誓う」
「それで、あんたは今までとおり娼館に通うつもりなの?」
「そのほうが、君に負担をかけないだろ」
毅然と言い放った彼に、マリナは返事ができない。
今まで懸命にこらえていたものが心の中で崩れていく音を聞いた。それはカークから情報を聞かされたときの衝撃より、『ざくろ通り』に入っていくシャルルを見たあの瞬間より、さらに激しくマリナを突き動かした。圧倒されて、マリナは胸を押さえた。
「うそだよ」
唐突にシャルルはそう言いだした。
「研究のサンプリングのため、娼婦と会っていただけだ。それ以上の接触はしていない。かなりきわどいお誘いも受けたけどね。ただ、オレは」
彼にみなまで言わせないうちに、マリナは夢中で床を蹴って、彼の腕をつかんだ。もう真実などどうでもいいと思った。
「ダメよ、あんたはあたしのものよ。他のひとには触れさせないわ」
手早く言って、彼の目を覗き込む。二人の視線がピシッと音を立てたようにぶつかった。
「そういうことするなら、あたしと…」
「え?」
「あたしとしてよ!」
シャルルは一瞬茫然とした表情になった。そして少し間をおいてから、
「でも、君はカズヤがいいんだろう?」
と答えた。それは、先ほどまでの人をからかうような声とはまるで違う、震えた声だった。
天才のくせに、女心はわからないらしい。「カズヤがいいんだろう」と、拗ねた子供のように問うシャルルが愛しいと、マリナははじめて心から思った。和矢への感情とは違うその強い思いは、新しい恋の中に飛び込む覚悟ができたことを教えてくれた。
もう迷わない。後ろのものは忘れ、ひたすら前に向かってみせる。
マリナは小さく笑い、優しく言った。
「今は、シャルルだけが好きなの」
途端、ものすごい力で引き寄せられて、腕の中に深く抱きしめられた。飛行機の中と変わらない強い花の香りに陶酔しながら、マリナは目を閉じた。
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