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愛に濡れた黙示録 31

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《ご注意》第一話の注意事項をご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧ください。







13


マリナはアルディ家に戻った。カークとは門の手前で別れた。出てきたときと同じようにバラ園を通り、窓をよじ登って自分の部屋に入った。明かりを消した部屋の中で、ベッドサイドのランプがクッションを詰めたベッドをこんもりと照らしていた。

「大丈夫か」

カークは別れる前、何度もそう聞いた。カークは、ようやく悟ったシャルルとマリナの関係に驚きを見せつつ、同時に、娼館に通うシャルルの姿を目撃した彼女を心の底から憂慮している様子だった。
大丈夫、全然平気と答えると、彼の心配はさらに増したようだ。カークは「オレ、一緒にシャルルと会うよ」とまで言ってくれた。優しさだけ受け取って、マリナは彼の申し出をきっぱりと断った。

「本当に大丈夫よ」
「だって……」
「あたし、別にシャルルのことなんて何とも思ってないもの! だけどアルディ家の当主として人のうわさになるようなことをしちゃいけないわよね。ここはひとつ、あたしがビシッといってやるから、カーク、あんたは安心していいわ、わっはっは!」

マリナのこの言葉は、ただの強がりと思われただけで終わった。カークは一気にうなだれて、めちゃくちゃに頭を掻いたり、深いため息をついたりした。マリナを『ざくろ通り』に連れてきた自分の行動を心から悔いているのが、ありありとわかった。マリナは平気な顔をし続けた。
だって本当に傷ついてなんかいない、と思ったからだ。
部屋に戻った彼女は、ベッドからクッションを取り出して枕元に放り投げ、腰を下ろした。目を閉じて頭を空っぽにした。空気が鉛のように重く感じた。
二十二時ちょうどにドアがノックされた。応じると、シャルルが顔を見せた。

「こんばんは、マリナちゃん」

美しい微笑。いつもと変わりない挨拶。

「ご機嫌はいかがかな」

体を斜めにずらして扉を閉める彼に、マリナは答えた。

「悪くないわ。いつもどおりよ。あんたは元気?」
「問題ないよ」
「そう」
「今日のおみやげだ」

ブルーのリボンがかかった文庫本の半分くらいの大きさの白い箱が差し出された。「これ、なに?」マリナが聞くと、「あけてごらん」とシャルルは言った。マリナはリボンをほどいた。縦に一列、横に三列。合計三個の美しいチョコレートが行儀よく並んでいる。ありがとう、と言ってから彼女は金柑のように丸い一粒を口に入れた。すぐに口の中で形が消え溶けていった。

「おいしい」
「それは光栄。作らせたかいがあったよ」

マリナはシャルルの顔を見た。

「作ったの?」
「ああ。オレのレシピ」

彼は自信たっぷりに微笑んでいた。

「どうしてわざわざ?」
「君がよろこぶかと思って」
「え?」
「普通の菓子は食べ飽きてつまらないって、先週言ってただろ? だからさ」
「ええーっ…、確かにそうは言ったけど……」
「世界中でたったひとつ。どこにもないショコラだ。これならつまらないなんていわせないぜ」

マリナは口を半開きにして固まった。シャルルは「食べろよ」とさらに勧めた。マリナはカクンと頷いて、もう一粒を手にとって食べた。二個目はハート型だ。今度はいつまでも溶けずに、口中で味蕾を刺激し続ける。さきほどとはまったく違う味わいだ。

「おいしい……ものすごくおいしいわ」
「よかった」

シャルルは目を細めた。微笑みが柔らかくなった。とても嬉しそうだった。口の中に残ったチョコレートを飲み込んだ途端、マリナは思い出した。『ざくろ通り』にあるナイトクラブ『蝶の夢』のことを。

「シャルル、聞きたいことがあるの」
「なに?」
「あんた、今までどこにいたの?」
「オレかい? 仕事だよ。今日はオート・エコールに行った後、夕方からはエリゼ宮で外務次官と懇談があってね。無能な連中のせいで遅くなった」

彼はあっさりと答えた。マリナはしげしげと彼の顔を見つめた。

「それ、何時までかかったの?」
「どうしてそんなことを聞くんだい?」

それを説明しようとすると、外出禁止を破って出かけたことを話さなければならない。カークにも迷惑がかかる。マリナは一瞬躊躇してから、自分の見たことをすべてありのままに打ち明けた。

「―――そう。それで?」

シャルルはそれだけ言った。マリナが予想していなかった淡白な反応だった。彼は表情をまったく変えなかった。

「認めるの? その店に行ったって」
「否定する気はない」
「じゃあ……」

マリナはそのまま黙った。後の言葉は出てこなかった。

「ほかに質問は?」
「え……ええと、カークだって心配してたわ。アルディ家当主が…ってうわさになってるって。そのお店はよくないお店だって……」
「そうか。わかった。あの日米ハーフのインディアン崩れにはオレから説明しておく。それでいいだろ。君の用事がそれだけなら、話はおわりだ。じゃあ、おやすみ」

シャルルは背中を向けた。そして部屋を出て行こうとした。

「まっ、まってよ!」

マリナはあわてて声を上げた。彼の足がドアの手前で止まった。

「あたしには説明なしなのっ!?」

シャルルは振り向かずに深呼吸をひとつしてから答えた。

「君に説明が必要か?」
「必要でしょ! だってあたしたちは…っ」
「オレたちが、なに?」
「えっ」
「オレたちはなんの関係でもないだろ」
「いや……でも、あのときあんたはあたしを」
「一度くらいセックスしたからって、恋人きどりするなよ」

ひやりとするほど冷たい口調だった。

「マリナちゃん、よく聞きなよ。確かにオレは君を抱きたいと思ってた。けれど、君を抱いてみてわかった。娼婦を抱いた方がマシだってね」

マリナは自分の体じゅうから血が引いていくのがわかった。次の瞬間、はっきりと自分が娼婦扱いを、いやそれ以下の扱いをされていることを悟り、マグマのように熱い怒りが体を駆け巡った。

「どうしてそんなひどいこと言うの?」
「それがわからないうちは、菓子が似合いだよ。永遠に君には菓子をささげてあげるよ。オレの知恵のかぎりをつくして、君が退屈しない菓子をね」

シャルルはちらっと振り返って薄く笑った。

「おやすみ、お嬢ちゃん。よい夢を」

それだけで彼はすぐに部屋を出て行った。立ち去っていく彼の背中を、マリナは震えながら見送ることしかできなかった。







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