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Channel: りんごの木の下で
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梅雨恋情

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私がその地へいきたいと思ったのは二年前だ。懇意にしている財団からの誘いがあったのだ。新しい遺跡を発掘したから、ぜひ調査に協力してほしいという。最初は断ったが、七世紀ごろの書簡らしきものが見つかっていると聞いて、心が動いた。それが本物であれば、ぜひこの目で見てみたい。私はすぐに「了承した」と返事をしていた。
かの地―――日本は変わっていなかった。私がいったのは六月。それが情緒と勘違いしているのか、日本の地は相変わらず蒸し暑く、シャツの首元が汗ばみ、辟易した。
私は財団の役員の案内で、すぐに現地にむかった。京都の山科だ。緑の山奥に遺跡はあった。さっと検分して、本物だと思った。それから時間をかけて調べた。久しぶりに面白い研究材料に出会え、自分の脳細胞が踊るように喜んでいるのがわかった。
結局、京都には一週間滞在した。これは私には珍しいことだ。
ほぼ毎日降り続く小雨は気に入らなかったし、財団が用意したホテルは京都では一流ということだが、私が納得できるものではなかった。枕は硬い。部屋は明るすぎる。何より食事が最低だ。それでも京都にとどまり続けたのは、この遺跡を解明すべしと、私の好奇心が命じたからだろう。
「さすがは世界のアルディ博士」
そんな世辞を何度聞いたかわからない。けれど、そのような言葉が私の力となることはない。幼少時代から聞き飽きた言葉だからだ。むしろ、賛美されればされるほど、その相手へのアレルギー症状を起こすだけだった。
一週間後、私は、満足のいく研究成果と、私の接待を担当した財団役員への嫌悪感を抱いて京都を出発した。
新幹線で東京に出て、成田空港からパリに戻ることに決めた。関西空港を使わず、成田を選んだ理由は、特にない。強いていえば、帰国後すぐに国内で新型超高速鉄道の開発に携わる予定だった。そのため、世界で賞賛されている日本の新幹線技術を体感しておきたかっただけだ。
……本当にそれだけか?
私は心の声を無視して、新幹線に乗車した。平日のグリーン席は閑散としていた。京都をでた時、この車両には私以外、客はいないように見えた。雨はその日も降っていた。ちょうど関ヶ原を通過する時分だったように記憶している。ゴオンという音とともに、窓を叩く雨の音が強くなった。
浜松を過ぎた頃、その雨が弱くなった。
もうすぐ東京につくと思うと、私は落ち着かなくなった。やはり関西空港から帰ればよかったと思ったが、後の祭りだった。なみだ雨のような水滴が窓を伝い続けた。
横浜に停車した。あいつは元気にしているだろうか、と思った。
もしかして、横浜に二人で住んでいるのかもしれないとも考えた。幸せならそれでいい。幸せを祈るぐらいの男でありたい―――そう願って十年が経つ。結婚しているのが普通だ。子供もいるかもしれない。優しい夫に愛される充実した妻になっているだろう。
そしてこんな雨の日も、ふたりの家は愛で包まれているのだろう。
私は強制的に自らの意識をその思いから断った。やはりこの国に来たのは、間違いだったと痛感した。一刻も早くパリに帰ろう。この国は、私が過去においてきた色あせた夢を呼び起こし、あざやかに着色する。そしてそれは私を骨抜きにし、ついには私をダメにするだろう。
新幹線が東京に着いた。私はすぐに成田に向かおうとした。けれど、足が止まった。
飯田橋―――中央線の案内板にあるこの三文字から目が離せなくなったのだ。
私は何かに操られたように、その電車に乗った。そして、その駅で降りた。私は一度見たものは忘れない。小雨の中、傘もささず、私は、昔訪れた記憶を辿った。すると記憶と寸分かわりない様子で目当てのアパートがあった。
雨で濡れた鉄階段をのぼった。二つ目の部屋の扉の前に立つと、縁が変色した『池田』という名札が掲げてあった。私の心臓は動悸をはじめた。
十年だ。小菅で別れてから十年。
まさか、まだここにひとりで住んでいるのか……?
私は震える手でノックをした。

「―――シャルルったら、何を笑ってるの?」

マリナが読んでいる本から顔を上げた。一心に読んでいたと思ったが、意外にも私のことも気にかけてくれていたらしい。

「いや、昔を思い出してね」
「昔?」
「ああ。記憶の宮殿について」
「記憶の宮殿?」

私はソファに背をあずけながら、頷いた。

「人はおのおの脳の中に宮殿を持っているんだよ。宮殿はあらゆる用途に使われる場だ。社交、政治、外交、王族の家族生活……。つまり、人間はたくさんの情報を宮殿のように脳内に収納して、その記憶を自由に引き出して使うってことさ。知ってた?」
「ふーん。それで?」

マリナはあまり興味がないという顔をして、本に視線を戻した。満月のように膨らんだ腹を優しく撫でている。私は苦笑した。やはり、彼女は自由気ままだ。そんな彼女が私の妻であることが未だに夢ではないかと思う。
二年前、飯田橋のアパートの一室を私は信じられない思いでノックした。「はーい」という明るい声がして、ドアが開いた。
その瞬間の君の顔は、私の記憶の宮殿で、今も王座を占めている。







《Fin》

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