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愛に濡れた黙示録 44

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《ご注意》第一話の注意事項をご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧ください。






先ほどまで真っ赤に空を染めていた夕日は、ビルの合間に沈み、夕闇が分刻みに垂れ込みはじめていた。
『ざくろ通り』には二十軒ほどの店がある。ほとんどが派手なネオンが掲げるパブで、通りには幾人かが歩いている。
だが『蝶の夢』の前は静かだった。誰もが見ないふりをしているかのように、足早に店の前を通り過ぎていく。
ジルとマリナは店の前に立った。ジルは、大きな蝶がデザインされた黒いドアをまず見て、それから隅の方に小さく記してある看板の文字を確認してから、ほとんど頭を動かさず周囲を見渡して短い息をついた。

「まだ誰も来ていないようですね」
「そうね」

マリナも同じように息を吐いた。指の先がぴりりとしびれた。いつの間か呼吸を止めていたらしい。ものすごく緊張していることを自覚して、マリナは怖気づいた。

「あの、ジル」

ジルの肩に手をかけた。

「なんですか?」

ジルがマリナを振り返った。

「あたし、やっぱり帰るわ」
「帰る?」
「うん。ジルが手配してくれたおかげで薫は兄上と会えそうだし、あたしはそれで満足よ。わざわざ立ち会って確認しなくてもいいわ」

マリナは後悔していた。もちろん薫たちのことではない。和矢のことだ。和矢はマリナが取材旅行中だと思っているはずだ。響谷家の鍵を預かる予定だったマリナが長期不在する理由として、響谷家の弁護士を通じてウィーンの薫に「マンガのための取材旅行に出かけた」と連絡を入れていたからだ。それがパリに、しかもアルディ家にシャルルの恋人として滞在しているなんて、どう説明したらよいのかわからなくなったのだ。
和矢の再会に備えて、とっくに腹をくくったと思っていたのに、なんと意志薄弱なのだろう。そんな自分を情けなく思いながらも、とりあえずこの場は逃げようと決めた。

「じゃあね。あとはよろしく」

ジルに背をむけて歩き出そうとした途端、ジルがマリナの左手をつかんだ。

「ダメです。いてください」

儚げな外見に似合わない強い力だった。

「え、どうして?」

ジルは答えずに、ただ首を一度だけ横に振った。まなざしが音を立てそうなほど厳しかった。マリナはあっ、と声をあげそうになった。
そのとき、マリナはジルが同行した理由をようやく理解した。ジルは命令を忠実に果たしているにすぎない。つまり、マリナがこの場にいることを望んでいるのはシャルルだ。
でも、どうして?
薫たちの選ぶ結果を見届けさせたかったのか。
それとも、シャルルはあたしと和矢を会わせたかったのだろうか。
マリナは困惑した。彼の気持ちが理解できなかった。

「みなさまを待つのは店の前でよろしいですか?」

と、ジルは何事もなかったかのように言った。白く細い指はしっかりとマリナを捉え、いささかも緩む気配すらなかった。マリナはため息をついて抵抗をあきらめ、自由なほうの手で通りの反対側を指さした。

「待つならこっちがいいわ」

兄上といつも話す場所は、店の斜向かい側の潰れたパブの前だった。ここだけはネオンが消え、黒いマジックで塗りつぶしたように夜の街で目立たない。世を忍ぶ立場の兄上には好都合といえた。もっともマリナがそこまで気を回したわけではない。当初、店の真ん前で待っていたマリナを「気が利かない」と皮肉った及川の発案だ。
店からは五メートルほど離れているが、店に話し声は届いているらしい。よくミリアムが「うるさい、殺すよ!」と怒鳴りながら顔を出す。
ジルは納得した様子で頷いてその場所に向かった。マリナも大人しく続いた。
ふたりはそこでじっと待った。マリナは長身の彼女を盾代わりにその後ろに隠れて頭を引っ込めた。もはや隠れる意味はないと思うが、本能的な防御に近かった。目の端で通りの様子を覗き見る。
ちょうど午後七時になったころだった。
通りの向こうに小さく薫の姿が見えた。薫は迷う様子もなく『蝶の夢』の前まで来ると、すばやく辺りを見渡した。ゼイゼイと肩で荒い息をしている。
と、ジルに気づいた薫は、たちまちこの世で最も汚れたものを見たという顔になった。が、すぐに当惑顔に変化した。

「……あんた、誰?」

どうやら、目の前の人物がシャルルではないことに気づいたらしい。

「はじめましてカオル。私はジル。シャルルのいとこです」

ジルは淡々と自己紹介をした。

「シャルルのいとこ? なんでいとこが? …ん? おい、その後ろでダンゴムシみたいに丸まってるやつ……」

直後、通り中に響き渡るような薫の大声が上がった。

「マリナっ!?」

いよいよ発見されて、マリナは観念した。もう今度こそ覚悟を決めるべく、ジルの背中から顔を出した。

「ひ、ひさしぶりね。薫」

唇を引きつらせた薫の顔が、一番先に目に入った。

「マリナおまえさん、一体なんだってこんなとこにいるんだ? マンガの取材旅行に行ったんじゃなかったのか? ……いやマリナの事情なんてどうでもいい。それより兄貴だ。兄貴はどこだ? どこにいるんだ!」
「あの、あのね」

マリナは説明を考えようと、視線を薫から逸らした。と、そのときようやく和矢の姿が見えないことに気づいた。和矢と薫は一緒に来ているはずだった。
だが、目の前の薫はそんなマリナにおかまいなしでわめきたて続ける。

「兄貴はどこだって聞いてるだろ、答えろよ! 答えろってば!」

ジルの背中から引きずり出されるように胸ぐらをつかまれて、マリナはあわてて薫の顔を見た。

「兄上は今にくるわ。待ってて」
「本当か?」
「本当よ。だって毎日あたしここで兄上と会ってたもの」

言ってからマリナは手で口を覆った。しまったと思ったが、もう手遅れで、案の定、薫はみるみる顔を紅潮させた。

「つまりおまえさんは兄貴がパリにいると知ってて、ずっと黙ってたのか……」

薫は興奮のあまり、言葉を失った。

「ちょっと待って! それには理由があるのよ!」

いっそのこと兄上の気持ちを話してしまおう、そう思ったマリナは無我夢中で首を振りながら事の次第を説明した。

「あたしはただおにぎりを差し入れしていただけよ。あとは薫、あんたの情報を兄上に伝えていたの。兄上はあんたが元気でやってるかどうか、いつも気にしてたのよ。でも、兄上が内緒にしてほしいって言ったのよ。しょうがなかったのよ、内緒にしないと兄上がまたどっかに行っちゃうから」

この説明は薫の怒りに油を注いだだけで終わった。薫は激しい語調でさらにまくしたてた。

「いいかげんなこと言うな! それなら兄貴がどっか行っちまう前にさっさと連絡してくりゃよかったじゃないか。あたしが待ってるって知ってて、なんで連絡しないでいられるんだ。シャルルと一緒になって、あたしを弄んで楽しんでたんだろ! あたしはマリナだけは信じてたんだ。救いようのない馬鹿で欲深いやつだけど、嘘だけはつかない人間だと思ってた。なのに……取材旅行なんて嘘八百言って……」

そのとき、『蝶の夢』のドアがバァンと勢い良く内側から開いた。

「うるっさーーーいっ! いい加減にしてよ!」

細い眉をひき吊り上げたミリアムだった。そこにいる全員がミリアムを振り返った。

「毎日毎日しつこいっ! これ以上騒いだら殺すっていってるだろ。タツミもチビもさっさと消えちまえ!」

叫んだ途端、ミリアムはハッとしたようにドアに左手をかけたまま、表情を止めた。

「あんたタツミ? いや、違う…?」

兄上とそっくりな薫を見て戸惑っている様子がありありと伝わって来る。この兄妹は男女の違いはともかく、顔の造作はよくにている。ミリアムが困惑するのも無理はなかった。
薫のほうも、突然怒鳴りながら現れたミリアムに、いぶかしげな視線を送っている。

「僕の妹だよ」

ふと、通りの奥のほうから声がした。きっぱりとした声だった。
薫が振り返った。マリナもジルもミリアムも一斉に声のほうを見た。
けばけばしいネオンの中に、兄上が立っていた。

「兄さん!」

薫が大声を上げた。兄上はゆっくりと薫たちのほうに近づいてきて、彼女の数歩手前で足を止めた。薫は凍りついたようにじっと兄上を見つめた。兄上は毅然とした表情をしていた。
小菅の拘置所で兄上が死刑を執行されて以来、兄妹がともに起きた状態で顔をあわせるのは、これが初めてだった。緊迫した空気が立ち込めた。
ミリアムは事情が飲み込めず、ドアに手にかけたまま立ち尽くしている。

「……ひどいよ、兄さん」

薫は涙声になっていた。

「あたしがどんなに会いたかったか、あんたにわかるかい。……どこにいるのか、元気でいるのかすら知らせずに……ただ、ニューイヤーを獲れって……むちゃくちゃな注文して……」

薫はあふれる涙を拭おうとしなかった。真正面から兄上を見つめるほおがひくひくと痙攣していた。

「どうして、もっと早くに」

涙で言葉が途切れた。薫は声を殺して泣いていたが、

「……もっと早くに会ってくれなかったんだよ!」

と声をあげて泣きふした。








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