《ご注意》第一話の注意事項をご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧ください。
⬛内容がハードです。心の準備のできた方だけ、お読みください。
Are you ready?
「Yes!」の方は、どうぞ!
気がついた時には、マリナはその場にしゃがみこんでいた。ふたりの会話が、頭から離れなかった。
「タツミをマインドコントロールしたのは、そのためだったはずでしょう―――」
思えば、ずっと違和感を覚えていた。そもそも、薫はどうして帰ってきたのか? 兄上はどうして寝たふりをしているのか? シャルルがあんな中途半端な状態でふたりを放り出すなんて―――と思っていた。
和矢も変だった。薫の家で下宿をはじめてから、彼は、豹変した。それまでは暑苦しいぐらいスキンシップを求めてきたのに、まるで憑き物が落ちたように、それがなくなった。薫たちのため、という理由だけで、納得できないものを感じていた。
そして、あの雪の夜だ。
寝たふりをしている兄上に気づいたマリナを、和矢はごまかそうとした。彼は、兄上の演技を前から知っていたのだ。そして黙っていた。それだけでも衝撃を受けたのに、和矢は薫に「耐えられないなら自分を殴れ」とまで言った。驚いた。
パリのシャルルを呼ぼうと、成田に行ったとき、シャルルと再会したのも、彼の計画のひとつだったのだ。彼は、どこかでマリナたちの行動を見ていて、最も効果的な時に、登場したのだろう。薫も兄上も和矢も、それから自分も、全員がシャルルの意のままに動いていたと思うと、背筋が寒くなる気がした。
きっとミリアムの件もそうだ。借金はともかく、兄上との面会場所を『蝶の夢』にしたのも、娼館通いの噂も策略だ。そうやって、シャルルは、マリナの嫉妬をかき立てたのだろう。
どうして、そこまでシャルルは―――。
マリナは自分を抱きしめた。情熱的に抱いてくれた彼の腕を思い出し、戦慄する。
「オレだけを愛してくれない彼女を、いつかきっと憎んでしまうだろう―――」
こわい、と思った。シャルルの愛は激しすぎる。
好きだと告げた。和矢を忘れて、前を向いて、彼と歩んでいこうとしていた。
けれど、彼の望む愛は底がない。どんなに注いでも「もっと」と言われている気がした。
これ以上、あたしにどうしろというの?
記憶喪失にでもなって、シャルル以外のすべての人のことを忘れれば、あんたは満足するの―――?
マリナは息苦しさを覚えて、床に手をついた。
窓のすぐそばの庭木がざわめいた。『ざくろ通り』でも吹いていた湿った夜風が梢を揺らすその音は、悪魔の笑い声をマリナに想起させた。
「それでは、私は、マリナさんを迎えに行ってきます」
ジルの声が近づいてきて、扉が内側からガチャッと開いた。次の瞬間、空気がはげしく揺れた。
「マリナさんっ!」
ジルはらしくない大声をあげた。マリナは顔を上げた。ジルは、目をこぼれ落ちそうなほど見開いている。
「どうして、こんなところに……。まさか、さきほどの話を」
彼女の後ろには、部屋の奥に置かれたデスクの向こうに、肘かけ椅子から腰を浮かせたシャルルがいた。同じ顔で、同じ表情を浮かべるふたり。
「マリナ……聞いてたのか」
シャルルに名を呼ばれ、ようやく我に返った。震えながら立ち上がったマリナはジルを押しのけ、デスクのシャルルに走り寄って、思い切り平手で彼のほおを打った。パッと白金色の長い髪が散った。
マリナは、彼に背を向けた。
「マリナさん、待って!」と、ジルの声。マリナは部屋を飛び出して、階段を駆け下りた。そのまま足を止めず無我夢中で屋敷を出た。息が切れ、頭がガンガンした。
彼女が、大きな門まで来たその瞬間だった。
「大丈夫か!?」と誰かが声をかけてきた。日本語だった。
声をかけてきたのは、さきほど別れたばかりのカークだった。『ざくろ通り』から送ってもらったそのままの場所に、彼の車があった。彼は運転席から顔を出していたのだ。
「おまえの様子がおかしかったから、心配で帰れなくて。どうした。何があった?」
マリナはカークの車に走り寄った。
「カーク、車を出して!」
「え?」
すばやく助手席に乗り込んで、バタンとドアを閉める。
「いいから、早くっ!」
「あ、ああ」
大急ぎでカークが、キィを回し、ギアを操作して、アクセルを強く踏み込んだ。瞬間、後ろのほうで大声が上がる。
「マリナ、行くな、行かないでくれ!!」
見ると、門からシャルルが飛び出してきていた。
いや、もうついてこないで―――!
マリナはハンドルにしがみつき、車道側に切った。
「何すんだマリナ!」
カークは力一杯ブレーキを踏みながらハンドルを戻そうとした。マリナは手を離さない。車は断末魔のような摩擦音を立て、スピンしながらアルディ家に向かった。シャルルが両手を広げて、車の前に躍り出た。ヘッドライトが、彼の姿を大きく照らした。
「うわっ、シャルルっ、よけろーーっ!!」
直後、車は歩道を乗り越え、アルディ家の塀に激突した。
19
十月に入っても、暑い日が続いていた。久しぶりに出版社に顔をだしたマリナは、いきなり松井さんに、「へえ、大人っぽくなったね」と言われた。
「恋人でもできた?」
マリナはかぶりを振りながら、原稿の枚数を数える。
「22、23っと……。ちょっと松井さん、それ、セクハラですよ!」
「あんた相手にセクハラなんかしないよ。まぁ、そうだよね、あんたを恋人にするような、そんな物好きもいないよねぇ~」
彼はがははと笑った。
「失礼ですよ。こんなあたしでもいいって人もいるんですよ!」
松井さんは、メタボリックなお腹を撫でた。
「わかってるよ。あのフランス人だろ? 確か年明けてすぐだったっけ? 新創刊の巻頭をあんたに任せるという大ボラをふけって、うちの社長伝いでオレを脅迫してきたあいつ。今回の仕事も、あの男がらみだろ? 仲良くやってんの?」
原稿をめくる手を、マリナはピタリと止める。
「違いますよ。彼は関係ないです」
思ったより、きつい声になった。松井さんがピクンと眉をあげる。
「そう。まあどうでもいいけど。さて、仕事の話に戻ろうか」
あっさりとそう言うと、松井さんは、マリナの原稿を取り上げ、ソファに深く腰掛けた。タバコを燻らせはじめた彼を、マリナは、変わらないなと思いながら見つめた。
今、打ち合わせしているのは、再来月の増刊号に掲載される読み切りだ。日本帰国後、すぐにもらった仕事で、今日ははじめて、プロットを見てもらいにきたのだ。
『蝶の夢』での一夜が明けた二週間後、マリナはパリを発った。ジルがすべてを手配してくれた。彼女はマリナに、日本での新しいすまいを提供し、絶縁された出版社からの仕事を速やかにとりつけ、それから、日用品を揃えるためにと、プラチナカードまで置いていってくれたのだ。
マリナはそれらをありがたく受けた。
本当はいらないと言いたかった。だが、そのセリフは最後まで形にならなかった。だって、プライドでご飯は食べられない。結果、あれから一ヶ月間、衣食住には困らない生活を過ごしている。彼女にはどうしても、それを確保しないといけない理由があった。
「じゃあ、それでよろしく。ところで、あんたの友達だったよね。ヒビキヤっていうバイオリニスト?」
原稿をバサッとテーブルに置いて、松井さんは突然そう切り出した。
「恒例のウィーンのニューイヤー、ソリストに内定したって速報がさっき入ったよ」
マリナは、思わず大声を上げた。
「ほんとですか!?」
「出版社の情報網をなめないでよね。なーんて、今朝、公式発表になったんだよ。衛星中継で記者会見もやってたよ。史上初の女性ソリストだからさ。同時に発売されたチケットは、すでにプレミアム状態だって話さ」
「そうですか……薫が……」
「あんた、テレビ見てないの?」
松井さんが、いかにも珍しいという言い方をする。
「うち、テレビないですから」
「シンジラレナイ。文化人じゃないね。不便じゃないの?」
「もう追われたくないんです。何にも」
微妙なアクセントになっていたのだろう。松井さんがちょっと笑った。
「ま、信念があるのはいいけどね。あんまり社会と隔絶した生活は送らないでよね。まんが家ってのは、流行に敏感じゃないとつとまらないからさぁ」
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