《ご注意》第一話冒頭の注意事項をよくご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧してください。
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「マリナ、カフェを淹れろ。マンデリンの中挽きをネルドリップで。温度は八十五度だ」
「だ―――っ! あたしはメイドじゃないってのっ!」
マリナは急ごしらえのソファベッドですやすやと眠っていた。なにせ昨夜は夜中にジェルブロワからパリまで移動して、その後、衝撃的事実を沢山聞いて、頭はノックアウト状態。ふらふらと倒れ込むように床に転がろうとすると、「こっちこっち!」と慌てたカークがソファに寝床を作ってくれたというわけだ。次に瞼が開いたのは、午前十一時だった。
「朝食だ、起きろ。起きないと水に沈めるぞ」
背筋が凍り付きそうな冷たい声にびっくりして飛び起きると、何やら美味しそうな匂いがする。くんくんと鼻をひくつかせながらカウンターに走りよって、マリナはじーんと心が震えるほど感激した。
「すごい美味しそう! クロワッサンにスクランブルエッグ、ベーコンサラダに、オニオンスープ、それに食後のイチゴまで! シャルル、ありがとう!」
「いや。早く食べよう」
シャルルがカウンターの窓側に座り、マリナも向かい合わせに腰を下ろしながら、ああ、こんな一面があったのねと今更ながら見直す。サン・ルイ島のシルヴァンのアパルトマンでも、ジェルブロワの屋敷でも食事関連はすべてシルヴァンが一手に引き受けていた。アルディの御曹司のシャルルに朝食を用意してもらえるとは思わなかった。これなら、当主でなくてもやっていけそう、なんて不埒なことを思った瞬間、シャルルが言った。
「マリナ、フォークがくすんでいる。取り替えてくれ」
「へ?」
言われて見てみると、別に汚れているようには見えない。大丈夫でしょと答えると、シャルルは頑として首を縦に振らない。しぶしぶ立ち上がり、勝手のわからないキッチンで代わりのフォークを見つけ出して取り替えて、元の椅子に座り、ようやくいただきますと言おうとした途端、再びシャルルが言った。
「マリナ、フィンガーボウルがない。用意してくれ」
「は? ボウル? 何それ?」
フォークとナイフを持ったまま聞くと、テーブルの上で指先を洗うための器だと言う。マリナはムッとして「手を洗いたけりゃ、そこの蛇口で洗えば?」と口を尖らせた。さあ、今度こそと、スクランブルエッグに狙いを定めた矢先、シャルルが飲み物がないと言い出して、マリナの堪忍袋の緒がぶつんと切れた。
「だ―――っ! あたしはメイドじゃないってのっ! あんたねぇ、これだけの食事を用意できるんだから、フォークだろうが、ボウルだろうが、カフェだろうが、自分でやりなさいよっ!!」
すると、シャルルはあっさりと一言。
「人間にはふさわしい役割がある。仕える者と仕えられる者。それだけだ」
彫像のように涼しいその顔に、マリナの額をたらりと冷や汗が流れた。
―――この朝食は、もしかして……。
そう思った瞬間、バタンと元気に扉が開いて、カークが顔を見せた。
「お、二人とも起きてた? おはよ! 朝食、口にあったかな? たいしたものがなくて、ちょっと恥ずかしいんだけどね」
右腕に長いバゲットの入った大きな紙袋を抱え、空いた左手で頭をかきながら、にこやかに笑うカークに、マリナは呆気に取られた後、心の底から納得した。やっぱりそうか。シャルルがいそいそと玉子を割って、フライパンでスクランブルを作るなんて図は想像できない。それにしても自分宛でない「ありがとう」というお礼の言葉をあっさりと受け流すなんて、図太いといったらない。これぐらいでないとアルディ家の人間なんてやってられないのかと、マリナは呆れるのを通り越して感心する。
「カーク、カフェをくれ」
こと細かい注文にカークは嫌な顔一つせず、「OK」と頷いて、キッチンに向かう。マリナははぁっと深いため息をつきながら、かっこむように朝食を平らげた。
二人の食事が終わった頃、カークは新しいマグカップに紅茶を三人分注いで、カウンターに置いてから、「実はさ」と切り出した。
「今朝のフィガロ紙の文化欄のトップ記事にルパートが出てる。映画祭への抱負を語ってるんだけど、それがさ……」
言いながら、折り畳んだ新聞をシャルルに手渡した。シャルルはそれをパラパラとすばやく開いて、直後、凍り付いたように動きを止める。カークも口に手を当てて、厳しい表情だ。二人の深刻ムードにマリナは驚いて、シャルルの手元の新聞をぐいっと自分に引き寄せた。ルパートの写真が大きく載っていた。いつものように、感情の見えない笑みを浮かべて、一人がけのソファにゆったりと座っている。
「なに? この記事が何なのっ!?」
シャルルは全く答えない。バサッと新聞をカウンターに投げ置くと、すっと立ち上がって、窓から外を見やる。カークがマリナの肩をそっと抱きながら、「あのね」と言った。
「映画祭で必ずグラン・パルムドールを獲るって言ってるんだけど、問題はここ。ここに『Ares Mars est mon ami.』ってあるだろ? これは日本語で言うと『軍神マルスが私にはついているから』って意味になるんだ」
マリナは「なんですって…っ!?」とカークの顔を見た。カークは強く頷き返す。
「これは、はっきりとシャルルへの警告だ。シルヴァンは手中にある。彼の身が心配なら、映画祭は降りろという……な」
「そんなっ! どうしてシルヴァンが…っ」
そこまで言いかけて、ぐっと言葉を飲み込んだ。目の前でカークが静かに首を横に振っている。マリナは昨夜に聞いた話を思い出した。
天使像のような見かけによらず、俊敏で策に長けた知恵を持ち、軍神マルスとまで呼ばれるあのシルヴァンがどうしてやすやすとルパートに捕まったか。それがどうしても腑に落ちなかったマリナは、一つの事実を聞かされた。シルヴァンが持って行ったフィルムが実は二本あったということ。映画祭事務局周辺で待ち受けていたルパートを、シルヴァンが引き付けている隙に、ひそかに本物を受け取った協力者アランが、事務局に届け出をすませたという。つまり、シルヴァンはフィルムを無事に届けるために、わざと我が身を晒したのだ。
「シャルル、これはオレの提案なんだけど」
カークがカウンターの上の新聞を手に取りながら、シャルルの背中に話しかけた。
「オレたちの仕事は順調だ。証拠はかなり固まって来てる。十日後には欧州機構の要人の証言が得られる予定だ。そうすれば、ルパートの反逆罪を立証できる。彼はアルディ家当主から降りることになるだろう」
そこでちょっと言葉を切ると、思い切ったように新聞をぎゅっと握る。
「だから、映画祭はあきらめないか?」
マリナはコクンと唾を飲んで、シャルルを見た。彼の背中はぴくりとも動かなかった。しばらく沈黙が広がり、カークが再び口を開いた。
「今のルパートは、はっきり言ってアブナいと思うんだ。アルディ事変にしろ、今度の大統領のアフリカ歴訪にしろ、武力行使の政策ばかりを強調する姿勢からは、かなり追いつめられたものを感じる。たとえシルヴァンが実の弟でも、容赦しないかもしれないって」
「予定通り、映画祭には出る」
言いにくそうに言葉を低くしたカークに、シャルルの抑揚のない声が重なった。カークはバッとカウンターの上に新聞を放り投げて、シャルルに向かって両手を握りしめる。
「それで本当にいいのかっ!? 君はそれで後悔しないのかっ!?」
答えないシャルルに、カークは「…わかった」とだけ答えた。ぐっと顔を歪めて、「エルネストと会ってくる」とそばの高椅子にかけてあったジャケットを引っ掴んで、部屋から出ていこうとする。
「待って、カーク!」
慌ててマリナが駆け寄ると、カークが戸口で足を止めた。
「大丈夫だよ、マリナ。オレはわかってるから。心配が必要なのは……」
かすかに聞こえるほどの声でささやきながら、視線だけを流す。マリナはハッとした。カークはニコッと哀しげに微笑んで「じゃ、行って来る」と出て行った。
一瞬、部屋がしんと静まり返る。
「冷酷非情だって言えよ」
淡々とした声に、マリナが振り返った。
「オレは目的のためなら手段を選ばないアルディの直系だからね。いざとなると、叔父だってなんだって切り捨てるさ。君も、そろそろ思い知った方がいいぜ。オレに優しさやら、思いやりやら、愛やらを期待するだけ無駄だってね」
窓の外を見たまま、シャルルは笑いをこぼす。
「アイツも本望だろ。愛した男のために死んで行くのなら」
嘲笑うように白いシャツに包まれた背中が引きつって、マリナはようやく知った。どれだけ彼が傷ついているかを。きっとシャルルは自分でルパートと戦いたかっただろう。それで、血を流して傷を負ったとしても、多分その方がシャルルにとって耐えられたに違いない。なのに、今は、自分だけ安全に守られて、シルヴァンを助けることすらできない。その無力さに誰よりも一番苦しんでいるのは、シャルルなんだ。それでも、未来のすべてを託したシルヴァンの願いから目を逸らさずに全身全霊で受け止めて、ただこうして立っているんだ―――!
その時、突然ガチャッと扉の開く音がして、「あ―――っ!」とマリナが大声で叫んだ。
「シルヴァン! よく帰って来たわねっ!」
シャルルが目を見開いて振り返った。途端に凍り付いたように固まる。
「なんて…ね?」
マリナが扉の取っ手に手をかけてお茶目に笑っている。シャルルの青灰色の瞳に瞬く間に動揺と怒りと、形容できない感情が吹き出して来るのを見つめながら、マリナはパタンと扉を閉じた。
「バカね、あんた。何を強がってるのよ。そんな強がりがあたしに通じると思ってんの? その顔に書いてあるわ。心配だって。辛くて苦しくて仕方がないってはっきり書いてあるわよ」
白い天使のようなカーブの頬をカッと屈辱に染めて、顔を強ばらせるシャルルに、マリナは一歩ずつ近寄って行った。
「ねぇ。心を正直に表すことは決して恥ずかしいことじゃないわ。あたし、あんたが冷酷非情だなんて思わない。あんた自身が何と言おうと、みんなはあんたが好きなのよ。だから、シルヴァンはあんたのために何もかも捨てたんだし、カークもあんたを信じてるんだし、あたしだってこんなにずっと一緒にいるのよ」
みるみる目を見開くシャルルの目の前に立つと、マリナはにっこりと笑う。
「だから、我慢しないで! あたしがいるわ! ねぇシャルル、シルヴァンはきっと願ってるわ。あんたがグラン・パルムドールを獲って、本当の正しさでルパートを打ち負かして、当主に返り咲くその日を、絶対に待って……うっ…」
言いながらマリナはひっくひっくと泣き出した。必死に両腕で顔をこする。狭い部屋にマリナのくぐもった泣き声だけが沈痛に響いて、やがてシャルルが「そうだな…」と言いながら、顔を上げた。
「絶対に獲る。すべての神々とアイツと、それから―――マリナ。君に誓おう」
マリナが目を上げると、そこには見たことのない顔があった。すべての絡み付く重荷を飲み込んで、それすらも力に変えようとしている不屈の精神に彩られた、力強い一人の男の顔だった。
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