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勲章 8 最終回

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《ご注意》パラドクス数年後。いわゆる二次創作です。
 これらの設定を受け付けない方は、閲覧を自己規制ください。
 全8回。
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epilogue





刈り入れの季節がやってきた。
もっとも村が美しい季節だ。家の数よりも畑の数が多いこの村は、あたり一帯が黄金色に染まる。実りのよい年はその色が濃くあざやかで、穂は重たげに頭をもたげて互いに寄り添いあいながら、畑全体がぐねり、ぐねりとうねる。さながら黄金の龍が悦楽にその身をくねらせているかのようだ。
日曜日の刈り入れまでには害虫を始末しておけという母の厳命に従って、私は家の裏手にある畑で、母が丹精した麦についた小さな虫をひとつずつつまみ出して、指の腹でつぶしていた。
父の借金は私がルパートから得た10万ユーロで完済することができた。母は「どこでどうやってあんな大金を手に入れたのか」と詰問してきたが、私は完黙を貫いた。残金がでたので母に服や家具などを買ってあげることができた。贅沢をしなければ、これからは母と二人つましく暮らしていけるだろうと思う。
畑がさあっと西日で明るくなった。目をあげると、山の頂に太陽が沈みはじめていた。――日没まであと三十分というところだろう。もう少しやって今日は切り上げよう。
私は再び麦の穂に目を戻した。
プチン、プチンと虫をつぶし続けているうちに、あたりが暗くなりはじめた。手元も見えなくなってきたので、今日の作業を終えて畑を出た。
家の裏庭に戻った途端、ひぃっと声をあげそうになった。夜の闇に紛れるようにして、男が立っているのだ。――と、次の瞬間には誰であるかわかった。
それはルパートだった。例のコバルトブルーの軍服ではなく、夜に溶け込みそうな漆黒のスーツに細いネクタイをしめている。軍帽も被っておらず、刈り込まれたような銀色の短髪がそのまま清潔な様子で見えている。
驚きのあまり私が声も出せずにいると、彼は私に近寄ってきた。我が家には母がいるが、ルパートが表に来ていることには気づいていないらしい。裏口から漏れ出る家の明かりが、地面に長身の男の影をくっきりと描いている。
「久しぶりだな、ソフィア・ローラント。いや、イケダマリナと呼んだ方がいいか?」
ほとんど唇を動かさずに言う彼を、私は睨みつけた。
「何の用? 金輪際関わるなって言ったのは、そっちでしょ?」
「これを渡しに来ただけだ。九分十三秒後にはここを出る」
そう言うと、彼は手に持っていたアタッシュケースを私に差し出した。私は「なに?」とたずねた。彼は無言で私に押し付けてくる。
「シャルルからだ」
「――え?」
その名前に、心臓が跳ねた。私はたまらずアタッシュケースを受け取り、土のままの地面に置くと、膝を折って、ケースのふたを開けた。指が震えてうまくいかなかったが、数回目で開けることができた。
「なに、これ……」
アタッシュケースの中に入っていたもの。薄暗い中でもそれははっきりとわかった。ケースは中央でクッション材によって二分されていた。右半分に紙幣の束が入っていた。帯封のついた200ユーロ紙幣がどう見ても10束以上。そして左半分には、ビロードの箱が入っていた。細長いものや四角いもの、灰色のものや赤いものなど、複数点あったが、私はそれらの箱に見覚えがあった。
「宝石と金だ。宝石はおまえがアルディに置いていったもので、金は20万ユーロある」
「どうして、こんなものを私に……」
「おまえが務めた仕事の報酬だそうだ」
どういうことだ――私は顔を上げて、ルパートにたずねた。
「確実におまえに渡してほしいというシャルルの強い要望があったので、こうして私が直接運んできた」
私に仕事の報酬を?
一体どういうことなのだ?
彼は私が裏切ったことに気づいていないのか――まさかそんなことがあるわけはない。
ああ、彼はどうしているだろう。毎夜ごと彼をあたためていた私の腕はもうそばになく、彼の情熱を込めた愛を注ぐ相手ももういない。それにあの繊細な人が耐えていられるだろうか。――否。きっと身も世もなく胸をかきむしり引き裂くほどに、悲しみ苦しんでいるにちがいないのだ。なんと罪深いことを私はしたのだろう。
いや、待て、もしかしたら――と私は考えた。仕事の報酬というこの宝石と金。これはシャルルがアルディ当主の座に復帰したことを表す証拠ではないか? シャルルは戦いに勝ち、アルディに戻ってきたのではないか? そして――そして! なぜ私にこのような贈り物をしてくれるのか。その疑問に他する返答はたった一つしか思いつかない。
私を愛しく思っているからだ。
遠く離れた国で短剣を胸元に突き立てられるような日々の中、ようやく彼が真実の愛を見出したのだとしたら? その名がソフィア・ローラントだったとしたら? イケダマリナを騙らせた謝罪と、愛が込められた贈り物――それがこの宝石と金だとしたら?
シャルルを裏切った日から鉛のように沈んでいた私の胸に、小鳩が羽ばたくような喜びが沸き起こり、たちまちのうちに、期待と興奮ではちきれそうになった。
――ああもし、もし、そうなら! 神よ、感謝します! 私があの日、彼を裏切り捨てたことは間違いではありませんでした!
震える唇をなんとか御して、私はルパートにたずねた。
「シャルルは……彼はどこにいるの?」
ルパートはある地名を口にした。音の響きから日本だということはなんとなくわかったが、それが果たしてどこらに位置するのか、私には皆目見当がつかない。そんな私をよそに、ルパートは言葉を続けた。
「シャルルはアルディから正式に離脱した」
――アルディを正式に離脱した? どういう意味だ?
よほど私は不可解そうな顔をしていたのだろう。ルパートは薄い唇を片側だけあげて、明らかに侮蔑的な微笑を浮かべた。
「理解しやすく言い直すと、シャルルはフランス国籍を放棄し、イケダマリナ。あの女と結婚して、日本人であるあの女の籍に入ったのだ。親族会議はその報を受け、シャルルを即刻当主から解任した。本来であれば当主資格喪失者として地中海にあるマルグリット島に強制送還されるのが我が家の掟であるが、すでに他国民となった彼を無理に拉致しては国際問題に発展する可能性があるため、今回は強制送還を取りやめ、シャルルのアルディ離脱を正式に認める決議を親族会議は下したのだ」
「な、んですって……」
口にさるぐつわをかませられたように、私はそれ以上何も言うことができなかった。
シャルルがアルディ当主を降ろされたということも驚きであったが、一番の衝撃はイケダマリナだった。シャルルが彼女と結婚した? どうして? イケダマリナはシャルルを捨てたはずではなかったのか。だから、シャルルはあれほど絶望し「偽物」をそばに置いてまで辛い現世での暮らしに耐えようとしていたのではなかったのか?
「シャルル名義の個人資産をアルディに委譲するよう求めた我々に対し、シャルルは、交換条件として、おまえにこれらの品を渡せと要求した。――確かに渡したぞ。では要件はこれで完了だ。失礼する」
ルパートは背中を向けた。私はその時初めて、彼の背後に黒い車が止まっていることに気づいた。
「待って!」
ルパートの足が止まる。
「行かないで! 教えて! どうして、シャルルはイケダマリナと結婚することになったの? イケダマリナは前の恋人のところに戻ったんじゃなかったの?」
「やつらのそういった行動の動機について、詳しいことは知らないし、興味もない」
彼は振り向かないまま答えた。
「だが、すべては私の計画通りだっただけだ」
「え……?」
「おまえが私に密告してきたのは、シャルルの訪日のスケジュールだ。よって、私はイケダマリナのことも考えにいれた上での計画を立てた。ただフランスから彼を締め出すのではなく、日本に足止めすれば、シャルルはかならずイケダマリナと接触する。そして今度こそ愛を失いたくないと思うが故に、アルディを完全放棄するだろうと読んだ。おまえもすべて承知の上で、私にシャルルを売ったのだと思っていた。まさか今さら、イケダマリナが日本人であったことを知らなかったと言うまい」
知っていた。イケダという苗字が日本名であることは――。
「知ってたわ。知っていたけど……」
「こうなるとは思っていなかったとでも言いたげだな」
「……」
「これは笑止。おまえはシャルルを捨てた気でいたわけか。それでは何か。シャルルがおまえを失って泣くとでも思っていたのか? かつてイケダマリナに捨てられた時のように、彼が絶望に陥って苦しむとでも?」
私は地面にぺたりと座り込んだ。アタッシュケースの中の紙幣やビロードの箱がぼんやりと視界に映る。
「身の程をわきまえろ。偽物め」
ルパートのその声は、のどかな秋の美しい夜にあって、突如ミサイルが打ち込まれたように異質で鋭く攻撃的だった。私は深く傷つき、痛む胸に震えを抑えられなくなりながらも、必死に口を動かした。
「シャルルは……私という偽物と暮らしていたって、イケダマリナに話したの?」
「詳しいことは知らんと言ったはずだ。ただ」
ルパートは一度言葉を切った。私は顔を上げて彼を見た。彼は目だけで私を振り返っていた。眼差しの冷ややかさは――瞼を半分しか開けていないいわゆる流し目の状態だ――闇の中でも寒気がするほどだった。
「女というものはそういう場合、どういう反応を示すものだろうな。偽物を仕立てるほど自分を愛してくれたと感動するのか。それとも、自分以外の女と愛をささやいたと憤慨するのか」
「……」
「ただし、偽物を仕立てていたと馬鹿正直に打ち明ける必要はどこにもない。シャルルが何も話していなければ、イケダマリナには苦悩など何もないだろう」
そう言うと、ルパートは左腕の腕時計を見て、「では時間だ。失礼する」と車の方に向かって行った。私は座り込んでぼうっとしたまま、車が走り去っていくのを見ていた。そのあとには、あたり一帯に秋の夜の静けさが漂うばかりだった。虫の鳴く声だけが響いている。
手を前に伸ばして、宝石が入っているビロードの箱と真新しい紙幣面を優しく撫でた。父の借金さえなければ、村を出なければ、あのときルパートが店に来なければ、一生私が目にすることのなかったはずの宝。きっと世の中にはこれらが欲しいあまり、人殺しすら犯す連中だって少なくないだろう。
だけど私が欲しかったものは、こんなものじゃない。私が本当に欲しかったものはただ一人の男。そしてその男は、私が身代わりを務めた女と結婚して、幸福に暮らしはじめたという。
体を揺らせて笑った。もはや悲しいとか虚しいとか、そのような陳腐な言葉で表現できる限界をはるかに超えていた。
今回の一件では、私が彼を捨てたと思っていた。文字どおり断腸の思いだった。だが実際に捨てられたのは、私の方だったのだ。あれほど睦まじい日々を過ごしたにもかかわらず、彼にとって私は金で雇った使用人にすぎず、イケダマリナとの関係が修復できた今となっては、髪一筋ほどの未練も執着もないのだろう。
存在を葬り去られるとはこういうことなのだ――。
私は暗い空を仰いで、声を立てて笑った。
そうして笑い続けてどれくらい経ったころだろうか――
「ソフィア? ソフィー?」
家の中から母の声がした。答えずにいると、履物をつっかける音がして、エプロンで手を拭きながら母が裏口から姿を見せた。
「なんだい。いるのかい。だったら返事ぐらいおしよ。夕食にするよ。早く入っておいで。――ん? なんだい、その銀色の大きなカバン」
地面にしゃがみこむ私の前に蓋を開けたままになっているアタッシュケースを見て、母はその中を覗き込んだ。たちまち、母の顔がびっくりしたように固まる。
「ちょっと、なんだいこれ? ソフィ、あんた、家を出ていた間、どこで何をしていたんだい? このあいだの10万ユーロもだけど、今度はこれ、宝石もだろ? なにか危険な商売に手を染めてるんじゃなかろうね? ソフィ、お答えよ。ソフィってば!」
「母さん。ソフィって呼ばないで」
私はすっと立ち上がった。スカートについた土を手ではらって、背筋を伸ばす。
「これからは私のこと、マリナって呼んでくれる?」
「マリナ? なんだいその名前?」
訝しそうに、眉間に深いシワを寄せた母。貧乏と疲れに支配された顔。幸福の神から見放された顔。その顔は私にそっくりだった。私はそんな母に向かってくすっと笑った。
「いい名前でしょ。私の勲章なの」
腰をかがめてアタッシュケースの蓋を閉じて、それを手に提げた。10万ユーロよりはるかに重い。私はなおも訝しむ母を言葉と動作とで促して、橙色の温かい灯火が照る家の中に入った。家の中は母自慢のパンプキンスープの匂いが満ちていた。


次の朝、まだ家の中が暗い頃、ベッドの中にいる母を起こさぬように、私はそっと寝床を抜け出して着替え、昨晩受け取ったアタッシュケースから紙幣の束をひとつだけ取って、それとパスポートをショルダーバックに入れて、家の裏口から外に出た。
鳥の声に目をあげると、東の空にあけぼのの光が昇りはじめて、山の稜線がうすらと朱鷺色に染まっていた。裏の畑も向かいの家もまだ夜の闇に沈み込んでよく見えないのだが、家の前の道だけは割れたアスファルトのせいだろうか、いやにはっきりと、そしてきらきらと輝いて見えて――私の心は喜びで踊った。ああ、まるで、明るい未来へのみちしるべのようではないか!
「待っていてシャルル。今、マリナがそばに行くわ」
もつれる足を打ち叩いて懸命に鼓舞しながら、私はいちじく木のそばにあるバス停に向かって、暁の道を走っていった。










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