美馬貴司の赤い罠
「いや、まって……っ」
彼女の唇を目指していた口に手のひらを押し付けられて、俺は目を見張る。
キスを拒まれる。
それは、男としては、ちょっと屈辱。
今日はクリスマスイブ。
愛する恋人のために、落ち着いた店でのクリスマスディナーを取り付け、二人で和やかな時を過ごし、それから少しアルコールを嗜んで、タクシーで美馬邸に戻ってきた。
俺の邸に案内して、彼女の右手をとってエスコートして引き入れ、玄関のドアを閉めた。
紳士的精神が発揮されるのは、そこまで。
「キスがいや?」
情けなくも声がかすれた。
焦っているつもりはないのに、声のありかまですべてコントロールすることはできないでいるらしい。
でも、ゆるしてくれよ。
それだけ花純、君がほしいんだ。
君を待っていたんだ。
表面上は余裕をなんとか保ちつつ、内心は傷ついているそんな自らを嘲りながら、
「なぜ、いやなの?」
とたずねると、花純は少し口ごもってから、
「だって口紅がとれちゃうわ。せっかく綺麗に塗ってきたのに……」
と小さな声で言った。
俺はびっくりしてそんな彼女を見つめた。
ほおがチークとは明らかに違う色で染まり、口を拗ねた子どものようにつぐんでいる。
なるほど、今日の彼女はとても丁寧にルージュを塗っている。
めずらしく真紅のルージュだ。
そういえば食事の時も口紅がとれないように気をつけて食べていたようだったし、終了後すぐに化粧室に立ち寄っていたのは、ルージュを直すためだったらしい。
花純はたいていピンクのルージュをつける。地肌が白い彼女には、可愛らしいピンクがとても似合っていて、ピンク色のふっくらとした唇に、実はひそかに心の火を燃やしていたのだが。
「どうして、今日は赤なの?」
と俺が聞くと、花純は顎を引くようにして、ますます小さな声で答えた。
「魅力的かな、と思って……」
その返事に、俺はくすっと笑みを漏らしてしまう。
そうか、彼女もまた、このイブを特別だと思ってくれていたらしい。
確かに今日の彼女は普段とはまるで違う。
デコルテが大きく開いたVネックの黒いニットも、そこに品良くかかる細い金の鎖も、ゴールドサテンのスカートも、こめかみから耳にかかるように一筋だけのこして結いあげた髪も、そしてらしくない真紅の口紅も、すべてクリスマスイブのための特別仕様だったというわけだ。
――俺のための。
――俺に見せるための。
とそこまで考えた瞬間、もはや我が身を止めるすべはなかった。
「ちょっとっ、美馬、ダメだってば……っ!」
花純は俺の胸を押して、俺を必死で引き剥がそうとする。
俺は言った。
「君こそダメ。その赤い口紅を選んだ時点で、君の負け」
「え?」
「俺の暴走を許可したってこと」
心外だという顔で、俺を見上げる花純の艶めく赤い唇に、俺は思いっきり口づけた。
《Fin》