愛という名の聖戦(65)
シャルルは、絶対にミシェルを頼ったりしない。
それがわかっていたから、あたしもジルも悩んで、どうしたらいいか懸命に考えた。
ジルは髪を切ってまでミシェルの代わりにこの島に止まろうとしたし、あたしだって、ミシェルと……うっ、う。
なのに、シャルルがこんなにあっさりとミシェルにお願いするなんて!
もちろん、喜ばしいことなんだけど、あまりに意外すぎて、夢を見ているんじゃないかという気さえするわっ!
「どういう風のふきまわしだい。君がオレに頼むなんて」
ミシェルは切れた唇を親指でぬぐいながら、からかうように言って、ぴゅうっと高い口笛を吹いた。
やっぱりそう思うわよね。
無理ないわ。
だって、あんたたち、さっきまであんなに罵りあってたんだもの。
シャルルはミシェルのからかいを聞き流し、完全な無表情で先を続けた。
「もう一度言う。造血幹細胞移植のドナーになることを了承してほしい。条件があるのなら、言ってくれ。なんでも飲もう」
瞬間、ミシェルはカッと目を見開いた。
「なんでも?」
シャルルはうなずいた。
「マルグリット島からの解放はもちろん、当主の座も欲しければ譲ろう。移植が終了するまでは、本家の設備を使わせてもらうが、そのあとはアルディ当主としての全ての財産と権利をお前に渡す。もちろん、ルパートをはじめ親族の連中には、お前の当主就任について、一切の文句をつけさせない」
ミシェルもジルも、もちろんあたしも、びっくりして、声がでなかった。
当主を譲る!?
シャルル、本気なの!?
しばらく惚けた顔をしていたミシェルは、やがて、深いため息とともに、唇を片側だけ持ち上げて、嫌な感じのする微笑をもらしたの。
「そうか。シャルルお前、マリナちゃんを、ついに捨てる気になったのか」
え?
「お前のマリナちゃんは、お前がアルディ当主であることにこだわって、前にオレたちが当主争いでもめた時も、シャルルを絶対に当主の座に戻すんだって息巻いていたものな。
つまり、シャルル、お前は当主を降りることによって、マリナちゃんと縁を切るつもりなんだろう」
ええっ、そんな!
動揺するあたしをよそに、ミシェルは自分の台詞を確かめるように、何度も何度もうなずいた。
「それもそうだよな。いくら自分を助けるためだとはいえ、よりによって、この世で一番憎いオレに抱かれた恋人を、そうやすやすと許せるわけはないよな。オレだったら、そんな女、殺しちまう」
あたしは、まさかと思った。
シャルルがあたしを殺したいと思うなんて、そんなことあるわけがない……。
瞬間、シャルルがクッと肩を揺らして笑った。
「そうだな。お前なら恋人でも簡単に殺してしまうのかもしれない。だけど、オレはお前とは違う。マリナはオレの命そのものだ。彼女が死ぬときは、オレもまた死ぬときだ」
愛の告白よりもずっと激しい言葉に、あたしはシャルルを見た。
伏せがちのシャルルの瞳は、今まで見たどんな時よりも真剣で、思いつめたまなざしをしていた。
「ふーん。じゃあ、お前はマリナちゃんの願いを叶えてやりたいから、オレに頭を下げてるってこと? 彼女が望めば、お前はなんでもやるの?」
問いかけたミシェルに、シャルルは、すぐさま答えた。
「そうだ。オレはマリナが望むなら、なんでもする。狂ってると思うなら、そう思えばいい。そもそも、よく考えれば、お前に頭をさげることなど、大したことじゃなかったんだ。お前なんかにこだわっていたオレが愚かだっただけだ」
ミシェルが眉根をしかめた。
「さあ、条件を言えよ。なんでもいい。たとえ、泥水を飲めと言われても、喜んで飲んでやるぜ」
あれほど嫌だといってミシェルに対し、なんでもするときっぱりと告げるシャルル。
張り詰めた顔の中央で底光りする瞳は凛として美しく、壮絶な決意が溢れ出ていて、あたしは、胸をつかれた。
前に、シャルルが言った言葉を思い出した。
それは、アルディ家に療養中の薫と兄上がいた時のことよ。
瀕死の薫を見て、絶望した兄上に、「僕の治療をやめてくれ」と言われたシャルルはこう答えたの。
『いつまで独り善がりの愛をする気なのか。本当に愛しているのなら、苦しくとも辛くとも、泥水を飲んでも生きろ』
あの時のシャルルの瞳の中にあった星のようなきらめきが、彼自身の信念として、こういう形であたしに提示されようとは思ってもみなかった。
あの激しい言葉は、兄上を説得するのと同時に、シャルルは自分自身に言い聞かせるつもりで言っていたんだ。
「……ははっ」
ミシェルは、ひどく驚いた様子で、灰色の瞳をむきだすほど丸くして、宇宙人に出会ったとでも言いたげに吐き捨てた。
「シャルルお前、プライドはないのか? こんなチンケな女のために、そこまで自分を変えて恥ずかしくはないのか?」
誰が、チンケよ!
あたしがムッとすると、その冷ややかな目を伏せがちにしたまま、シャルルが言った。
「なんとでも言え。さあ協力するのかしないのか。はっきりしろ」
すると、ミシェルは、意味ありげなうすら笑いを浮かべて、突然、足元の地面をつま先で蹴り始めたのよ。
白いキャンバス地の靴が先から汚れて、あたりに泥が跳ねて飛んだ。
何をしているの!?
「泥水を飲むほどの覚悟だって言ったよな。じゃあ、この土をなめてみろよ。そうしたら、ドナーになってやるよ」
あたしは、ぎょっとして、ミシェルの足元を見た。
その土は、汚泥といっていいほどの湿り気を帯びたぐちゃぐちゃとした土で、みすぼらしい草とか木の根っことかもいっぱい混じっているし、さらに、よく見ると、アリンコのようなハネのある虫がうごめいていたの。
こんな泥をなめろだなんて、ひどいわ!
「なんてことをいうのよ!」
あたしはたまらなくって、その泥を踏みつけながら、ミシェルにつめよった。
「あんた、あたしと約束したじゃないの。シャルルのドナーになるって言ったあの約束を忘れたの!?」
「忘れてないよ、でもさ」
ミシェルはあたしをよけて、靴の先で、なおも楽しげに、土を掘り続ける。
「いつドナーになるかは決めてないぜ」
なんですってぇ?
「まあ、マリナちゃん、安心していいよ。シャルルがこの泥をなめなくても、オレはこいつのドナーになってあげる。でもオレもいろいろ忙しくてね。ドナーになるのは、……そうだな。五年後ぐらいでいいかい?」
あたしは、カッとした。
こ、このやろう!
あんたは、シャルルに残された時間が、あと半年しかないことをわかってるでしょ!
あたしは、あんたに面会してすぐに、そうちゃんと言ったわよ。
わかって、言ってるのね!?
なんてひどいやつなんでしょう!
ああ、こんな姑息なやつの口車に乗って、だまされて、身を委ねてしまったあたしは、世界一の大バカ者だった!
「卑怯ですよ、ミシェル!」
双子よりも青みが強いグレーの瞳に、青白い炎のような怒りを満たして、ジルは、ミシェルをにらみすえた。
「オレとしては、まっとうなことを言っているだけだけどね」
からかうように、ミシェルがジルに笑いかけたその時だった。
シャルルが、さっと動いて、膝を折り、青いツナギを着たミシェルの足元に身をかがめた。
それは止める間もないぐらいの素早さだった。
シャルルは、地面にべったりと手をついて、美しい白金の滝のような髪が汚れるのもかまわず、顔を地面にくっつけたのっ!!
うぎゃ、ぎゃーっ!
「シャルル、なんてことをっ!」
ジルが悲鳴に近い声を上げた。
あたしは、息を飲んで、動くことができなかった。
さすがにミシェルも驚いた様子で、
「おいおい、本気でするかね……」
呆れたというように、長い吐息とともにつぶやいた。
ややしてシャルルは、ふっと唇を地面から浮かし、骨が折れていない右手の拳で唇をぬぐうと、立ち上がり、首を振って顔にかかる髪を払って、言った。
「どんな条件でも飲む。ドナーになってくれ」
シャルルっ!!
あたしは、ああっと叫んでしまった。
だって、シャルルが、あたしがどんなに頼んでもうんと言わなかったあのシャルルが、ミシェルに頼むぐらいなら死を選ぶとまで言っていたシャルルが、地面に這いつくばり泥をなめてまで、生きようとしているのよ!!
これが驚かないでいられるもんですか!!
「そんなに生きたいのか?……やめろよ。彼女はオレに身をまかせたんだぜ? お前はそのことを一生忘れられないだろうし、彼女だって、後ろめたい思いをし続ける。なら、おとなしく死んで、彼女を罪悪感から解放してやったらどうだい?」
畳み掛けるように言うミシェルに、あたしは怒りを覚えた。
えーい、せっかくシャルルが心を変えてくれたのに、余計なことをいうんじゃない!
いいのよ、あたしのことなんて、この際どうでも!!
後ろめたい思いぐらい、いっくらでも背負ってやるわ、どんなにシャルルに責められたっていい、耐えてみせる!
だから、黙ってろ!
あたしは、いらんこと言いのミシェルを黙らせるべく、彼を張ったおしてやろうと思って、手を振り上げた。
そのとたん、
「マリナが罪悪感を抱く必要が、どこにあるんだ?」
静かなシャルルの声が耳に響いて、あたしはびっくりして振り返った。
そして、見てしまったのよ。
シャルルの白い顔が屈辱で赤く染まり、澄んだ瞳の中には、淡い涙がうっすらと浮かびあがっているのを。
ああ彼は、自分の中の激情と必死で戦っているんだって、あたしはわかった。
「彼女は、ただオレを思って行動してくれただけだ」
「だが……っ」
「はっきり言う。マリナは罪悪感など抱く必要はないんだ。だが」
一度、言葉を切ってから、シャルルのくっきりとしたその唇から出てきたのは、あたしの考えをはるかに超える言葉だったの。
「もし、マリナがお前に身をまかせたことに、罪の意識を持って苦しむのなら、共に苦しむ。マリナが泣きながら夜を過ごすなら、きつく抱きしめて、二人で新しい朝を待つ。その朝が晴れていたら庭で朝食をとり、雨ならサロンで音楽を聴きながら、明日はどこへ行こうかと相談する。罪に縛られてかたくなになってしまわないように、一日一日を励まし合いながら生きていく。それが、マリナが示してくれた愛に対するオレの返答だ。――だからミシェル、この通りだ」
言いながら、シャルルは、腰のあたりできっちりと指先を揃えて背筋を正し、銀糸のような髪を垂らして、ミシェルに向かって深く頭を下げた。
「どうかお願いする。この地上でお前にしか頼めない。オレを助けてほしい」
瞬間、ミシェルは息をのんで、両手を強く握りしめた。
それで、あたしはようやく、シャルルがどうしてこんなことまでして、生きたいと思ったのかがわかったのだった。
あたしのためだ。
あたしに後悔をさせないため……。
シャルル・ドゥ・アルディという人がどんな人か、あたしはよく知っている。
常に誇り高く、人の上に立つ絶対王者、それがシャルルよ。
その彼が、人に頭を下げている。
しかも、相手はミシェルだ。
どんなに悔しいだろう。
でも、彼はそれをやってくれているのだ。
あたしのためだけに。
ああなんという人だろう。
こんなに素敵な人は知らない。
どんなに傷ついても、傷つけられても、決して輝きを失わず、立ち上がり続けるシャルルを、あたしは改めて尊敬し、そんな彼に強く惹かれた。
ありがとうシャルル。
本当にありがとう……。
あたしは、涙を止めることができなかった。
一方、ミシェルは、頭を下げるシャルルを何も言わずじっと凝視していて、ややして、ふっと息を吐き、目を伏せ首をかしげて、その艶やかな白金髪に覆われた後頭部を、無造作な仕草でぽりぽりとかきむしり始めた。
そして、言ったの。
「ちっ……仕方ないな。ミサイルの発射装置を解除してくるよ。そうだな……三十分くれ。三十分後に、ヘリポートで会おう」
そう言うと、ミシェルはすぐさま身を翻してあたしたちに背を向け、木立の間に消えていった。
彼の足音が消えるのを聞き届けたシャルルは、ゆっくりと顔をあげ、端正な唇をすぼめるようにして、細く長い息を吐いた。
それから振り返り、震えて声も出せないあたしを見た。
「マリナ」
名を呼ばれて、あたしは、両手を口に当てた。
青灰色の瞳は、一途にあたしをまっすぐに見ていて、そのあまりの熱い輝きを前にして、あたしは思わず、ぶんぶんと首を横に振ってしまったの。
だめよ、だめなの。
あたしには、あんたのそばに行く資格がないの。
あたしは……。
そう言おうとしたけど、唇はただわなわなと震えるだけで、一向に声にはならなかった。
シャルルは黙ってそんなあたしをじっと見つめていたけれども、すぐに足を踏み出してあたしの前までやってきて、動く方の手であたしの腕を掴んでぐいっと引き寄せて、その広い胸の中に招いた。
「怒って…ないの?」
「君こそ」
とシャルルは言った。
「意地を張っていた、オレを許してくれるか?」
あたしは夢中で首を振りながら、シャルルの胸に手をあてて、彼を見上げた。
「ゆるすなんて、あたしが勝手なことをしちゃったのよ。なのに、あんたはあたしを責めないで許してくれるの? 本当に? 本当に許してくれるの……っ?」
「なら、お互いに許しあって、この話は終わりにしよう」
そう言いながら、シャルルは腰をかがめて、あたしの顔を覗き込み、雪の上に桜の花びらが舞い降りたような可憐なほおを、ふわっとゆるめて、笑った。
その微笑みは、あたしが思わず見とれてしまうぐらい綺麗だった。
神秘的な湖を思わせるブルーグレーの瞳には、あふれる愛がいっぱいに輝いている。
「マリナ、今度はオレから申し込むよ。どうか、オレの妻として、これから先の人生を、オレと一緒に生きてほしい」
高く澄んだ声が優しく響いて、あたしの傷付いた心に染み込み、あたしは、これまで感じていた悲しさや苦しさが、端から形を無くして、春の淡雪のように溶けていくの感じた。
あたしは、腕を伸ばして、彼にしがみついた。
愛してるわ。
もう絶対に離れないっ!!
シャルルはあたしの髪にほおをうずめながら、片手であたしを抱え込むようにきつく抱きしめた。
あたしは、力強いシャルルの心臓の音を聞きながら、長い長い旅から、ようやく帰るべき場所に帰ってきたような、そんな気がした。
あたしは、力強いシャルルの心臓の音を聞きながら、長い長い旅から、ようやく帰るべき場所に帰ってきたような、そんな気がした。
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