愛という名の聖戦 最終回
「マリナさん、お待たせしました」
それから間もなくして、ほんの少し息を切らせるようにしてジルが扉を開けて現れた。
「彼女がベビーシッターです。名前はジェシカ・パーカー。小学校教諭をするかたわら、子育て支援センターの相談員を務めています。彼女自身、7人の子供と8人の孫を持っています」
言ってジルが部屋に引き入れたのは、スタイルのいい白人の中年女性だった。
髪は淡い金髪で、肩までかかる清潔なセミロング。
とても優しそうで、榛色の目があたたかい感じの人だったの。
この人になら安心して任せられそう!
そう思うあたしの前で、ジルは彼女に仕事の指示をテキパキと出してから、あたしの方を見て、矢継ぎ早に言った。
「ではマリナさん、行きましょう。時間があまりありません。さあ双子をジェシカに」
ジェシカがあたしの元へ来てくれたので、ジルに言われた通りあたしは双子をジェシカに渡した。
ドレスの裾を払いながら立ち上がったあたしは、さっきのことを聞きたくて、戸口に向かいながらジルを振り返った。
「ねえジル。つい二、三分ほどまえに来たわよ、ここにシャルルが」
とたん、ジルがその深い二重まぶたが見えなくなるほど、激しく目をむいた。
「シャルルが、ですか?」
彼女の驚きようにあたしは少々ビビりながらも、素直にうなずいた。
「しかも普段着に着替えてね。双子にちゅっとキスして、すごい目つきであたしを見て、出て行っちゃったの。一体なんなの?」
すると、ジルの顔色がみるみる青くなっていった。
もともと白いその顔は、蒼白を通り越して、白磁のように真っ白になっていく。
彼女は両手を重ねて口を覆い、カタカタと小さく震え始めた。
「そんな、まさか……っ、いえ、ああ、やっぱり……!」
いつも冷静な彼女の動揺ぶりに、あたしは目がテン。
んんっ!?
どうしたの?
顔を覗き込みながら訊くと、ジルは目をぎゅっーと閉じたりまたカッと開いたりして、見ているあたしの方が目が痛くなってしまいそうなほどそれを何度も何度も繰り返してから、ようやく途切れ途切れな声で言った。
「それはシャルルではありません。ミシェルです」
え、ええっ!!
あまりにもびっくりして、あたしは取り乱してしまった。
どーしてミシェルがウロウロしてるのよ!?
だって、あいつは死んじまったじゃないのよっ!!
あたし、ちゃんと見たわよ。
ランサールにバキュンと撃たれて、倒れたところ!!
真っ青のツナギを着た彼の背中が、みるみるうちに血に染まっていったんだから!!
あれは夢や幻じゃないわ!!
それにそうよ、お墓だってあったじゃない、パッシー墓地、あたし、メトロに乗って、お花を持ってお墓参りに行ったんだから!!
ということは、あれは、あれは……。
「ミシェルの幽霊ぃぃ!?」
あたしが叫ぶと、ジルは腕を組み右手で顎を支えながら、長いため息を吐いた。
そして美しい眉根に深いしわを刻んで、首を横に振った。
「幽霊ではありません。実はミシェルは生きているのです」
あたしは、一瞬呼吸が停止!!
ミシェルが、あのミシェルが生きてるですって!?
どーいうこと!?
「あの時ランサールが撃ったのはペイント弾だったのです」
ペイント弾ってなに!?
わけがわからないあたしに、ジルは説明してくれた。
ペイント弾とは、着弾するとぐちゃってインクが飛び散る銃弾のことで、殺傷能力はまるでなく、サバイバルゲームなんかではペイント弾を浴びると、「戦死」ってことになるんだって。
つまり、ミシェルのあの背中のシミはインクってわけ?
なんじゃあそれ!!
「あの二人が仲間であることをもっと早く気づくべきでした。私たちのマルグリット上陸の許可があっさりと下りたのも、今思うと不自然だったのです」
ジルの言葉に、あたしははたと思い出した。
そう言えば、ミシェルの変装に気づいただろうと何度も思ったのに、ランサールは最後まであたしたちを足止めしようとしなかったわよっ!!
「ランサールの襲撃も、すべて、ミシェルの計画だったのです。シャルルから直接移植を頼まれて、ミシェルはミサイルシステムを解除してくるからと言ってひとりで療養棟に向ったでしょう? あの時、ランサールと会っていたようなのです。
私はマリナさんから被弾したミシェルを受け取った時、不審に思いました。なぜ彼は死んだふりをしているのか? また何かの策略か? 迷いましたが……私は彼のその芝居に付き合うことにしたのです」
どうして!?
「シャルルを守るために。社会的な死者となれば当主挑戦権はなくなるからです」
きっぱりとしたジルの言葉に、あたしは息をのんだ。
ミシェルは生きているんだ!
まって、じゃあ、あのお墓はなんなのよっ!?
あたしはたずねると、ジルがちょっと苦笑いをして答えた。
「あれはマリナさんがお墓まいりとしたいとおっしゃるので、急いで用意させたものです。慌てたのでずいぶんいい加減なものになってしまいました。名前の綴りが間違っていたと知った時は冷や汗をかきました」
お墓の名前、あれ、間違ってたの?
うっう、何度も見たのに、ちーっとも気づかなかったわ。
「骨髄提供が済んだミシェルは、自分から姿を消しました。私は、彼に関係した医療者に大金を握らせて黙らせ、同時にランサールを再建中のマルグリットに送りました。このことはシャルルも知っています。ベネトーが報告したようですから」
そんなぁ……。
じゃあ、あたしだけ何も知らなかったの!?
ひとりだけなーんにも知らずに、からっぽのお墓にいって手を合わせたり、花をそえたり話しかけたりしてたってわけね。
ミシェルはもともとひどいやつだし、彼との間には信頼関係がなかったけれど、ジルのことは信じていたのに!
それにシャルル!
シャルルまでが、あたしに嘘をついたなんて!
あたしはショックのあまり、奥歯をギリリと噛み締めながら、言った。
「よくも騙してくれたわね。あんたもシャルルも最低だわ」
瞬間、ジルがあたしを見た。
「私を責めてもいいです。ですが、シャルルを責めないでください。シャルルも人の子です。父になると決心した時、彼の中で壮絶な葛藤があったはずです。もし本当の父親であるミシェルが生きていると知ったら、その時マリナさんはどちらを選ぶだろうか? ――彼がそう考えたからといって、誰が彼を責められますか?」
その時のジルの顔。
ものすごく怖かった。
美しい青灰の瞳が、冴え冴えと光っていて、まばたきすらほとんどせずにあたしをまっすぐに見据えていて、ほおは固く硬直し、唇はわずかに震えていたの。
そんな彼女を前にして、あたしはようやく、ハッとしたの。
あのシャルルが、恐れていたというの?
あれほど自信家の彼が?
あたしがミシェルを選ぶかもしれないと思って?
まさか、と思ったけれど、シャルルがあたしにミシェルのことを隠していたのは事実。
ミシェルのことがあたしたちの間で話題にのぼらないのは、当然だけど、それだけじゃなくて、シャルルはあたしにミシェルが生きていることを教えたくなかったってことよ。
どうしてそんな嘘をつかなくちゃならなかったのか。
嘘はついた人の方が苦しいのよ。
いつバレるかとビクビクしながら、過ごしていかなくちゃならないんだもの。
そんな毎日、楽しくないし、あたしだったらとても堪えられない。
なのに、シャルルはわざわざそうしたんだ。
それは、なぜ?
そう考えると、あたしは心の中が冷たくなっていく気がした。
あたしを、信じられないからだ。
だから、ミシェルが生きていると知ったらあたしがどうするかが、シャルルにはわからなくって、怖くて、彼は「隠す」ことを選んだんだ。
あたしはあんなにはっきりと、シャルルだけが好きだと言ったのに。
なのに、どうして……!
あたしは悲しくなり、同時に、わかった。
このことで、シャルルを責めることは簡単だ。
でもあたしが今すべきことは、彼を責めることじゃない。
どうして彼があたしに嘘をつかなきゃならなかったのかを理解して、彼の不安を取り除き、彼を安心させてあげることだ。
そうしないと、あたしたちの間に、本当のしあわせはやってこない。
あたしは心を決めた。
よーし、待ってなさい、シャルルのアンポンタン!
このあたしが、あんたのそのわからずやの頭を叩き直してやるからねっ、覚悟しろっ!!
「わかったわ。ジル、行きましょうか」
あたしが大きく息を吸い込んでそう言うと、ジルはようやくほっとしたように、天使のようなそのほおをやわらかくゆるませた。
固く閉じていた蕾がほころんだような優雅なその微笑みを見ながら、あたしはドレスの裾を持って、すり足で控え室を後にした。
ジェシカがしっかりとした腕でケンとカイを抱きながら、ついてきてくれる。
あたしが緊張を抑えながら廊下を進むと、父さんと母さん、それから姉さんが途中で待っていた。
直前まで観光にいそしんでいたドライな家族に、これまで育ててもらった感謝を述べるという、結婚式直前の大切なセレモニーを無事に終えたあたしは、家族が聖堂の中へ入っていくのを見送った後、木彫りのぶどうの紋章がついている両開きの扉の前に立った。
アルディ家の結婚式は、花婿がバージンロードの終点、すなわち祭壇前で待っていて、花嫁はひとりで入場していくスタイルなの。
ひとりの男性とひとりの女性が結び合うというのが表向きらしいけど、シャルル曰く「昔から、花嫁の実家をあまり目立たせたくないアルディ家の思惑だ」だって。
あたしが扉の前で少し待っていると、パイプオルガンによる結婚行進曲が始まった。
扉がさあっと両側に開かれ、目の前に広がるのは高い天井、厳かな聖堂とこちらに視線を向ける数百人の参列者。
そして遥か彼方前方には、白いタキシード姿のシャルル。
心臓が破裂しそうにドッキンドキンしながら曲に合わせてバージンロードの上を歩いて、彼の元へ向かった。
隣まで行くと、シャルルがあたしを見て小さく笑った!
うーんっ、水際立って美しい!
「ミシェルのこと、聞いたわ」
あたしが小声でそう言うと、シャルルの顔がたちまち凍りついた。
そんな彼をまっすぐに見つめて、あたしはちょっとほおを膨らませた。
「うそつき。オタンコナス」
「ごめん、オレ」
瞳に暗い影をさして、辛そうな顔をしながら何かを言いかけたシャルルに無理やり被せるように、あたしは言った。
「いい? 今度うたがったら許さないわよ。あたしが好きなのはあんたよ。この命のある限りあんただけを愛してるわ。それと、ケンとカイの父親はあんたよ。この世であんたひとりだけだわ」
瞬間、シャルルの目がみるみる見開いた。
時がとまったような気がした。
祭壇に紫の司祭服を着た白ひげのトマス神父がやってきて、しわがれ声で、結婚式の開始をつげ、あたしはシャルルの腕をつんとつついた。
「前を向こっ! 始まるわ!」
少し潤んだ青灰の瞳を優しくきらめかせてシャルルはうなずき、あたしたちは揃って前を向いた。
かくしてあたしたちの結婚式は、厳粛に始まり、それから式は賛美歌、式文朗読と滞りなく進み、いよいよ指輪の誓いになった時だった。
“アルディの青バラ”はシャルルからトマス神父に前もって渡されていたの。
式文を手にしたトマス神父は、曲がった腰をかがめてシャルルに言った。
「それでは新郎から新婦へ、誓いの指輪を。新郎、指輪を出してください」
皺だらけの手を差し出されて、シャルルが当惑気味な小声で言った。
「指輪は伝統とおり神父にあずけたはずですが」
すると、トマス神父は白髪交じりの眉を寄せて言った。
「確かに一度は私が預かって祭壇に置きましたが、でもやっぱり母の遺品だから片時も離したくないとおっしゃって、取りに見えたではありませんか」
「は? 私がですか?」
「ええ。つい先ほど。お召し物まで変えられて」
たちまちシャルルの顔がこわばり、トマス神父が困惑した様子で首をかしげる中、沈滞した式の流れに出席者が少しずつざわめきだしたのだけど、そのやり取りを横で聞いていたあたしは、嫌な予感でいっぱいだった。
もも、もしかして、指輪は……?
まさか、よねぇ?
と思った次の瞬間、
「“アルディの青バラ”は、このオレが頂戴したぜ!!」
頭上で大声があがり、驚いて振り仰いたあたしはびっくり仰天!
なんと、聖堂の高い高い天井近くのバラ窓の、すぐ下にあるバルコニーのところに、黒っぽいジャケットに白シャツ、黒いズボン姿の、肩までの輝く長髪をした、シャルルそっくりの麗しい美青年が立っていたの!!
ぎぇっ、ミシェルっ!?
あんた、やっぱりいたのねっ!?
遠目でもはっきりとわかる、鮮やかな笑顔を浮かべたミシェルは、右手をぶんぶんとかざしていた。
その手からは、青い光が海の水を振りまいたようにキラキラと溢れていて、そのきらめきはどうみてもダイヤモンド!
“アルディの青バラ”だ!!
ざわっと、聖堂の中がひときわ大きく呻いた。
「ということで、家宝をきちんと管理できなかったシャルルは当主の資格を失い、マルグリットへ追放だ。新しい当主にはこのミシェル ドゥ アルディが就任する」
なんですって!?
あんた、このために死んだふりまでして、機会を狙ってたってわけ?
正々堂々とシャルルに挑戦するんじゃなかったの!? 思いっきり裏でゴソゴソやってるんじゃないのよ、恥を知りなさい、恥を!!
「残念だったねシャルル。最後に勝つのはオレさ。マリナちゃん、“アルディの青バラ”がどうしても欲しければオレの妻にしてあげるよ」
じょ、じょーだんじゃない!!
誰があんたなんかと結婚するもんですか、あほミシェルっ!!
怒りくるうあたしと、歯軋りして天井を見上げるシャルルの上に、ははははは、というミシェルの高笑いが響き渡るっ!
「いつでも待ってるよ、オレのジャンヌダルク。――だが、ここに列席の賢明なるアルディ諸君には、たった今はっきりと選んでもらおう。オレとシャルル、どちらを当主として望むか?」
あたしは呆れた。
そんなもん、シャルルに決まってるでしょ!!
あたしがそう思った直後、これまで神妙な面持ちで会衆席に座っていた人たちが一斉にざっと立ち上がって、あたしはホッ。
さあ早く、ミシェルを捕まえて!
とあたしは色めきたったんだけど、なんと、その立ちあがった親族連中の全員が全員、なぜかそのまま猛然とバージンロードを踏みつけて祭壇に向かって直進してくるのよっ!
ええっ、どーしてこっちに来るのよ!?
ままま、まさかシャルルとあたしを捕まえるつもりだったりして……?
ぎゃあっ、違うわ、あんたたちは間違ってる!
捕まえるのは、あたしたちじゃなくてミシェルでしょ。
回れ右しなさいよ、泥棒はあっちよ!
とあたしが天井を指差していくらわめいても、アルディ連中の足は止まらない!!
にゅっと手が伸びてきて、あたしは大きな悲鳴!
わーん、寄るな触るな近寄るなっ、悪霊退散!!
慌てふためくあたしの隣で、シャルルはぶわっと全身から青白い怒りの炎ようなオーラを発しながら、寄ってくる手を華麗に打ち払っていった!
その仕草と来たら、もう惚れ惚れするぐらい。
彼は、思わず見とれるあたしの手を掴んで言った。
「マリナ、一旦逃げるぞ」
逃げる!?
それでいいの!?
「このままじっとしていたら、再建中のマルグリットに送り込まれちまう。オレは絶対にアルディ家も“アルディの青バラ”も取り返す。オレを信じて、ついてきてくれるか!?」
固い決意の込もったシャルルの言葉に、あたしはドレスの裾で転びそうになりながらも、それをたくし上げて強くうなずいた。
もちろん、がってんしょうちのすけよ!!
「一緒に行くわ、どこまでもねっ!!」
シャルルはあたしの手をぎゅっと力強く握りしめて、輝くように笑った。
そうしてあたしたちは、手を取り合って聖堂から一気に逃げ出したのだった!
あたしの家族の悲鳴や薫のピューピューという口笛、店長たちの「マリナちゃんがんばれー!」という声援が聞こえる中、親族連中の手を打ち払いつつがむしゃらに走って正面扉から出ると、そこにはケンとカイを抱いたジェシカが。
よかった、探しに行く手間が省けたわ!
あたしはケンを、シャルルはカイを受け取りって、聖堂の玄関から外へ!
外は、目が痛くなるほど真っ青な空が広がっていた。
「転ぶなよ、さあ走るぞ!」
「うん! きゃっ、ハイヒールがブロックの隙間にひっかかったぁっ!」
「言ったそばから転ぶやつがいるか。ほら」
言いながら、右手を後ろ手に差し出してくれるシャルル。
あたしはケンを落とさないようにしっかと抱きながら、そのシャルルの手をぎゅっと掴んだ。
さんさんと輝く太陽を背に、カイを片手にあたしを力強く引っ張ってくれるシャルルは、明るい微笑みを浮かべていて、とても頼もしくて、まぶしくて素敵だった。
あたしは走り出しつつ、そんな彼にうっとり♡
やっぱりシャルルは世界一!
今からこんなにも夢中になっちゃって、これから先の長い人生で、何度彼に恋をすればいいんだろうかって、ちょっぴり不安にはなるけどね……。
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どれだけ愛すればいいのか。
どれだけ欲すれば届くのか。
どれだけ夢みれば見えるのか。
君がここにいない。
ただそれだけで、オレの心は、いつか壊れる。
それを知った時から、もう、戦いは始まっていた。
すべてを投げ出しても、手に入れたいと思ったのは、
永遠にただ一つ。
声が聞こえる。
恐れずに戦えと。
失うものが今更お前にあるのか、と。
これ以上、何を手からこぼしても、それ以上に望むものがあるか、と。
そしてその声は続けて言う。
ヘテロドクスに踏み込むことを躊躇うな、と。
頭の中の別のところで、大きな叫びが上がった。
鬨の声だ。
マリナ、一緒にいよう。
いつまでもどこまでも一緒に。
一緒に……
一緒に……
「シャルル、起きてください」
優しく揺すられて、まぶたを持ち上げると、幼少時から見慣れたいとこの顔。
「よく眠っていましたね。気分はいかがですか?」
訊ねられて、一瞬わけがわからなかった。
「ケンとカイはどこにいった?」
「ケンとカイ? 誰ですかそれは」
何を言っているのかというジルの口調に、オレの脳はすぐさま理解をする。
ああ、オレは眠っていたのか。そうか……。
額に手を置いて何度かまたばきをする。「ぜんぶ夢、だったのか……」
どうやら作業中にまた倒れたらしい。万能細胞から心臓の組織を製造する作業は、たいへん緻密で繊細だ。全神経を手元に集中しなければならない。以前だったら何十時間でも連続でできたのに、今はほんの一二時間でしょっちゅう気を失ってしまう。情けない。ほとんどの組織はすでに出来上がっているから、それがせめてもの幸いだが。
「まあ、夢を見たのですか?」ジルが立ち上がりながら微笑む。「あなたにしては珍しいですね」
「とてもしあわせな夢だった気がするよ」
「……そうですか」
ジルはそれだけ答えて、顔をそむけて、オレがかけているシーツのシワを伸ばしだした。手早く丁寧な彼女のその作業が終わるのを待って、オレは言った。
「先日の検査結果が出ているだろう。見せてくれ」
途端、彼女の表情が固まる。
戸惑い、困惑、動揺か。
けれど、それらの感情を一瞬で彼女はもとの微笑みで覆うと、そばのサイドテーブルの引き出しから、一枚の紙切れを出した。それは、オレ自身の血液検査の結果が記されたものだった。
「どうぞ」
受け取って、検分する。やはりと思う。
一ヶ月前に余命半年と診断したが、もう少し早いかもしれない。
「大丈夫ですよシャルル、希望をもちましょう」
ジルが言った。いたわりに満ちた聖母を思わせるその表情に、オレは現在の自分の状況を嫌という程思い知らされる。
人が羨む富や才能に恵まれながら、若くして病魔に冒され、来世での再会を誓うパートナーもいないまま、たった一人で死んでいこうとしているみじめな男。それがオレだ。
心騒ぎはしない。覚悟もできている。だが――。
頭の中で大きな声が上がった。
鬨の声だ。
どこからやって来たかわからない猛々しい男たちが命をほとばしらせながらオレに向かって叫ぶ。
お前も男ならば、たてよいざたて、勇みすすめと。
「ジル」オレは顔を横に向けて言った。「手術の用意をしてくれないか」
ジルが首をかしげる。「手術? 誰のですか?」
「カオルだ。心臓を、人工心肺にチェンジする」
瞬間、ジルが小さく呻いた。
「なぜ、ですか? 意識はまだ戻っていませんが、カオルの心臓は平常に機能しているのに……?」
その問いかけを無視して、存在を完全に無にして戸口で立っていたベネトーに視線を向けた。
「ベネトー、君は、日本の池田マリナに電話をかけてくれ。響谷カオルの心臓が停止した。やむなく人工心肺を取り付けたが、もう間も無く死ぬから、最後の別れがしたければ、すぐに来いとな」
ベネトーは静かにうなずいた。狼狽したジルが待ってくれというが、かまわずに言った。
「いいか、君たちは共犯だ。いや、オレの戦友だ。けしてこのことを漏らすな。生涯だ。いいな」
ジルが低い声でたずねる。
「戦友ですって? なんの戦いですか?」
オレは彼女の顔を見た。
「オレの望むものは、君が一番知っているだろう?」
「……ええ。よく知っています」
「なら訊くなよ」
「これからあなたが行う戦いとは、名付けるならば、愛という名の聖戦、ですね?」
「よしてくれよ、そこまで自己陶酔してないぜ。そうだな、この戦いに名前をつけるとしたら……」
答えながら視線をさまよわせた。見飽きた白い天井を見上げる。百年戦争やワーテルローの戦いなど、歴史的に重要なターニングポイントとなった戦争にはやはり重みのある名がある。命がけで戦争をしていた当人らには戦の名などどうでもよかっただろうが、後世の人間から見るとそれはその名で呼ぶしかない唯一無二の名なのだ。むしろ、その名であったからこそ偉大な歴史へと成長したのだ。オレはこれからはじまる戦いをあらわすのにふさわしい名を考えた。すぐにひらめきを得たので、再びジルに目を戻す。
オレはちょっと笑って、短く言った。
「未練戦争」
わが美しいいとこ殿の顔は強張ったままだった。
完
聖戦全編テーマソング
泉沙世子「手紙」