《ご注意》シャルマリ2次創作。大人向け。フィクションです。
第二十七話
見舞いにいった一週間後、エルネスト大叔父は亡くなった。熱帯雨林地方のような大雨の降る中、彼がこよなく愛したジヴェルニーの由緒正しい小さな教会で葬儀は行われ、オレは一家で参列した。この数年アルディの長老の葬儀が続いたため、笑顔が持ち前のエロイーズですら殊勝な顔が得意になっていた。
「先週は見舞いに来てくれてありがとう。父はひどく喜んでいたよ」
息子のユーゴはオレに深々と頭を下げた。彼はオレよりもはるかに年が上だが、腰の低い男だった。四十を過ぎたばかりだというのにすでに腹は突き出ていて、おでこがアルファベットのMの字型に禿げ上がっている。涙はないところを見ると、父の死をきちんと覚悟し、受け入れているようだ。
「もっと早くに来ればよかったです、申し訳ない」
「忙しい君が来てくれただけで十分だよ。本当にありがとう」
――シャルロット、これからシャルルを支えてあげてくれ。
ユーゴはそういってオレの妻を幾度も励ました。最後の長老である父親の死が、アルディにどういう変化をもたらすのかは、ユーゴはよくわかっているのだ。つまり、自分の父親が、これまでオレの権力を堰き止めてきたということも。だから、保身のためにオレにすり寄っているというわけだ。父親に代わってオレに対抗する気はまるでないらしい。
「ユーゴ。私たちに気遣いはいらないわ。どうか気を落とさないでね」
親身なシャルロットの励ましにユーゴは感極まった顔で、彼女の手を握りしめて、ありがとう、ありがとうと繰り返した。シャルロットはユーゴの妻や子供達に弔いの言葉をかけて回った。
ひっそりとした墓地に遺体は埋葬され、皆は別れの言葉を告げながら墓の前から去って行き、こうしてエルネストの葬儀は雨の降りしきる中、終わった。
ルパートは、五日後の土曜日に親族会議の開催を決めた。議題はエルネストの葬儀報告と、空席となった長老席についてである。しかしオレはここで、別の案件を提出するつもりでいた。
当主には特別緊急議題を提案する権利が与えられている。これも、長老派の支配下ではほぼ凍結されていた権利だ。
ずっと構想を練ってきたモザンビークの地雷撤去支援を、オレは提案しようと考えていた。
オレはそれの相談をするために、葬儀から戻ってすぐ執務室にジルを呼び出した。葬儀から自宅に戻っていたジルは、趣味の室内テニスにいくところだったのか、いつものグレーのスーツ姿ではなく、腹の位置に結び目のある目の覚めるような黄色のブラウスに、白地のショートパンツ姿で現れた。
「予算はどの程度ですの?」
サングラスを胸ポケットに差していても、口調はしっかり仕事モードのジルに、オレは信頼感を覚えながら、人差し指を立てて見せてやった。
「一千万フランですか?」
首を横に振る。
「まさか、一億?」
オレは頷いた。ジルは、美しい顔を縦長に伸ばして口を大きく明け、あっけにとられたという顔をした。
「我がアルディの経済状況をお分かりですか? アメリカのブラックマンデー以降、どの分家も屋敷と土地の維持にカツカツで暮らしているのが現状です」
「だが、本家にはまだ余裕があるだろう。ノルウェーの油田開発。あれから相応のキックバックが入ったはずだ」
「それにしても」とジルはため息を吐いた。「一億などという金額には到底及びません。この土地と家屋、華麗の館にある貴金属、絵画など、アルディで保有している財産の全てを処分したら、なんとかなるかもしれませんが」
「それでもいいさ」
「シャルル!」
血相を変えてジルは怒鳴り、テーブルに片手をついた。チャリンと音がなり、金のネックレスが黄色いブラウスから溢れでる。
オレは手を止めてそんな彼女を仰ぎ見、噛んで含めるようにいった。
「ま、そんなことが無理だというのは承知しているよ。だから、君が最初にいった通りの一千万でいい。それなら拠出できるだろう?」
「それは、まあ……」とジルは渋々体を引いた。
「後の九千万はオレの個人資産から出すさ。オレの持っている特許を売ればそれぐらいになる」
細胞活性化を促し家畜飼料を倍加するバイオテクノロジー特許。コンピュータ関連のソフトウェア。太陽光開発の特許。音楽関連の著作権。医師としての論文および著作、翻訳本など、オレが所有している特許は三十以上。
「よろしいのですか?」
「また新しいものを開発すればいい」
「それで、何か作ってらっしゃるというわけですね?」とジルがオレの手元を見た。つぶさに見た。
「ああ、これ?」オレはデスクの上で、プラスチック基盤の上に液晶ディスプレイを貼り付ける作業をしていた。「これは特許開発のためじゃないよ。携帯用電話を作ろうと思って」
「携帯電話? それならわざわざ作らなくとも、フィンランドで実用端末が開発されたということ。それをお使いになればいいのでは?」
「これはシャルロットにあげるために作ってるんだ」
「なぜ、シャルロットに?」
「明日から、日本にいくから」
オレがそういうと、ジルは驚いた顔をした。
「シャルロットに余計な心配をかけたくないんだ。お互いが持っていれば、いつでも連絡が取り合えるだろう? ああ、それと、いうのが遅くなったが、明日の日本行きはジル、君も同行してくれ。さっきカオルから電話があって、タツミの具合が良くないそうなんだ。彼の診察にいく」
「それは結構ですが、なぜ私も?」
「君は秘書だろう?」オレは手を休めずに答える。
「そうですが……」
ジルは少し考える顔をした後、またため息をつく。彼女のため息は今日、これで何度も聞いた。
「よほど心配なのですね、シャルロットが」
オレは目だけあげて、ジルを仰いだ。
「身重の妻を心配して悪いか?」
「いえ」ジルはかぶりを振る。「模範的な良い夫だと思いますわ。ただ、これまでの行いが良ければ、こんな気遣いは無用だったとは思いますけれどね」
――嫌味な秘書だ。
オレは軽くジルを睨んでから、手元に視線を戻した。
「君も携帯電話、いるか?」
ジルは苦笑した。
「恋人ができたら、その時にはぜひ、お願いしますわ」
その夜、子供達が寝た後に、完成した携帯電話を妻に渡して操作方法を教えると、彼女は目を回した。
「こんなもので本当にあなたと話せるの? 海を越えて?」
信じられないという顔に、オレはプライドを持って反論する。少々頭の弱い彼女にわかりやすいように噛み砕いて。
「地球の軌道上には通信衛星が飛んでいるんだよ。この電話はその衛星を中継地点にして通信する。だから、海を越えても会話ができるんだよ」
「……わからないわ」シャルロットはオレの与えた電話を持つ手を、まるで恐ろしいものでも持っているかのように体から遠ざけた。
「わからなくていいよ。とにかくいつかけてくれてもいいから。後、ジルも連れていくから、基本的に彼女といつも一緒に行動する」
「シャルル」
「タツミの診察が終わったらすぐに帰国する。何も心配するな」
シャルロットは電話とオレとを交互に見つめて、それから冷やかすように笑った。
「なんか、随分厳重な準備ね。まるで疑うことは許さないっていわれているみたい」
「違うよ。オレはただ二の舞を踏みたくないだけで」とそこでオレは言葉が詰まった。
「ディズニーランド失踪事件ね?」と嫌味たっぷりな口調で言われると、オレはもう何もいえない。黙ってうつむくしかないオレの肩に、シャルロットの白い手が優しく乗った。
「かわいい人。ここまで反省しなくていいのに」
そういうと、シャルロットはオレのほおを両手で掴んで顔を上げさせ、口紅を塗っていない風呂上がりの唇をオレの唇に押し当てた。唇を優しく噛んだり、吸ったり。愛情が痛いほど伝わってくるキスを続けた後、そっと顔を離してオレの目を覗き込んで微笑む。
「じゃあ、私のことが恋しくなるような電話をしちゃうわ。私の愛しい人」
オレは妻の腰を掴んで、フッと笑う。
「それってどんな電話だい?」
シャルロットは上半身をのけぞらせた。
「楽しみにしてて」
「気を持たせるな」と、オレが口を尖らせると、
「うふふ。私にこんなおもちゃを持たせるあなたが悪いのよ」
と妻は楽しそうに肩を躍らせた。
「どんどんかけちゃおっと。いいわよね!」
――おいおい、飛行機に乗っている時間だけは無理だぜ。
とオレがいうと、シャルロットは「わかりました」といい、もう一度オレにキスをしてから、オレから離れてソファにどんと座り込み、電話をいじることに夢中になった。彼女が満足してくれて、オレは心からホッとした。タツミの診察をするだけだから、とんぼ返りで帰国する予定だが、そのわずかな時間で信用を失いたくなかった。オレ達夫婦にはもう隙間などいらない。
オレはエロイーズを彼女の部屋に運び、サミュエルをベビーベッドに寝かしてから、バスローブを脱いでベッドに入った。その間、シャルロットはずっと携帯電話をいじっていた。もちろん、相方であるオレの電話はしょっちゅう鳴り響いていた。電話のカラーはオレがブラック、妻がローズだ。
「そうだ」とオレはベッドサイドランプの光量を調整しながらシャルロットを見た。「今度の親族会議で、モザンビークの地雷撤去支援を提案するんだ」
「ええっ? 地雷撤去?」シャルロットは電話の画面を睨んだまま答えた。「何それ? 貴族的ボランティア?」
「いやボランテイアじゃなくて、オレが十代の頃、モザンビークに拉致された話はしただろう? そこで現地の人々と交流を持ったこともいったと思うんだが、内戦終結後、あの国には無数の地雷が残されてね。今もその地雷によって多くの人々が犠牲になっている」
「そう」
「今までは長老達がオレの権限を凍結していたから何もできなかったけど、これからは動ける。まずは親族会議にかけて、地雷撤去をしているNGOに資金援助をしたい」
シャルロットはようやく電話をテーブルに置いて立ち上がった。
「いいんじゃない? 皆の承認が得られるといいわね」
いいながら、ネグリジェを脱ぎ捨ててベッドに入ってきた。寄り添ってきた彼女を、オレは腕を伸ばして腕枕して抱え込む。裸の妻を抱いていると、良からぬ思いが沸き起こってくるが、今は耐えなければならない。あと少し。もう少し腹の子が育つまでは控えた方がいいと、医師としてのオレがいっている。
代わりにしつこいぐらいに額にキスをした。
「電話のやり方、覚えた?」
「うん。完璧よ」
妻の方は肌をくっつけていてもそんな欲望など感じないのか、エロイーズがオレを見上げるときのような邪気のない笑顔で「電話をありがとう、おやすみなさい」といって、すぐに眠ってしまった。
日本はうだるような猛暑だった。飛行機から降りてボーディング・ブリッジを歩き出したその瞬間、体を押し上げてくるような熱気を感じた。
建物に入ってすぐシャルロットに電話した。
3コール目で彼女は応答した。
「こっちは暑いよ」
そういうと、とんでもない答えが返ってきた。
「私も熱いわ」
オレは思わず無言になった。くすくすと忍び笑う声が受話器の中から聞こえてきた。
「前の夜、我慢していたでしょう?」
「……気づいていたの?」
「もちろんよ。夫のことなら何でも知っているわ」
「悪趣味だね」いささか気分を害してオレがいうと、妻は甘い声で答えた。
「早く帰ってきて愛し合いましょう。大丈夫よ、私たちのべべは丈夫だから」
オレを焦らすために出発前夜は早く寝たのかと思うと、悔しいような、バカにされているような気もするのだが、かといって怒る気にもならなかった。腹の子を人質に取られているとはいえ、彼女を気遣ったのはオレの勝手だし、まさか無理に抱くことなど思いもよらなかったし、それで何かあっても大変だ。
しかし、そっちからそういわれれば話は別だ。
「帰ったら覚えてろ。泣かせてやる」
そういってオレは電話を切った。振り向くと、ジルが素知らぬ顔をして、タクシー乗り場を探す振りをしていた。
空港の建物内は十分に冷やされていたが、エントランスの自動ドアから出て、車に乗るそのわずかな時間、通過していく車が巻き上げていく排ガスだらけの風を浴びただけで、首筋から背中まで汗をびっしりとかいた。
「暑いですわね、日本は」
オレの隣に乗ったジルが日本語でこぼすと、暑いのに帽子をかぶった運転手は「そうでしょう」と前を向いたまま頷いた。
「お客さん、どちらからですか?」
「私たちはパリからです」
「あちらはあまり暑くないんですか?」
「これほどじゃありませんわ。日本は、なんと言いますか、熱風が吹いているという感じですわね」
「そうなんですよ」と運転手はため息を吐きながらウインカーを出して高速道路に乗った。「今年の夏は異常でしてね。三十五度を超える日まである始末で。そのうち、太陽に焼き殺されるんじゃないかって、もっぱらの噂です」
「なら、タクシーは儲かるんじゃありませんこと?」
「いやいや、それがなんとも」運転手は左手をオレ達に向けて振った。「そうなればいいんですけど、バブルがはじけて以降、さっぱりですわ。景気が悪くなると、まず一番に節約するのはタクシー代っていわれるぐらいですからね。缶コーヒー一本考えてからでないと買えませんよ」
ジルはしみじみと頷き「どこも大変ですわね」と答えた。それからジルは手帳を取り出し、何やら無言で書き込み始めた。
――でも、生きて元気に暮らせるならいいじゃないか。
と、オレはそんなことを考えながら、流れ行く車窓を見ていた。いつ来ても、成田から東京に向かうこの道の眺めは変化がなく退屈だった。しかし、それはこの国に暮らす人々が平和に暮らしているという証拠でもあった。モザンビークでは、昨日見た景色が明くる日には一変しているということが日常茶飯事だった。奪われていくのは命だけじゃない。家も、木々も花も緑も、蹴つまずいた小さな石ころさえも襲撃によって、元あった場所からなくなっている。
モザンビークの人々と交流して、彼らが望んでいたことは、ごく当たり前のささやかなことだと知った。家族が健康であること。今日の食事が食べられること。綺麗な水が飲めること。怪我の治療が受けられること。仕事をして生計を立てていけること。明日も生きていられること。
しかし内戦はそんなささやかな望みを踏みにじり、必死で生き抜こうとしている命すら奪い取っていったのである。しかも、内戦が終結してなお、地雷という負の遺産によってモザンの人々は喜びを搾取されて生きていかねばならない。
アルディ家を離脱したいと思った三ヶ月前の決意は、オレの中で、尚一層固いものとなっていた。マリナのこととはもはや完全に分離されて、かつて彼の地で世話になった人間として、どうしたらあの国をこの日本のようにいつ訪れても変化がないと思える穏やかな国にできるか、本気で取り組むべきであると考えたのである。
「そろそろ東京ですか?」
ジルは運転席に乗り出して、運転手に尋ねた。来日が初めての彼女は、物珍しそうに車窓を見ている。
「もう随分前から東京に入ってますよ。本当なら小松川線を通った方が早いんですけどね。箱崎ジャンクションで事故った車がいるみたいで大渋滞って情報が入ったんで、外環を使わせてもらいました。この辺は小菅っていいます。ほら、あのおっかない建物、あれが小菅拘置所ですよ」
東京都足立区。背の低い住宅や商店がほとんどの視界の中に、突如、湧いて出てきたかのようにそびえ立つ拘置所の建物は異様で、完全に周囲から浮き立っていた。高速道路から見下ろしているせいか、拘置所と周辺の住宅地との隔絶感が尚更際立って見える。拘置所は全体的にグレーがかった暗い色合いの建物で、巨大な要塞のようでもあった。
ジルはオレに目配せをして、「ここが例の?」と小さな声でいった。オレは軽く頷いた。
それから順調に車は走り、午後二時過ぎ、国立の響谷邸に到着した。
ヒマラヤ杉に覆われたギリシャ風怪奇建築。灼熱の太陽の下でも鬱蒼とした影が邸にはあり、どこか涼しげな印象を受ける。初めて見たジルは息を飲んだように固まっていた。
「素晴らしい趣味ですわね」
控えめに評価した発言にオレは苦笑しながら、ドアベルを押した。すぐさま警戒した女性の声で「どちら様?」と応じる声。薫の声だ。
「アルディだが」
「あー、待ってたよ。今いく」
がちゃんと切れ、一分後、ドアが開いて、ほっとしたような薫が顔を見せた。白いブラウスに、細いジーンズ。シンプルな装いが彼女を怪奇屋敷に咲いた一輪の野百合のように感じさせた。
薫は、疲れ切った顔色であったが、自分を保とうとしている意思が眼にこもっていた。これまで薫の病人としての姿や、介添人としての姿を見てきたが、どんなに辛い状況の時も彼女から凛とした姿勢が消えたことは一度もない。
「よかった、きてくれてありがとう。あれ、今日はジルも一緒かい?」
ジルは丁寧にお辞儀をする。
「お久しぶりですね。お邪魔いたします」
ジルは、薫たち兄妹が我が家で治療していた時、短期間だが看護していたので、交友があった。
巽は二階の自室で、ベッドに横になっていた。顔色は青白色で、前に会った時より痩せているような感じを受けた。瞼が重いのか、深い二重は朧に広がって、羽毛のようなまつ毛は苦しみを乗り越えてきた涙目に被さっている。
「やあ。わざわざ来てもらってすまないね。大したことないんだけど」
芳醇なウイスキーを思わせる甘やかな声は、痰が絡んでかすれていた。オレは首を振りながらベッドに近寄り、そばにあった椅子に腰を下ろした。
「大したことないことないよ! 咳、高熱、頻尿、関節痛。他にも色々症状が出てるじゃん! ちゃんと見てもらった方が絶対いいって!」薫は拗ねたように叫んだ。
「そうですよ」オレはいった。「そうです。いつでも呼んでくださいと申し上げたはずですよ。ご無理は禁物です。では診察しましょう――」
オレはカバンから診察のために必要器具を取り出した。
薫とジルが心配そうに見守る中、ざっと診察を終えた。よかった、巽のいう通り、本当に大したことはない。
「大丈夫です。軽い感染症にかかっているだけのようです。薬を置いていきますから、きちんと飲めばすぐに症状は軽減します」
「本当?」といつの間にそばに来ていたのか、薫がオレの腕を掴んだ。強い力だ。オレはやや苦笑いしながら、彼女の手を外した。
「オレを信用できないのか?」
すると、薫は一瞬顎を引き、オレを睨むように見据えながらぐっと黙り込んだ後、そのままかぶりを振った。
「あんたを信じてるさ。一生な」
「そうか。だったら、いうことを聞け。わかったな」
「わかりました……フン!」
薫がそっぽを向くのを見て、巽は咳き込みながら、仕方がないなという顔で笑った。
巽に薬を飲ませた後、オレとジルは、薫とティー・タイムを持った。紅茶とケーキを運んできたメイドは前から同人物だ。五十二、三ぐらいの女性で、薫の話によると、兄妹が生まれる前からこの家に勤めているという。演奏活動でほとんで家に帰らない両親に変わって二人を実質的に育ててきたようなものらしい。無口で無表情だが、信頼できる人柄を感じた。
「夕食も食べていってくれよ。久しぶりだからゆっくり話そうぜ」
と勧める薫に、オレは「いや」と手をかざした。
「帰りの飛行機の時間があるから、そろそろ失礼する」
「えっ?」と薫は首を出した。「もう帰るの? とんぼ帰り?」
「家族が待ってるからね」とオレはいった。
ジルがカップを置いた。
「シャルルったら、片時も奥方と離れていたくないのです。今回もたった一日の来日だというのに携帯電話まで作ってラブコールしているのですよ。あてられてしまって、まいりましたわ」
「ジル!」オレはジルを睨んだ。
「ほら、また顔が赤い」とジルは手を口に当てて笑う。オレはこれ以上何かいっても物笑いのタネになるだけだと、黙ることにした。至極、納得できない心持ちではあるが。
そんなオレたちを見て薫は、はあ、と間抜けな声をあげた。
「そうか。うん、まあ、そうだよな」と薫はそこまでで言葉を切った。そして何やら黙り込んでしまった。オレはカップを取り、紅茶を飲んだ。空気がしっとりと重苦しくなってくる。薫は何かをいいたくて迷っているようであった。
「何かあるか?」
オレは尋ねた。
薫はオレをじっと見て、それから、うん、と自分を奮い立たせるように頷いてから、
「マリナと黒須、正式に離婚したぜ」
と唐突にいった。
「マリナは健人の養育権を得て、この国立に引っ越してきたんだ。先月のことだ。住まいはすぐそこ、角を曲がったところにあるアパートの二階。いわゆるスープの冷めない距離ってやつさ。あたしは兄貴が目を離せないし、あいつも健人がいるだろ? お互いに助け合おうぜって話し合って決めたんだ」
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