今年のシャルルBD創作は、気ままに軽い物語をやります。
CPはシャルマリ。登場予定キャラ:シャルル、マリナ、美馬、花純、薫、和矢、美女丸。
2次創作にご理解のある方のみ、この先お進みください。苦情等はお受けできません。
9
記憶がない、ということはすぐにわかった。
覚醒してまず最初に視界に入ったのは、見慣れぬ白い石膏ボードの天井。飾り気もなにもない。蛍光灯の白さがするどく、建築後まもないとシャルルは思った。鼻が反射的に動き、なまあたたかいような、甘ったるいような匂いを嗅ぎ取る。それからゆっくりと視界を横に倒すと、蒼白な顔をした少年がこちらを至近距離で覗き込んでいた。
白金髪のくせのない髪を肩まで伸ばした少年。いや少女――?
だれだ?
羽毛を思わせる長い睫毛。透き通るようなブルーグレーの大きな瞳。上等なシルク地の真珠色のシルクブラウス。下はよく見えないが黒いパンタロンのようだ。ブラウスはパンツにインにしている。手も首もだが、絞られているウエストはさらに細かった。
「よかった……どれだけ心配したか!」
そういうと、彼(彼女?)はシャルルの腹に突っ伏して泣き出してしまった。
十五ぐらいか?
変声期前の男にも、第二次性徴を完了した女にも見える。天使のようなカーブを描いた薔薇色のほおとそれよりもさらに血色のいい唇が、青白い肌色から浮き上がり、ひどくつやめいていた。
こいつは男か女かどっちだろうと思いつつ、シャルルは周りの状況を確認した。どうやら自分はベッドに寝ているらしい。なおかつここは病院の一室であるようだ。個室病室。広く豪華な部屋。設備は、ベッド、病床台、テレビ、ソファセット、洗面台、あとドアが二つある。一つは引き戸。廊下に繋がるものだろう。もう一つは磨りアクリル製の折りたたみ戸。シャワールームとトイレと察する。
左腕の手の甲に点滴がつながっている。薬剤を確認。輸液一種類のみであった。
頭を枕につけたままちょっと左右に振った。枕と髪が擦れる感触がしたので、髪を手にとってみる。視界に入る程度の長さの白金色。パッと手を離すと、ほおの端と耳にパラパラとかぶさった。
それから起き上がり体を動かしてみる。
「大丈夫!? 無理をしないで――」
抱きかかえようとする彼(彼女?)の腕を払いのけ、まず腕を回した。次に足。それから首を回す。どこも問題なく動いた。痛みはない――と安堵した直後、
「うっ」
たまらずにうずくまった。
「どうしたの!?」
「なんでもない。気にするな」
「気にするよ。すぐにお医者様を呼ぶから」
「呼ぶな。必要ない。ただの頭痛だ」
「でも……」
「医者は嫌いだ」
自分の口から発した言葉に衝撃を受けた。医者が嫌い? なぜ医者が嫌いなのだろう? 医者、医者、医者……。医療従事者。社会的高所得者。高学歴者が多い……。ひどい違和感。気持ち悪さと言える。高学歴高収入……だから?
「相変わらずだね。自分以外のお医者様は信じないんだから」
呆れたように笑う彼(彼女?)の顔には、軽蔑のしるしはどこにもなく、むしろ親しみがあふれていた。それで、シャルルはかえって警戒心と嫌忌を抱いた。そして、なぜ自分がそんな風に思ってしまうのかわからなかった。
親しみを見せる相手に、なぜ、こんなにも邪な感情を抱くのだろう。
すばやく考えたが、出口のない部屋に閉じ込められたように答えは見出せず、その間にも彼(彼女?)は笑顔でまくしたてた。
もうダメだと思ったよ。ザイラー教授はもう来てくれないっていうし……。兄さんはとんでもない無茶するし。ああ、僕のことを心配してくれてありがとう。兄さんはカレルのことを許してくれたよ。もちろん、友人に戻るという約束をさせられたけれどね。甥っ子の君にこんな告白をしなければならないのは辛いんだけど、僕はカレルと過ちを犯しかけたんだ……。いや、正確に言うと犯しちゃったんだけど。ねえ、罪ってどこからが罪なのかな? 兄さんに言わせると、罪だと知りながらその行為を許可した時点でもう罪なんだって。厳しいよね。でもそういう兄さん自身がきっと何かの罪を犯したことがあるんだと思う。だから兄さんはそんな自分が許せなくって、苦しんでるんだ。兄さんを助けてあげたい。あっ、もちろんシャルルのことも大事だよ。銃で頭を撃たれたシャルルをザイラー教授が手術してくれて、一度はちゃんと覚醒したのに、また昏睡状態になっちゃったから、僕もうダメなのかと思ったよ。でも僕はシャルルはこんなことで死なないって信じていたし、シャルルの代わりに僕が死んでもいいって本気で神に祈った。シャルル、ありがとう、戻ってきてくれて。本当にありがとう。
――僕? こいつは男か? 屈託のない言葉の選び方や、ねとねととした口調は上流階級の子弟を思わせる……。そして彼の話に出てくる人間のうち、どうやら……
「オレの名前は『シャルル』か?」
「シャルル?」
「君の名前は?」
彼は顔を強張らせて、背筋を正して答えた。
「アンドリュー・ドゥ・アルディ……」
やはり。どうもおかしいと思っていた。
「ドゥはフランスの貴族が使う前置詞だな。つまり君はフランス人というわけだ。なのに、なぜ君はさきほどからフランス語を使わず日本語をしゃべっている?」
絶句したのち、アンドリューと名乗るその少年はわけのわからない叫びをあげながら、病室をとびだしていき、熊のような医師と看護師を数名連れてすぐさま戻ってきた。それから嫌がるシャルルを無理強いして数種類の検査が次々と行われ――結果が出たのはその日の夜遅くだった。
「術後の高次脳機能障害が疑われます。シャルル氏の場合、認知や運動能力には一切問題が出ていません。ただ記憶と感情の分野に軽い障害が見られます」
付き添っていたアンドリューが熊の医師に尋ねた。
「それは治るんですか?」
「うちの病院では……ザイラー教授ならできると思いますが」
「ザイラー教授! とても来てくれません!」
「他に誰かご存知ないですか。優秀な脳外科医を」
「ここにいます」
「――は?」
「シャルルは世界一の医者です。以前、お腹の傷を鏡に映して自分で手術したこともあるんです。介添えの医師たちは皆、驚嘆していました」
「…………!」
「でも、場所が脳ではいくらシャルルだって……」
「覚醒下で行う脳手術もありますが、自分では不可能です。単純に手が届かない」
「シャルルが他の医師に指示して、手術を行うというのは?」
熊医師はあきらかに難色を示した。覚醒下脳手術というだけで、相当な難レベルの手術である。執刀医が患者自身など前代未聞。失敗時の責任問題もある。
「少し時間を置いたら、記憶が回復するかもしれません。やたらにメスを入れるよりは少し待つことをおすすめします」
「いつごろ記憶が戻りますか?」
「明日かもしれませんし、十年後かもしれませんし」
「それじゃあ、困るんだ!」
「かといってメスを入れて失敗したら、もっとひどいことになるかもしれませんよ」
問答が続いた結果、アンドリューは押し切られる形で手術を諦めた。シャルル本人はそれらを他人事のように受け止めベッドに横たわっていた。もとより手術を受けるつもりなどまるでなかった。
オレは誰だ? オレ? オレ、オレ、オレ……。『僕』ではダメだったのか? 『私』では? どうしてオレという一人称を使ったのだろう?
そんな他愛のないことがとても気になった。
身の上をアンドリューに教えられてから、ひょっとしてと考えてチャレンジしてみると、フランス語も英語もイタリア語も難なく話すことができた。全部で二十五の言語。その流暢さに自分で驚き、戸惑い、不安と居心地の悪さを抱く。
そう、例えれば大空に浮遊している雲になったような。自分がどこの何者か、“本当にわからなくなった”。アンドリューが『シャルル』だと教えてくれたから、おそらく自分が彼であることは間違いない。鏡を見て、アンドリューととてもよく似ていることにびっくりした。目の色。髪の質。肌のキメ細かさ。纏っているオーラと呼ぶべき雰囲気は似ても似つかないが、アンドリューとの血のつがなりは否定しようもない。
しかし、この『シャルル』という名前の居心地の悪さは多くの言語を操ることとけして無関係ではないと思う。
たくさんのものに手を染めすぎて自分を見失ってしまったのではないか、と思った。母語と外国語が自分でわからなくなってしまうほど、覚醒した直後に他国語が口から出てしまうほどに。心がざらざらとした。地に足がついていない感覚だった。
アンドリューがいうには『シャルル』は天才で、世界的医師で優秀な科学者、プロ並みのピアニスト、ハイブランドのデザイナー、チェスプレイヤー、フェンシング選手、コンピュータプログラミング技師、化学学者、他多数……誰もが羨む才能と美貌。
教えられる『シャルル』としての実体がすばらしいものであればあるだけ、今の自分からかけ離れたものとして浮遊していく。
オレ、オレ、オレ……
日本語独特の一人称でアンドリューの性別がわかったが、そんなことはいずれ見当がついたことだ。
「シャルルは日本に大切な友達がいるんだよ。カズヤっていう」
思い当たらなかった。コレージュ時代に知り合ったという。
「とにかく今は早く体を治してパリに帰ろう。親族会議で当主に戻れるように計画しないと。例の剣のことは――なんとか誤魔化す方法を考えて――」
アンドリューはシャルルに当主に戻れと再三いった。ミシェルという双子の弟の確執も教えてくれ、絶対に負けてはならないといった。なぜそんなに負けてはならないのか、当主にそこまでこだわる理由は何なのかと尋ねたら、アンドリューは暗い顔をしていった。上目遣いで。
「シャルルが言ったんだよ。一生分の夢の続きが待っているから、何がなんでも当主に戻るって。そう言った時のシャルルは目が輝いていた」
驚いた。と同時に心に深い翳りが降りていく。一生分の夢、一生分の、一生分の夢の……続き……?
翳りが闇と光を交互に差し込む。痛みと安らぎが代わる代わる訪れる。冬と春。昼と夜。同居を許さない条件が螺旋状に絡みあって、ちぎれて、沈んでいく。
この光はなんだ? そしてこの闇は……?
「例の剣を取り戻すことが当主に戻る条件なんだ。だからシャルルはここプラハまで来たんだよ」
「例の剣とは?」
辛抱強くアンドリューは説明を続ける。
「グノームの聖剣。ドイツの名門貴族ミカエリス家の宝で、色々あってアルディ家が競売で競り落として所有していたんだ。だけどそれが盗まれてミカエリスに戻っちゃって、その責任を取る形でミシェルは当主の座を追われた。シャルルが当主に復帰する条件は聖剣の奪還。でもミカエリスにとっても家宝だから絶対に手放さない。それでシャルルは剣を奪うためにミカエリスに戦いを挑んでいた最中だったんだ。ちなみにミカエリスの現当主レオンハルトは、僕の父マクマリオンがミカエリスの娘と恋仲になって作った子供だから、僕にとっては兄、シャルルにとっては叔父」
「へえ」
「剣は兄さんが聖バーツマス教会に封印した。簡単には取り戻せない」
だったらもういいよ。当主にならなくていい。
シャルルがそういうと、アンドリューはひどく怒った。
「そんなの、シャルルらしくない! そんなこと言っちゃだめ!」
オレらしい? オレらしいってなんだ?
また『オレ』だ。一生分の夢は見終わったって言っていたんだろ? その代わりに当主に命を賭けるってことは、本当は当主になりたかったんじゃなかったってことか。だったら本当に『オレ』が望んでいたことはなんだ?
アンドリューはそれについては知らないと答えた。
「シャルルは僕には自分のことを何も話してくれなかったから」
拗ねたようなアンドリューの顔。責められて身の置き所がない。だが、そんなに吐露しなければならないのかと反発する気持ちもある。甥と外見が似ているから同一視しているのではないか……。しかしそう言えば間の悪いこの沈黙に油をそそぐようなものである。シャルルはおし黙る。
「とにかく」
アンドリューは顔を厳しくした。
「当主に戻って。剣のことは協力を惜しまないから! 兄さんにだって逆らってみせる」
アンドリューの声には決心らしきものが感じられた。シャルルはため息をつく。
「取り戻す手段は?」
「だから、そのために――」
トントンと威勢のいいノックの音が響いた。アンドリューは焦った様子で口を噤んで「だれ?」と尋ねた。
「クリームヒルトよ」
よく通る女性の声。チェコ語である。
アンドリューは小さく舌打ちしてから、仕方がないという顔をして、
「どうぞ」
と答えた。
入ってきたのは、ショート・カットの女性だった。細身で中性的な雰囲気である。気の強そうな目。
「なんだ、死にかけたっていうから来たのに、生き返っちゃったの。つまらない」
トレンチコートを腕に抱えたまま、ヒールを響かせて近寄ってくる。
「君はだれだ?」
「あなたの婚約者」
「婚約者?」
「そう」
頷いて顎をそびやかす。
「この世で一番あなたを愛している、ねっ」
クリームヒルトの笑顔は上品さに欠けた。病人を物理的に見下すはしたなさと悪趣味。それらは彼女の魅力を著しく傷つけ、摩耗させていた――のだが。
大きな目が向けてくる侮蔑のまなざし。安全カミソリではなく、直刃のそれのように鋭く切りつけてくる。口は片側だけ持ち上がっている。これも軽蔑のしるし。
彼女は全身でシャルルを蔑んでいた。生きていることを呪っているとまでいわずとも、どうでもよいと思っていることがよくわかった。もしシャルルが死んでいたとしても、彼女は涙ひとつこぼさず、鼻歌を歌いながら日常生活を送ったに違いない。
好ましいはずもないのに、なぜか強烈に惹かれた。女として? いや、違う。性的魅力は感じない。それが証拠にシャルルの男性自身は全く反応していなかった。脳の異常ではない。アンドリューが帰った後、闇が降りた病室で確認したからそれは確かだ。シャルルがクリームヒルトに感じているのは個性への渇望と呼ぶのが一番適当な言葉だった。覚醒直後から寸暇なく、アンドリューからプレッシャーをかけ続けられたことへの反動かもしれなかった。
シャルルは起き上がり、彼女の手をつかんだ。細く白い指先。冷たく、しっとりとした指先だった。形良くカットされた爪には、薄紅色のネイルが綺麗に塗られている。
「治療はまだ続いているの?」
「あるよ! 手術を考えているんだ」
「あなたに聞いてないわ。部外者は黙ってて」
アンドリューに一瞥をくれてから、シャルルに視線を戻して、
「どうなの?」
と聞いた。
「いや、もう何もしていることはない」
「だったら帰りましょう」
「どこへ?」
「あなた、プラハに家はないでしょう。ホテルは腐るほどあるけれど、よかったら私の家へいらっしゃい」
アンドリューは猛反対したが、シャルルはクリームヒルトに従った。クリームヒルトの屋敷は豪華で、すべてが行き届いていた。当然の言葉ながらアンドリューが随行したいといったが、クリームヒルトはそれをはねつけたし、シャルルも望まなかった。
性的関係を持たない共同生活が始まった。シャルルは一日の大半を屋敷の書斎で読書をして過ごした。頭痛が頻繁に起こり出かけることは叶わなかったのだ。最初のころはアンドリューがしょっちゅう来てクレームを入れたが、やがてそれも絶えた。リセの開始時期が来たため帰国したのだ。
クリームヒルトは淡々と暮らしていた。
「無能ね、あなた。本を読んでばかり」
「そうかな」
「それか寝てばかり。食費ぐらい稼いだら」
「草むしりでもしようか」
彼女は鼻で笑った。悔しかったので、プラハ城の歴史に関する新事実を発見して資料にまとめて渡した。これは非常に喜ばれ、彼女はめずらしくほおにキスなどしてよこした。
『シャルル』という実存感のなさは相変わらず体の奥深くから滲み出てくるように巣食っていたが、クリームヒルトといる間は忘れることができた。彼女は話すチェコ語は子犬の叫びのよう。罵声を浴びせられることにも慣れ、鼻で笑うと、真っ赤になってキャンキャン怒るのが愉快だった。
そうして二ヶ月後。
「私たちの馴れ初めは最悪だったのよ。あなたはプラハ城が欲しくて私に結婚を申し込んだのよ」
「ふうん」
「ひどいって思わないの?」
「まあ、一般的にはそうかもね」
「まるで他人事ね。覚えていないっていうより、あなたの生来の性格が歪んでいるのよ」
「それはどうも」
「――なんてね。本当は、城を購入したいといってきたあなたに、結婚するなら売ってやるといったのよ。でもまさかオッケーするとは思わなかった。でもこれも運命ね。一緒に暮らしてあなたはストレスのない相手だわ。これなら一生一緒にいてもいい。あなたはどう?」
シャルルの方でも異存はなかった。愛していない。だが彼女との共同生活は楽だった。アルディ家当主になれと彼女は責めない。アンドリューのように委ねきった目で見ない。そのくせアンドリューの目には憐れみが満ちていた。
あの目を二度と見たくない――。
それから。
もうひとつ。何かある。心の中で蠢くものが。憐れみに満ちたものが。苦くて切ない味で。そのくせ身を焦がすほど甘美な味で。食べたいのに、もし食べてしまったら死んでしまうほどの猛毒で。だから諦めようとしている。そんな感覚。当主とは別のものであることは確実だが、思い出せない。
一生分の夢がきっとそうに違いない。続きがあると話すシャルルは目を輝かせていたとアンドリューはいった。だけど、シャルルがそれを思い出そうとすると、脳が爆発してしまいそうな頭痛がするのだ。同時に心臓がのど元まで一気にせり上がってきて火山のように鼓動する。舌が乾きもつれ。手がしびれ。足が震え。――そして気が遠くなる。
一生分の夢とその続き……。
シャルルは自分を惑わすその夢が女に関連するものだと考えた。アンドリューに憐れみの目で見られるのも、異常なほど当主に戻れと言われるのも、過去の女関係が理由か。だったら、とるべき方法はひとつ。
「いいよ。結婚しよう」
クリームヒルトのようなさっぱりとした女と結婚すればいい。
「それから、プラハ城は君のもののままでいい」
結婚証明書にサインをし、結婚式もハネムーンの予定も立て、それなりに楽しい婚約生活を送った。そうなってみるとクリームヒルトはなんとも可愛らしい女性であった。今まで目が曇っていたのではないかと思えるほどに。
医師の告げていた記憶の回復は婚約成立の三ヶ月後に起こった。それはある朝、唐突だった。前日いつものようにシャンパンを舐めてベッドに入り、朝日が入らぬようカーテンを三重にした部屋で、メイドのノックの音で目覚めた時、天井の意匠を見て疑問を抱いた。天使が剣を持っている。ここはどこだ?
何もかもを悟るに一分もかからなかった。アルディ家のこと。グノームの聖剣のこと。それからマリナのこと。
『オレを信じて待っていろ』
シャルルは成田空港でマリナにそう告げて、誓いのキスをした。あれからまだ半年しか経っていないのに――別の女と偽りの婚約をしてしまった。
グノームの聖剣を取り戻し、一刻も早くマリナのもとへ帰るためだった。きちんと説明すれば理解してもらえる。所詮は愛のない婚約だし、シャルルの愛がマリナにだけ捧げられていることはマリナだってよく承知のはずだった。
けれどもシャルルは罪悪感から逃れられなかった。せめて一秒でも早くマリナのもとへと願うあまり、焦りが生じた。その結果、レオンハルトとの抗争で脳に新たな深手を負い、術後まもなかった傷の内部が悲鳴をあげたのだろう……罪とは悪いと知りながら自分に行動を許可してしまうことである……
だが!
この三ヶ月の生活は、聖剣も当主も関係なかった。罪悪感すらなかった。マリナの存在を忘れていたのだから、当然だった。
アンドリューはアルディ家に「シャルルはグノームの剣を奪取するために尽力中」と返答した。シャルルは怠惰に暮らし、クリームヒルトと性的関係も結び、彼女との未来を考えた。もし記憶が回復しなければ、あと数週間で慎ましい結婚式を挙げる予定だった。
――なぜ? なぜこんなことになった?
シャルルは激しい動揺にかられながらもクリームヒルトに記憶の回復を告げた。速やかに婚約解消をするためだ。
すると、彼女はいたく喜んだ。
「復讐完了」
「え?」
「私、本当に好きな人と結ばれないの。事情があってどうしてもね。だからむしゃくしゃしてあなたに結婚を申し込んだんだけど、あなたはそんな私を愚弄してくれたわね。くだらない女という顔をして見下して、晩餐会でキスする時もわざと人を煽りたてて……。絶対あなたに復讐してやろうって誓ったの。あなたを裏切って捨ててやろうっていう趣旨の復讐じゃないわ。あなたが私を愛していないことなんてわかりきっているから」
「だったら、何を」
「あなたのお見舞いに行く前に担当医師に会って、いつ記憶が回復するかわからないって教えてもらったのよ。だから、それにかけてみることにしたの。記憶が戻って、あなたが自分のやるべきことを思い出して絶望する瞬間の顔が見たかったから、必死に我慢して一緒にいたわ。あなたみたいな男と一緒に暮らすのは鳥肌が立つほど嫌だったけれど」
「だから、君は何を――」
「プラハ城をミカエリス家に売ったのよ。ざまあみろ」
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