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悲しみも愛の言葉に 20

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第一話の注意事項をお目通しください。


20


 その夜、酔っ払った薫が突然やってきて、泊めてくれといった。
「どうしたのよ。兄上は?」
 薫は水道口に直接口をつけて飲んだあと、流し台に両手をついて、水が滴る口を手の甲で拭った。鋭い目つきで流し台の上の暗い窓を睨んでいる。
「……兄貴がうるさいから、出てきた」
「兄上が? どうして?」
 薫は少しためらいを見せたが、頭を振っていった。
「あたしが酒をのみすぎるってうるさいんだ。あんまりにもガアガアいうから、さすがに腹が立ってさ。今日は帰らない。マリナ、泊めてくれるよな」
 くだらない理由に、マリナはため息をついた。
「兄上が正しいと思うわよ。あんたは爆弾抱えてるんだからさぁ」
 とたん、振り返った薫の目が異様に光ったように思えた。薫の三白眼でまともに睨まれるとひどく恐ろしい。マリナはちぢみあがった。
 そんなマリナを突き飛ばす勢いで部屋の中に入った薫は、敷きっぱなしだったマリナの布団の上に、遠慮なく腰を下ろした。
「お前さんまであたしをババアのようにいうな。あたしは大丈夫だ。酒ぐらい好きに飲ませろよ」
 薫の心臓は、小菅の件でシャルルの天才的治療が行われた結果、以前よりも回復した。心筋梗塞を起こす心配もなく、走ったり泳いだりも普通の人と同程度に可能。定期的な検診を二年に一度受ければよいだけである。
「あんたの気持ちもわかるけれど、兄上は心配なのよ。それぐらいわかってるくせに」
 すると薫はほんの少しだけバツのわるそうな顔をして、膝小僧を抱えた。
「……だけど、言われたくないんだ。あたしが兄さんを守らなくちゃならないのに、酒ごとき調整できない弱い人間だとおもわれたくない」
 薫は涙混じりの潤んだ目で、目の前の畳を睨みつけた。ほんのりと紅潮したほおは凛としていて、ひどくか弱く見えた。
 マリナは再びため息をつく。これはちょっと冷静になる時間をおいた方がいいと思った。
「わかったわ。泊まっていい。でも明日は帰るのよ。それが泊める条件、いい?」
 薫はホッとしたように顔をあげた。
「サンキュ。……そういや、パリにいってシャルルは見つかったの?」
 ドキッとして、思わず言葉に詰まる。薫はそのマリナの変化を見逃してくれるほど甘くはなかった。意味深な目つきでマリナを見据える。
「……その様子だと見つかったみたいだな。お互いに思いを打ち明け合って結ばれたとか。違う?」
 まさしく図星で、マリナは顔が赤くなるのを感じ、慌ててほおに手をあてた。薫がにやにやと笑ってこちらをみていた。
「やるねぇ、マリナちゃん。そっか、いよいよお前さんも大人の仲間入りをしたか」
「もうっ! あたしで遊ぶなら出ていってもらうわよ!」
「なんだい。心配していた親友にひどい態度だね」
「面白がっていた、の間違いでしょう」
「あたしはマリナのことをいつでも思ってるよ。ちゃあんとね。あたしの友達はあんたしかいない」
 ふいに思い詰めたように薫の声が低くなった。驚いて彼女の顔を見れば、薫はマリナから視線を外して俯いていた。
 マリナはシャルルとの再会から、その後にあったことをすべて残らず話した。
「記憶喪失か……そんなこと本当にあるんだな。ま、よかったじゃん」
と、薫は穏やかに微笑んで何度も頷いてくれた。我が事のように喜んでくれているのがわかり、マリナの心が癒される。
「心配かけてごめんね」
「シャルル、シャルルって嘆いているお前さんを見るのも楽しかったけどね」
 あてこすりのようなことを言って、心配なんかしていないと言いたげに強情をはる薫が、マリナはおかしかった。本当に中学生のときから、薫はなぜか意地をはる。そういうところがマリナは大好きだった。
 マリナ愛用の黒電話がジリリンと大きな音を立てた。マリナは座ったまま手を伸ばして受話器を取る。
「はい、池田です。……あら、和矢? どうしたの?」
 受話器の向こうでは魅惑的な青年らしい声が響く。
「いや、そろそろパリから帰っているかと思ってさ。シャルルは、いた?」
 ああ心配かけちゃった。マリナは申し訳なく思い、感謝をいった。
「もう大丈夫よ。シャルルもそのうち日本に来るって言っていたわ」
 和矢は安心したようなため息をついた。
「よかった。お前もよく頑張ったな」
 それが三年間待ち続けたことへの労いだとわかり、マリナは思わず目頭が熱くなる。
 と、薫が大きな声でいった。
「黒須ーっ! 元気かーっ?」
 ちょっと驚いた様子で、和矢は、
「響谷が来てるの?」
「うん。泊まりにね」
「あいかわらず仲がいいのな。あっ、そうだ。親父が取引先から大量のパンをもらってきてさ。明日、そっちの方でバイトがあるから、おすそ分けにいくよ」
「えっ」
「たぶん、十一時頃になると思う。じゃあ、おやすみ。響谷によろしく」
 和矢はマリナの返事をほとんど聞かずに電話を切ってしまった。マリナはやや困惑した。シャルルが男を部屋に入れるなと言っていたからだ。
 和矢はパンを届けに来るだけだからいいか……。薫もいるし……。
 色々と考え、ようは部屋にいれなきゃいいんだと結論づけ、すっきりとして、布団にうつ伏せになっていた薫を振り返る。
「ねえ、薫、先に、その布団を使って寝てて。あたし、今夜は仕事をしたいから」
「オッケー。でもこんなせんべい布団で寝られるかな」
「贅沢いわないでよ」
 マリナは仕事机に向かい、ペン入れの続きをするために居住まいをただした。とたん、薫が「でもさ」とごろんと仰向けになって、マリナに向かって小学生のように手をあげた。
「ん? なに?」マリナは丸ペンを持ちながら薫を見る。「まさかこれから布団を買いにいくとかいうんじゃないでしょうね?」
「バーカ、違うよ。さっきのシャルルの記憶障害の話だけど、シャルルの婚約相手の女はもう完全に無関係なのか?」
 マリナはドキッとした。
「未練を残していて、シャルルに会いにきたりしないか?」
「まさか」マリナは笑った。「その人はシャルルが言うには、ひどくシャルルのことを嫌っているらしいわ。だからもう関わってこないと思うけど」
「もし、だよ。もしきたらどうする?」
「……なんでそんなことを聞くの?」
 マリナが睨むと、薫は起き上がり、膝を立ててその上に腕をのせて、前のめりになって真剣な顔をした。
「拘置所にいる兄さんのところに、クリスチャンの女性が通っていたのを覚えているか?」
 突然の問いにマリナは思い巡らした。
「そういえばそんなことがあったわね。それがどうしたの?」
「恋は結ばれた後のほうが、試練が多いから」
 マリナは一瞬言葉を失ったが、なんとか笑みを取り繕った。ダメよーーここで動揺してはいけないーー。
「大丈夫よ。もし相手の女性が来たら、あたしたちは相思相愛だから、ごめんなさいってちゃんと言うわ。なんだったら、一発殴られてもいいわ」
「そっか」
「うん」
 薫は安心したように一息ついた。「シャルルのやつ、果報者だな。三年も一途に思われて」
「これからうんとお返ししてもらうつもりよ。美味しいものをご馳走してもらってね」
「お前さんはそればかりだな。たまには宝石とかドレスとか言わないのか?」
「綺麗なものも欲しいけれど、やっぱり食事が豪勢な方が心が豊かになるもん!」
「食い意地のはった心をお持ちで」
 薫が呆れたようにのけぞり、マリナは肩をすくめて、二人は見つめ合い、ややして穏やかに笑い合った。
 それから薫はいった。
「よくわかったよ。変なことを聞いて悪かった。シャルルは敵が多そうだから、そういう意味でも心配だったんだ」
「相手の女性が敵になってやってこないかってこと?」
「まあ、そうだな」
「でも、シャルル本人は敵を作る気はないのよ」
「敵を作りたがってるとしか思えん態度だぞ。ガキのころ、私と共演した時も随分不遜だった」
「誤解されやすいのよね。不器用なの」
「ふうん♪」
 薫は長い前髪の間で瞳をきらめかせて、整った美しい唇の端を持ち上げて意味深な笑顔をした。
「自分だけがシャルルの良さを理解できるって言いたげだな」
 マリナはドキンとした。確かに、そういう思いはゼロじゃない。そのちょっとした優越感はシャルルの天才性と相まって、マリナの恋を生き生きと燃え立たせている。彼と会えない三年間、恋を持続させたのも、シャルルが今頑張っていることをあたしは理解していると呼吸をするように自然に思えたことが理由の一つだった。
 マリナは照れ臭い思いで、ほおをかきながらいった。
「兄上だって、理解できるのは薫だけだわ」
 反撃のつもりで言ったところ、薫はすぅっと真顔になった。
「兄貴は秘密がいっぱいだよ」
「え?」
 薫はひどく寂しそうな笑顔を浮かべて、マリナをじっと見つめた。
「あの事件の前は兄貴のことが全然わからなかった。宇宙人みたいにね。事件をきっかけに、兄貴の心にようやく近づけたと思ったけど、最近、あたしが知っている兄貴はほんの一部分な気がしてる。……どうしてあんな犯罪に走ったのか。あたしの心臓手術のためとか、あたしを思う気持ちを滅ぼすためとか、そういうことは知っているよ、けれど、どうして殺人という方法を選んだのか、わからないし、聞けない。あたしのどこが好きなのかも聞けない……」
 マリナは驚いた。
「うそ。どうして?」
 深い二重まぶたの下、長いまつ毛に覆われた悲しげな三白眼を煌めかせながら、薫は自嘲的に笑った。
「本当さ。……突っ込んだ話をしたら……そんなことを聞いたら、兄貴がどっか行っちまう気がしてさ。兄貴が笑って家にいてくれるだけで満足だし」
 それは自分に言い聞かせているような言い方だった。薫の顔はどこか遠いところを、マリナではない遠くの誰かを見て話しているようだった。蛍光灯の人工的な光が彼女の顔を照らす。
「怖いんだ、結局あたしは」
 薫はぽつりと言って、黙り込んだ。それから突如身を翻し、
「もう寝る」といって布団に潜り込んだ。こんもりと薫の形になった布団を見ながら、マリナは落ち着かない気持ちになった。
 薫と兄上は兄妹だし、互いを思う気持ちはマリナから見ていても深い。死刑を乗り越えてともに暮らすようになってからと言うものは、まさに二人でひとつという言葉がぴったりだと感じていた。兄妹と知らなければ理想のカップルだと。
 それなのに、薫はまだ兄上がわからないと不安がっている。マリナは恋し合う二人が理解し合う難しさをつくづく感じた。
 本当の“彼”を理解するか……。
 マリナはシャルルを理解していると思っている。ちょっと気難しくて繊細で、時には大胆なシャルルを知っているし、マリナにしか見せない表情を見せてくれている。しかし、それが彼の本質すべてかというと違う気がする。
 記憶障害になった三ヶ月間、ともに過ごしたクリームヒルトという女性には、シャルルはどんな顔を見せていたのだろう? マリナが知っているシャルルと寸分変わりない? それとも全く違うシャルル?
 もしそちらの方が、シャルルの真の姿だったら?
 重苦しい思いが胸に沈んできて、マリナは急ぎ妄想を断ち切って、やや乱暴にペンを走らせた。



***
 
 
 翌朝十一時を少し過ぎた頃、和矢は袋いっぱいのパンを抱えてやってきた。
「ありがとう。嬉しいわ」
 薫はさっき起きたところで、洗面したばかりの首筋に酒屋のタオルを巻いて出てきて、和矢にあがっていけといった。
「何もないが、茶ぐらいだすよ。なあ、マリナ」
「う……ん」
 マリナは困った。シャルルとの約束上、和矢を部屋にあげるわけにはいかない。
「マリナ?」
 怪訝な顔をしてマリナの顔を薫は覗き込んだ。和矢は明るいトーンの声で、いった。
「バイトの時間が迫っているから、オレ、もう行くわ。じゃあ、またな!」
 とめる間も無く、和矢はドアを閉めて出て行った。鉄階段を素早く降りていく音に続いて、オートバイのエンジン音が上がり、それが遠ざかる音が聞こえた。
「マリナ、どういうこと? どうして黒須をあんなに邪険に扱うんだ?」
「そんなつもりはないわ」
「嫌っているようにしか見えなかったけれどね。まさかシャルルに、黒須に近づくなとか言われたのか?」
「部屋に男を入れてほしくないんですって」
 薫は舌打ちをしたあと、浅いため息を吐いた。
「嫉妬深いやつ。自分は他の女と三ヶ月懇ろにしていたくせに……」
 薫は呆れたように言ってから、和矢のパンで朝食をすませて、帰っていった。一人きりになったマリナは仕事に戻ったが、どうにも筆が進まなかった。追い返した形になった和矢のことが気になった。あれぐらいで怒るような人ではないがーーこの先もずっとこういう付き合いをしていかないといけないのかと思うと気が重くなる。美女丸がきても? 小学校、中学高校。マリナにはたくさんの男友達がいる。誰が訪ねてきても戸口で追い返さなければならないのだろうか?
 部屋に入ったり出たりを許すのは、セックスを受け入れるのと同じだなんて、極論すぎるーー。
 マリナは肩をすくめ、少しの間思案してから、後ろにある電話機に向き直って受話器を取り上げた。これまで数えきれないくらいかけてきたから、番号はすっかり覚えてしまっている。国際電話のかけ方も手馴れたものだ。
「アロー、ジュ マペール アルディ」
「池田です。シャルルをお願いします」
 このやりとりも何度も繰り返してきた。日本語は通じるのだ。だがすぐに「もうしわけありませんが、シャルル様はおられません」とそっけなく言われて切られてきただけ。
 しかし、今回は違った。
「少々お待ちくださいませ」
 流れてきたメロディアスな保留音を聞きながら、マリナは電話のコードを指にねじねじと絡ませた。
「マリナ、どうした?」
 やがて応答したシャルルの澄んだテノールを聞いて、マリナは叫びだしたくなるほど切なくなりながら、懸命に声を抑えていった。
「シャルル! 会いたいの、すぐに来てちょうだい!」
 電話はがちゃんと切られた。





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