第一話の注意事項をお目通しください。
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マリナはひとり部屋で落ち着かない時間を過ごしていた。
やることは山のようにある。ネームの練り直し、ペン入れ。出来上がった分だけでも出版社にもっていって久保に確認してもらった方がいいし、予備のケント紙も買いにいかないといけない。
花純が漫画化に了承を出してくれたことを美馬に伝えないといけない。……本来ならもっと早く伝えないといけなかったのだけれど、つい仕事に夢中になって後回しにしてしまった。
酔っ払った薫から、花純と会ったという話を聞かされた。花純が漫画化を承知してくれたのは薫が何かいったからではないか? 薫本人はそうとは言わないが、それ以外に花純の突然の変心を説明できない。きっと直接きいても薫は自分がやったとは言わないだろう。薫とはそういう人間なのだ。
マリナは深く感謝をしながら、仕事をしようと思ったのだが、一向に仕事に集中できない。ネームはできているのだから、ペンを入れるだけでいいはずだが、その手が動かない。あたしはどうしてしまったの? 故障した機械みたいだ。
さっきシャルルに電話をした。甘えたことをいうつもりはなかったのに、第一声でいきなり「来て!」と言ってしまったことはマリナはひどく後悔してしまった。シャルルは何一つ返事をせずに電話を切った。そのあといくら掛け直しても、アルディ家の電話は二度とシャルルにつないでくれなかった。
さすがにシャルルがまた居留守を使ったとは、マリナは考えていなかった。
おそらく彼は日本にむけて旅立ってくれたのだ。数時間後にはここに来てくれるだろう。それはマリナにとってはとても嬉しいことでーー歓迎すべきことだったがーー彼には彼の事情があるかもしれないのに、それを確かめる前に一方的に甘えてしまったことをマリナは恥じていた。こんなことでこれから先、遠距離恋愛ができるのかしら? あたしはすぐに会えない付き合いで我慢できる?
落ちつかない気持ちで、部屋の掃除をはじめた。シャルルが来るから綺麗にしておこうと思ったのだ。仕事道具は出していても不潔な感じはしないだろう。脱ぎっぱなしの服や靴下、タオルをなんとかすることは当然として、茶渋のついたコップを磨くことも必要だ。トイレ、玄関。シャルルは背が高いから、彼の目線で見えるところは綺麗にしておかなくちゃ。
そうこうしているとあっという間に真夜中になり、布団に入った。寝るときもシャルルのことばかりを考えていた。そのせいか眠りは非常に浅かった。仕事もはかどらないし、掃除も中途半端だった気がする。そんなことを考えているうちに、考えが勝手に暴走して、やがて訪れるシャルルは甘えたマリナを叱り、さらには別れを告げるためにやってくるのではないとまで思えた。
あたしなんかと恋人になったことを後悔してるかもしれない。
プラハに帰りたいと思っているかもしれない。
ーーープラハ
ーーーーーープラハ
ーーーーーーーーープラハ!
暗い天井を見つめていても眠気は過ぎ去り、目は冴えわたった。まるでシャルルを待ち続けた三年間が再来したように悲しくて、涙が次から次へと溢れた。
眠れたのは数時間後。夜明けに近い頃だった。
寝つきが遅かった反動で、午過ぎても起きられず、起きてから洗面所で自分の顔を見ると、むくみがひどかった。冷水で顔をあらってマッサージをすると多少はマシになったが、それでもひどい。
そんな夜をふた晩過ごした次の日の夕方、シャルルはやってきた。白い花束をもって。
「ごめん、遅くなった」
シャルルの唇は赤かった。
成田空港からタクシーでやってきただろうに、息が切れているのは、アパートの前で車を降りてから二階のこの部屋まで全力で走ってくれたから。その情熱の息を、扉を開けた瞬間に吹きかけられて、マリナの胸はときめきでそよいだ。
「あいたかった」マリナはいった。「ごめんなさい、急に呼び出して」
シャルルは、半分だけ微笑んだ。
「オレを求めてくれて嬉しかったよ。君は可愛い」
そして彼は、白いバラを持ったまま、マリナの小さな体を引き寄せて、そのか弱い腰が砕けそうなほど密着させて抱きしめた。
マリナはシャルルが言った言葉のうち『君は可愛い』の『は』が気になった。誰かと比較されたような気がした。
可愛くない女がいたのね。それはあんたにとても近くて……。
ーーーープラハ!
「マリナ」
シャルルはマリナの名を呼びながら、体を少しだけ、腰は密着させたまま上半身だけをほんのちょっぴり離して彼女の顔をのぞきこんだ。どんな宝石でも例えられないほど美しい青灰色の瞳に愛情を込めて見つめられ、マリナの心臓は跳ね上がり鼓動した。待ちわびてようやく訪れたその場所は、彼女が思い描いていたよりはるかに素晴らしく、どんな菓子や果物よりも甘美で、マリナを陶酔させた。
「オレもあいたかったよ。君のことばかり考えていた」
シャルルの笑顔は輝いていた。
「ありがとう」
一方、彼女の心は沈み込んだ。「ほんとに、ありがとう……」落ち着いた声で言いながら、シャルルの胸におでこを当てて目を閉じる。
シャルルは本当にあたしのことを考えていてくれたのかしら? それは嘘じゃないにしろ、ほんのひと時でもプラハのことを……結婚寸前だったプラハのことを考えなかったとは限らない……? 一瞬ぐらいなら考えたかもしれない……。
シャルルは腰を曲げ、マリナの唇をすくうようにして、自分の唇を重ねた。最初から情熱のこもった口づけをされ、マリナは血管のすべてが燃え上がるようであった。力がぬけシャルルにしがみついた。シャルルはマリナの腰と頭を抱いた。マリナの背中で花束のセロファンがパリパリと音を立てた。
シャルルの手は腰から背中を愛撫してまわった。彼女の快感を引き出すような巧みな動きだった。
これも彼女にやったの?
ーーープラハ
ーーーーーープラハ
ーーーーーーーーープラハ!
快感と嫉妬でたまらなくなったマリナは、シャルルの鎖骨あたりに手をおいて、彼を押すようにして唇を引き剥がした。
「ちょっとまって。あんた、靴を履いたままよ。それにここは玄関」
シャルルは下を見て、クスッと笑った。
「靴だけじゃなくて、全部脱いでいい?」
マリナはほおがほてった。
「しらないっ」
と、マリナはシャルルの腕の中から逃れようとしたが、彼はそれをゆるさなかった。玄関のすぐ隣にある流し台に、手早く花束を放り込むと、マリナをお姫様抱っこの要領で抱き上げて、靴をぬぎ、部屋の中に入った。
「きゃ、やだ、下ろして」
「暴れると落ちるぜ。ここは二階だ。下の住民から文句がでる」
「下は空室よ」
「だったら遠慮はいらないってことだ」
マリナはぎょっとして、シャルルの顔を見上げ、彼はその反応を待ってましたといわんばかりの楽しそうな顔で、すだれのように白金の長い髪を垂らしながら、太陽のように明るい顔で聞いた。
「なんの遠慮だと思ったの? ねえ、マリナちゃん?」
マリナの顔色はますます真っ赤になり、止めようがなかった。シャルルは小鳩のような笑い声を立てながら、たった一間しかない部屋の敷きっぱなしだった布団の前でひざまづく。
「用意がいいね。布団を引いて、オレがくるのをまっていてくれたのかい?」
マリナは仰天した。ものすごい勘違いをされているみたいだわ、とんでもない!
「ちがうわ! これは万年床だから、布団をしまう場所がないだけよ」
シャルルはくっくと笑った。それからマリナを布団の上に、枕を頭にのせて丁寧に下ろし、覆いかぶさるようにマリナの口に唇を押し当てた。マリナは弓がしなるように痙攣する。
「マリナ、君は何年経っても飾らないし、自分を偽らない。ありのままを見せてくれる。そんな君が愛しくてたまらない。オレは生涯君だけを愛してる。君しか心に入れないと誓うよ」
それはとても素敵な愛の言葉でーーマリナは普段であれば心が蕩かされ、陶酔するはずであった。にもかかわらず、どこか冷めた気持ちでシャルルの顔を見上げていたのは、どうしたことだろう。
その理由をマリナはわかっていた。シャルルの言葉のかげに、彼が経験してきたプラハの女の影を感じるのだ。シャルルはそんなつもりはないかもしれない。しかし、マリナは探してしまうのである。愛のほころびを。
あたしはプラハの二番煎じではないのかしら? もし違うとしてもーー少なくとも、彼に抱かれるのはプラハのあとだった、だから比べられるのは避けられない。マリナは自信がなかった。女として勝つ自信。体にも色気にも。シャルルが向けてくれる圧倒的愛情だけが彼女の武器だったのである。
プラハの女が戦いに来ているわけでもないのに。ただの杞憂なのに。
「抱いていい? もう待てない」
シャルルの声はかすれ、激情を込めた青灰色の瞳がマリナをまっすぐに捉える。
「いいわ。好きにして」
これから何が起こるか、マリナは分かっていた。それこそがマリナの待っていたものであり、必要としていたものだから。
プラハの女の記憶を、シャルルから消し去ってしまいたい。それが無理でも、思い出せないくらい心の奥底に沈めてしまいたい。
ーーープラハ
ーーーーーープラハ
ーーーーーーーーープラハ!
消えて!!
ラムのようなコロンの香りをただよせわながら、シャルルはマリナに重みをかけて重なった。涙に濡れた心を隠して、マリナはシャルルに微笑みかけた。シャルルの唇が、マリナの首筋の繊細な部分を愛撫した。
***
第一回の原稿を入稿したのは、締め切りの直前、一日前だった。
久保がどういう反応を示すか、彼女が原稿をチェックしている間中、マリナはひどく緊張した。松井であれば長い付き合いであるから予想出できるが、久保とはこれが初仕事である。事前に何度か見てもらってはきたが、最終原稿を持ち込むこの緊張感はまた格別だった。
しかも、久保は新花織シリーズの大ファンである。「こんなの認めない」と言われてしまえば、それでおしまい。今回の原稿はいつ雑誌に掲載されるか、まだ決まっていなかった。入稿してから久保が少女漫画の編集部に掛け合うことになっているらしい。漫画の世界では、こういう仕事の発注は滅多にない。
久保は足を組んで、一枚一枚を丹念に見、最後の一ページをくったあと、ため息をはきながら、原稿をそろえて、テーブルの上においた。
「いいわ。よくできていると思う」
一発オッケーが出て、マリナは心の底からホッとした。ーーよかった!
「『君のためのプレリュード』の半分を一話に入れ込むとは思わなかったわ。相当な内容があったと思うけれど、破綻もしていないし、無理もない。あなた、やっぱり才能あるわ。私が見込んだだけのことはあるわね」
「ありがとうございます」
「この感じなら、次の第二話で『君のためのプレリュード』は終わるのかしら?」
「はい。新花織が面白くなるのは、花純と美馬が同居を始めてからですし」
「そうね」
「でも本当に面白いのは、小説が書かなかった続きの部分だと思うんです。美馬の過去を知った花純は美馬と別れた。その後二人はどうなるのか……読者が知りたいのもそこだと思うので、あたしなりにそこを重点的に書きたいと思います。だからそこまではテンポよく進めたいですけど、いいですか?」
久保は顔をこわばらせた。
「原作者も書かなかった未来を書こうというわけなのね?」
久保の口調は、マリナが不遜な挑戦をしようとしていると言いたげだった。彼女の語気に押されて前言撤回しそうになったが、マリナは膝の上で握りこぶしを固めた。
「そこを書きたいです」
マリナと久保は見つめあったーー三十秒、一分。商品査定にも似た緊張の時間がしばし続く。
二分ほど経過して、ようやく久保はふっと顔の筋肉をゆるめた。彼女は軽くうなずきながら、
「了解。あなたの度胸に乗るわ」
といった。「それでいきましょう。だったら『さよならのラブソング』のミステリーも軽く流して、物語をどんどん進めて」
「わかりました」
ひと勝負終えた気持ちでマリナはため息をついた。
花純と美馬がどうなるのか、実際のところ予想もつかなかったが、マリナは他人事とは思えなくなっていた。マリナは、過去の女性関係に苦しんだ花純に強い共感をしていた。嫉妬心から逃れられぬ気持ちが痛いほどわかる。
マリナはシャルルを愛していた。だからこそ、プラハの女の件が気になった。気になったという軽い言葉では言い表せないほど、滅入っていた。シャルルが来てくれて深く愛し合えば合うだけ、シャルルと三ヶ月蜜月を過ごしたプラハを感じるのだ。
どうすればいいのかマリナにもわからない。離れたら寂しいし、一緒にいたら苦しい。
本当にいつかシャルルはプラハを忘れてくれるだろうか? 自信がない。
それにあたしはいつまで男性を部屋にいれちゃいけないんだろう。
和矢はあれ以来訪ねてこなかった。そのほかに、ひょっこりと昔馴染みの友達が数人来たけれど、男性は絶対に部屋にいれなかった。そういうことをしている自分がとても嫌だった。
プラハの件であたしは苦しんでいるっていうのに、あたしだけシャルルの命令をどうして大人しく受け入れなくちゃならないの?
「それで、この連載はどの雑誌にいつごろ掲載されそうですか?」
今日入稿したから、原稿料は入る。そういう意味での仕事は果たしたが、雑誌に掲載されて読者からの評価をもらって初めて仕事が完成したといえる。読者からの評価が悪ければ、連載の継続すら危ういのだ。
「いくつかの月刊誌に辺りをつけているわ。たぶん、年明け頃になる。楽しみに待っていて」
「決まったら連絡をください。美馬さんと花純さんにも連絡したいんで」
「わかったわ。ーーところで美馬と花純は復縁しそう?」
振られたくない話題が出て、マリナは曖昧に笑った。
「さあ、どうでしょう。でも漫画化を二人とも了承したんだから、一歩前進じゃあないですか。雑誌に掲載されたら二人に持って行こうと思うんです。その時、様子を聞いてみます」
久保はマリナをまっすぐに見つめてから、テーブルの上に置いてあったタバコとライターを取り、ふっと浅い息をはいて椅子にのけぞった。
タバコを箱から一本だし、ライターで火を付ける。白煙が立ち上った。
「私ね、美馬様には幸せになってほしいと心から願っているの。それは本当よ。偽りはない。でも、誰かのものになってほしくないと思う気持ちもあるの。私ってひどいかしら? 花純がいなくなって、美馬様がどれほど傷ついたか、よく知っているのにね」
タバコをふかしながら、斜め下の床を見つめる久保は、自嘲的に微笑んだ。
「ひどくないですよ。それだけ美馬さんが好きってことでしょう」
「わかる? こういう気持ち」
マリナはうなずいた。
「へえ……あなたには叱られるかと思ったけど……」
まじまじと見つめられて、マリナはちょっと居心地が悪かった。
「どうしてですか?」
「だって、あなたって正義感つよそうだから」
「そうですか?」
「恋愛には特にね、そういうタイプに見えたわ」
久保は笑ってタバコを灰皿で消した。「ああ、勝手なことを言ってごめんなさい。ただの先入観と編集者としての直感。あまり当たらないから気にしないでね。……そういえばパリで撮ってきた美馬様の写真だけど」
これ以上突っ込むのは得策ではないと判断したのか、久保は話題を変えた。
「まだ現像していないの。これからも一生現像しないと思う。せっかくのお土産だったから、それだけ伝えておこうと思って」
マリナはひどく驚いた。あれだけパリを背景にした美馬様の写真を欲しがっていたのにどうしたのだろう?
「どうして現像しないんですか?」
「やっぱり美馬様のイメージが崩れることが怖いから」
マリナは口をぱっかりと開けた。
「何十年も美馬様を思い続けてきて、私の頭の中には、しっかりと美馬様の姿があるのよ。顔も体も、実体としてあるといっても過言じゃないわ。だから、リアル美馬様のお姿は拝見しない。あなたにいただいた“写ルンです”はお守りとして持っておくわ」
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