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悲しみも愛の言葉に 22

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第一話の注意事項をお目通しください。


22


 年が明けて、新花織シリーズの第一回の掲載が決まった。
「●●の二月号に掲載されるわ。待たせて悪かったわね」
 久保からその連絡が入った時、マリナは受話器を放り出して飛び上がった。原稿を入稿したのがクリスマスの一週間前。それから久保からの連絡は途絶えてーーこのままお蔵入りになるのではないかと心配していたのだ。
 漫画の世界は口約束だけが頼り。それはわかっていたが、今回は原稿を納めてなお、久保の「まかせて」という言葉にすがらなければならなかったのである。
 ●●は中高生女子を対象にした、発行部数もピカイチの成績を誇る優良誌である。うまく読者にうければ連載継続も夢ではない。久保はもちろんそのつもりでいた。新花織シリーズの全巻の長さを考えれば、短編で終わるようなものではない。第一回の内容は美馬と花純が悶着を起こしたところで、止まっている。
 呼び出されて、マリナは第二回の締め切りを言いつけられた。一ヶ月後。余裕があるとは到底いえないスケジュールだ。彼女にはアシスタントはいない。道具の買い出しから、食事の準備などの家事に至るまですべてを自分一人でやらねばならない。
「ページ数は42。できる?」
「できます」
「楽しみにしているわ」
 マリナは頷き、帰ろうと席を立った。一刻も早く家に戻って、仕事に取りかからねば。
 エレベーターの前でボタンを押して待っていると、「ちょっとまって」と声がかかった。振り返ると、久保が小走りにやってくるところだった。
「美馬や花純には、掲載のこと伝えないの?」
「ああ、そうですね」
 マリナは面倒臭そうに頭をかいた。伝えなければならないから、電話でもするか。
 すると、久保は、マリナの気持ちを見透かしたように、「電話はやめてね」といった。
「ちゃんと直接会いにいって。ほら、これ」
 そういって久保が差し出したのは、掲載前のマリナの原稿だった。コピーらしく、透明の薄いバインダーに綴じられて、それが二冊ある。
「これが掲載されるってちゃんと承諾をえておいて。掲載されてから、怒鳴り込んで来られても困るのよ」
「美馬さんはそんなことしないと思います」
「美馬様はノーブルな人だからしないでしょうね。たとえ不満に思ったとしても、池田さんの立場を考えて、自分の感情を飲み込む。でも花純はそうじゃない。許せないとなったら徹底的に怒る。喚く。下手すると、暴れる」
 マリナは肩をすくめて、「それは嫌だなぁ」とつぶやいた。
「でしょう。だから、今から行って。アポイントとっておいたから」
「アポイント? どこにですか?」
「もちろん暴れる方が先よ」
 つまり、花純にあって承諾をもらいにいけというわけだ。マリナはしぶしぶバインダーを受け取りながら、ため息をつく。前にあった時、あっさりと漫画化を承諾してくれたが、愛想のない態度は相変わらずだった。
 すでに何台もエレベーターは通過してしまっていた。マリナは改めて降りボタンを押した。数秒でエレベーターはやってきた。マリナが乗り込むと、続いて久保が乗ったので、マリナは驚いた。
「あれ、久保さんもどこかに出かけるんですか?」
「何をいっているの。花純に会いにいくのよ」
「え? どういうことです?」マリナは目をぱちくりさせた。意味がわからない。さっき、マリナに花純に承諾をもらいにいけといっていたのは、なんだったのか?
 よく観察すると、久保は鞄とコートを手にしていた。どこからどう見ても外出する準備をしているのに、それになぜ気づかなかったのだろう?
「じゃあ、あたしは美馬さんのところに行けばいいんですか?」
 久保は不快感をあらわにした。
「違うわよ。私とあなたで、花純のところにいくのよ」
「どうして二人で?」
「私は責任者として付き添うだけ。花純にはあなたが話してね。承諾が得られなかったら、この先の連載がすべておじゃんなんだから、慎重に話してね。ああ、いっておくけれど私は何も話さないわよ。ただの付き添いよ」
 マリナはあっけにとられて、久保の取り澄ました顔を見た。久保は、美馬用のバインダーを黒革の鞄にしまい込んだ。エレベーターが一階に到着し、久保は颯爽と、パンプスの足音を響かせておりた。その足音は緊張をみなぎらせて、まるで兵士のように闊歩していた。
「なるほど、そういうことか」久保の後ろ姿を見ながら、マリナは思わずつぶやいた。
 久保は、リアル美馬を見ることができないと言い張ったが、リアル花純は見たいのだ。自分を夢中にさせている美馬を振った女とはどんな女なのか、確かめずにいられないのだろう。直接会いにいくのもはばかられて、マリナをダシにつかったのだ。
 もし久保の想定よりも花純が魅力的だったら、久保はどうするのだろう? まいったと思うのか、それとも高飛車な女と怒るのか。もしくは想定よりも花純の魅力がなかったら? 身の程知らずと憤慨するのか?
 いずれにせよ、執念に近い愛情を美馬に抱いている久保が、花純を冷静に客観視できるとは思えなかった。つまり、花純がどんな女であっても気にくわないだろう。
 そう考えると、マリナはひどく心が騒いだ。
 結局女は、愛した男の特別な女を、憎むしか脳がないのか?
「何をやっているの、池田さん。早く!」
 青が点滅しはじめた横断歩道の真ん中で、久保は大きく手を振った。マリナは「ごめんなさいーっ」と答えながら、急いで彼女の元に駆け寄った。



***

「すばらしいと思いませんか? 花純さん」久保が大声で言った。
 恵比寿のモデル事務所。
 白のニットワンピースを着た春野花純は、サーモンピンクのルージュを塗った色っぽい唇を突き出して、興味なさそうに漫画を流し読みしている。
 一方の久保は、そんな花純の一挙手一投足を生物学者のような目で睨み据えている。微笑んでいるものだから、はたから見ているマリナとしては余計に怖く感じられるのだ。久保が、花純を美馬の相手としてどう評価したのかわからないが、油断ならぬ相手として、じっくりと見定めていることだけはひしひしと伝わってくる。
「……いいと思います」
 最後まで読み終わった花純の感想はそれだった。ホッとしたマリナの隣で、久保の体がピリッと緊張したのがわかる。彼女はマリナを軽く肘で小突いた。「聞け、聞け」と小声で囁いている。何を聞けというのか? 戸惑いながらも、とりあえず、
「どこか問題点はありませんか? これですでに入稿は済ませましたので、改善できるとしたら、これから描く第二回目以降になりますけれど、ご意見を反映させたいと思います」
と、無難なことを尋ねた。花純はバインダーをテーブルの上に置き、
「別にないわ。絵の上手い下手は、わからないし。私は漫画をあまり読まないから」
「全然読まないんですか?」
「そんな時間もないし、買いにもいけないしね」
 自分を嘲るように笑う花純の顔が、寂しそうで、マリナは気になったが、あいかわらず久保は腹を小突いてくる。どうやら漫画のことを聞けといいたいわけじゃなかったらしい。ああ、もう面倒くさい!
「美馬さんに会いましたか?」
 花純はうっすらと笑った。
「なぜそんなことを聞くの?」彼女は怒りを表していなかったが、冷え切った声が、すべてを語っていた。
 マリナは冷や汗をかいていた。そりゃあ、そうよね。あたしだって彼女の立場ならそんなこと聞かれたくないわーー。
 横に目をやると、久保が「いけ!」と目で威圧してくる。ああ、あたしはなんでこんなことをやっているのだろう。人の恋路を土足で踏みにじるようなことを。
 神様! この行為が、ほんの少しでも花純と美馬のためになりますように!
「これから美馬さんのところに、同じものを持って確認にいくんです。漫画の内容としては、小説の内容とおりに進んでいくつもりですが、『めぐりあいのデュオ』の先の話も書こうと思っています」
「あの先って……」
「別れたままですよね。知っています。でも中高生女子のための漫画ですから、ハッピーエンドにしたいと思っています」
 花純は椅子に深く腰掛け、頭の後ろに両手を置いて寄りかかった。「池田さんといったわね?」
「はい」
「あなたのいうハッピーエンドとは、私と美馬が恋人同士に戻るということかしら?」
「そうです」
「だったら」花純は身を起こして、額に手を当てた。「どうやって、私たちをカップルにするつもりかしら? 小説にある通り、私は美馬の過去を受け入れられなくて別れたの。過去は書き換えられない。それで、どうやって私たちの仲を復活させる? 私を鷹揚な人間として描く? それならカップルになれるけれどーー」
「けれど、なんですか?」
 花純は一度目をつぶってから、マリナと目を合わせた。
「それはもう私じゃないわ。別の物語ね」
 満足するような花純の笑い方に、マリナは蔑みを感じた。彼女の声はこれまで聞いたもののどれよりもずっと落ち着いていて、ひどく冷酷だった。マリナは両手を膝の上で握り締める。
「池田さん?」花純がマリナを見た。
「どうしても美馬さんを許せませんか?」 
 花純が顔をしかめた。
「だったら、逆に聞くけど、あなたなら許せるの? 過去とはいえ恋人の……を見てしまったとしたら」
 わざとぼかした言い方をしたところに、花純の深く癒されない傷を突きつけられた思いがして、マリナは黙り込むしかなかった。

ーープラハ
ーーーープラハ

ーーーーーーーープラハ!

 花純はそんなマリナを注意深く見ながら、タバコに火をつけた。
「あなた、恋人はいる?」
「……いますけど」
「お互いに初めての恋?」
 少し考えてから、マリナは「違うわ」と答えた。マリナの初恋は、中学生の時の和矢だし、シャルルの初恋がいつ、相手は誰かだったかなどと聞いたこともない。
「じゃあ、あなたの恋人にも過去があるのね」花純はいった。傲慢さが表情にも声にも現れていた。マリナはじっと彼女を見据えた。
 花純は黙ってタバコをふかしながら、何かを考えているようであった。時折、煙越しの大きなその瞳が落ち着きなくさまよっている。だが、灰皿に灰を落とす動作には余裕が感じられた。
「確かにシャルルには過去がありますけど」不快感を抑えてマリナはいった。「でもあたしは気にしない。今のシャルルはあたしを心から愛してくれているって信じられるから」
「そう」
「過去にこだわって今を台無しにするなんて、不幸よ」
「そうかもね」花純はタバコを灰皿にもみ消した。「でもそれは女性的な考えだわ。知ってる? 女は恋を上書きしていく。新しい恋をするたびに、前の男のことは忘れる」
 だからなんなの?
 息を詰めるマリナに向かって、とげのある口調で花純はいった。「でもね、男にとって恋はレターケースみたいなものなの。あの女はこうだった、この女はこうだったと、自在に記憶を取り出して比較する、それが男の恋よ。永遠に、一人の女だけで心を埋めないし、そうすることを望まない」
 マリナは身をこわばらせた。もしそれが本当なら、シャルルの心からプラハを追い出したいというマリナの願いは無になる。プラハと自分は横並びされるのか。そう考えただけで、背中に虫を大量に放り込まれたようだった。
「そんな、こと」声がうわずる。「一概にはいえないと思うわ。一人の女性を愛し切る男の人もいると思う」
 花純は腕を抱えて、手の甲で顎を支えながら指先でほおをなでた。挑戦的に光る目で、マリナを見据える。
「それはあなたの恋人のこと?」
 マリナはほおがほてるのを感じた。
「美馬さんもそうだわ。誠実な人よ」
 花純はかぶりをふった。「誠実かどうかなんて、どうでもいいの。恋に必要な条件が動かなくなった。それだけのことよ」
「恋に必要な条件?」
「食欲、睡眠欲、性欲」花純は明るくいった。
 マリナはたじろいだ。
「美馬と一緒にいても、ご飯が美味しくなくなった。眠りが浅くなった。最後に、彼を男として受け入れられなくなった。そうなったらもう終わり」
 花純はきっぱりと言ってから続けた。
「でも、響谷薫にもし美馬が死んだら後悔しないかって追求されてね。ギクっとしたの。愛する人を失った彼女の言葉は重みがあったわ。だから、あなたのこの漫画が発売されたら、その日に美馬に会うつもり」
「本当に?」
「本当よ」
と花純は頷いた。「彼と会っている間に、さっき言った欲望のどれかひとつでも動いたらーーその時はーー彼を許してやり直すわ。それがたとえ美馬のレターケースの一つになることでもいいの。美馬の中に居座る。代わりに、私が感じる嫉妬を美馬にもともに苦しんでもらう」
 美馬を苛むことを厭わないという花純の発言に、久保のうめき声が上がった。「それが私の出した結論よ」花純は小さく笑った。「ーーこれ、漫画に使えるかしら?」
 マリナは動揺しながら「ええ、もちろん使えますともーー」と答えた。どうやら漫画の成否の鍵を握るのは、読者アンケートではなく、花純らしい。
 問題は美馬だ。花純と再会したら彼はなんというのだろう? 万が一花純の心が動かなかったら? 美馬は力づくで彼女を再び手に入れようとするだろうか?
 パリに行った時の美馬の態度が、マリナは気になっていた。情熱をいつもうちに宿したような黒い瞳が魅力的な美馬が、時折見せる暗い影は、どう考えても花純に受け入れられないことで受けた傷によるものだった。試されるような再会で、再び振られてしまえば、美馬はどうなるだろう。彼の誇りは保てるだろうか。その時、彼らの恋はどういう変貌を遂げるのか? マリナは美馬に花純の企みについて知らせに行こうと思った。二人には幸せになってもらわなくちゃならない。ーーだって、その方が漫画を描くには好都合であるしーー。
 こうなったら、美馬さんには男を磨いてもらうしかない。すでにあれほどの男である。あれ以上どこに磨き上げる要素があるのか、マリナには思いつかなかったが、そこは本人に任せよう。
 



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