第一話の注意事項をお目通しください。
23
続いて成城の美馬邸に行くと、彼は出かけるところだった。
「あっ、ごめん、約束していたよね」
美馬は視線を下げ、困ったような様子でマリナを見た。彼はケースに入ったテニスラケットを持っていた。
マリナはひどくびっくりした。久保は花純との面会を終えたらさっさと出版社に戻ってしまったが、「美馬様に原稿の承諾をしっかりととってきてね!」とマリナに念押しを繰り返した。美馬に面会のアポイントも確実にとっていたはず。
だが、美馬は出かけようとしている。これまでマリナの漫画について積極的に協力してくれた美馬とは思えない行動だった。
「テニスに行かれるんですか?」
「うん。まあ」
美馬は慌てているようだった。
「あたしの用事は、原稿をチェックしてほしいだけですから、第一回の原稿のコピーをお渡ししておきます。暇な時に目を通していただければいいですから」
美馬は、マリナが渡したバインダーを受け取り、「ありがとう」といった。
「何のおもてなしもしないでごめんね。……よかったら、マリナちゃんも一緒に行く? 室内テニスだから寒くないし」美馬は熱心に誘った。
マリナは驚き、「とんでもないです」と断った。
「やったことないですし、あたし、運動神経にぶいから」
「教えてあげるよ」
「でも、万が一商売ものの手を怪我したら困るから」
マリナは手を握りしめていった。美馬はハッとしたように目を大きく開いて、すぐにまた「ごめん」と謝った。
「そうだよね。ごめんね、急なことをいって」
「いえ」マリナはかぶりをふり、「誰と行くんですか? 楽しそう」
「実はマリナちゃんと一緒にいったパリで知り合った女の子たちと、今日は約束してるんだ。シャイヨー宮で写真を撮っている時に出会ってね。たまたま同じ沿線に住んでるってことがわかって、連絡先を交換して。テニス部だっていうから一緒にやろうってことになって」
美馬の笑顔は屈託がなく、これからのその予定を心から楽しみにしているということがよく伝わってきた。パリで感じた美馬の暗い影を、今日は一切感じない。
「あっとごめん、オレ、そろそろいかなきゃ」美馬が腕時計を見る。
マリナは手を差し出して、「どうぞ先にいってください」といった。
「成城って素敵な家が多いんで、あたし、少し散歩しながら、周りの家を観察して帰ります」
「そう?」
「はい。テニス、頑張ってくださいね」
漫画の発売日に花純が再会しようと決意したということを、伝えるのを、マリナはやめた。青年らしい笑顔を見せる美馬の顔を、曇らせたくない。だって、こんなにも楽しそうだもの!
「今度、ゆっくりお茶をしようね」
美馬はそう言い置いて、スポーツバッグにマリナのバインダーを入れて、急ぎ足で駅に向かって駆けて行った。
成城を少しぶらつき、街が暮れなずんできたので、マリナは飯田橋の自宅に帰った。
アパートの部屋で、シャルルが退屈そうに待っていた。一間しかない部屋の、真ん中にあるちゃぶ台にほおづえをついて、テイクアウトの紙コップに入った飲み物を飲んでいる。あれはたぶんコーヒー。部屋に香りが充満している。
シャルルは日本の男がよくそうするように、あぐらをかくという座り方をしない。長い足を持て余し気味にして、前に突き出して、ちゃぶ台にほおづえをつく座り方をしていることが多い。帰ってきたマリナの方を向くと、前屈した姿勢のため、長い前髪が顔にかかって、その影からのぞく二つの青灰色の瞳がぞくっとする妖艶だ。まったくーー整理整頓されていない部屋に似つかわしい美しさだ!
「また来ていたの? 来るなら前もって連絡をしてといってるじゃない」
鞄を下ろしながら、靴を脱いで部屋にあがったマリナは、若干呆れた調子でいった。
「仕事は大丈夫なの?」
「マドモアゼル・ヒスは優秀だからね。二週間に一度来日する時間をとってくれといったら、必ず調整してくれる」
マリナは外套を壁にかけてから、シャルルの隣に腰を下ろした。
「飲む?」シャルルが自分の紙コップを差し出してくれる。
「ありがと。ちょっとだけちょうだい」
それはちょうど飲み頃になっていて、寒い中帰ってきたマリナの胃袋を温めた。だが彼女の苦手なブラック。
「シャルルったら、どうしてミルクとお砂糖を入れずに飲めるの?」
「逆にきくと、どうしてミルクと砂糖がいるんだい?」
「苦い」
「子供だな」シャルルは笑いながら、紙コップを奪い去った。
「だって美味しい方がいいもん」
「だったら自分の飲みものは自分でいれてくれ」
シャルルは紙コップを呷った。冷たい目でーーいわゆる流し目の要領で睨まれて、マリナは面白くない思いで立ち上がり、キッチンに向かい、自分用にホットミルクを作った。
「ーーで、今回はいつまでいられるの?」
「明朝九時に成田」
「何それ」マリナはこれ以上バカな話はないと思った。
ピピピッと電子レンジの音が鳴ったのは、ちょうどその時だった。出来上がったホットミルクを持って戻ってきたマリナは、どんとマグカップをちゃぶ台に置き、憤然と座ってシャルルの顔を覗き込む。
「もしもし、天才のシャルル君にひとつ質問があるわ」
「なんだよ」
シャルルが眉根をよせた。
「今何時?」マリナは早口で聞いた。
「は?」
そしてシャルルが答える前にさらにいった。
「ここは『そうね、だいたいね』って答えるのよ。あんた知らないの? サザンオー.ルスターズっていうバンドの最高の歌。今何時っていったら、『そうね、だいたいね』って答えるのが日本人の常識。シャルルのバカ、無知、阿呆」
シャルルは目をパチクリとさせた。
「君は何を言っているんだ、マリナ。わけがわからないよ」
彼の声は、ひどく戸惑っていて、途方にくれた子供のようだった。マリナはシャルルの知らない情報で高みに立てたことにとても満足して顎を高くあげた。
「だーかーらっ! 今は午後六時三十分。こんなちょっとしかいられないのに、どうして来てくれるの?ってあたしは聞きたいわけ!」
「どうしてって……」
「パリと東京は飛行機で十二時間。あんたはいつもファーストクラスだけど、それでも疲れるでしょう?」
「そりゃあ、疲れないわけじゃないけど」
「だから、無理しないでいいじゃない。まとまった休みの時にだけくれば。滞在時間が二十四時間もないなんて馬鹿げてるわ」
シャルルは苦笑いをした。「無理だったら来ないから、心配しないでいい」
「心配してるんじゃないわ」マリナはぷいっと顔を背けた。
「あたしたちは付き合って二ヶ月よ。もう付き合いたてじゃないんだし、ちょっとぐらい離れていても平気よ。別々の場所にいてもお互いに思い合ってるし、浮気なんかしないわ。違う?」
マリナはシャルルを振り返った。シャルルは楽しげな顔でマリナを見た。
「それは君の方が気をつけた方がいいだろうね。ねえ、人類愛に富んだマリナちゃん?」
なんという言い方だろう! シャルルはまだマリナが男性を部屋に入れていると思っているのだろうか!
ひょっとして、それが心配でしょっちゅうくるの? そうなら非常に腹立たしいし、シャルルこそどうなのだろう。美人に囲まれているだろうし、それにプラハのことはどうなっているのだろう?
もしプラハの女が彼に会いにきていても、マリナには知りようがない。いくらでも隠して会える。
いや、もしかしてあたしこそ浮気相手だったりしてーー? 最初からシャルルはプラハと切れていなくて、ただあたしが会いにいったから、あたしが可哀想で相手をしただけとか?
マリナは彼から顔を全く隠して、唇を噛んでうつむいた。
「そんなにあたしが信用できないなら、もう来なくていいわ。パリで勝手に誰とでも好きにやってよ」
シャルルは肩を落として、呆れたように背中の後ろに両手をついてのけぞった。彼の薄く甘やかな唇がくだらないと言いたげな形をつくり、その隙間から長く細いため息が吐き出される。
「君がもうオレに会いたくないっていうのなら、来ない」
マリナは震えた。
「どうなの、マリナ?」
シャルルの目は怒っていた。少なくともマリナはそう感じていた。仕事を調整してようやくきたら、わけのわからないことを言われて、来ない方がよかったと言われたのだ。いくらマリナに首ったけのシャルルでも怒るだろう。もともとシャルルは他人に優しいわけではない。マリナは特別な存在ではあるけれど、シャルルは彼女に対して怒りもするし冷酷にもなれる。ただ彼の意思でそうしないだけである。
徐々に眼光を冴えさせてくるシャルルを見ながら、マリナは自分を鼓舞する。負けてはいけない。
「無理してまで……会わないでも大丈夫だもん」マリナは落ち着こうと必死に努力していた。だが、その健闘は時間が経つにつれ、どんどん虚しいものに変わって行った。シャルルが自分を見つめる目。それを見返しているうちに、飲み込まれたように、苦しくなってきていた。
「君は嘘つきだな」
シャルルの手が伸びてきて、マリナのこめかみから入り込み、髪の毛を優しくまさぐった。
マリナは目を閉じて、シャルルの手の感触を味わった。彼の手はなめらかでマリナの手より少し冷たい。細い指先が頭皮を伝う。体の背後がぞくりとする。思わず吐息がこぼれる。
「会えない間、パリであたしのこと思ってくれている?」
マリナは目をうっすら開けた。
シャルルはもう片方の手もマリナの髪の中に入れて、マリナの目を見合わせた。
「片時も忘れたことはないよ」
「一分も? 一秒もあたしを忘れてない?」
シャルルは一瞬息を殺したような仕草を見せ、それからマリナの額に額を合わせて、甘い声で言った。
「瞬きする間も君も思っている」
シャルルは長いまつ毛を伏せ、白い顔を傾けて、マリナの唇に自分の唇をそっと押し当てた。情熱的に貪欲にマリナを求め始めた口付けに、マリナは前に踏み出して彼の広い胸に身を預けて、彼の腕をつかんだ。まるで溺れる少女が一片の木にしがみつくように。
シャルルの言葉を信じるしかない。今はただそれしか。
「ちょっと待ってて」
シャルルは洗面所に立っていった。手を洗うのが彼の合図だ。マリナのためだとシャルルはいう。それが常識かマリナにはわからない。だって、男の人はシャルルしか知らないから。
シャルルによって初めて知った行為は、最初はとても大変だった。痛くて苦しくて。泣きながら耐えたというのが正直なところだった。でもそれを上回る精神的な幸福感が大きかった。
回数を重ねるごとに、苦痛は減り、快感が徐々にわかるようになってきた。
それとともに、余計なことも考えるようになってきた。裸のシャルルの素敵さ、彼のやることなすことを知ってからは、プラハの女にもこんなことをやっていたのかなという思いに取り憑かれて、マリナは行為に集中できなくなってきていた。シャルルも行為中、プラハの女を思い出しているのではないだろうか、と考えた。当然、快感は減り、少しずつマリナは演技を憶えるようになった。
彼の魅力はいささかも損なわれてはいない。かつて十八歳の彼とは違い、大人になったシャルルはさらに魅力を増し、マリナの心を掴んで離さなかった。だからこそその分、マリナを憂鬱にさせた。他の女性もーープラハもーーこんな素敵なシャルルを忘れられなくなっているのではないか? そしてシャルルもまたーー。
過去にこだわるのは愚かなこと。それはわかっている。
だけど恐れがとめられない。
マリナはシャルルを組み敷いて、彼の服を乱暴に脱がせた。シャルルのセックスは上手、経験のほぼないマリナが考えてもそれは確かだった。
Next