《ご注意》第一話冒頭の注意事項をよくご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧してください。
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夢かと思った。それとも見間違いかと。
だって、シャルルは明日パリで行われる内閣府の審議委員会に出席するために、十九時発の飛行機に絶対に乗らないといけないはずだったのに……?。
マリナは左手首の腕時計を見た。ちょうど十九時を回ったところだった。
シャルルは塀から身を起こすと、住宅地の人気も車の通りもない道路を悠然と渡って、こちらに近づいてくる。
「どうして…? 明日の委員会はどうするの? 今夜の飛行機に乗らないと間に合わないって、言ってたじゃないっ!」
「シャルル・ドゥ・アルディ博士は、急病で欠席だ」
そう言うと、シャルルはマリナの目の前で足を止めた。マリナは心底驚いた。
「……だって、医者は自分の体調の悪さは絶対に言わないって……」
「それより、君こそアップルパイは食べたの?」
「えっと、それはまだ……」
「だろうね。そこにリンゴを山ほど抱えた彼女がいる」
そう言いながら、シャルルは門の中で立ち尽くす家政婦の伊沢を、視線で指した。マリナは顔から血の気が引く思いがした。
「そ、そうなの! 突然あたしが来たものだから、リンゴを買いに行ってくれたのよ」
「そう。じゃあ別のお菓子をたらふく食べたわけだ」
シャルルが手を伸ばしてきた。その指先が唇に触れた途端、マリナは思わずバッと身体を背けてしまった。シャルルがフッと笑う声が頭上でした。ちょうどその時、後ろで玄関の扉の開く音がした。マリナの心臓がドクンと強く弾いた。
「シャルルおまえ、パリに帰ったんじゃ……?」
和矢の声と足音がだんだんと近づいてくる。マリナは身体を固くした。シャルルは手を下ろしてマリナの肩に置いた。
「その予定だったんだけど、ちょっと変わってね」
「そっか……」
門扉まで来て立ち止まった和矢に、シャルルは言った。
「色々大変だっただろう。大丈夫か?」
「ああ、ありがとう」
「何か力になれることがあったら、いつでも言ってくれ」
「気持ちだけで嬉しいよ。オレは大丈夫だ」
「そうか。わかった。オレたちは前と同じホテルにいる。何かあったら連絡をくれ」
「ああ」
それだけの会話を交わすと、シャルルはマリナに「帰ろう」と言って、手を上げた。途端に、通りの向こうから来た一台の黒塗りのハイヤーが目の前にすぅっと止まった。言われるがままにマリナは乗った。
微笑みを浮かべた和矢の向こうで、リンゴの詰まったビニール袋を抱えた伊沢の困惑げな顔が一瞬だけ見えた。それがひどく印象的だった。
*
ホテルの部屋に戻った頃、窓から見える景色は夕景になっていた。
人工物に囲まれた横浜の海は、広いとは言えない。それでも、水平線の上にある太陽が黄金の輝きを街に降らせていた。雲は、青いパレットの上に真珠色の絵の具を溶いたように、不思議な曲線を作っている。それらがゆっくりと闇に溶けていく姿は、美しかった。
シャルルは部屋に戻ってから、何一言言わない。黙ったままワインを飲んでいる。マリナはそんな彼を横目で見ながら、ガラス窓の前に立っていた。
どうしよう。きちんと何があったか言わないと。
そう思いながら、しばらく口を開くことができないでいた。
勇気がなかなか出なかった。それに、なぜと聞かれたら、どんな理由を言えばいいのか、全然わからなかった。シャルルよりも和矢を好きになったというのではない。憐れんだわけでは決してないし、事故でもない。
じゃあ、あのキスはなんなのだろう。
ただ、別れた雪の日を思い出したら、あの時、動けなくて、避けられなくて……。それだけ。ただそれだけだと思った。
和矢もきっとパパを亡くしたばかりで動揺していたに違いない。そんな時に、のこのこ顔を出してしまったから、二人して頭が狂っちゃったんだ。
でも、それをどう説明したらいいのか、わからなかった。
振り返ると、シャルルはただ静かにワイングラスを傾けていた。その優雅な仕草を見ているうちに、ドキドキが止まらなくなってきた。両手をぎゅっと握りしめた。ちゃんと言おう。頭を下げながら思い切って言った。
「シャルル。ごめんなさい。あたし、和矢とキスをしたの」
「そう。それで?」
「それでって……」
「君はオレと別れて、ヤツに戻りたいの?」
ぎょっとした。慌ててシャルルの足元に走りよって座り込んだ。
「そんなことは言ってないわっ!! あたしはあんただけが好きなのっ!」
「それなら、何も問題はないだろう」
シャルルはワイングラスをテーブルの上に静かに置いた。マリナはまじまじとそんな彼を見つめた。信じられなかった。問題はない? 本当にそう思ってる?
「……怒ってる?」
「怒ってないよ」
「ほんとに?」
「ああ。証明してやろうか」
「証明って?」
「それはもちろん」
そう言いながら、シャルルは奇麗な顔を歪めるようにして、顎で奥のベッドルームを指した。
「……いま?」
「そう、今、すぐに。嫌?」
マリナはゴクンと唾を飲み拉いた。ついさっき和矢とキスしたばかりなのに。そうは思いながらも、勝手に身体の一番深いところがキュンと縮んだ。喪服のジャケットを脱いだ。
「……嫌じゃないわ」
「それでこそマリナだ」
シャルルが笑った。