《ご注意》第一話冒頭の注意事項をよくご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧してください。
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和矢は厳しい顔で、テーブルの上に置いた両手を組んだ。
「シャルルがオレに教えてくれたホットラインにかけたんだけど、繋がらない。回線自体が抹消されてる」
「うそ…っ! だってあれは、シャルルがあんたと連絡するためだけに作った特別なものなのに…っ!?」
「本当だ。もう存在しない」
あれは先月、和矢がパパと来たときだった。急な来訪にシャルルは驚いて、すぐさまプライベート用のホットラインを開設して、和矢に教えた。
『本当ならオレに会うためには、十年待ちだぜ』
そう言って笑うシャルルが隣にいたのは、つい数日前だったのに。
心臓を突き刺されたような痛みを感じながら、マリナは思った。シャルルは本気なんだ、と。和矢はアルディ家本家の公用番号にかけても、門前払いだと言ってから、少しの間黙り込んだ。
「信じられないよ、オレ」
吐き出すように和矢はそう言うと、テーブルの上の自分の両手をぎゅっと握りしめた。
「オレに何の弁解もさせてくれないばかりか、おまえをあんな風に置いて行くなんて……っ!」
「弁解って……」
「ごめん、マリナ。全部オレのせいだ」
「なな、なに言ってんのっ」
マリナは慌てて片手を振った。
「あんたがどんな悪いことをしたっていうの? 違うわ。全部、あたしが招いたことよ。由里奈ちゃんにも言われちゃったの。そもそもあんたたちを仲直りさせようとしたあたしが能天気だったんだって」
「姉さん、厳しいな」
「そうよ。オオサンショウ魚並みだっていうんだからっ!」
「ひっでぇ…っ」
和矢が目を丸くする。
「でしょ。実の姉とは思えないわよねーっ?」
「実の姉だからだろ。他の人間では言えない真実も言える」
「じゃあ和矢っ、あんたはあたしが本当にオオサンショウ魚だっていうのっ!?」
「いや、そういう意味じゃないよ。ただ、あんまりにいい表現でさ」
和矢が焦ったように両手を顔の前で翳した。マリナはフンと顔をそむけた。途端に、和矢が笑い出し、そんな彼をチラッと見てから、マリナも笑った。
「あたしって天然記念物だったのね…っ!」
こんな風に笑ったのは、何日ぶりだろう。
泣けてきた。
*
シャルルがひとりでパリに帰ってしまったと知ったあの朝。
ホテルのエントランスで周囲の目も顧みず泣きわめいた。和矢はずっとそばについていてくれていた。泣き飽かして、もうどうにもならないと悟った頃、ホテルの部屋に戻った。和矢の顔をまともに見られなかった。
その後、ひとりで巣鴨の実家に戻って来た。
よほどすぐにパリに帰ろうと思った。けれど、動けなかった。まず、お金がなかった。両親に無心するのは気が引けた。ただでさえ、着の身着のままで突然ふらりと戻って来て、かなりの心配をかけていた。その上に、金銭的な負担までかけられなかった。
思えば、シャルルとのパリでの暮らしで、何を築き上げて来たのだろう。漫画家をやめ、アルディ家での裕福な暮らしに甘んじて、何ひとつ自力ではしてこなかった。彼に放り出されてしまえば、ただの無力な二十四歳の女がいるだけなのだと、痛感した。
一日経ち、二日経った。電話の音が鳴る度に、ドキンとした。母親が出て、よそ行きの声で自治会のおしゃべりを始めるのを聞いては落胆した。それを繰り返しているうちに、心が死んだようになって、パリが遠くなった。
結局、シャルルはあたしを捨てたんだ。
二年ぶりの日本の蒸し暑さが、そんな思いを強固なものにした。
*
キッチンのテーブルで向かい合わせに、和矢としばらく笑い合ってから、マリナは目尻を指先で拭った。
「和矢、あたし、パリに帰るわ」
和矢がすっと笑みを顔から消した。
「由里奈ちゃんに沢山怒られたの。シャルルはあたしに失望してるって言われたわ。でもね、シャルルの本当の気持ちは、シャルルにしかわかんないと思うの。ちゃんと本人に確かめないと、あたしは前に進めない」
マリナはニコッと笑う。言葉に出してしまうと、心が決まった気がした。和矢は瞬きもせずこちらをじっと見つめていた。
「心配して来てくれて、ありがとう! あんたには感謝してるわっ。巻き込んじゃって本当にごめんね。あたし、もう大丈夫だから。あ、麦茶のおかわり、入れるね」
マリナがそう言って、立ち上がりながらグラスに手を伸ばした時だった。
「……行くなよ」
「え?」
「パリに行くな」
和矢に手をぐっと掴まれた。
「あんな冷たいヤツのところになんか戻るな…っ! オレは巻き込まれたわけじゃない。おまえにキスしたかったんだ」
そう言うと、和矢は椅子を蹴飛ばすように立ち上がって、いきなりマリナの手を力づくで引き寄せた。胸に飛び込む形になったマリナは面食らって、和矢を見上げた。和矢が射るように見つめていた。
「ずっとおまえを抱きしめたかった! めちゃくちゃに抱きしめて、キスして、おまえの全部をもう一度オレのものにしたかったんだ……っ!」
息が止まるかと思った。だって、信じられない。確かにお葬式の日にキスはした。けれど、あれは動揺のせいじゃなかったのか。心ない非難を浴びた辛さ故の逃避じゃなかったのか。そうだと思っていた。そうだと信じていたからこそ、こうして和矢と差し向かって笑い合うことができたのに。それなのに、まさか、和矢はまだ……?
雪の日を思い出した。それならあの時の冷たい言葉は、すげない仕草は、乾いた抱擁は、それらすべてはどうなるんだろう。
「う……そでしょ?」
「嘘じゃない。マリナ、オレは……」
その瞬間だった。胃を突き上げてくる異様なむかつきを感じた。マリナは口を片手で押さえると、和矢を突き飛ばすようにして流し台に駆け込んだ。激しく何度も咳き込んで、慌てて蛇口をひねって水を流した。水音が狭いキッチンに響いた。
「はぁはぁ……っ」
荒い呼吸を繰り返しながら、口元を乱暴に手の甲で拭う。まだ気持ちが悪い。頭をぶるっと振ってから水を止めて、マリナは床にへたりこんだ。突然なんだというんだろう。
「マリナ、おまえ、まさか……?」
「……え? なに?」
振り仰ぐと、和矢が大きな目を見開いている。
気の早いアブラ蝉の声が頭の中で木魂する。クーラーをつけない昼下がりの団地のリビングは、蒸し風呂のように暑かった。
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最終部は五話では終わりません。
いい意味で、皆様のご想像を飛び超えたいと挑戦中。お楽しみに!