《ご注意》第一話冒頭の注意事項をよくご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧してください。
7
横浜港に夜が訪れた。
山下公園で係留されている氷川丸は、夜になると姿を変える。
黒い船体は夜の闇に溶け、マストを中心に何万個ものイルミネーションが施されて、まるで海に浮かぶ宝石島のようだ。
甲板には、その雰囲気を楽しむ人々が大勢いた。一番端に立って、海風に吹かれながらマリナは電球の列を見上げた。スピーカーからはハスキィな女性の歌声が流れている。英語みたいだからよく分からない。けれど、ものすごく色っぽい声だ。うっとりしてしまう。これはきっと恋人同士用ねと思っていると、歌に感化されたのか、すぐそばのカップルがラブシーンを始めた。
大慌てで、マリナは柵にもたれて、海だけを見つめた。カップルは何度も熱いキスを繰り返すと、やがてどこかへ二人で消えて行った。マリナはようやく背伸びをした。
「なーに黄昏れてるの?」
振り返ると、姉の由里奈が近寄って来るところだった。
「やめなさいよ、似合わない」
「ふーんだ。別に、休んでるだけだもんっ」
「あらそう。それは失礼しました。それよりも、父さんと母さん、帰ったわよ」
「ありがと、由里奈ちゃん」
「それにしても、うちの両親も寛大よね。あんな結婚式に付き合ってくれるなんて。普通、認めてくれないわよ。あんた、感謝しなさいよ?」
マリナは素直に頷いた。
「……うん。わかってる」
「まぁ、中学卒業したばかりの娘を手放すところから言っても、うちの親は変わってるんだけどね。私や恵里奈がちゃんとしてた分、あんたにはいつも甘かったというか」
「え―――っ!? そんなことないわよっ! 父さんも母さんも、由里奈ちゃんや恵里奈には優しかったじゃないのっ!」
柵から身を飛び起こすと、背後に立った由里奈がふふんと笑いながら、斜めにこちらを見下ろしていた。
「ハタチも越えて、優しい、イコール、甘いと思ってやしないでしょうね? 私や恵里奈は普通だっただけよ! あんたがヘンなのっ! きわめて変人っ!!」
「あたしのどこが変人よっ!?」
「どこをどう切っても変人よ。小さい頃から筋金入りのね。あれは幼稚園のときだっけ? 勝手に唐揚げ大食い選手権に出場したの」
「う」
「私たち家族が知った時には、救急車騒ぎになってたんだもの。信じられないわよ」
「ううっ」
マリナはたじろぐが、由里奈は止まらない。
「まだあるわ。小学校のときは、一人で叔父さんちに行くって息巻いて、結局は電車の中でぐーすか寝こけて、山奥の終点で保護されたのよね。サイアクなのは中学校のときよ。何考えてるのか、テストの答案に先生の似顔絵だけを書いて、全教科零点くらったのよね。あんたの伝説はまだまだあるわよ。全部言ってあげようか?」
「もういいわっ、勘弁して!」
マリナは全力で首を横に振った。
「そのたびに母さん達がどれだけ青い顔して飛び出して行ったか。あんたはな―――んにもわかっちゃいないんだもの。あんたはものすごく愛されてるのよ。それがわかんないなら、バカよ」
口調にいつにない厳しさがあって、マリナが「由里奈ちゃん…」と言うと、由里奈はニコッと笑いながら、顔を向けた。
「あら、ごめん。本物のバカだったわね?」
「ひ、ひどいわっ!」
「本当のことでしょ!」
あはははと陽気に笑ってから、柵に両手をかけて前のめりに海を眺める由里奈に、マリナは少し躊躇った。
聞いてみようか。
でも、もし心の傷に触れるようなら。そうは思いはしたけれど、すぐに考え直した。たった一人の姉。今、この世で一番助けてくれて、寄り添ってくれる姉のことを理解したい。ただ、一方的に寄りかかるだけではなくて、もし少しでも支えになれるのなら。
頬に電球の色を赤々と映す姉を、マリナはじっと見つめた。
「由里奈ちゃん……ユーゴさんのことだけど……」
由里奈がピクンと身じろぎした。
「何があったか話して? あたしは誰にもいわないから」
すると突然、由里奈が言った。
「あのね麻里奈、赤い靴の女の子はね。本当は外国に行かなかったのよ」
マリナは目を瞬かせた。
「異人さんに連れられていく予定が、事情があって日本に残ったんだって。だから、あんたが日本に残っても、別に不思議じゃないわよ。その赤いハイヒール、あんまり気にすることないわ」
ハッとしてマリナは足元を見た。ウエディングドレスは式が終わって、もちろんすぐに着替えないとならなかった。ベールも外した。ブーケも置いた。
けれど、願いを込めた赤い靴だけは、どうしても脱ぐことができずに、まだ履いたままだった。
「私、シャルルさんには失望したわ。もっとあんたのことを大切にしてくれてると思ってた」
「由里奈ちゃん、あたしが悪いって言ってなかったっけ?」
「言ったでしょ。私はバカな妹の味方だって」
マリナはうつむいた。
「でも、由里奈ちゃんは、自分のことを何にも話してくれないのね」
スピーカーが一瞬途絶えた。ドラムのリズムの後にピアノが始まって、歌声が男性に変わった。ボンボンのようにとろけそうな甘い声だった。しばらく由里奈は黙り込んでから、やがて、海風でもつれる髪をぐいっとかきあげた。
「……いま話すと、私はあんたの『お姉ちゃん』ができなくなっちゃう。そしたら一生後悔すると思う。これ以上、後悔することを増やしたくないのよ。きっと私、耐えられないから」
姉らしくない言葉だった。姉はにこりと穏やかに微笑んだ。夜景の中でもはっきりとわかる寂しげなその笑顔ひとつで、姉の傷の深さを教えられた気がした。
「だから許して。お願いよ、麻里奈」
それなら無理に聞いたりはすまい。後悔の苦さはよく知っている。シャルルの思いを知らずに暢気に過ごしていた時間を、取り消せるものならいますぐに取り消したい。けれど、できない。ただ残った火のような悔いを抱えて、それでも前を向いて生きるしかない。
姉もまた、そうなのだろう。
そうならば、言葉として交わさなくても、もう充分だ。
「……わかったわ」
「ありがとう」
由里奈は顔を背けて、再び夜の海を眺めると、少し大きな声を出した。
「ねぇ、タイタニックごっこでもしようかっ?」
「タイタニック? なにそれ? 電気屋さん?」
「それはパナソニックでしょ…。あんた知らないの? 船首に立って、ポーズをとるあれよ、あれっ!」
「ぜんぜん知らないわ」
「やっぱり変人。しかたがない、私が教えてあげる。ほら、手をまっすぐ横に伸ばしなさい!」
背後から無理矢理二の腕を掴み上げられて、慌てていると、くすくすと由里奈の笑い声が後ろから聞こえた。
「ほら、前向いて! そうそういい感じ。……あら?」
由里奈の驚いた声に、マリナは振り返った。
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