《ご注意》第一話冒頭の注意事項をよくご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧してください。
9
夜風が強まった。
二十時を過ぎた頃から磯の匂いが濃厚になってきた。甲板は他の船の火がわずかにちらほら見える程度で仄暗く、風に呼応して時折揺れる床が、ここが船の上であることを自覚させてくれる。
人は少しずつ減った。スピーカーはまだ甘い恋を歌っている。
和矢は手を差し出して動かない。マリナは呆然としてそんな彼を見つめ返していた。
これは夢か。和矢の掌の上にあるあれは、どう見ても指輪だろう。プロポーズという五文字が頭をよぎる。かつてマンガの中で何度も使ったその言葉が、まるで初めて知った言葉のように思えた。
頬をぎゅっとつねった。痛い。痛すぎる。ということは。
混乱した頭の中で、必死に目の前で起きている出来事の答えを探した。ひとつだけ答えを見つけた瞬間、マリナは大声で笑った。
「なにこれ、ドッキリカメラっ!?」
和矢の腕をバシバシと力の限り叩くと、彼は指輪の箱を無言で握りしめた。
「さすがのあたしの心臓も一瞬止まりそうになったわ、大成功ね!」
「………」
「だって、あたし、今日結婚式したのよ? そのあたしにプロポーズって、どう考えてもドッキリでしょ?」
これはきっと、すべて姉の由里奈の仕掛けたことなんだろう。落ち込んでいる妹を元気づけるために、事情を知っている和矢に協力を頼んだに違いない。ドッキリさせて、笑わせようという企みなんだろう。
ありがたい。
すると、和矢が顔を露骨に背けて言った。
「誓い合う相手が来なかったんだから、オレが申し込んでもいいだろ?」
「え?」
「オレは本気だよ。本気でおまえが好きなんだ」
言いながら、和矢は目を上げた。ドキンとするほど、たぎるようなまなざしだった。
……まさか。
和矢が一歩前に出て来た。口を開いて何かを言おうとする。瞬間、マリナは声を荒げた。
「冗談じゃないわ! あたしをからかうのもいいかげんにしてちょうだいっ!」
たちまち周囲の視線が集まって来るのがわかったが、そんなことはもう、構ってなどいられなかった。
「確かにあたしは見事にシャルルに振られたわ! けど、だからといって、あんたにあわれみをかけてもらおうなんて、針の先ほども思っちゃいないわよっ、あんまりバカにしないでよっ!!」
「おまえにあわれみをかけるほど、オレは上等な人間じゃないよ」
「かわいそうな人を放っとけないのが、あんたでしょっ!?」
「違う」
「どこがっ!?」
「オレはそんなにいいヤツじゃない」
そう言うと、和矢は指輪の箱を持ったまま、もう片方の手をジャケットの胸元に手を入れた。取り出した小さな栞を見て、マリナは驚いた。
「それ……っ」
「そうだ」
どうして、これがここに。
「……だって、シャルルが持ってるはず……?」
薄闇でも間違えはしない。真っ白い栞にラミネートされた四枚の葉。それは確かに一年前、和矢が友情の復活のしるしにと、シャルルに贈った四ツ葉のクローバーの栞だった。
「まさか、シャルルが送り返してきたの?」
「違う。これは最初から、オレが持っていたものだ」
「え? どういうこと?」
わけがわからなくて、顔を上げて和矢を見つめると、和矢は淡々と言った。
「これは、探し始めて一時間で見つかった四ツ葉なんだ」
マリナは目をぱちくりと瞬いた。だってあのとき、和矢は二日かかったと言っていた。蚊に刺され、腰は痛くて、本当に大変だったと。やっと見つけたときは、とても嬉しかったと。
「……まさかあんた、あたしたちをだましたの?」
「そうなる。シャルルにあげた四ツ葉は、二番目に見つけたヤツだから」
息が止まるかと思った。
「し、ししし、しんじらんないっ、あんた最低だわっ!!」
思わず手が動いて、ハッと気がついた時には、パァンという音と共に、和矢の頬を力いっぱい殴りつけていた。周りでざわめきが起こった。
「……そうだな、最低だな」
和矢は目を伏せて小さく笑っていた。
「なんで、なんで、そんなこと…っ!?」
「なんでだろうな。オレにもわかんないんだ」
「また嘘言わないで!」
「本当だ」
由里奈が驚いた様子で駆けつけて来るのがわかった。
「見つけたら、おまえらに会いに行こうと思った。けど、土手の橋の下で、あっさりと見つかったとき、オレ、すごく奇麗なこの四ツ葉を見ないふりしてた。どうしてかわからない。けれど、まだ見つけてない。まだ見つかってない。そう思って、それから二日、探し続けてた」
「………」
「理由をちゃんと説明できなくてごめん」
そう言いながら、和矢は栞を持ったままの親指で、殴られた頬をこすった。そんな和矢をじっと見ていて、マリナはひとつのことに気がついた。
見ないふりしたと言っているのに、どうして和矢は、最初の四ツ葉を持っているのだろう。シャルルに贈ったものと同じラミネート加工の栞にしてまで、なぜ。
聞くと、和矢は頬を歪めて、
「……記念、かな?」
とだけ答えた。マリナはそれ以上、聞くことができなかった。
すぐ近くで汽笛が鳴った。一回目はすぐ終わり、二回目も消えた。三回目は果てしなく長かった。由里奈が心配げに背中を向けた。
やはり姉の言葉は正しかった。すべては無神経に横浜に来たからだ。シャルルに栞を渡すとき、心の優しい和矢がどれだけ苦しんだだろう。彼にとって、四ツ葉のクローバーは罪の証だったのかもしれない。それでも、四ツ葉の栞を持ち続けたのは、ただひたすらに和矢の潔癖さだったに違いない。
和矢が栞を胸ポケットにしまい込みながら言った。
「オレはいいヤツでも何でもないよ」
「……そんなこと…っ」
「ただの不実な男だ。それでもマリナ、おまえが必要なんだ」
その瞬間、マリナはありありとシャルルを思い出した。
『不実なままで、あたしを抱いて』
信じきれないと苦しむ彼に何度そう言っても、不安げに青い瞳は揺れた。奇麗な唇は震えていた。きつく抱き合った。溶けるような夜をいくつも重ねて、確かな思いを感じたのに。それなのに。
どうしてあたしをひとりにするの……?
和矢の指先が濡れた頬を掬った。
「……オレがもう、おまえをひとりで泣かせないから」
汽笛がゆっくりと鳴り止んだ。
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