「ああ、彼氏ほしいなぁ……」
あたしがぼそっとつぶやくと、
「あんた、彼氏募集中なの?」
と松井さんのするどいツッコミが入った。
うっ、相変わらず地獄耳ね。
これは独り言よ。
恋愛漫画を描いていたら、恋したくなっちゃったの!
あたしは今漫画の持ち込みに編集部に来ている。
松井さんはタバコをくわえてあたしのプロットを眺めながら、ニヤニヤしてあたしを見上げた。
「あんたさ、あのハーフに振られたの? いつぞや拘置所に一緒に行った、あのくせ毛のノッポの色男」
ぎくっ!
どーしてそんなにするどいのよ。
あたしは和矢に振られたなんて、ただの一言も言ってないわよ。
嫌だわ、ハイエナみたい。
「別に。大人として平和的に別れただけです」
和矢とは二年ほど付き合って、ついこの間お別れした。理由は特にない。
もちろんどちらかが浮気したとかじゃない。強いて言えば「性格の違い」かしら。
あたしは晴れた日でも家の中にいたい方なんだけど、和矢は、雨の日でも外に行きたがるの。
あたしはどちらかというとお日様の出ている時間帯は寝てて、夜に活動するタイプだけど、和矢は早寝早起き。
あたしは読書派(まんが中心)だけど、和矢は体を動かすことが大好き。
総じて、あたしはインドアで、和矢はアウトドア。
付き合う前は気がつかなかったんだけど、あたしたちは以外と水と油だったのよ、これが。
もちろんそれですぐに「別れよう」なんてならなかったわよ。
お互いの好みに理解を示し合うように努力したと思うわ。
二年と少し。とてもいい時間を過ごせたし、楽しかった。
和矢と付き合ったことを後悔したりしない。
だから、あたしは、彼と別れたあとも、男性不信に陥ったりせずに、新しい恋に進もうって思えるのよ。
これは、和矢があたしを大切にあつかってくれたからだと思う。
ありがとう、和矢。
「へえ、あんたが大人ねぇ……」
松井さんが、鼻で笑った。
むっ、とってもバカにされた感じ。
「そうです。文句ありますか?」
あたしがツンとそっぽを向くと、松井さんのひっひと悪魔のような笑い声が耳に飛び込んできた。
「大人の割にはチビだと思ってさ。まるで小学生みたいだね」
わーん、うるさい。
どうせあたしはチビよ。まだ身長が150ないわよ。
人の気にしていることを言っちゃいけないって、お母さんに教わらなかったの?!
その口、針で縫っちゃうんだからねっ。
「ところでさ、男、紹介してやろうか?」
え、本当?
怒りも吹っ飛ぶ思いで、俄然、興味を惹かれたあたしが、一途に松井さんを見つめると、彼は原稿をテーブルにばさっと放り投げて、ソファに背中を凭れさせて、豊かなお腹をさすった。
「条件はいいよ。身長は182。顔は震えがくるほど美形で金持ち。しかも優秀。プラス、浮気の心配がまったくない」
きゃあ、すごいわ、すばらしいわっ!
どこからどう見ても欠点がない!
「だれ、その人?」
すると、松井さんはきっぱりと言った。
「シャルルドゥアルディ」
へ?
「だーかーら! フランス貴族の御曹司だよ。あいつとお見合いしてみるっていうのは、どう?」
あたしはびっくり仰天!
思わずソファから飛び上がって、ジャンプまでしてしまったくらい。
なんであたしとシャルルがお見合いなのよ。
あのね、あたしたちはパラドックスのラストで、実に気高く見事なお別れをしたのよ。
読者だって涙を飲んだあのラストシーンを、お見合いだなんて、俗世間的な再会の仕方で汚しちゃあダメだとおもうのよ、絶対に!!
あたしがそう主張すると、松井さんは「知らないよそんなこと」とあっさりあたしの主張を棄却。
「俺は社長に頼まれただけだもん。池田マリナに見合いの了解を取り付けろって」
なに、社長!?
一体なんのことかちんぷんかんぷんなあたしの前で、松井さんは何やら非常に上機嫌に話を続ける。
「俺さぁ、どうやってあんたに見合いの話を持ち出そうかと頭ひねってたんだよねぇ。一回分の原稿を餌にするしかないかな、とか悲壮な決意まで固めてたんだけど、そしたらさ、あんたの方から『彼氏が欲しい』って言い出すじゃない? これはもう、神様のおぼしめしだよね。やっぱり日頃から行いのいい人間はちゃんとむくわれるんだよね~」
胸の前で両手を組んで、天を見上げながら、ひとり感慨に浸る松井さんを眺めつつ、あたしはぽっかーん。
どうやらこれは本気らしい。
あたしとシャルルがお見合い。
なっ、なんでそーなるのっ!?
「冗談じゃないわ。あたしは絶対に」
シャルルとは会わないと言おうとしたんだけど、それよりも先に、松井さんが、
「じゃ、今夜七時、帝国ホテルのフレンチレストランの個室を予約してるからね。遅れないでね。見合いだから、ちゃんとした格好してきてね。社長もくるからね。じゃあ、バイバイ」
とだけ言い捨てて、さっさと彼は編集部に戻ってしまった。
あたしの原稿をテーブルに残して。
「待てーーーーっ、って、今日の七時? って、もう四時半じゃない。あと二時間半後にシャルルとお見合いだってーの!? うっぎゃーっ、どーしよう?!」
白のトックリニットに、くたびれたオーバーオール姿という、着の身着のままで飯田橋のぼろアパートから出てきていたあたしは、呆然と口に手を突っ込んで、あたりを見回した。
誰か、助けてっ!!
◇◇◇
午後七時、帝国ホテル。
フレンチレストラン、特別個室にて。
テーブルには二人の男がついていた。一人は某出版社社長。四十代だろうか。ぴっちりと撫でつけられた髪からは、シトラス系の整髪料の香りが強く漂っている。上等なスーツはグレーの三つボタンで、タイはドットの細かな水玉だ。ポケットチーフはタイと同じ柄である。
その横に座っているのは本日の見合いの当事者である、シャルルドゥアルディだ。こちらは白のシャツにブラックのスーツを合わせている。タイもチーフもなし。シンプルな装いが、肩を覆うほど長いつややかな白金髪を一層引き立てている。
松井久治はテーブルの前に立ち、二人に向かってペコペコと頭を下げていた。
「申し訳ございません、池田マリナは少々遅れているようです」
腰を軽く浮かせるようにして、社長も頭をさげた。
「アルディ様、私からもおわびします。まったく池田君はどうしているのか」
大丈夫ですよ、と彼の謝罪を制する声がする。透き通るようなハリのいいテノールだった。
相変わらず気取った男だ、と松井は思った。この男と会うのは、地元の白妙姫の取材をした時以来だった。あの時も綺麗な男だと思ったが、今回はさらにその思いを強くした。目頭の恐ろしいほどの彫り込みの深さ。ビー玉のような青灰色の瞳。容貌のすべてが空々しいぐらいに整っていて、まるで美術館の石膏像が勝手に抜け出して、目の前で動いているみたいだ。
「おそらく心の準備をしているのでしょう」
「そうですか?」
「ええ。私は彼女の性格を熟知しておりますので」
微笑んで、グラスに手をのばす。ミネラルウォーターを上品な仕草で口につっと含むと、グラスの縁を唇から離して、また笑った。透明な液体に濡らされた唇が、妙になまめかしい。
「これまで待ったんです。あと少しぐらい待っても、どうということはありません」
アルディ氏はグラスをテーブルに置いた。
はあ、と社長が言った。
松井は身をすくめるようにして立ったまま、そんな二人をじっと眺めた。
一編集者にすぎない松井は、社長とこれだけ近距離で交わることすら初めてであり、彼の人となりなど全く知らなかったが、それでも彼が今何を思っているかは手にとるようにわかった。
社長はあきらかに「物好きな」と思っている様子だった。だが、その思いを決して出さないように営業用スマイルを浮かべている。
ふと、アルディ氏が言った。
「物好きだと思っておられるようですね」
社長の愛想笑が一瞬、固まった。
「いえいえ、池田さんはとても端麗なお嬢さんで、我が社の漫画界を背負っていく人材ですから。アルディ氏はお目が高い」
社長の慌てた言葉に、松井はあちゃーと思った。
社長は池田マリナに会ったことはない。
池田マリナという漫画家が存在していることすら、今回の話が起こるまで知らなかったはずなのだ。
もうそれ以上の賛辞はおやめになった方が――。
と止めたかったが、社長はどんどんと池田マリナを褒める。聞いていて恥ずかしくなるほどの賛美の羅列に、松井の方がいたたまれなくなった。仕事でなければさっさとこの場からトンズラしたい。
「いいんですよ」
とアルディ氏が顔の前に手をかざした。その顔には苦笑が浮かんでいる。
「は?」
言葉を遮られた社長は、目を開いてアルディ氏を見る。
「池田マリナはおほめいただけるような見るべき風貌は何もありません。漫画の方も、おそらく才能はないでしょう。それは御社の松井編集者がよくご存知です。――そうですね、他者と比べて抜きん出ているのは、物欲と食欲。あと生命力。それぐらいです」
社長は銅像のように沈黙した。
「私もたまに思うんですよ。どうしてあんな女に惹かれるんだろうと。――けれど、わからない。心と体を空っぽにして考えても、答えは出ない。目を閉じて暗闇の中で考えるんです。何時間も何日も。すると、私の頭の中に浮かんでくるのは、彼女の顔だけなのです。彼女が恋しくて恋しくてたまらなくて、夜が眠れなくて――」
こいつ、確か天才じゃなかったっけ?
らしくなく、言葉を選ぶようにして、訥々と話すアルディ氏を眺めていた松井は、ぽつりと言った。
「恋、ですね。それは」
アルディ氏は、松井をちらっと意味深長な目つきで見た。そして満足そうに頷いた。
「ええ、恋です。だから、もう抗うのはやめることにしました」
それから彼はテーブルに両肘をついて、俯き加減で、グラスを手にとった。くるくるとグラスを弄ぶ。天井のダウンライトで、水がきらきらと反射を生じ、白い顔が照らされる。青い瞳が思いつめたように光った。
「早く会いたい。そして彼女に伝えたい。愛してると」
激情をこらえるように目をほそめるアルディ氏を見ながら、松井は、へえ、と思った。振り返れば、白妙姫の取材の頃から、アルディ氏は池田マリナに夢中だった。
あれから数年――。
池田マリナがあのハーフと付き合っている間もずっと彼女をひたむきに思っていたのか。案外可愛い男じゃないかと、松井は内心ほくそ笑む。
「それにしても遅いですね」
場を取り繕うように社長が言った。その時だった。
コンコンとノックの音が響き、ドアが開いた。レストランのボーイだった。アルディ氏はグラスをテーブルに置き、立ちあがった。ほとんど反射とも言える素早い動きだった。
「お連れ様がお着きになりました」
ボーイは体を引き、右手を差し伸べて、後ろに立った客を部屋に案内する。
入ってきたのは、皆が待ちかねた池田マリナだった。社長も、椅子から腰を浮かせて立ち上がり、ドアの方を向いた。
ああ、やっときた。
――のだがっ!
松井はぎょっとした。
「ちょっと、あんた!」
思わず、そんな言葉が出た。松井は興奮するとオネエ口調になる。気持ち悪いとわかっているが、止められないのだ。
「なんでそんな格好してんのよっ! 今日はお見合いだっていったでしょう。ここがどこだと思ってんの。天下の帝国ホテルよ、なのに、なんでオーバーオールなのよっ!?」
現れた池田マリナは、夕方に出版社で会った時と同じ格好のままだった。
白いトックリニットに、よれよれのオーバーオール。赤いボンボンでくくった髪までそのままだ。もちろん顔はすっぴん。靴はスニーカー。それもかなりくたびれていて、青い生地の部分はほつれがでている。
よくこれでホテルロビーを通過できたものだ、などと変なことに感心しながら、松井が責めると、池田マリナはあっさりと「別にいいでしょ」と言った。
「だって、これがあたしだもん」
そういうと、彼女は、部屋の中に入ってきて、まず社長を見た。社長はというと、お見合いにあるまじき姿で現れた彼女にボーゼンとしている。さきほど端麗だ、素晴らしい女性だと褒め上げた反動が一気に出たらしい。
「はじめまして。池田マリナです」
ぴょこんとお辞儀をされて、「あ、ああ」と間抜けな返事をする社長。それ以上の言葉が出ないらしい。
それで仁義は通したと判断したのか、池田マリナは次に体の向きを変えた。黙ってじっとしているフランス男の方を見る。
「久しぶり、シャルル」
ああ、とアルディ氏は答えた。明瞭な音声をともなわないかすれた声だった。
「あたし、ここに来るの勇気がいったわ。今更見合いだなんて、恥ずかしいし。パラドックスであんな別れ方したのに、どういう顔して再会すればいいのかとも思ったし。でもね、あたし、考えたらあんたのこと好きだったのよ。アルディ家のために一生懸命がんばるあんたのこと、尊敬してたし、カッコいいと思ってたわ。だから、もし、あんたとやり直せるのなら、嬉しいなーと思った。
ここに来るためにデパートに寄って、服買ったり化粧したりしてこようかと思ったんだけど、やめた。だって、無理しても続かないもん」
池田マリナは小首を傾げてニコッと笑った。
「こんなあたしでもよかったら、付き合ってみる?」
部屋の中に沈黙が漂った。社長も松井もただじっと成り行きを見守っていた。
アルディ氏は炎のようにきらめく瞳で池田マリナを見つめていたかと思うと、テーブルの縁を回って、彼女の正面にやってきた。二人の間の距離が50センチ程度になった。身長差はおそらく30センチほどあるだろう。アルディ氏は首を折るようにして一心に池田マリナを、そして彼女は咽頭元をめいっぱい伸ばして彼を見つめていた。
「そのままの君がいい」
その瞬間――。
池田マリナは笑った。松井は驚いた。
その時の彼女の顔は、今まで松井が見たことのないくらい可愛らしい笑顔だったのだ。例えると、花壇に植えられた濃いピンクのチューリップが、一斉に青空に向かってパアッとほころんでいくような。
なによ、あんた、こんな顔もできるんじゃない……っ。
胸の一番奥深いところがキュウンと締め付けられるような甘酸っぱい感覚がよぎった。年甲斐もなく胸が高鳴る。思春期に戻ったかのようだ。松井は「ああ、妻の真琴に会いたいな」と無性に思った。
「それにしても、シャルルさぁ」
「なに?」
「お見合いってなんなの? どうやって出版社の社長に頼み込んだわけ?」
「大したことじゃない。株を少々買い占めただけだ」
「えっ? まさか、出版社の乗っ取り?」
二人の会話を聞いて、松井はびっくり仰天して社長を見た。引きつった笑いを浮かべる社長の顔がすべてを物語っていた。
「やり方が姑息よ、シャルル」
「いいだろ。君が和矢と別れたって情報を得て、黙ってられなくて」
「えっ、あんた、あたしに見張りでもつけてたの?」
「………」
「シンジラレナイ」
「愛って独善的なものさ」
「最っ低――っ!!」
池田マリナはぽかぽかと彼を叩いた。だが、男の方はかえってその攻撃を喜んでいるようだった。
ほとんどじゃれあいのように言い争う二人を見ながら、松井はふうっとため息を吐いた。
「美男と珍獣」というフレーズが頭の中を駆け巡る。
ああ、なんてバカバカしいことに付き合わされたのだろうと思った。
Fin