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2017シャルルBD創作の告知

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フライングですが。
2017年、シャルル、お誕生日おめでとう!
再中毒四年目、今年もお祝いできて、本当にハッピーです♡

さて、今年のバースディ創作は鑑定医シャルルです。
タイトルは「愛と罰」
内容をざっくりいうと……。

シャルマリはすでに恋人。
でもあることをきっかけにマリナはシャルルとの恋を忘れてしまう。
そこからのシャルルの、人間臭い葛藤やら愛憎やらを描いていきます。
鑑定医版なのでシャルルはかなりドSです。はっきり言ってひどい。マリナにも他の女性にも。
「冷酷な彼は苦手という方」
「マリナ以外の女に触れる彼は嫌!という方」
「浮気ものには嫌悪感を覚える方」
「学問的なフィクションを笑ってスルーできない方」
……にはとてもじゃないですが、お勧めできない内容となっております。


記憶喪失もの、浮気もの、娼婦関係はすでに沢山の二次作家様の作品がありますし、
今回は内容もかなりドギツイし、フィクション感満載で適当なこといっぱい書いてますんで、
考えた末、今回は希望者様のみに公開します。
FC2の方に「りんごの木の下で 別館」を創設しています。


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めんどくさくてすみません。
ですが、シュールで大人びた話の場合、読者様にショックを与えないように、そして私の創作スタイルを受け入れてくださる、すなわち「迷宮」であったように、真に理解してくれる方だけに…という気持ちだったりします。
二次ではあるあるなテーマなのに「真似してる?」とか、注意書きをしているにもかかわらず「こんなシャルルは読みたくなかった!」とか言われると、私も傷つきますんで。
(すみません、過去にそういうことがあったので、ちょっとトラウマ…)
その代わり、わざわざパスワード制にするのですから、遠慮せず大胆に思いっきりいきます!



全部で8話ぐらいの予定です。一話ずつがかなりボリューム満点です。
第一話はすでに更新してありますので、ご希望の方はパスワードをご請求の上、どうぞお楽しみください。
読むスピードは人それぞれですが、第一話は約一万四千字。速読の私で10分以上かかります。
先に記した「ざっくりとした内容」を十分ご検討の上、パスワード請求をおねがいします。
今後の更新のお知らせはYahooブログでいたします。

わがまま言って申し訳ありませんが、ご理解いただけますようによろしくお願いいたします。

「愛と罰」第二回、更新しました。

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「愛と罰」第二回、FC2で更新しました。




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『愛と罰』の注意点です。
「シャルマリはすでに恋人。でもあることをきっかけにマリナはシャルルとの恋を忘れてしまう。
ジャンルはシャルマリ、鑑定医、記憶喪失、浮気、娼婦、お仕事を絡めたラブミステリ。鑑定医版なのでシャルルはかなりドSです。冷酷な彼は苦手という方。マリナ以外の女に触れる彼は嫌!という方。浮気ものには嫌悪感を覚える方。学問的なフィクション満載は許せない方。以上の方はご遠慮ください」
ご確認よろしくお願いします。ではでは。

「愛と罰」第三回、更新しました。

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「愛と罰」第三回、FC2で更新しました。


今回からガラッと物語が変わります。
いよいよ主人公の登場!
娼婦殺しは、新たなるステージへ……。

ちなみに私のお気に入りキャラは、エルラー教授です。
ショコラが好きな気のいいおじさん先生。
学校では厳しい教授だと思いますが、家では一人娘にあま~いパパなんでしょうね(笑)。
休日には娘のために料理をしたりする。ずっと娘と二人暮らしだったから家事は完璧。洗濯、掃除はもちろん、キルティングなんかもさくさくこなしちゃう。
エルラー教授の一番の楽しみは、週末の朝。娘と二人で喫茶店に行って、コーヒーを飲みながらたわいないおしゃべりをすることが何よりのリフレッシュタイム。
そんなどこにでもいそうな、愛娘家の、普通のおじさんなのです。


そう、こないだのシャルルの誕生日に、途中で放り投げてあった「愛という名の聖戦」のエピソードが急に降って湧いてきました。シャルルからの逆誕プレ!?と嬉しくなったわたし。
あまりこの感覚が色褪せないうちに形にしたいなぁ…と思いますが、そんなに器用ではないので、二作同時は無理です(>_<) 心の本棚にとりあえずしまっとこ。。


「愛と罰」はこちらです



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『愛と罰』の注意点です。
「シャルマリはすでに恋人。でもあることをきっかけにマリナはシャルルとの恋を忘れてしまう。
ジャンルはシャルマリ、鑑定医、記憶喪失、浮気、娼婦、お仕事を絡めたラブミステリ。鑑定医版なのでシャルルはかなりドSです。冷酷な彼は苦手という方。マリナ以外の女に触れる彼は嫌!という方。浮気ものには嫌悪感を覚える方。学問的なフィクション満載は許せない方。以上の方はご遠慮ください」
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情実の白夜

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おはようございます。
先週以来、別館のパスワードをご請求くださった皆様への感謝創作です。

「情実の白夜」→FC2で限定公開中。


(記事へのPWは、記事のパスワード入力欄のダイアログに質問が出てきます。ひとみっこなら誰でもわかるその答えがPWになってます。ローマ字で入力してください)

内容としては、いつぞやゲスト様とふかーい雑談をしたことが元ネタになってます。
「シャルルの仕事中ラブが見たいっ!」「それもできればラブ度上で」「秘書とかいる前で?」「それはやばすぎ」「じゃあ、夜?」「マリナはネグリジェかな」「シャルルはまだ仕事中でしょ」「じゃあ椅子に座りながらとか」「ながら…なに?笑」「大人だ」「大人だね」
と、アホな妄想で盛り上がったことを書いてみました。ゲスト様、あの節は楽しかったですね~☆
妄想が炸裂しています。朝からすみません。片目つぶってご覧くださいませ(笑)

【薫BD創作】朝焼けを一緒に

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カーテンを開けると、ビルの谷間に朝焼けが見えた。夕焼けよりも透明度の高いオレンジ色で、鳥の音がバックサウンドだ。
「きれいだな」
思わずひとりごちる。
窓を開けて、ベランダに出た。日本の二月は寒い。暦の上では春だが、一年で最も気温が低下する時期だ。この冷たく張り詰めた空気が、薫は好きだった。身も心も引き締まる気がするのだ。
夜が明けて、朝が来る。
毎日がやってくる。
こんな当たり前のことに感謝できるようになったのは、最近だ。生まれて十八年間、いかに何も考えずに過ごしていたかと思う。心臓病を患っていたせいで、命の危険は何度も感じたが、「今日生きていてよかった」と実感するには、薫はまだ若すぎて、数え上げる幸福の数も足りなかった。
だけど、薫は朝焼けの空を見ながら、今、しみじみと思っていた。
生きていてよかった、と。
そう考えている間にも、朝焼けはどんどん色が薄くなっていく。夜を迎える夕焼けとは違い、朝焼けは希望の始まりに似て、色を失っても、光が消えることはない。
「薫、風邪をひくよ」
背後から声がかかる。優しい声だ。振り向いて、笑って見せた。
「一緒に見ない? 空、きれいだよ」
「空か」
「うん。なんてことない普通の空だけどさ。それがすごく素敵なんだ」
サンダルをつっかける音がして、薫のそばに暖かさがちかづいてきた。二人はベランダの柵にもたれて、同じように空を見た。
「本当だ。とてもきれいだね」
「だろ?」
「ああ。ありがとう。声をかけてくれて」
「いいものは一緒に楽しみたい。これ、あたしのわがまま」
くすと微笑む声。
「そういうわがままは大歓迎だよ」
そのまま二人で明るくなっていく空をじっと見ていた。
特別なこともドラマチックな事件も起こらない普通の朝。ただ肩を並べて見上げる空。
幸福な人生って、こういう「今幸せだな」と思えるささやかな瞬間瞬間を積み上げていくことをいうんだなと、薫は思った。



《Fin》

「愛と罰」第四回、更新しました。

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最近、昔の漫画をブックオフで見つける喜びにはまっています。
昨日の戦利品は以下の通り。

「シティハンター第2巻」
「デザイナー」
「おいしい男の作り方」

一条ゆかり先生、大好きです♡ 
中学生の頃、ひとみ作品と同時に、有閑倶楽部を死ぬほど愛していました。あの6人組にあこがれました。中でも好きだったのは、清四郎。インテリイケメンに私は弱い(笑)
当時のりぼんの男子キャラはほとんど好きです。真壁君、郡司君、春海、久住君・・・。名前挙げるだけで、心が乙女に戻ります。
そして最近になって好きになったのが、シティハンターの冴羽リョウ(←字が出ない、泣)
さりげない優しさとか、男らしさとかが、アラフォーになって身にしみるようになりました(笑)
ちょっとずつ集めるのが、最近の楽しみです♪




「愛と罰」第四回、FC2で更新しました。




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『愛と罰』の注意点です。
「シャルマリはすでに恋人。でもあることをきっかけにマリナはシャルルとの恋を忘れてしまう。
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愛という名の聖戦(56)

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《ご注意》第一話の注意事項をご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧下さい。
■7~53話はお気に入り登録限定です。シャルルが病気設定です。閲覧は自己判断でお願いします。
 今後の公開範囲は、内容により適宜判断させていただきます。






愛という名の聖戦(56)




マルグリット総督ノーマン・ランサールの案内で、アルディ家の刑務所とも言うべきその建物に足を踏み入れたあたしはまず驚いた。
だって、どこもかしこもピッカピカ!
壁も床も天井も白い大理石で覆われて、まぶしいぐらい。
玄関を入ってすぐにはなぜか大きなソテツの木が真正面に植わっていて、そこから左右に廊下が枝分かれしてるんだけど、本当に綺麗で、甘く香しい匂いまで漂っているその感じは、問題人物の収容施設というよりは、南国のリゾートホテルといった雰囲気だった。

「現在の収容者は何名ですか?」

歩きながらジルが訊いた。
ランサールは足を止めずに答える。まっすぐに背筋を伸ばした隙のない後ろ姿は、テレビで見かける政治家のSPのようだとあたしは感じた。

「6名です。A級療養者が1名、B級療養者が3名、C級療養者が2名」

6名?
たった6人を見張るためだけに、島一つを使って、こんなご大層な施設を建てて、自動迎撃システムまでつけてるの!?
金持ちっていうのはなんて贅沢に人を呪うんだろうと、あたしは心底その道楽ぶりに呆れてものが言えなかった。

「スタッフは何名いますか?」とジル。

ランサールは前を向いたまま答える。

「私を含めて6名です」

つまり合計12名がこの島で暮らしてるってわけね。
ランサールの導きにしたがってホテルのような豪華な建物の奥に進んで行くジルのあとについて歩きながら、あたしはやっぱりアルディ家って変な家だとしみじみと思っていた。
だって、普通は鉄格子とかにするんじゃない?
これじゃあ幽閉というよりバカンスって言った方がふさわしいわ。
なーんて思っていたら、白い廊下の突き当たりに突然鉄格子があったのよ!
まるで巌窟王の映画に出てくるみたいな、ものすごく堅牢そうな鉄格子で、その奥は四方を真っ白な素材に囲まれた、白い筒みたいな窓のないまっすぐな廊下が延々と続いている。
うう……やっぱりここって刑務所なんだぁ……。

「この先がA級療養者専用の棟になります。本来であれば、A級療養者は一生誰にも会うことができない決まりです。ですが、ご当主様の生命に関わる事態ゆえ、特例として許可しました。あくまで特例ですので、くれぐれも口外なさらぬよう」

ランサールの説明に、あたしはなるほどと思った。
ミシェルに面会を取り付けるために、ジルはシャルルの病気のことをマルグリット側に伝えたんだ。
つまり、シャルルは白血病で、彼の治療のためにはミシェルの協力がどうしても必要だっていうことをよ。
よーし、絶対にミシェルの協力を取り付けてやるわ!
とあたしが胸を熱くして闘魂を燃やしていると、鉄格子の前に立ったランサールは、懐から鍵の束を取り出した。
直径二十センチぐらいの丸い輪に、たくさんの鍵がついているものよ。
彼は迷う様子もみせず、その鍵の中から一本を選び出し、鉄格子を閉ざしている南京錠に差し込んで、ぐっと押し込み、右にひねった。

「現在収監されているA級療養者はミシェル・ドゥ・アルディのみです」

ランサールの手の動きに合わせて、カチャンと鍵の回る音があたしにも聞こえてきた。
ランサールは南京錠を外し、鉄格子を開けて、ジルとあたしを中に導いた。
そのあとはどうするんだろうと思っていたら、なんとランサールは自分だけすばやく外に出て、あたしとジルを閉じ込める形で鉄格子を閉めて、南京錠をかけてしまったのよ!
ちょっと、何をするのよ!
あたしは鉄格子にしがみついて抗議したんだけど、ランサールは平静な顔で答えた。

「ミシェル・ドゥ・アルディは2号室です。自由に面会をどうぞ。終了したら、そのベルを鳴らして知らせて下さい」

彼が指差した方向を見ると、鉄格子のすぐ内側、つまりあたしの足元あたりには小さな台が置いてあって、その上には真鍮製のベルが一個、ちょこんと載ってあった。

「では失礼いたします」

そう言って、ランサールは元来た道を戻っていなくなってしまった。
あたしはジルを振り返って言った。

「ねぇジル。閉じ込められちゃったけど、いいのかしら? あたしたち、無事に出られるの?」

ジルは、何を今更、といいたげな顔で歩き出した。

「わかりません」

へ? わからない?
足早に歩く彼女にあたしは懸命についていった。

「A級療養者はマルグリットから生きて出られないというのが、アルディ家の掟です。B級、C級だと期間限定の収監ですが、A級は終生この島に幽閉されるのです。そのA級療養者であるミシェルに面会に来た私たちが無事ここから出られる保証は、はっきり言ってまったくありません」
「え」

ジルの言葉にあたしは思いっきりうろたえた。

「でも、さっきランサールは当主のために面会を許可したって言ってたじゃない?」
「そうですが」
「だったら問題ないんじゃない? シャルルのためにってわかってくれるわよ!」
「そううまくいきますかどうか」

ジルは足を止め、あたしを振り返って答えた。悲しげな顔。蛍光灯の光に金髪が反射して七色のプリズムを作っている。

「今回の面会の最重要ミッションは、ミシェルを説得して、骨髄移植のために彼をパリに連れ帰ることです。マルグリット側としては、私たちがシャルルのためにミシェルに面会をするのまでは許可した。が、A級療養者であるミシェルを島から連れ出るとなったら、果たして素直にいいというか……」

語尾を濁したジルの言い方が、あたしの不安を煽る。

「まさか、ダメっていうの?」

ジルは短く答えた。

「おそらくは」

ほおに手をあてて、悩ましげに浅いため息をはくジルを見ながら、あたしは焦った。

「ミシェルを連れて帰れないんじゃ意味ないわ。どうにか連れ出せない?」
「と申しましても……無理矢理ヘリで脱出したら迎撃システムの餌食になるだけですし、かと言って海に飛び込んでも、この落差では間違いなく即死です」

うわーんっ!
どっちに転んでも死んじゃう!
シャルルのためには生きてるミシェルを連れて帰らないといけないのよ、それなのにこんなところで、ミシェルと心中なんてしてる場合じゃないやい!!
あたしは真っ青を通り越して真っ白になってしまったんだけど、ジルはあたしの肩に手を置いて、優しく、でも意志をこめた強い口調で言った。

「マリナさん。ここまで来た以上、やるしかありません。日本のことわざに『虎穴に入らずんば虎子を得ず』とあるではないですか。まさに私たちは今虎の穴に入ったのです。覚悟を決めましょう。さあ行きましょう。ミシェルのところに」

そう言って、さっさと歩き出す彼女の青いツナギの後ろ姿を、あたしは慌てて追いかけた。
今回のジルはすごい。希望に満ち溢れていて、まったくくじけるということを知らないみたいなんだもの。
あたしも負けていられないなと思った。
えーい、脱出については後で悩もう!
今はやるっきゃないのよ、とにかく目の前のことを精一杯やろう!!

白い廊下は30メートルほど続いていて、やがてそれは突き当たりになり、またもや廊下は左右に枝分かれしていた。
でも、さっきと違うのは、その廊下には、進行方向側に扉が付いていたこと。
あたしたちが歩いていた来た長い廊下の突き当たりが「3」の番号の扉。
ということは、その左隣が「2」よね。
あたしとジルは突き当たりの廊下を左に曲がって、十数歩ほど歩いて、「2」の扉の前に立った。
扉は真っ白な木製の飾り扉で、回転式の真鍮製の取っ手がついている。

「私がノックしましょうか?」

ジルが訊いた。あたしは首を横に振った。

「ううん。あたしがする」
「ですが……」

心配そうな彼女に、あたしはにこっと笑ってみせた。

「大丈夫! あたしはシャルルのためにがんばるって決めたの。絶対にシャルルを救ってみせる。そのために、ミシェルを必ず説得してみせるわ」
「マリナさん」
「だからジルは見てて? あたしがちゃんとやれるかどうかを」

ジルはあたしをじっと見て、そして深く、とても深くうなずいた。
あたしはノックをすべく右手を握りしめてドアの前にかざして、一度その手をとめて、大きく深呼吸をした。
それから強くノックをした。指の第二関節のところで、はっきりとした音が出るように、三度。
一瞬の間を置いて、中から返事があった。
「ウイ」という気だるげな声に、あたしはどきっとした。
その声はシャルルととてもよく似ていた。でもシャルルよりも少しだけ低くて――あたしの記憶にあるミシェルの声そのものだったのよ。
ああ、この扉の向こうにミシェルがいるんだわ。
あたしは自分の中の勇気と力を総動員して言った。

「あたし、日本の池田マリナ。入るわよ」

声をかけながら、ドアノブを回して扉を引いた。







next

聖戦、再開!

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こんばんは、えりさべつです。
毎日寒いですね。北国にお住いの方、雪は大丈夫でしょうか?
私も数年前まで雪国に住んでましたので、ニュースなどで豪雪の報を見ますと、他人事とは思えません。どうかくれぐれもお気をつけてお過ごしください。

先日は、別館の方にたくさんの方にご来館いただき、ありがとうございます。
その際、ブログへの感想をお願いしたところ、
「愛という名の聖戦」の続きを読みたい、というご意見を割といただきました。
あんな数年にもわたって放り出しているものを、覚えてくださっている方がいる。。
感動(泣ーーっ!)
そこで、自分でも読み返してみたりしました。
ちょうどシャルルのBDに、このお話のエピが浮かんだこともあり、
ちょっと再開したくなりました。

ラストまで突っ走れるかはわかりません(苦笑)
ですが、キリのいいところまではいきたいな♪

「首を長くして(気を長くして)続きを待ってます」とおっしゃってくださった方。
よかったら、お楽しみくださいませ♡


別館の方の「愛と罰」も、もちろん継続します。
(亀の歩みになるかもしれませんが、笑)
こちらも引き続きどうぞよろしくお願いします。

それでは春までもう少し。
風邪などひかないようにお互いにがんばりましょう!

愛という名の聖戦(57)

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愛という名の聖戦(57)



ミシェルに会いにいざいかんっ!
と勢い込んで「2」と番号がついたドアを開けて入っていこうとした途端、あたしはガシャーンと何かものすごく硬いものにぶつかったのだった。
当然のことながら、あまり起伏のないあたしのかわいそうな顔は、眼鏡を筆頭に額と鼻と顎をしこたま打ち付ける形になったのよっ、なによ、これ!?

「いったぁ……」
「マリナさん、大丈夫ですか?」

あまりの痛さに思わずしゃがみこんだあたしを、後ろからジルがいたわってくれた。うう、優しいわね。

「うん、大丈夫。ちょっと痛かったけど」

あたしは眼鏡をかけ直し、おでこをさすりながら瞬きを繰り返して、やっと唖然とした。
だって、白いドアを開けてすぐにあるのは、さっき、この棟に入ってくる時にあったのと同じような鉄格子なんだもの。この鉄格子は戸枠にがっしりと隙間なくはめられていて、出入りできる戸の部分には掌大の南京錠がかけられている。
こんなものがあったら中に入れないじゃないのよ!?

「邪魔よ、この鉄格子! どきなさいよ!」

あたしが鉄格子に向かって怒鳴っていると、くすくすという微笑む声。

「お説教で開くのは心のドアだけだぜ、マリナちゃん?」

鉄格子の向こうから低めのバリトンボイスが聞こえて、それであたしはようやくハッとして、声の聞こえた方角を見たの。
鉄格子の中は、パリのアルディ家にあるような瀟洒なサロンだった。
広さは、学校の教室ぐらい。
白いソファやこれまた白いテーブルセット、サイドボードにライティングビューローなんかの家具類も全部白で、それらが整然と置かれている。
四方の壁はここまでの廊下と同じく白一色で、奥の壁にかかってある丈の長いカーテンの色もだった。唯一違う色合いを感じるのは、白いカーテンのドレープの襞が重なってできる影ぐらいだった。
それにしてもなんでこんなに白白白なのかしら、目がチカチカするわ。
部屋の左側の奥の方に二つ扉が付いていて、あれは寝室や洗面室かしらとあたしは思った。
ミシェルは、カーテンの前にあるソファにいた。
白いシルクのリボンブラウスに黒いぴったりとした乗馬ズボン姿をしている。
彼は、西洋絵画で中世貴族の婦人が妖艶な体を寝椅子にそうしているみたいに、ソファに横たわっていた。
あたしはその光景に、自分がパリに戻ってきたかのような錯覚を感じた。
だって、シャルルがそこにいるみたいなんだもの……。

「あんた……ミシェルね」

あたしが訊くと、彼は口角を上げて微笑んだ。
それで彼は「ウイ」の返事を表しているつもりのようだった。
そのバラのような形のいい唇、限りなく青に近い灰色の瞳、雪のように白い肌、天使のようなカーブを描いたほお、高く通った鼻筋、そして全身からにじみ出る気品と誇り。
厭世的な微笑み方も気だるそうな雰囲気も、シャルルとよく似ている。とても。
あたしはなんだか泣きそうになってしまい、それを慌てて隠そうと、顔を背けた。

「ああ。我が愛しのマリナ!」

突然ミシェルが大声をあげたので、びっくりして彼の方を見ると、ミシェルは横たわったまま、まるでロミオがジュリエットに愛の告白をするときのように、両腕を高く上げていたの。
顔つきはさっきまでとは打って変わり、目を細めて空にやり、あでやかな笑顔を浮かべて、まさしく自己陶酔の極みといった感じ。

「幽閉の地マルグリットまでオレを助け出しに来てくれたのかい? ありがとう、オレのジャンヌダルク。体が震えるほど愛してるぜ」

な、何言ってるのよ!?
あたしはあんたになんか、本当は会いたくなかったんだからねっ!
でも、シャルルのためにしょうがなくここに来たのよ。
と言おうとして、あたしはミシェルとの出会いでもある「アンテロス」事件を思い出した。
そうだ、ミシェルってそもそも演技がかってるやつだったわ、油断大敵っ。
あたしは心を落ち着けて、つとめて冷静に言った。

「残念でした。あたしはあんたに用事があるだけよ」

途端、ミシェルは高く掲げていた両腕をパタンと下ろした。
表情まで一気になくなった。
冷たいよそよそしさがただようその顔は、はっきりとシャルルとは別人なんだと、あたしに思い知らせてくれたのだった。

「用事? 君がオレに?」

あたしは頷いた。

「そうよ。あんたに頼み事があるの」

彼はソファに横になりながら、片口を歪めて笑った。

「へえ。一体なに? シャルルを一緒に倒そうって相談?」
「まさか! そんなわけないでしょ!」
「なんだ、つまらないな」
「ふざけてる場合じゃないのよ。事態は深刻なんだから」
「深刻?」

きらっと目を輝かせる彼に、あたしはちょっと口ごもってから、思い切って言った。

「シャルルの命を救って欲しいの」

それからあたしは一気に説明した。
現在シャルルが白血病であること、あらゆる治療法を試したけれど、効果がなく、あと残されたすべは造血幹細胞移植しかないということ。
そして、それにはHLA型が一致するミシェルの協力が必要なんだということを、一生懸命に伝えたのよ。

「だからね、一緒にパリに帰って欲しいの。骨髄移植をして、シャルルを助けて」

ミシェルはあたしが話し終わるまで、一言も口を開かなかった。
ソファに横たわり、片腕で自分の頭を支えるようにして、強い光を浮かべたまなざしであたしをじっと見ながら、ただ黙ってあたしの言葉を聞いているだけだった。
あまりにもなんの反応もないので、あたしは首をかしげた。

「ミシェル? ちょっと、ちゃんと聞いてる?」

すると、ミシェルはいきなりガバッと起き上がった。
ソファに浅く座り、膝の上で両手を組んで、顔を少し伏せるようにする。そうすると、白金のストレートの髪が顔を覆って、表情があたしからはまったく見えなくなった。
ああ、そばにいって返事を求めたい。
この鉄格子が邪魔っけなのよ!
とあたしがもだえていると、

「はは、はははは……」

と笑い声。それがミシェルのものだと気付いた時には、

「はははははは!」

ミシェルは白漆喰で塗り固められた天井を仰いで、顔をしわくちゃに歪めて大笑いを始めていた。
あたしはびっくり。
なんでこいつは笑ってるのよ?!

「神から愛されたシャルルは、死神からも愛されちまったってわけだ」

ミシェルは笑うだけ笑ってから、顔をゆっくりと下げて、あたしを蔑むような目で見ながら言った。

「いいじゃないか、そのまま静かに死なせてやれば。――オレが唯一残念だと思うのは、できれば病死なんかじゃなく、オレがこの手で殺してやりたかったってことだけさ

ひどいわ。
シャルルはもうすぐ死ぬかもしれないのに、それなのに、どうしてそんなことが言えるの?
血を分けた兄弟でしょ?
いくら憎しみ合っていたとしても、もう二度と会えなくなるのよ?
あたしがそう言っても、ミシェルの態度は変わらなかった。

「オレたちは二度と会う必要はないんだよ、マリナちゃん」

どうして!?

「あいつもそう望んでるさ。オレに助けられるぐらいなら、死を選ぶってね」

あたしはぐっと言葉につまった。
それは確かにシャルルが言った通りのセリフだった。

「さ、用事がそれだけなら帰ってくれ。もっとも、ランサールが君たちを素直に帰すかどうかは知らないけれどね。それはオレの関知するところではないから」

ミシェルはそう言うと、あたしたちに背を向けて、部屋の奥にあるドアに向かっていった。
ままま、待って!
この目の前のサロンからいなくなられちゃあ、困るのよ。
だって、鉄格子があって、あたしは中に入れない、つまり話が終わってしまう。
それだけは絶対に避けないとならない!!

「お願い、ミシェル。シャルルを助けて!」

あたしは叫んだ。
だけど、ミシェルの足は止まらず、彼は奥のドアのノブに手をかけた。
あたしは必死で再び叫んだ。

「なんでもする! あんたの言うことをなんでも聞くから、シャルルを助けて!!」

瞬間、ミシェルの動きが止まったように見えた。
あたしの後ろで、悲鳴のような声が上がった。

「マリナさん、いけません! 交渉はもっと理性的に行わないと……っ」

ジルの声だ。彼女があたしの肩をつかんだ。彼女の着ているコバルトブルーのつなぎが、白一色の世界にあざやかに映えている。

「ミシェル、あなたが骨髄移植に応じてくれた場合、アルディ家内でのあなたの復権を約束します。具体的には、このマルグリット島からの即時解放と、当主であるシャルルに次ぐナンバー2のポストを用意します。プラス、アルディ家の総資産の30%と所有株式の十分の一をあなたに譲渡します。それではいかがでしょうか?」

ジルが持ち出した提案は、彼女が言った通り非常に理性的で、あたしはそれで自分が言ってはいけないことを言ったのを悟った。
だけど、一旦口から出した言葉はもう止められなかった。
あたしは再び同じ言葉を継いだ。

「お願いよミシェル。あたし、なんでもするわ。だからシャルルを、彼を助けて……!」

ミシェルがドアノブを握りしめたままゆっくりと振り返る。
最愛の人と残酷なほどに似たその顔を見て、あたしの中に何かが込み上げて来て、涙腺が熱く潤み始めた。
シャルル、どうしてる?
きっと睡眠薬が効いて眠っているわね。
あたし、あんたを助けたい。
絶対に死なせたくない。
だからそのためならなんだってやる、やってみせる。
思いっきり下唇を前歯で噛み締めて、寄せては返す激情を必死でこらえた。
泣かない、泣いたりするもんか。
あたしはありったけのプライドとシャルルへの愛という誇りを胸に、ただただ鉄格子越しに数メートル離れた場所に対峙するミシェルを、のめり込むように見据えたのだった。

「ジル、オレをバカにするな」

ミシェルは言った。

「アルディを餌にすればオレがなんでも言うことを聞くと思ったのか?」

ジルは唇を引き結んで沈黙した。彼女の歯ぎしりの音が聞こえた気がした。

「もうアルディなんかいらない」
「じゃあ何が欲しいのですか? 言ってください」

とジルは食いさがる。

「欲しいものは……そうだな」

ミシェルは視線を巡らせて、それをあたしにぴたりと据える。

「マリナちゃん、かな?」
「ミシェル!」ジルが叫んだ。
「シャルルのためならなんでもするんだろう?」

ほとんど口を動かさずミシェルが言う。その声には威圧的な響きがあった。

「ええ、確かにそう言ったわ」

心臓が高鳴りながら、あたしは頷いた。

「たとえば裸になれと言っても?」

カミーユのところでもそんなこと言われたなと思い出す。
あの時はシャルルが身代わりになってくれたっけ……とあたしの胸に甘く切ない感傷がよぎった。

「それぐらい朝飯前よ」

ならば、とミシェルは言った。

「オレとベッドを共にしろと言っても?」

あたしはほんの一瞬だけひるんだ。時間にすると0.01秒ほどだと思う。
でも、すぐに彼を睨みすえて答えた。

「いいわ。それでシャルルが助かるのなら、こたつだろうがベッドだろうが、なんだって共にしてやろうじゃないの!!」
「マリナさんっ!」

ジルがまたあたしの名を呼んで、今度は後ろからあたしを強く抱きしめた。
暴走するあたしを懸命に止めようとしてくれていることを感じ、あたしはまた泣きそうになった。
けれどあたしは首を振って、そっと彼女の手を外し、そんなジルの動きを制した。

「ジル、見ててといったはずよ。あたしがやることを」
「マリナさん……」

あたしはちょっと笑った。

「見ていて。しっかりと」

双子よりも淡くほんのわずかに翡翠がかった瞳をまたたく間に潤ませて、ジルはあたしを見つめた。マリナさん、という形に唇が動いたけれど、声にならなかった。

「いいだろう。その条件で」

ミシェルの声がして、あたしが部屋の方を見ると、ミシェルはサイドボードの前に行き、一番上の引き出しから何かを取り出した後、その引き出しを閉めて、つかつかとあたしたちの方にやってきた。

「ちょっとどいて」

そう言ってあたしとジルを下がらせると、ミシェルは鉄格子の隙間から手を伸ばして、ぶら下がっている南京錠に触れた。
彼はU字型のヘアピンを一本持っていた。
細くて長い指でそれを南京錠の鍵穴に差し込むと、何回かカチャカチャと回した。
やがて、カチャンという鍵が回った音が上がった。
鍵が、鍵が開いた!
ミシェルは器用に鉄格子の内側から南京錠を外し、それを床に放り出すと、鉄格子をゆっくりとあたしたちのいる外側に向かって押し開けた。

「あんた、鍵開けられたの?」

訊くと、彼はうなずいた。

「こんなものはいつだって開けられる。だけど、この島から出る手段がないから、おとなしくしていただけだ」

ミシェルは手にしていたヘアピンを捨てた。それからあたしに背を向け、顔だけ半分で振り返って、人差し指でちょいちょいと招く動作をした。暗い感じのする彼の目はまっすぐにあたしに向かってそそがれている。

「来いよ。こっちだ」
「え……?」

戸惑うあたしに、彼は一層低い声で言った。

「やるんだろ。ベッドルームは奥だ。楽しもうぜ」







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*次回第58話は登録者様限定公開になります。

愛という名の聖戦(59)

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《ご注意》第一話の注意事項をご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧下さい。
■7~53、58話はお気に入り登録限定です。シャルルが病気設定です。閲覧は自己判断でお願いします。
 今後の公開範囲は、内容により適宜判断させていただきます。





愛という名の聖戦(59)




ベッドルームから出たあたしとミシェルを、ジルがサロンで待っていた。彼女の姿を見て、あたしは息が詰まりそうになった。一瞬めまいも起きた。

「どうしたの、ジル、それ」

語尾がどうしようもなくかすれた。
だって、彼女の髪が――。

「似合いますか?」

そう言ってジルは微笑んだ。
似合うとか似合わないとかそういう問題じゃないわ! 
白い首筋が寒々しげに見えている。小さな顔を乗せた細い綺麗な首。ジルは髪を切っていた。あれほど豊かだった長い髪はどこにもなく、少年のようなショートカットになっている。

「どうしたのよ、それ」
「ご覧の通り、切りました」
「切った? どうやって?」
「ハサミで」
「ハサミ?」

ジルの視線を追って、あたしはあるものを発見した。
それはテーブルの上に置いてあった。
刃渡15センチほどの銀色のハサミと、ぶっつりと切られた金色の長い髪だったのだ。

「ハサミ、持ってたの?」
「いえ、ちょっとこの部屋の中を探させてもらいました。ミシェル、勝手にすみません」

ミシェルもさすがに驚いたのか、ずっと黙っていた。ハサミ使用の断りを受けて、ミシェルはわずかに肩をすくめて「かまわない。ご自由にどうぞ」と言った。

「割と簡単に見つかってよかったです」
「よかったって、この部屋にあったハサミで切ったっていうの?」
「ええ」
「どうして……どうしてそんなことをしたのよ?」
「カツラをかぶるにはこの方が都合がいいのです」
「カツラ?」
「そうです。長い髪で長期間カツラをかぶり続けるのは、蒸れたり、肩がこったりなど、負担が大きいですので、短い方が便利です」

頷いてから、ジルはつなぎの襟元にあるジッパーに手をかけ、服の中から二つのカツラをとりだした。彼女はそれを両手に一つずつ持って、あたしたちに見せた。一つは金髪のストレートロングで、もう一つは白金髪のいわゆるおかっぱと呼ばれる髪型だった。
マルグリット上陸後、建物に入る前に、総督ランサールによってジルのカバンやあたしのポシェットなどの所持品はすべて没収された。それを事前に予測して、ジルはこの用意をしていたのだ。体の線を隠す余裕のあるつなぎを着ていたのはこのためだったのか、とあたしは感心した。

「私の考えたマルグリット脱出作戦を申します。お二人とも、何も言わずに従ってください、いいですね?」

唐突にジルは切り出した。マルグリット脱出作戦。その言葉に、あたしは、ミシェルとあたしの間に何が行われ、どういう決着になったのか、ジルがすべて承知していることを知ったの。

「まず、ミシェルと私の服を交換します。服の交換が終わり次第、ミシェルは金髪のカツラをかぶってマリナさんとこの療養棟を出てください。ここにはヘリコプターで来ました。聞くまでもないと思いますが、ミシェル、あなたはヘリの操縦はできますね?」

教師が質問するように言われて、ミシェルは卑屈そうな笑みを浮かべた。

「できるよ。その答えでご満足いただけますか?」
「ならば結構」

ジルは小さく頷く。

「ではマリナさんを乗せてこの島から直ちに離れてください。行き先はカンヌ空港です。アルディの専用機が待っています。乗り換えて、パリに向かってください」
「ドゴールに向かえばいいのか?」
「そうです。パイロットは待機してありますので、こちらは操縦する必要はありません。カンヌを離陸後、迎えの車をドゴールに用意しておくようにと、パーサーに命じてください。スムーズにアルディ本家に行くことができると思います」
「了解」とミシェルは軽く頷く。
「本家にベネトーという名の看護師がいます。彼にはこの計画をすべて言い含めてありますので、あなたは彼の指示に従って骨髄移植をすぐに受けてください」
「わかったが、シャルルはどうやって説得するんだ? オレからの提供と知って、あいつがそう素直に受け入れるかな?」

ミシェルは腕を組んで、わざと挑戦的な言い方をする。だが、ジルにとってはそれすらも想定内らしい。

「説得しません。彼には眠ったままでいてもらいます」
「眠ったまま?」
「ええ。もともとシャルルには睡眠薬を常用して長期間眠るという習慣がありますので、問題はないでしょう」
「冬眠とマリナが呼んでいるやつか」

いきなりあたしの名を出され、はっとした。そういえばミシェルはアルディ本家の地下でずっと暮らしながら、シャルルの情報を集めていたのだと思い出す。
冬眠――。
それは、シャルルが精神的なショックを受けた時に睡眠薬を自ら調合してバラの中で眠ってしまうことをあたしがやや揶揄する意味合いでよんでいた言葉。
もちろん、シャルル本人にも「冬眠」という言葉を使ったことはない。あたしが自分で言っていただけだ。なのに、どこかで口に出していたのだろうか? そんなつまらない針の穴ほどの情報すら知っているミシェルに、あたしの胃の腑はせり上がってきた。

「検査などはその冬眠中でもできるだろう。だが、放射線治療や移植といったかなりの苦痛を伴う治療は、まさか眠ったままで耐えられるわけがない。ジル、無茶いうなよ」
「無茶だろうがなんだろうが、そうするようにベネトーには命じてあります。あなたがドナーだと知れば、シャルルは移植を拒否するでしょう。かといって、他に HLA型の適合者が見つかったなどという嘘は、彼には通用しません。ならば、彼の意思を葬ってでも、強行するのみです」

ミシェルは軽く頭を振って、額を手のひらで抑えた。

「それで君がオレのかわりにここに残るというわけか? シャルルは最低だな。あいつに関わるとみんな不幸になる。しかも本人は眠り姫、という体たらくだ」
「最低なのは」ジルの声が聞いたことのないほど低くなった。「あなただと言ったはずです。私はその言葉を一生取り下げる気はありません。話は以上です」

ジルは締めくくった。一瞬二人は睨み合った。ジルの方が先に視線を外した。彼女はブルーのつなぎをすばやく脱いだ。下には細身のTシャツとスパッツを身につけていた。

「ミシェル、あなたも脱いでください」

ミシェルはため息をついた。

「せっかく今着たばかりなんだけどね」

絹の擦れる音を立てながらブラウスのリボンを外す彼を横目で見つつ、ジルは白金髪の方のカツラを被った。ぐいっと前髪を掻き上げて、ぶるっと首を振る。その間に、ミシェルは白いブラウスと黒の乗馬ズボンを脱ぎ捨て、下着一枚になった。ジルがそれを着て、ミシェルはコバルトブルーのつなぎをまとった。金髪のかつらをつけて、二人の入れ替わりは完了した。
それはあたしから見ても、あまり上出来な仕上がりとは言えなかった。同じ環境で育ってきたシャルルとジルの二人が入れ替わるのとは違って、ミシェルとジルは雰囲気が決定的に違っていた。いくら髪型や服を変えても、ジルはジルで、ミシェルはミシェルだった。
もちろんジルにそのことがわからなかったとは思えない。
だが、ミシェルの格好をした彼女は、あたしたちをサロンの入り口にある鉄格子の外まで強いて押し出した。

「では、すぐにここから立ち去ってください。ミシェル、この鉄格子の錠を閉められますね?」
「ああ、もちろん」

ジルになったミシェルは頷き、先ほどその辺に捨ててあったヘアピンを目ざとく認めて拾った。

「じゃあ、閉めるぜ」
「ええ、どうぞ」

ミシェルは一拍呼吸を置いてから言った。

「君の勇気に敬意を表する。アデュウ、ジル」

部屋の中にジルを残して、ミシェルが鉄格子を閉めようとした。
まって、とあたしは叫んだ。ミシェルの手の動きが止まり、鉄格子が閉まりかけた中途半端な位置で停止した。

「駄目よ、ジル。あんたを置いていけないわ」

マルグリットはアルディの刑務所だ。ミシェルはA級療養者だと聞いた。生きている限り島から出ることはできない。このままジルをミシェルとして置きざりにしたら、ジルは一生幽閉される。

「何を言うのです、今更」
「他の脱出方法を考えましょう、きっとあるわ、他に良い方法が」
「マリナさん」ジルの声が少し笑いを含んだ。顔にも微笑みがあった。「さきほど私が言ったことと同じことをおっしゃっていますよ?」

そう言われて、あたしははっとした。あたしがベッドルームにミシェルと共に閉じこもった時、ジルの言った言葉が「他の方法を考えましょう」だったからだ。
彼女の呼びかけにあたしは応じなかった。シャルルのためにこうするしかないと決めたからだ。だから呼吸をするように自然に、ミシェルのふりをしてマルグリットに残ろうとしている彼女の気持ちがあたしには理解できた。
ジルもまた、必死でシャルルを救おうとしているのだ。
あたしは黙った。というよりも何も言えないでいた。

「マリナさん」

ジルがもう一度あたしを呼んだ。優しく柔らかな声だった。

「私たちは似ていますね」
「そうね」

とあたしは答えた。あたしも笑いを作って見せた。きっと泣き笑いのような顔をしていたと思う。

「あたし、ジルが大好きよ」
「ありがとうマリナさん。私もあなたが好きです」言って、ジルはお辞儀をした。これまでお辞儀のたびに垂れ下がっていた長い髪はもうなく、カツラの髪の間から白いうなじが見えた。「シャルルのことをどうぞよろしくお願いいたします」

あたしは悔し涙をこらえながら思った。
絶対にジルを迎えにくる。シャルルを助けて、彼と一緒にマルグリットに戻ってきてみせる。だからそれまで待っていて――と、心に誓った。
もういいだろ、という声がかかった。

「マリナちゃん、行くぜ」

手であたしを下がらせて、ミシェルが鉄格子を閉めた。カチャカチャと金属の擦れる音がして、南京錠がかけられた。ヘアピンを使ってミシェルが鍵穴を回した。開ける時よりもかなり早い動作だった。
鉄格子の外側のドアをミシェルが閉めた。ジルが完全に見えなくなった。
あたしは振り切るように踵を返し、ドアに背を向けた。

「行こう」とミシェルに言った。「一秒でも早くパリに帰るのよ」
「いいね」ミシェルはあたしの背中を軽く叩いた。あたしたちは走り出した。「そういう勇ましい女は大好きだよ。オレのジャンヌダルク」

白い壁で囲まれた長い廊下を全速力で走って、来た時にランサールと別れた鉄格子のところまで戻った。足元の台に置かれていた真鍮製のベルをあたしは狂ったように鳴らした。白い廊下に共鳴するようにベルの音が響く。
すると、廊下の向こうからランサールがすぐにやってきた。

「面会は終了しましたか?」

ランサールの問いには、ミシェルが答えた。

「ええ、つつがなく。どうもありがとう。では私たちはこれで帰ります。すぐにヘリは飛べますか?」

普段のバリトンボイスとは打って変わって、ジルによく似たアルトの声を上手に作っていた。ランサールの目がちろっと値踏みするように彼を見た。
やはりバレたか。
と思ってヒヤヒヤした瞬間だった。

「いつでもランディングokです。どうぞ」

そう言ってランサールは手をかざし、出口に誘導する姿勢を見せた。あたしたちはその案内に従って建物の玄関に向かった。どうやら順調に出発できそうと、あたしはほっとしていた。隣を歩くミシェルからも安堵の気配を感じた。
あたしたちは、大きなソテツのある玄関に足を踏み入れた。ガラス扉越しに乗ってきたシルバー色のヘリの機体も目の前に見えた。その向こうには澄み切った地中海の空が広がっている。
さあシャルルの元に帰ろう――。
その時だ。
いきなり爆発音が上がった。すぐ近くだった。







next

シャルマリの流儀 ※追記あり

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別館の方も少しずつ記事を増やしたい。
と思い、気の向くままにこんな話を作りました。
東/野/圭/吾さんの「名/探/偵/の/掟」をオマージュしました。
シャルマリ界のヒーロー天才シャルル・ドゥ・アルディが挑む、友達第一主義・幼稚体型・和矢一筋という三拍子がそろった難攻不落のヒロイン池田マリナとの恋の結末は?
コーヒーブレイクでさっと仕上げただけのものですので、期待はせずに(笑)
内容は小菅から~シャルマリの再会編です。
ご興味のある方は、別館へどうぞ♪


※追記ーー
すみません、別館のURLが抜けてました


入場パスワードは、ゲストブックにご請求ください。
プロローグに続いて、第一回も更新しました。
楽しいっ!(^o^) 自分で読んでて大爆笑している私は相当おめでたいやつです。

◇◇◇

タイトル「シャルマリの流儀」

プロローグ

1、小菅拘置所の別れーー「もう離さない、俺のものだ」の真意

2、恋人試用期間?ーー飯田橋と横浜はわりと近い

3、マリナの処女性議論ーーオレ、もらっちゃダメでしょ?

4、期待される別れ方ーーパリ行きの航空券は用意しましょう

5、友情継続問題ーー唯一の親友という十字架

6、将来の希望は?ーー友としてシャルマリを支えます!(模範的回答)

エピローグ


シャルマリの流儀 2

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別館の方で連載していましたが、
「アカウントを持っていないから別館申請できないけど、読んでみたい!」
というお声をいただいたので、第2話をUpしてみます。
全部短編になっているので、これだけ読んでも一応大丈夫な…ハズ。




タイトル「シャルマリの流儀」


プロローグ
1、小菅拘置所の別れーー「もう離さない、俺のものだ」の真意
2、恋人試用期間?ーー飯田橋と横浜はわりと近い
3、マリナの処女性議論ーーオレ、もらっちゃダメでしょ?
4、期待される別れ方ーーパリ行きの航空券は用意しましょう
5、友情継続問題ーー唯一の親友という十字架
6、将来の希望は?ーー友としてシャルマリを支えます!(模範的回答)
エピローグ
最後の対決


◇◇◇



2、恋人試用期間?ーー飯田橋と横浜はわりと近い




東京拘置所は、法務省所管の施設だ。開庁時間は他の公共期間などと同じ午前8時30分。
腕時計をしていないので時間がわからないが、門の正面脇にある差し入れ店のシャッターが一斉に上がりだした。振り返ると、駅の方角からこちらに向かってくる人々の姿も大勢見える。服装から判断して、拘置所の職員だろう。役所の人間というのはこういうところに律儀で、だいたいの人間が同じ時間帯に出勤する。
彼らは門前にただずむ俺たちを見て、いぶかしげな視線を投げてよこした。座込みか何かと勘違いされているのかもしれないな、と思った。
マリナは彫像のように動かず、まだシャルルが去った車の轍を睨むように見つめていた。涙はないが、まなざしはたやすく触れようものならばちんと数メートルは弾き飛ばされてしまいそうなほどに緊張している。
オレはそっとその後ろ姿に近づいていって、彼女の肩に優しく手を置いた。「マリナ」名を呼ぶと、彼女はびくんと体を震わせるようにして振り返った。
「ああ、ごめん、和矢」
にこり、と笑顔を見せた。ぎこちない笑顔だった。なんせ年末の冷え込む一晩を拘置所の門前で過ごしていたのだ、疲れてもいるだろうし、ひょっとしたら風邪をひきこんでいる可能性もある。
「いつまでもこうしてもいられない。行こう」
「うん、そうね」
マリナはうなずいて、オレからちょっと顔をそむけた。右手でほおを拭っている様子が見えたが、オレは気づかないふりをする。
「おい、もう用は済んだから、オレはここから直接甲府に帰る」
後ろから美女丸が声をかけてきた。
「東京駅まで一緒に行くよ」
「いい。タクシーで帰る」
「タクシー? 甲府までか? 高くつくぜ」
「かまわん。それぐらいで弾上の身代はゆるがない」
「朝食でも一緒に食ってからにしないか? 駅前までいけば、何か食べさせてくれる店があるだろうからさ」
誘うと、美女丸はいやいいと断った。
「オレも実は忙しい。今日は山梨県議会で意見陳述をすることになっているんだ」
「へえ。県議会! すげぇ」
「いや」美女丸はたいしたことじゃないとばかりに片口を上げた。「月影ヶ崎城の大規模補修工事が五年後に予定されているんだ。その件で弾上家当主としての意見を述べるだけだ。政治家だけにはまかせておけんからな。午後からの定例会だから、車を飛ばせば間に合う」
「そっか、忙しい時に声をかけて悪かったな」
「かまわん。友の頼みを断るほど野暮な男じゃないつもりだ」
ははは、と美女丸はわらった。あたりに立ち込めるすがしい朝の空気にふさわしい屈託のない笑顔に、オレもマリナもほおが緩んだ。
「ありがとう、美女丸」
「いつかまた会おう。連絡をくれ」彼が手を差し出したので、オレたちはがっちりと握手をした。
「アイ オールソウ ゴウバック トウ ザ ユナイテッド キングダム」
話の輪に加わるように身を軽やかに乗り出して、ガイが言った。自分も国に帰る、と言っている。びっくりして、オレはそんなに急に帰らなくても、といような趣旨のことを英語でガイに告げた。彼はにこにこ笑って、ここは成田に近いだろと答えた。
It is not near.(別に近くないぜ)」
It's closer than from Yokohama, is not it? Anyway It is faster to leave as it is. Please send the luggage at a later time.(横浜からよりは近いだろ? ともかくチケットがとれ次第帰る。すまないけれど、荷物はあとで送ってくれるかい?)」
「Wait.But I do not know if you can get the ticket at once?(待てよ。すぐにチケットがとれるとは限らないぜ?)」
「I do not care. Wait at the airport until it can get out.(大丈夫だよ。待つから)」
予定ではガイは30日まで滞在する予定だった。そのつもりで30日の夕方発のヒースロー空港行きの航空券も確保してある。
「Why so suddenly?(どうしてそんなに急に帰るんだ?)」
オレの質問に、ガイは笑顔で答えた。気品のただよう顔に裏表のない少年のような笑顔を載せる。
「I wanted to see my father's face.(父の顔が急に見たくなったんだよ)」
「Really…(そうか…)」
彼もまたオレに右手を差し出してきた。握手をしながら、彼らの心の中を痛いぐらい感じていた。
「どうして二人ともすぐに帰るの? いっぱい話したいことがあったのにー」
マリナがぼやく。馬鹿だな。二人はオレたちを気遣ってるんだよと教えてやりかったが、彼女が恥ずかしがることがわかっていたので、それは口に出さないことにした。代わりに「おまえも挨拶しろよ」と言った。
「そうね」
マリナは気をとりなおしたように、美女丸とガイに向かって姿勢を正した。
「まず美女丸。今回は急なお願いを聞いてくれてありがとう」
「いや」美女丸は苦笑しがらかぶりを振った。彼はズボンのポケットから小さな箱を出した。それは羽田空港で彼がシャルルに渡したはずの、薫のために用意された結婚指環のケースだった。
「手術の前にオレがあずかったんだ。結局、役に立たなかったな。本人たちが使うことがなかった」
ちょっと悔しそうに、それから辛そうに口を濁した美女丸に、マリナはううんと言った。
「そんなことはないわ。絶対薫たちがそれを使う日はくるわ。あたしはそう信じてる」
美女丸もうなずいた「そうだな」
「ねえ、美女丸。あたしがそれを預かってもいい?」
「え? おまえが?」
とっさに指環の箱を持つ手を引っ込める美女丸。マリナは不満そうにほおをリスのようにふくらませた。まあ、マリナの性質を知っていれば疑心が芽生えても仕方がない。なんせ彼女は金銭にはがめつく、食欲と物欲に関しては恐ろしいほど強靭だ。オレは思わず苦笑がこみあげ、慌てて拳でそれを隠した。
「なによ、売っぱらったりしないわよ! ただあたしは薫たちが回復して日本に戻ってきたら、その時こそこれを渡してあげたいの。そして今回できなかったプロポーズを今度こそ兄上にしてもらいたいのよ」
美女丸はしばし考える様子をみせて、「わかった」とうなずいた。マリナの強い意志を認めたようだった。
「おまえにあずけよう」
「うん」
それを受け取ったマリナは、大事そうに両手で持ち、胸の前で祈るような仕草で指環の箱を抱きしめた。
「いいか。どんなに金に困っても売るなよ。それから腹が減ったからといって食っちまうなよ」
「いくらあたしだってダイヤモンドは食べないわよ。歯が欠けちまうわ」
「いーや。お前なら食いかねん」
「確かに」ぷぷっとオレが噴き出すと、「なによ」とマリナが食ってかかってきた。
「ヘイ、マリナ」
ガイがマリナに話しかけた。彼女が振り返る。ガイはあたりに光をふりまくようなにこやかな笑顔で、会えて嬉しかったよというような内容のことを笑顔で告げた。もちろんオレの通訳で。
「ガイ、会えて嬉しかったわ。それに、薫の手術を手伝ってくれてどうもありがとう。あの気難しい伯爵はお元気にしているの?」
ガイはもちろんだよ、さらにパワーアップしてるさ、と答えた。
「よかった。あんたのその顔を見れば、あんたが今どれだけ幸せなのか、よくわかるわ。きっと薫も喜んでいるわ。だって、薫もあんたの幸せを祈ってたんだもの」
イギリスでの出来事はガイから聞いていた。まったくマリナらしいと思った。特に竜の島の一件など、聞いていて背筋がぞくっとした。よく無事でいてくれたと胸をなでおろした。まったく無茶をしてくれる。
「ガイ、また会いましょうね」
再会の約束に、ガイはうなずき、マリナに近づいて、腕を広げて、彼女をハグした。オレはちょっとだけ心が騒いだ。だけど黙っていた。隣で炎のような雰囲気を発する美女丸にはらはらして、自分のことどころではなかったのだ。まあアレは欧米式だからと言いながら手刀を切って美女丸を抑えたが、もしかしてさっきオレとマリナがお互いの思いを確認しあっていた時の抱擁でも、こんな風に美女丸は殺気をたぎらせていたのだろうか。うぬぬ、そう思うと、やっぱアレはちょっとまずかったかな。
「Marina, I sincerely pray that you are happy forever」
英語だからマリナには意味がわからないはずだが、それでもガイが一生懸命に話すその言葉が自分へ向けられた励ましの言葉だということは感じたのだろう。感極まった顔で彼の胸に埋もれた。
「ありがとう。ガイ。元気でね。また絶対会おうね。伯爵と仲良くすんのよ」
彼女はそう言って、彼の背中をポンポンと叩いた。
そうして、オレとマリナは、東京拘置所の前で、それぞれタクシーを拾い、おのおのの家に帰っていこうとする美女丸とガイを見送ったのだった。


オレたちは小菅の駅に向かった。もちろん徒歩でだ。
何から話そうか、ちょっと考えている自分に気づいた。話したいことはたくさんあるのだ。これまでどんな毎日だったのか。逃亡生活は大変だっただろう? 怪我はしなかった? 飯はちゃんと食ってたか? 辛いことや悲しいことはなかったか?
でも、そのどれも口に出してたずねることがふさわしい話題ではないような気がした。すくなくとも、つい一時間ほど前まで響谷という親友の生死を心配しながら、冬の屋外で夜を明かした女性に対してかける言葉ではない。
そう考えたオレが選んだ話題は、結局こんなものだった。オレは歩きながら言った。
「調子、どう? 熱っぽかったりしない?」
体調のことはいつだってマストな話題だ。特に風邪のことは、どんなシチュエーションにおいても、使いやすい。
「熱? うーん、大丈夫みたい」
マリナが自分の額に手を当てて、首をかしげた。
「そうか。ならいんんだけど」
「あたし、頑丈だもん。でもお腹がすいて今にも倒れそう」
「はいはい。そういうと思ってたよ。何食いたい? おごるぜ」
「ほんと?」彼女は顔を輝かせた。「きゃあ、やっぱり和矢は優しい。えっとね、ハンバーガーがいい」
「ずいぶん安上がりだな」
「だって、いつもお屋敷のコース料理みたいなのばっかだったのよ。フランスにいるときはカミーユの家でそういうのだったし、こっち来てからは響谷家だし」
「そっか」
「豪華なご馳走もあきたわ。今はお茶漬けとか、おにぎりとか、そんなものがいい」
「おにぎりぐらい、何個でも食わせてやるよ」
「ほんと?」
「ああ、ただし出来合いのだぜ? オレ、おにぎり作れないもん」
「出来合い大歓迎よ! 日本の出来合いは世界一だわ」
そんなことを話しながら、オレたちは小菅駅についた。駅前にあったハンバーガー屋でマリナに好きなだけ食べさせてから、駅に入り電車に乗って、彼女の住んでいたアパートのある飯田橋に向かった。
小菅~飯田橋は、東武線とメトロを二つ乗り換えるわけだが、まだ朝の通勤ラッシュの真っ最中で、オレたちは乗る電車ごとに死ぬかと思うぐらいにもみくちゃにされながら、ようやく飯田橋についた。
そのころには、街は朝の匂いなどまったくなくなって、雑然とした雰囲気になっていた。


彼女のアパートに着いた。築年数をたずねるのも申し訳ないような痛ましいアパートだ。外壁には雨樋からのしたたりが黒い涙のあとのように筋を描いているし、鉄階段は腐食が激しい。一箇所にまとめられている外付けの郵便ポストは最近ではちょっと見ない朱色の屋根付きだ。マリナ曰く「雨だと中に水が入って郵便物がビシャビシャになる」そうだ。いつだったか興味本位から家賃を訊いたことがあったが、これがなかなか安くはないのだ。やはり腐っても鯛というか、ここは東京のど真ん中なのだなと、変に感心したものだ。
アパートの姿が見えてきたとき、数ヶ月留守しその間家賃を滞納していたことをマリナは憂いはじめた。「大丈夫だ」とオレは言った。
「どうしてよ。もしかしたら、いない間にあたしの荷物なんて売り払われてるかもしれないわ」
「売れるほどの財産を持ってたわけ?」
「う」
悔しそうに言葉に詰まる彼女を確認しながら、オレはある事実を告げた。
「大丈夫だ。家賃はオレが払っておいたから」
「え」
「だから、お前がいない間の家賃はちゃんと払ってあるから、なんにも心配しないでいいんだよ」
「あ、ああ」
「おい、お前、さっきからア行の音しか喋ってないぜ?」
「だってだって、あんたがそんなことしてくれているなんて思わなかったんだもの」
「いや、大したことじゃないよ」オレはここまで控えていた話題について話す決心をした。「シャルルについていけってお前にすすめたのに、そのせいでお前がアパートを失うことになったら悪いなって思ったんだ」
「え?」
驚く様子のマリナ。オレは彼女の背を叩いた。
「歩きながらする話じゃない。続きはお前の部屋で話そう」
マリナは数ヶ月ぶりに自分の部屋に入った。一瞬の間もおかず、オレも入れてくれた。意外と綺麗にしているなというのが、第一印象だった。
三和土のすぐ横には流し台と一畳ほどのキッチンがある。右手奥についている戸は洗面所だろう。奥は八畳間。この部屋がマリナの居間、仕事場、寝室すべてを担っているらしい。
「ごめん、適当にすわって」
マリナはそういうと、まず最初に畳の部屋にあったストーブを点け、それから流し台に戻ってきて蛇口をひねり、勢い良く水をだした。あまりに勢い良く、それも出しっぱなしなので、何をやっているんだと訊いたら水を綺麗にするためだという。
「しばらく留守にすると、こうやって水を出さないとだめなのよ。変なものが混じるからっておばあちゃんに教わったの」
そういうものなのかと思いながら、部屋の中に目を戻した。
ちゃぶ台の上にマグカップが一個乗ったままになっていたが、数ヶ月前のマリナが放置したままだったもので目立ったものといえばそれだけだった。漫画の道具などはすべて片付けられていた。それもそうかと思った。漫画は彼女の仕事だ。出かけるときにそれらを散乱させたままいくようではプロとは言えないということだろう。鴨居にはハンガーにかかった秋物のコート。部屋の隅にある棚には漫画の資料と思われる雑誌が整然と並べられており、天板には写真立てが載っていた。5人ほどの人間が写っている。背景は山か? 家族写真か?
「はい、おまたせ。インスタントだけどね」
マリナがコーヒーを運んできた。オレの前のテーブルにクマの柄のマグカップを置く。いつの間にか部屋の中にも香しい匂いが満ちていた。ありがとうといってオレは唇をつけた。インスタントでもうまいと正直に思った。オレたちは手を伸ばしたら届くほどの小さなテーブルで向かい合って、しばらく黙ってコーヒーを味わった。
「ごめんね、和矢」
口火を切ったのはマリナだった。手元でマグカップを弄びながら言う。
「あたし、本当をいうと、一度はあんたと別れようと思って手紙を書いたのよ?」
「手紙?」
「うん。シャルルとちゃんとした恋をはじめるために。そのためにはあたしからあんたにさよならを言わないといけないって思ったの。ほら、あのときアルディ家であんたたちが殴り合ったあとであんたが別れようって言ってくれたときは、あたしは嫌だっていって、なんかそのまま逃げちゃった感じだったでしょ? そんなんじゃダメだと思ったのよ。はっきりしないとってね」
なるほど。いい加減に見えて、物事にきっちりとした道理をつけたがるマリナらしい。子供の頃オレがはりとばされたのも、彼女の潔癖なまじめさが、オレのいい加減な行いをゆるせなかったからなのだ。
「さっき、シャルルから受け取っていた手紙が、それ?」
小菅で別れる直前、シャルルがなにか封筒のようなものをマリナに手渡すのをオレは見ていた。普通の白洋封筒だった。
「そうよ」
マリナはポシェット一つを持って帰っていた。となればその中に入っているのだろう。俄然オレの興味はその手紙に湧いた。彼女がオレとの別れをどんな言葉で綴ったのか、どうしてもみたい。
「見せて」と素直に頼んだ。彼女は首を横に振った。
「もうないわ」
「え?」
「小菅の駅前のハンバーガー屋の屑入れに捨てちゃった」
オレは目を見張った。マリナはテーブルの上にマグカップを静かに置いた。彼女は微笑んだ。
「和矢、ごめん」
マリナはまた謝った。こうべをオレに向かって垂れる。疲れからか、少し歪んだちょんちょりんまでもがオレに向かって垂れた。
「あたし、都合のいいことばっかり言ってるわ。ここ数日でもそう。シャルルのことを見捨てられないと思ったり、やっぱりあんたが一番だと思ったり、自分でも嫌になるぐらい、心がグラグラしていたの。でもね、でも、あたしはあんたが好きなの。やっぱり大好きなの。あんたに会って心があんたに向かって溶け出して、もう自分でもとめられなかった。こんなことを言うのは勝手かもしれない。でも、あたしはあんたが好き。好きなの」
オレはマグカップを放り出すようにテーブルに置いて、腰を浮かせ、テーブルを回り、彼女のそばに行った。
「マリナ!」
顔を上げた彼女の腕を掴み、強く引き寄せる。
「オレもだ。お前のことは親友の彼女にあうだけなんだと自分に言い聞かせようとした。けれど、顔を見た瞬間、こらえきれない思いが胸のなかで熱くなって、爆発しちまうかと思った。もし響谷たちのことがなかったら、オレの方がどうにかなっていたかもしれない」
「和矢」
「マリナ、オレたち、やり直そう」
腕を掴んだままマリナの体を少しだけ遠ざけて彼女の顔を見つめると、マリナもまたオレを見つめていた。一途な燃える瞳で。
「うん、和矢、大好き」
泣きそうな顔で笑ったマリナの唇に、自分の唇を重ねた。最初は優しいキスをしたが、すぐに物足りなくなって、角度を変え、深く混じり合う情熱的なものに変化させた。苦しそうにしながらもオレの肩にすがって必死で応えようとするマリナが愛しいと思った。
そのとき、オレは嫌な予感がした。あれが来そうだとおもったのだ。
「あっ…」
ちょっと色っぽい声をあげたあと、マリナの腹の虫がグゥッとなった。オレは重ねていた唇を外した。予測していたことではあるが、ここは落胆したような仕草をとらねばならない。このやろうと言ってみた。マリナは「ごめんなさいっ!」と大慌ての様子だった。
「ハンバーガーだけじゃ足りなくて!」
オレははあと深いため息を吐く。
ああそうだろう。お前の腹はそうできてるんだ。都合の良いときになるようにな。だって、ここで腹の虫がならないと、普通あんなディープキスしたあとは当然先に進む。読者の皆さんにとっては非常に懐かしいだろうが、オレたちにとってはセオリーである恋愛のABCさ。オレだって、健康な青少年。好きな女の子とは先に行きたい。だが、行ってはいけないのだ。なぜか? それはオレがこの二次創作ではアンチヒーローだからさ。
マリナの腹の虫は、「この子はこの男には性欲を感じてないから、A以上に進んじゃダメよ」という作り手からの生徒指導なのだ。
と、つい心の声が出てしまったが、いけないいけない小説世界に戻ろう。
オレは、盛り上がったところを水さされた純情青年の顔で、マリナを放し、膝小僧を抱えて、「じゃ、なんか食べにいくか」と言った。
「うれしい、行きましょう!」
マリナは立ち上がって、外套を羽織った。オレたちはアパートを出た。
「ねえ、和矢。あたしたち、恋人よね?」
「ああ、そうだ」
「付き合ってるんだもの。これからはしょっちゅう会えるわね」
店を物色しながら、マリナが訊いた。
「会おうぜ、もちろん」
「でも、和矢は横浜でしょ? 飯田橋とちょっと距離があるわね」
オレは笑った。マリナは飯田橋と横浜がどれくらいかかるかを考えているようだった。東京駅に出て、それから東海道本線で、と色々考えているようだった。
「オレがバイクで来るよ」
「でも、無理しないでね。学校もあるでしょ?」
「そうだな、オレ、これから受験なんだ。だから模試とかゼミとかでちょっと忙しくなると思う。でもできるだけ来るよ」
「あたしも行くわ、横浜に」
「離れていた時間をこれから埋めていこうぜ」
「うん」
オレたちはそんなことを話しながら、駅前のとんかつ屋に入った。




「受験とはうまい伏線だな、カズヤくん」
シャルルの揶揄するような声に、オレは冗談じゃないよと言った。
「疲れるんだぜ。知ってて演技するの。でも、オレの中にはマリナを好きっていう本気も混じってるからさ。辛いし、罪悪感もいっぱいだし、なんでこんなことやってんだって悲しくなるもん。ファンのためじゃなかったらこんなことやんねぇのに」
「はは、君はファン想いだなぁ」
「シャルル、お前だってそうだろうが。ケツまで見せたんだろ!」
「いうな! 絶交するぞ!」
あはは、とオレは受話器に向かって笑った。
オレたちは例のシークレットコールで通話中だ。マリナの家から帰った後、オレから電話したのだ。シャルルはパリに戻る機上だったが、問題なく通じた。IQ269の発明したこの電話は地球上ならどこでも通じるらしい。まったくドラえもんかよ、お前。
「ルパート大佐の様子はどう?」
「別にあのままだ」
「そう。これから大変だな」
「まあね。プラハに行って、ミカエリスの男とちょっとしたバトルをやらないといけないからね。オレは脳を撃ち抜かれる予定になってる」
「げ。それ死ぬじゃん」
「それが死なないんだ」シャルルは涼しい声で笑った。
「やっぱ死なないんだ。頭撃たれても死なないとか、トカゲよりすげー……」
「ま、苦痛だけはちゃんと感じるだろうから、覚悟はしておくけどね。それより、君はマリナと無事に戻ったか?」
「ああ」オレは受話器に向かってうなずいた。「恋人復活した」
「そうか、それはよかった」
「言っとくが、この先はミラクルゾーンだぜ」
「ミラクルゾーン? なんだそれは?」
「だからさ」オレは言った。「ここからは原作がないってこと。たくさんの二次創作家たちが素晴らしいお話をうみだしてくれているおかげで、オレたちの未来は星の数ほどある。もちろん、シャルマリも和マリも美女マリも、ガイマリも、カミマリだってあるぐらいだ」
「ほう、それで?」
「だから、あくまでここで語られる話は、その中のたった一つの事例にすぎないということをよく覚えておいて欲しいんだ。ファンの数だけ真実があっていいと思うし、その真実は誰にも侵されるべきじゃない。他人の萌えを尊重する。それが自分の萌えも大切にするってことだと思うんだ」
シャルルは一瞬黙って、それから抑えた口調で言った。
「だが、この話はシャルマリ流派のための二次創作だ」
「ああ、わかってる。だから、本論はここから。オレとマリナはこれからゆっくりと破局の道をたどる」
「具体的には?」
「まず、なかなか会えないという現実にぶつかる。オレは学生、あいつは漫画家、いわば生活パターンのすれ違いだな」
「ちょっと待て」シャルルがオレの話を遮った。「関東地区に詳しくない読者のために言っておくが、飯田橋と横浜は恋人同士に距離を感じさせるほど遠くない。というより電車ではとても早い。JRだと40分で着くことができるはずだ。かりにそれぞれの家までにバスなり徒歩なりが必要だったとして、一時間半あれば着いてしまうのだ。これで遠距離だというなら、全国の遠恋をしている方に謝罪すべきだ。
それに、デートが家でなければならないという決まりはどこにもない。駅や周辺で遊べば、さらにその時間は短縮される。さらにいうと、途中駅で遊ぶと、一方だけ移動するという負担はなくなる。この場合だと品川などがお勧めだ。お互いに30分かからない」
「シャルル、お前、よく知ってんな。アリバイトリック聞いてるみてぇだ」
「常識だ」
「いーんだよ、多少強引な設定でも。シャルル、これ見てくれ」


恋人が別れる理由ランキング
1位 他に好きな人ができた
2位 束縛が激しい
3位 自分勝手な生活に振り回されるのに疲れた
4位 今は仕事(学業)に集中したいと思った
5位 体の関係を持ってしまい飽きた
6位 結婚を迫られてうざくなった
7位 幸せな将来が想像できなくなった
8位 昔の恋人(好きな人)を忘れられなかった
9位 喧嘩や些細な言い争いに疲れた
10位 生活のリズムが合わなかった


オレはシャルルに言った。
「いいか。この中で、もっとも平穏な理由は何だ? と考えたときに、誰でも10位の生活のリズムが合わなくなったを指すだろう? どちらかに理由を押し付けるのではなく、仕方がないよね、で大人的に別れられるからだ。シャルマリ流派は、シャルルとマリナの幸せをねがっている。だが、彼らは基本的に優しくひとみキャラ全員を愛している。いくらシャルルの恋敵だからといってオレ(黒須和矢)を貶めたいと願うようなシャルマリ流派の人はいない。よって、和マリの別れとして最適な理由はこれなんだ」
電話の向こうでシャルルは低く唸った。それからなるほどと言った。
「1位の他に好きな人ができた、ではダメなのか?」
シャルルはぬけぬけと言った。このやろう。つい数時間前に「ひとりじめできないほどに好きだった」とかカッコイイことぬかしやがって、もうそれかよ。
「最終的にはそれだけどさ。いきなりすぎるだろ」
「そうか?」
「そうだよ。パラドクス全巻をよーーく読め。マリナはすっげぇオレが好きだぜ? あの感じから、やっぱりシャルルが好き!に持ってこさせるためには、一度はオレとの仲をすっきり終わらせないと、マリナはいつまでもオレのことをひきずっちまう。実らなかった恋っていうのは、たいてい理想化されるから」
シャルルは痛いところをつかれたのか、黙り込んだ。
「というわけで、オレたちはこれから順序を経て付き合って、別れるから。お前は頑張って脳を撃たれるんだな。痛みだけは軽く済むように祈ってるぜ」
「待て」シャルルの低声が響いた。
「君はマリナを抱く気か?」
「ばっかやろう」
オレは思わず怒鳴った。
「そんなことをしたら、全国30万人のシャルマリ流派に呪い殺されちまう! いいか、かつては可憐な乙女だったシャルマリ流派が今や垂涎しながら望んでいるのは、めちゃくちゃ幸せでちょっとエロいお前なんだよ。そんなこともわからずにシャルルドゥアルディやってんのか。バーカ。おたんこなす。このチンドン屋。じゃあな!!」
オレは腹立ち紛れに受話器を叩きつけるように置いた。






3につづく

I'm forever yours.

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冬の厳しい寒さが緩んだ二月後半のある午後のことだった。
私は彼と一緒にゆっくりとした足取りで都内の某駅に向かっていた。彼も私も口をきかなかった。
あと数分でついてしまう。そうしたら私だけ電車に乗らないといけない。
わかっている。だから私はちょっとだけ足の運びをさらにゆっくりとした。そうすると隣を歩く彼も歩幅を合わせてくれることがわかっていたから。
彼はいつもそう。私の言うことを聞いて、私のやることに従ってくれる。
本当な強い力で私を引っ張っていってほしいのに。
だけど私はそうはいわない。困らせたくないから。
人気のない街角を通って繁華街に出た。駅が数十メートル先に見えた。
「これからどうするの?」
すぐそばの大通りを走る車のノイズにかき消されないように大きめな声で訊くと、「特に決めていないよ」と彼は言った。
「とりあえず、毎日を過ごすだけさ」
「とりあえずって」私はくすっと笑った。
「忙しいでしょ? 知ってるわよ。あんたのことを待っている人たちが大勢いるのは」
「関係ないね」
彼は言った。前を向いたままの表情は穏やかだったけれど、口調はとんがっていた。
「あいつらは俺のことを理解していない。ただ俺のことを利用したいだけさ」
「利用?」
「そうさ。あいつらの欲望をかなえるのに、俺が都合いいから使いたい。それだけだ」
「そんなのさびしいわね」
「そういうもんだろ、世の中なんて」
「まあ、そうかもしれないけど」
「とにかく、そんなことは君の心配することじゃない」
「そう?」
「そうさ。君は君の心配だけしていればいい」
鼻の中に濃厚な揚げ物の匂いが飛び込んできた。私たちはマクドナルドハンバーガー店の前を通り過ぎていた。駅についた。半円の形をしたロータリーを回る。ケーキ屋、持ち帰りの寿司屋、パン屋、ドラッグストア、交番。それらの前を通り過ぎ、改札の前に立つ。
カバンから財布を取り出して、ピンクのデザインが施されたパスカードを取り出した。残高はまだあるはずだ。チャージをしなくても飯田橋に帰るぐらいはできるだろう。
財布をカバンにしまい直し、カバンの肩紐を肩にかけた。深呼吸をする。
笑って別れよう。じゃあねって笑って言うんだ。私は自分に言い聞かせる。楽しかった思い出が胸をよぎる。一緒に食べたご飯。一緒に歩いた道。くだらないおしゃべり。ウィンドウショッピング。物欲しそうにする私を見て、彼が買ってくれた小さなウサギのぬいぐるみはカバンの中に大切にしまってある。
ありがとう、とても楽しかった。
私も大丈夫よ。これでも色々忙しいから、あんたのことなんて普段はあんまり考えていられないの。
だからなにも心配はいらないわーー。
私は改札の前で振り返って、『さよなら』に変わる言葉を言った。
「元気でね。体に気をつけて」
その瞬間のことだった。私は腕を掴まれて引き寄せられた。あ、という暇もない出来事だった。私は彼の胸の中にいた。
私たちはキスをした。駅の、改札の前で。周りの人たちのざわめきが一瞬だけ頭の中に聞こえ、すぐにそれが消えた。
彼は唇を離して、私の体を少し離して私を見つめながら言った。真剣なまなざしだった。
「今生の別れみたいなこというなよ。すぐに戻ってくるからな」
私は彼の胸を押し戻した。人のざわめき。駅のアナウンス。横断歩道のメロディ。中洲のように改札前に立ち尽くした私たちの周りを、波のような人の群れが迷惑顔で通り過ぎていく。
「仕事はどうするのよ?」
「仕事と女を天秤にかけるほど落ちぶれちゃいないよ」
「自信家ね」
「君以外のことではね」
そう言って首をかしげて苦笑気味に笑う彼の顔に、私はしてやられた。どうやら私が何を言っても彼は別れないと決めているらしい。まったくと思う。私の悲壮な決意はどうなるのだ。
でも……。
「ありがとう」
「え?」
きょとんとする彼の首に私は飛びついた。再び周囲がざわついた。駅前でこんなことを自分がする日が来るとは思わなかった。そもそもフランス貴族の御曹司であり世紀の大天才と恋に落ちた日から、私の人生は波乱に満ちたものに変更されたのだろう。
「やっぱり別れたくない。あんたが大好きだから」
私が言うと、彼は満足したように「そうだろ?」と言って抱きしめる腕に力を込めた。
私は目を閉じ、ついでに彼以外への知覚をすべてシャットアウトした。
この世界には彼しかいない。彼と私だけーー。
それでいい。二人ならきっとやっていける。この先たとえどんなに大変なことが待っていようとも、人生の荒海をこの人と一緒に漕ぎ切ってみせようと思った。






《Fin》




シャルマリの流儀 3

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タイトル「シャルマリの流儀」


プロローグ
1、小菅拘置所の別れーー「もう離さない、俺のものだ」の真意
2、恋人試用期間?ーー飯田橋と横浜はわりと近い
3、マリナの処女性議論ーーオレ、もらっちゃダメでしょ?
4、期待される別れ方ーーパリ行きの航空券は用意しましょう
5、友情継続問題ーー唯一の親友という十字架
6、将来の希望は?ーー友としてシャルマリを支えます!(模範的回答)
エピローグ
最後の対決


◇◇◇



3、マリナの処女性議論ーーオレ、もらっちゃダメでしょ?




2限目は物理だった。得意科目だ。オレは基本的に理系だと思う。もちろん小説とか歴史書なんかを読むことも好きなのだが、原因と結果を結びつける考え方が好きだ。そういう考え方が理系の勉強に向いていることを知っている。今日はガウスの定理の応用についてだった。物理教師の飯田は世間話のひとつも出来ない人間だが、授業内容は的確だ。本来なら高三のこの時期には授業なんてしない。みな受験一色だし、登校してるやつだって少ないからだ。でも飯田は、受験には絶対出ないような問題を淡々と説明するのだ。オレはこの教師のそういうところを尊敬していた。授業とは知識を増やすものであって、受験のためではないはずだからだ。
本鈴とともに飯田が教室を出て行った。糸が切れたように生徒たちが一斉に動き出す。背伸びをしたり、早速弁当を取り出すやつもいる。オレは立ち上がり、教室を出て行こうとした。
「おい、和矢、どこ行くんだよ?」
クラスメイトの田代哲也が大きな声をあげた。オレはドアに手をかけ、上を指差しながら答える。
「屋上だよ」
「屋上? 何しにいくんだよ? すぐに3限目がはじまるぜ」
オレたちのハイスクールは6限制だ。午前中に4限あり、時限ごとの休み時間は10分だが、2限目と3限目の間にある中休みだけは、15分間あるのだ。
オレの教室は2階だ。校舎は4階建てなので、屋上まで行くには3階分の階段を上らねばならない。15分の休憩時間で気軽に行って帰れる距離ではなかった。
「今日、めちゃくちゃいい天気だろ? 空を近くで見たいんだ」
オレの言葉に、田代は机に頬杖をついて、呆れたような長いため息を吐いた。
「空? そんなもん、窓からでも見えるだろ」
「もっと近くで見たいんだ」
「やっぱお前変わってるよ」
「おほめいただき、さんきゅ」
オレは田代にお礼の言葉を投げつけておいてから、ふんふんと鼻歌を歌いながら屋上に向かった。春はもう少し先のはずだったが、校舎の中にただよう空気はあたたかくて、自然とオレの足はかろやかになった。
階段を上りきり、ところどころサビのきた灰色の鉄扉をあけて外に出ると、緑の匂いのする風を全身に感じた。
「すげー、きもちいい」
柵のところまで行き、そこに手をかけて天を仰いだ。太陽が斜め上方に輝いていて、まぶしかった。
「はー……」
深呼吸をしたその時だった。
「黒須君」
後ろから突然名前を呼ばれて、びっくりして振り向くと、そこにはポニーテール姿の女生徒が立っていた。
「ごめんね、驚かせちゃった?」
彼女はそう言って、両手を顔の前でパチンと合わせた。いや、とオレはかぶりを振った。彼女は、隣のクラスの子だった。名前は確か……河合かおり。いつだったか、田代が「隣のクラスに可愛い子がいるんだぜ、信じられない可愛さだぜ、天使みたいだぜ」と騒いでいた子だ。
なるほど、可愛いなと思った。潤んだような大きな目、形のいいさくらんぼみたいな小さな唇。風にゆれる前髪。リボンが結わえられたポニーテール。全体的にとても女の子らしい。
「あのね、ちょっと話があって」
河合かおりは一歩オレの方に足を踏み出した。両手を胸の前で組んで、そこに顎を軽くつけている。首はわずかに斜めに傾いでいる。
「なに?」
聞くと、彼女は恥ずかしそうに小さな声で言った。
「あたしね、黒須君が好き。だからお願い、あたしと付き合って!」
オレは再びびっくりした。思わず一歩後退して、柵に背中がぶつかる。
すげーストレートな告白だ。まさか彼女はこのために屋上に行くオレを追いかけてきたのか? 確かにその判断は正しいかもしれないなと思う。これが昼休みなら、オレは田代や他の連中と一緒にいることが多い。学校で一人っきりになる時間はありそうで、実は意外となかったりする。
彼女の情熱に、きちんと応えたいーーと思った。 
「ありがとう」最初にそう言ってから、それから姿勢を正して軽く頭を下げた。「でもごめん」
「ごめんって?」彼女は訊いてきた。
「オレ、彼女がいるんだ」
「うそ」
「本当なんだ。大切な彼女がいる」
彼女は一瞬顔を強張らせた。風にあおられて、唇にまつわる後れ毛を指先でどかしながら、言った。
「どんな人なの?」
「どんなって……」
「黒須君の彼女がどんな人なのか、ちゃんと教えて? でないとあたし、黒須君に彼女がいるって信じられないわ」
河合かおりは先ほどまでとは打って変わった強い口調で言った。乙女らしく恥じらいをみせていた表情までもが一変し、さながら真実を追求する刑事のような雰囲気をまとっている。
「困ったな」オレは頭をかいた。「えっとオレの彼女はね」
「うん」
「漫画家なんだ」
「漫画家さん?」
オレはうなずき、それからマリナのことを話した。中一の時の同級生で、気持ちのスカッとした、人間的にあたたかい最高に素敵な女の子なんだーーそんな風に説明した。いつ中休み終了の予鈴がなるかとヒヤヒヤしていたので、かなり手早く簡潔に話したつもりだ。河合かおりは真剣な顔でオレの話を聞いていたが、やがて「そっか」と笑った。
「黒須君はその彼女さんのことが好きなのね」
「ああ。とてもね」
「わかった。ありがとう、話してくれて」
さわやかな笑顔を見せる彼女にオレはホッとした。いい子だと思った。田代が「天使のような子」と言っていたのは、きっと彼女の内面のことなんだろうなと初めて理解した。オレはそんな彼女に好いてもらえて、有難いような、ちょっと誇らしいような、そして申し訳ないような、複雑な気持ちがした。
「ごめんな。オレこそどうもありがとう、好きって言ってくれて本当に嬉しかったよ」
「くす。どういたしまして」
その時、風に乗るようにして、予鈴がなった。なんだか耳に優しい音だった。
「やべ、行こうぜ!」
「うん!」
オレたちは一斉に走って屋上の出口へと向かった。






その日の夕方、久々に飯田橋にあるマリナの部屋を訪れた。
最近、ハイスクールの方と、それから別に通っている塾の勉強とかで忙しくて、なかなかマリナと会う時間を作れないでいる。前回会ったのはいつだったかな……。一ヶ月近く経ってしまっていたかもしれない。
そのお詫びもかねて、今日はオレは、マリナとたっぷりと時間を過ごそうと思って、自分から飯田橋にやってきたのだ。マリナも喜んで迎えてくれた。
小菅から帰ったばかりの部屋はこざっぱりと片付いていたが、今回オレがお邪魔した彼女の部屋は結構乱れていた。もとい、生活感があったと言った方がいいのかな。
漫画の道具は机にいっぱいだし、漫画の原稿は、ペンの渇きを待っているのか、部屋中に適当感満載で並べられているし、キッチンにしてもシンクに洗い物がたまっていた。こういった生活スタイルについて、マリナ本人は恥ずかしく思っていたようだが、オレにしてみれば、一向に構わない。彼女が真剣に仕事に取り組んだ結果なのだ。むしろできることがあれば手伝いたいと思ったりしていた。
そんなこんなでとても幸福な時間を過ごしていたオレたちだったのが、ふとオレが漏らしたあの話が、このなごやかなムードを一変させてしまったのだった。
「オレ、隣のクラスの子に告白されたんだ」
別に自慢をしようと思っていったわけじゃない。オレはマリナとの間に隠し事をしておくのは避けたかった。たとえどんな些細なことでも彼女と分かち合いたかった。オレは横浜で学生をやっていて、マリナは飯田橋で漫画家。二人は生活環境も、毎日の行動もまるで違う。そんな二人が理解しあうには、互いのことを誤解しないことが一番大切なことだとオレは考えていた。
すると、テーブルの前に座ってクマ柄のマグカップに入れたコーヒーを美味しそうに啜っていたマリナの動きが、ぴたりと止まった。彼女はマグカップの淵に唇をつけたまま、オレをちらりと見た。
「へー……」マリナの声のトーンが一段階下がった。「それ、可愛い子?」
「うん、結構可愛いよ」オレは気軽に答える。「ダチの田代なんて、信じられない可愛さだって騒いでる子だもん」
マリナがマグカップから唇を離した。それをテーブルに置く。
「じゃあ、和矢、友達の好きな子から好きだと言われたパターンなのね?」
「うーん、そういうことになるかなあ」
「そうよ。友情の危機になるから、これはちゃんとしないと」
「ちゃんとしたよ。お断りしました」
「本当に断ったの?」うそだろ、と言わんばかりの口調で問われて、オレは初めてマリナの目がやたら険しいことに気づいた。どうやらこの話題はまずかったか。と思ったが、後の祭り。
それでオレは、河合かおりとの一部始終を事細かに報告することになったのだ。
マリナはすべての次第を聞き終わると、「ふーん」とだけ言った。あまり面白くなさそうな顔だった。オレはなんだか嫌な予感がする。果たして次に発せられたマリナの言葉でその予感が的中したことをすぐに知るのだが。
「あんたって昔からモテるわよね」
マリナがオレを眺める目は、実に冷たい目になっていた。
「なんだよ、知らないぜ」
「あんたは知らないのよ。でもね、女の子たちは和矢和矢って言ってたわ」
「そんなもん、オレにどうしろっていうんだよ」
「別に」
マリナはぷんとそっぽを向いた。おい、とオレは彼女の肩をつかんだ。
「オレが浮気したって話じゃないんだからいいだろ」
「いや」
「何が嫌なんだよ」
「なんだかわからないけど、なんだか嫌」
「無茶苦茶だよ。わけがわからない」
オレは彼女の肩を自分の方に向けようとする。けど、小さくて丸いその肩は意外なほどに力が込められていて、オレの思いのままにならない。
「マリナ」
名前を呼ぶと、向こうを向いたままのマリナのほおが真っ赤になっているのが見えた。
あれ?
「あんたなんか嫌い!」
これは……やきもちか?
そう気づいた途端、オレはとても彼女が愛しくなって、思わずつかんだ手に力を込めて、無理やり彼女をこちらに向かせた。「きゃ」という声を上げて、マリナがバランスを崩す。その瞬間を見逃さず、彼女を畳の床に組み敷くように下にして、オレは上からのしかかった。ジタバタとあがくマリナの足を自分の足でおさえつけ、そしてもがく手ごと畳に縫い付けるようにして彼女の顔の横に、両手をついた。
「ありがとう、ヤイてくれて」
「なっ……あたしは、別にっ」
ますます赤くなるマリナ。
「オレは、お前だけが好きだよ。知ってるだろ?」
マリナは唇を噛んだ。
「知ら……ないわ」
「じゃあ今、知れよ。お前の心と体で」
顔をゆっくりと右に傾けて、オレはまぶたを伏せながら顔を下げていった。途中まで顔をこわばらせていたマリナは、顔と顔があと10センチぐらいになったところで、そっと目を閉じた。
オレは優しく彼女の唇に自分の唇を覆い被せた。やわらかく濡れた唇を食むようにして吸うと、快感が高まり、愛しさが胸の中で爆発した。
彼女の手を押さえていた手を下げて、マリナの髪からほお、首筋を撫で、ゆっくりとその手をおろしていった。マリナは唇をオレに塞がれたまま、抵抗しなかった。
彼女の体はどこも柔らかく、オレの手に吸い付くようだった。
やべ……もう止まらないぜ。
オレの手は彼女の服を脱がしにかかった。マリナはちょっと身を硬くしながらも逃げようとはしない。たくし上げた服の裾からなめらかな素肌に触れた。その瞬間。オレは心臓に汗が流れるのを感じた。
ーーーおい、なぜ、あれが来ない!? ここでそろそろ来るはずだろ!?
そんなわけはない、そんなわけはない、と自問自答を繰り返す。
あれとは……それはすなわち、マリナの腹の虫だ。
危険な関係に踏み出すときの踏切、赤信号。「それ以上はやっちゃダメよ」のしるし。オレはこの物語のアンチヒーローなのだから、絶対くるはずだろーーっ。
なのに、なぜこない!?
このままだと、オレ、やばいぜ!?
オレはマリナから手を離し、腕立て伏せをするかのようにガバッと身を起こした。マリナがびっくりしたように目を開けた。
「和矢!? どうしたの?」
「ちょっとごめん!」
オレは立ち上がり、急いで玄関へ向かい靴を履き、マリナの部屋から飛び出した。



角を曲がった公園のところで電話ボックスを見つけたので、オレはそこに飛び込むようにして入り、受話器を取り上げて、ジーンズの尻ポケットから財布をつかみ出した。
よかった、百円玉があった!
それを入れて、オレはかけ慣れているシークレットナンバーを押した。これは、コレクトコールの一種を採用しているらしい。電話料金はあいつが受け持つ仕組みだ。だからオレは最初の通話がつながるためのコールさえできればいいのだ、なんて便利なんだ。
「アロー…」
瀕死の重傷者のような声。ああ、そうか、こいつ脳を撃たれると言ってたっけなと思い出す。本当に撃たれたのか。それでも電話に出てくれるシャルルに、オレは素晴らしい友情を感じていた。
「オレだ、和矢だよ」
名乗ると、電話の向こうで吐息が上がった。
「何の用だ。オレは今長電話は難しい。用件は手短に頼む」
「ああ、じゃ、手短に。用件はマリナの処女性についてだ」
「処女性?」
関心の高い話題だったのか、熱い杭が通されたかのようにシャルルの声がピンと通った。
「オレ、ちょっとやばくなってさ。もう少しで手を出しそうになっちゃって」
「なんだと?」
「落ち着けよ。出しそうになっただけさ。出してない」
「そうか」シャルルがほっとしたような息を吐く。心配性め。
「でも、今回はならなかったんだ」
「ならなかった? 何だが?」
「腹の虫」
「ああ……」苦い記憶でもあるらしい。電話の向こうでシャルルが苦笑する。「マリナの腹の虫は実にTPOをわきまえているからな」
「本当だよ」オレは公衆電話の緑のコードを指にくるくると巻きつけた。「腹の中にもう一個の人格がいるみてぇだ」
「第二のマリナか。面白い考えだ」
シャルルが笑った。
「どうして腹の虫がならなかったんだと思う?」
オレが訊くとシャルルは少し考えてから答えた。
「シャルマリ流派からの君への試験だろ」
オレは低く唸った。シャルルは言った。
「いつまでも腹の虫で欲望を止めてるようじゃダメだってことだ。君は自分の欲望を自分で抑制しないとダメなんだ。つまり、セルフコントロールだ」
「セルフコントロール……」オレはおうむのように反芻した。
「そうだ。シャルマリ流派は君がマリナに手を出すことを望まない。そして彼女たちが君に希望していることがもう一つある。それは君(黒須和矢)が清廉潔白な男であることだ。マリナの初恋の人であり、マリナシリーズの正統的ヒーローである君は、道徳的に正しい男として、マリナだけを一途に思う男でなければならないんだ。心からオレやマリナのことを思ってるのなら、それぐらいできるだろっていう、シャルマリ流派からの挑戦だな」
畳み掛けるような正論に、オレは思わず深い深いため息をついた。つまり、オレはマリナを抱くことだけじゃなく、他の女の子を好きになることも抱くことも許されないというわけだ。他の連中も同じなんだろうか。美女丸やガイ、カーク、カミルスといったシャルマリ流派にとってのアンチヒーロー達だ。しばし考えて、やっぱオレは特別なんだろうなという気がした。やつらには自由恋愛が許されているような気がする。根拠は全くない。なんとなくだ。これはやはりオレがシリーズ正統ヒーローだからだろう。
しかし、オレとて18歳の健全な青少年だ。好きな子は抱きたい。当然だろう。マリナが好きだ。彼女の何もかもを自分のものにしたい。シャルルへの友情とシャルマリ流派たちへのファンサービスという立派な建前で、ふつふつと沸き起こってくるこの渇望を抑えるのは並大抵ではないのだぞ、と言いたい。
「やっぱ抱いちまおうかな」
オレがぽつりと言うと、すかさずシャルルが返した。
「やめておけ」
「どうしてだ?」
「シャルマリ流派が書く和マリのR話は、君を満足させるものじゃないぜ」
オレはぎょっとする。
「面白いことに、シャルマリ流派が書くと、たいてい和マリのR話は、感動はあるが快感はない、という展開になっている。マリナはそれまでの経験値がゼロだったにもかかわらず、快感はないということを自覚するんだ」
「なんだよ、それ。オレにはテクがないってか。そんでお前にはテクがあるってか?」
「オレを責めるな」シャルルは困ったように言った。「あくまでシャルマリ流派の傾向を述べただけだ」
「そうだけどさぁ……」オレは受話器をもったまま、緑の電話機にうなだれた。「ベッドテクまで差をつけるのかよ。シャルマリ流派って結構残酷だよなぁ……」
思わず愚痴ってしまう。だって、感動はあるけど快感はないってなんだよ。オレが与えられるのは精神的感動かよ。初体験の乙女ならではの感覚ってことだろ。それじゃあ、いつか破局が来るのは当然じゃんか。大人の恋じゃないもんな。
「すまん」シャルルが謝った。オレは驚いた。エベレストよりもプライドの高いこの男が謝るとは、びっくりだ。
「なんでお前が謝るんだよ」
「いつも君には我慢ばかりさせていると思って」
らしくない遠慮がちなシャルルの言い方がおかしかった。快感と感動。快感と感動。何度も脳の中で繰り返してみた。それから目の前のガラスに「Charles」「Marina」と指で書いてみた。なんだかそれで全てが納得できた気がした。きっとシャルマリ流派のみんなは、シャルルならマリナに快感も感動も与えられると信じているのだろう。
ちぇ、かなわねえな。
オレは苦笑しながら受話器を肩と顎ではさんで言った。
「まあ、いいさ。オレ、脳を撃たれてまでヒーローにはなりたくねぇもん♪ そんなこと、お前にしかできねぇよ」
おどけた口調でそう言うと、シャルルは笑った。息だけで笑ったような感じのするやつらしい笑い方だった。
「そうかな」とシャルルは言った。
「ああ。やっぱヒーローはお前だよ。だからマリナの処女もお前が持って行くのにふさわしいさ」
「わかった。じゃあな」
「ああ。お大事にな」
オレ達はそれで電話を切った。受話器を戻すと、百円玉がチャリンと硬貨受けに戻ってきた。




オレはゆっくりと歩いてマリナの部屋に帰った。マリナはすっかりおかんむりの様子で、オレを迎えた。
「もう、信じられない。急に飛び出していくなんて!」
ほおをリスのように膨らませて怒る彼女をなだめるのに、オレはたくさんの労力を払うことになった。
「ごめんごめん」
言葉ももちろん、ハグもした。キスもした。いっぱい飯も食わせた。マリナはそれであっけなく機嫌を直した。オレが急に行為をやめて出て行ったことを、マリナが何と解釈しているか、オレは知らない。おそらく怖気づいたとでも思われているのかもしれない。それならそれでいいと思った。彼女を大切に思うがあまり手を出せない男ーー。それもまたカッコイイ。でもなマリナ。現実の男はそんなもんじゃない。好きな子は抱きたいんだ。めちゃくちゃに抱きたいんだ。今にきっとお前もそのことを知るだろう。
そのあとは彼女の漫画の手伝いをした。何をやったかというと消しゴムかけをしたのだ。ペン入れの終わった原稿を、上からそーっと消しゴムでこする作業だ。
「繊細にね。間違っても、乱暴にしたりしないでね」
「わーってるよ」
「よろしく」
オレ達はそれから互いの作業に熱中して、深夜になるまでがんばった。オレはちゃぶ台で、マリナは窓辺に置いてある机で仕事をした。
作業中、ふと目を上げると丸まったマリナの小さな背中が見えた。
静まり返った夜更けに、カリカリという、ペンの音だけが響く。オレ達はこんな風に近くて遠い存在のままいる方が幸せなのかもしれない。オレにとってもお前にとってもーー。
昭和の香りがするぼろアパートで、二人で過ごした清い夜。
ちょっとだけセンチメンタルになった夜だった。




次の日の中休みーー。

「黒須君、好きです」
オレは同じクラスの前園百合子に告白されていた。また屋上だ。どうやら中休みにオレがひとりで屋上に行くことは、女子の間では知れ渡っているらしい。
「彼女がいるって知ってます。二番でもいいです。付き合ってください」
「いや、オレ」
「お願い黒須君。あたし、体だけでもいいから……」
ああ、もうっ。オレは頭を抱えた。
ちらりと指の間から見ると、前園百合子は華奢な体の割に豊満な胸をしていた。きゅっとくびれたウエストに、短いスカートから伸びた細い足が白くて綺麗だった。
オレは頭をかきむしって激しく悶絶する。
18歳の健康な青少年のセルフコントロール、いつまでもつかなぁ……と思った。





4につづく

シャルマリの流儀 4

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タイトル「シャルマリの流儀」


プロローグ
1、小菅拘置所の別れーー「もう離さない、俺のものだ」の真意
2、恋人試用期間?ーー飯田橋と横浜はわりと近い
3、マリナの処女性議論ーーオレ、もらっちゃダメでしょ?
4、期待される別れ方ーーパリ行きの航空券は用意しましょう
5、友情継続問題ーー唯一の親友という十字架
6、将来の希望は?ーー友としてシャルマリを支えます!(模範的回答)
エピローグ
最後の対決


◇◇◇



4、期待される別れ方ーーパリ行きの航空券は用意しましょう




白いぼんぼりのような大きなライトが夜の空に浮かび上がる。じゃりじゃりという砂の音を立てて重機が動いていた。シャベルを持った四人の男たちがその間で作業をしている。彼らは黙々と地面にシャベルを突き立てて穴を掘っていく。ゴーストのような蒸気が地中から湧き出ていた。
「おーい、昌さん。そろそろいいかー?」重機の男が声をかける。一斉にシャベルを持った他の男の手がとまる。全員が首にかけたタオルで滝のようにしたたる顔の汗をぬぐった。
「オーライオーライ」昌さんと呼ばれた男が手を挙げる。「だいぶ掘ったからな。やってくれ」
「おっしゃ」重機がゆっくりと近づいてくる。男たちは後ろに下がった。6メートルはあろうかという重機の手がぶるんと空を舞い、男たちが掘った穴に慎重に降りていく。鈍い音がして、穴の中から砂利をかきよせすくい上げる。その作業を見守っていた金田昌信はふーっと大きな息を吐いた。彼は40年以上の経験を持つベテランの現場主任で、見た目は「演歌の似合いそうなおっさん」だ。現場での通称は昌さんと呼ばれている。
「さすが牧さんのユンボはうまいなぁ、そう思わねぇか?」
「そーっすね。上手っすね」と、シャベルを地面に突き刺すようにして体をもたせさせながら泰樹が答えた。地元の定時制高校に通う苦学生、と聞いている。仕事熱心で体力もある若者だった。だが空気を読まない言動をして時折年長者といさかいを起こすことがある。どうやら今夜も一発起きそうだ。泰樹は口をくちゃくちゃ動かしていた。ガムを噛んでいるらしい。作業服のポケットにしのばせていたのだろう。
「おい、泰樹」
厳しい声が飛んだ。声の主は草村という四十代の中堅作業員のものだった。彼は渋い顔をして泰樹を睨んでいた。「ちょっと手が空いたからってガム食うな」
「いーじゃないっすか。ガムぐらい」泰樹は眉を寄せた。
「ダメだろうが」
「なんでですか?」
「俺たちは今、仕事中なんだよ。仕事中にガム噛んでちゃ、不謹慎だろ」
草村は眉間を露骨に寄せて、不快感をあらわにした。色白で背の高い彼はエリートサラリーマンといった感じだが、土木作業員一筋で生きてきた男だ。今日の現場では唯一土木施工管理技士の免許を持っている。仕事に関して草村が真面目な人間であることは、誰もが認めるところだった。
だが、そんな草村の流儀など若い泰樹にとってはなんの関係もないらしい。
「だーって、ユンボが動いてる間は、俺たち見てるだけじゃないっすか?」
草村は首を振る。「事故が起きないように、注視してるのも仕事だろうが」
「それはそうっすけど」
「じゃあ、これからはガム食うな、わかったか」
「えー…。一方的っすよ。この現場は草村さんが神様なんすか?」
「なんだと? もっぺん言ってみろ」草村の声が尖った。
「あんたが神様なんですかって訊いたんですよ」
二人は一触即発の雰囲気になった。睨みあったその二人の間に割って入ったのは昌さんだ。
「二人ともやめろ」ドスのきいた声で一喝する。「めんどくせぇ言い争いしてんじゃねぇよ。お前ら、ションベンたれのガキかよ。俺たちは今夜中にこの現場は仕上げないといけないんだよ、そのことだけ考えてろ、ばかやろう」
途端に、しゅんとなる草村と泰樹。昌さんのツルの一声には誰も逆らえないのだ。
その時、ユンボの方からハリのある声がかかった。
「おーい、昌さーん」
ユンボを操作していた牧野ーー通称牧さんの声だ。
「おう、なんだ?」と昌さんが口に手を当てて訊いた。
「ここ、もうちょっと掘ってくれよ」重機の運転席から身を乗り出して、人差し指を地面に突き出す。
「足りなかったか?」
「あとちょっとな」
「ちっ、仕方ねえな。いくぜ、草村、泰樹」
はい、という気持ちのよい返事があがる。それから昌さんの目がこちらに向いた。
「おい、かっこいい兄ちゃん。ばてたんなら帰っていいぜ? そんな細い体で穴掘りはきついだろ?」
「いえ!」オレは強く首を振った。地面に座り込んでいたのだが、急いで立ち上がる。にやりと笑ってみせた。
「まだまだです。大丈夫です!」
「そうか。今日で三日目だな。片手一本しかきかねぇのによくがんばってんなぁ。じゃいっちょ一緒にやるか?」
「はい、やらせてください」
元気よくオレが答えると、昌さんはシャベルを持っていない方の手で、オレの背中をバーンとぶちのめすかのような勢いで叩いた。ひりひりと痛む背中を感じながら、オレはシャベルを抱えて暗がりに照らされた土の塊に向かった。




二時間後、無事に現場での作業が終了した。次にAという現場に向かうことになっていた。時刻は午前二時を過ぎていた。
「草村、泰樹を連れて先行っていてくれるか?」
「あれ、昌さんは?」
「俺はこのかっこいい兄ちゃんと道具の整理してから行くよ」
「わかりました」
草村と泰樹は直ちにライトバンで出発した。Aという現場が2キロほど先であることは聞いていた。重機担当の牧さんは、そこまでユンボに乗っていくらしい。車で運ばないのかと驚いたのだが、このぐらいの近距離だと直接乗っていた方が早いんだよと昌さんは言った。
オレは、とりあえずその辺にあったシャベルや麻袋などを片付け始めた。
「えっと、なんの整理をしたらいいですか?」
作業現場の撤収係は別の連中が来る手筈になっているはずだった。だからどの辺まで片付ければい良いのだろうかとオレは戸惑った。整理整頓しておけばいいのかな?
「おい、兄ちゃん」と後ろから声をかけられ、振り向くと、小さな何かが突然放り投げられた。手にしていた道具類を放り出して慌てて胸元で受け取ると、それは缶コーヒーだった。ボスという銘柄で、ブラックだった。皮膚が張り付きそうなほどキンキンに冷えている。
「飲めや」
「あ、ありがとうございます」
お礼を言うと、昌さんも自分の缶のプルトップを引き上げながら、オレの隣にきて、地面にどんと腰を下ろした。
ぐいっと缶をあおり、「かーっ」と顔をしわくちゃにして声を漏らす。
「うまいなぁ。今夜はクソ暑いからなぁ。ハラワタにしみるぜ」
あまりにも昌さんがうまそうに飲むので、オレも彼の隣に座って飲んだ。冷たい液体が喉を通過していくとき、メントールを飲み込んだような爽快感を覚えた。
思わず「くーっ」とオレも声を漏らした。
「うまいです」というと、「だろ?」と昌さんが笑う。
「はい」オレは頷いた。本当にうまかった。人生で一番うまいコーヒーかもしれなかった。
「外で飲むインスタントで喜んでるんだから、俺たちって安上がりにできてるよなぁ?」
オレは笑った。「本当ですね」
「なあ、黒須。おまえ、なんでこんなところで働こうと思ったんだ?」
驚いた。昌さんはこれまで三日間、オレのことを「かっこいい兄ちゃん」としか呼んでくれなかったからだ。名前で呼んでくださいともちろん頼んではみたのだが「そんないい面してんだから、それも立派な名前だ」とかよくわからないことを言って、却下され続けてきたのだ。
なのに、突然どうしたかな?
不思議に思いながら、オレは答えた。
「金が欲しいんです」
「そりゃそうだろ」昌さんはあほか、と言った。「なんの仕事でも金が欲しくてやるんだろ。でも、穴掘りなんて、若い兄ちゃんが好んでするアルバイトじゃねぇぜ? あんた、大学生なんだろ? しかもあの一流大学。だったら、いくらでもバイト先は見つかるだろう。家庭教師とか、いっそのことその面生かしてホストとか」
「昌さん、ホストって」
勘弁してくださいよ、とオレは缶を持つ手を顔の前で振った。冗談を言ったつもりではなかったようで、昌さんは真剣な顔をしていた。
「だってその方がてっとり早く金を稼げるだろうが? うちは体力仕事だ。きついし、汚ない。しかもあんたは片手しか使えないだろ? だから日給は半額しかやれない。なのになんでわざわざって思うよ、そりゃあさ」
「まあ……」
「なんでだよ。なんでうちの現場で働きたいなんて思ったんだ?」
詰問されて、オレはくいっと缶をあおった。最後の一滴まで飲み干してから、おもむろに缶を唇から離してほうっと息をつく。両肩をうごめかした。片方の肩しか動かなかった。動かない方の肩に目を落としながらオレは言った。
「この腕を治したいって思ったんです」
缶を持ったままの手で、動かない腕をさすったオレに、昌さんは怪訝な目を向けた。
「その腕を治すために働いてるのか? 治療費なら、親が出してくれるだろ? 親、いないのか?」
ストレートな質問にオレは苦笑する。「親いますよ。母は死んじゃいましたけど、父は元気です」
「なら、なんでだよ」
「これはオレの金で治したかったんです。この腕がこうなったのは、オレの責任だから」
昌さんは缶を地面に置いた。そして両手を体の前で組んだ。
「おまえ、何をやったんだ?」
「いや……」
「いえねぇようなことか?」
オレはちょっと考えてから、思い切って言った。「オレと喧嘩したせいで、大事な友達がアフリカの紛争地帯に行っちまったんです。だから、オレはそいつに謝りたくて、そいつを追いかけて行ったんです。そしたら、ゲリラ軍の襲撃に巻き込まれて。マシンガンで撃たれて、命は助かったんですけど、肩が粉砕骨折して、このザマです」
「おいおい……それまじか? 映画みてぇな話だな。ーーで、その友達はどうなったんだ?」
「元気ですよ。無事に戻ってきました」
「そっか、ん、じゃ、ま、よかったな」動かないオレの肩をちらちら見ながら、なんと言っていいのかわらかない様子で、切れ切れな言葉で昌さんは自分の膝をポンと叩いた。オレは小さく首を縦に振った。
「ええ。本当に良かったです。あいつが無事でオレは心の底から嬉しかったんです。もしあいつに何かあったら、オレは自分の人生すら呪ったかもしれません」
深い皺とシミの刻まれた目尻を緩ませながら、昌さんは何度も頷いた。「そいつは本当におまえの親友なんだな」
「はい。一番の親友です」
オレは言った。
「あいつはこの腕のことも滅茶苦茶心配してくれていて、自分が治すっていってくれたんです。あ、その友達って医者なんですよ。でもオレ、あいつにそういう風に頼りたくはなくて。だから、自分で治療しようと思ったんですけど、親父の働いてくれた金は使いたくないんです。オレの勝手な行動の尻拭いを親父にさせるわけにいかないから」
「へえ……」昌さんは驚いたような顔をしていた。十秒間ほどオレの顔をまじまじと見つめていて、やがて、缶を蹴飛ばしながらオレの方を向いて、オレの両肩をがしっとつかみ、ぐっと顔をちかづけてきた。鼻の下のほくろがでけえな、と思えるぐらいに近距離だ。
「偉いじゃねぇか!」
昌さんはオレの背中を叩いた。
「自分の尻は自分で拭う。なかなかできることじゃねぇ。かっこいい兄ちゃんが遊びでこんな泥クセェ現場に来やがったのかと思ってたけど、見直した。黒須、お前は男だ! 正真正銘の男だ!」
「あ、ありがとうございます」
「いやー、こんないい話を久しぶりに聞いたなぁ」
昌さんは感動がおさまらないとばかりに、オレの肩から手をはなしても、今度は自分の顔をぬぐって、激情を存分に味わっているようだった。心の温かい人なんだなーーそう思った。
「ツラもいい、中身もいいじゃ、黒須、おまえモテるだろ?」
「いや、特には……」
「隠すな隠すな。彼女だっているんだろ?」
昌さんは躙り寄るようにしてオレの脇を肩でつついてくる。つい三十分ほど前までの厳しい現場主任の顔はどこへやら、今や三流芸能レポーター顔負けの風情だ。
やれやれ。でも、これって親近感をもってくれたってことなのかな?
オレはそう結論して、嬉しく思うことにした。
「いますよ、彼女」
昌さんはほらやっぱり、という顔をした。そして訊いた。
「可愛い子か? 芸能人にたとえると誰だ?」
オレは視線を空に向けた。暗い夜空に、星が光っていた。はっきりと目に見えた星は数個だけだったが、土の匂いにあふれた現場に座りながら見つけた星は、冒険家が宝物を発見した時のような喜びをオレに感じさせてくれた。
「誰にも似てません」オレは一度言葉を切って、深呼吸をした。そして続けた。「誰とも交換ができないオレのたった一人の女なんです」
オレの言葉に昌さんは「はーっ」とため息を漏らす。不良のように足を大きく広げて、股の間に両手をぶらんとさげて、仰ぐようにオレを覗き込んでくる。
「すげぇ惚れてるんだなぁ」
「はい。すっげぇ惚れてます」オレは言った。「でも、もうすぐ別れます」
「はぁ?」
昌さんが目をぱちくりとした。「別れるぅ?」
「ええ」オレは昌さんの顔をまっすぐに見て頷く。「金が貯まったら、彼女にパリ行きの航空券をプレゼントしてやるつもりなんです」
「パリ?」
「彼女の運命の相手が、パリにいるんですよ」
「はぁ? 運命の相手?」
お前が恋人だろーー?と昌さんは言いたいようだった。彼の言葉を待たずにオレは先を続けた。
「そいつ、さっき言ってた、オレが喧嘩してアフリカに行っちまった医者なんですけどね」
「え? お前の親友の?」
「ええ」オレは頷く。「そいつがパリに住んでるんです」昌さんは一層困惑顔になった。
「仕方がないんですよ。だってこれはそいつーーシャルルと、オレの彼女ーーマリナがカップルになることを願う『シャルマリ流派』のための二次創作なんですから」
オレの説明に、昌さんは完全に混乱したようだった。日に焼けた顔を曇らせて、目を何度も何度も瞬いている。人のいい彼を戸惑わせていることに罪悪感を覚えた。
「なんだかわかんねぇけど……がんばれよ」
しばらく黙っていたあと、昌さんは首をひねりながらもオレの肩をたたいてそう言ってくれた。はい、とオレは答えた。そのあと、オレたちは周辺を片付けて、昌さんの運転するライトバンで次の現場に向かった。



家に帰ったのは、日が昇って少しした頃だった。雲ひとつない夜明けだった。今日も暑くなりそうだ、と思った。
どろどろに疲れていたオレは家に入るなり、バスルームに直行した。着ているものを乱暴に脱ぎ捨てて洗濯機につっこむと、浴室に飛び込んでシャワーのコックをひねった。ほとばしるように湯が出てきた。頭から足の先までくまなく洗うと、皮が一枚ずるっと剥けたような感触がした。
気がすむまで洗い、二十四時間風呂に身を沈める。
「ぷーっ……」
おやじくせぇ、と思いながらも顔をこすりながら湯を堪能したオレは、風呂から出て、リビングに向かった。
「ぼっちゃま、おはようございます」
キッチンには家政婦の市原悦代さんがいた。第一話をご覧の方は知っているだろうが、彼女は名前が示す通り、素晴らしい眼力をもつスーパー家政婦だ。
「おはよ。いい天気だね」
ソファにどんと座ると、市原さんが盆に載せたコーヒーカップをオレに運んできながら言った。
「お留守の間にお電話がありましたが」
「ん? 誰から?」
すると市原さんはカップをオレの前に置きながら、フンと鼻息を思いっきり吐いた。
「アルディ様です」
ああ、とオレは頷く。そろそろかかってくる頃だと思っていた。アルディ家の当主復権問題が片付いたと国際ニュースで知った。となればシャルルが次に望むことは決まっているからだ。
「わかった、ありがとう。オレから電話してみるよ」
「ぼっちゃまのお友達だとわかってはおりますが、あたくし、あの方、嫌いです」市原さんがお盆を体の前に押し付けるように持ちながら小さな声でつぶやいた。オレは驚いた。家政婦という立場の彼女が、こんな風に言うのを初めて聞いたからだ。
「どうして?」
「あの方は贅沢すぎるからです」
「贅沢?」
「はい」彼女はうなずいた。「あの方はなんでも持っておられるでしょう? お金も才能も力も。人が羨むようなものは全部。それで満足すべきです。なのに、ぼっちゃまの大切なものまで横から掻っさらうような真似をすることはないと思います」
オレの大切なものーーマリナのことだ。オレはどきっとした。一瞬呼吸も止まった。
市原さんはオレとシャルルのやり取りをしっているらしい。例のシークレットラインでかわした会話を聞かれていたのかな。彼女はよくドアの陰からじーーっと見ていることもあるから、さもありなんだ。
マリナのことは違うんだ。それはシャルルへの友情であり、シャルマリ流派へのファンサービスなんだ。とオレは言おうとした。だけど、何かがオレの口を止めた。その何かをオレは自分の中で認めなくなかった。
難しいんだ。この問題はとても難しい。
オレ自身、本当のところは解決できていないなんていえないーー。
テーブルのそばに立って顔をこわばらせる彼女をなんとかごまかそうと、オレは苦笑しながら立ち上がった。
「オレだっていっぱい持ってるよ。健康もある。家もある。学校にも行けてる。親父もいる。十分に幸せだよ」
「でも、ぼっちゃまっ」
オレは市原さんの前に手をかざして、彼女の言葉を制した。彼女自身がいつかこれ以上言ったことを後悔してほしくないからだ。
「ありがとう、オレのことを思ってくれてとても嬉しい。市原さんがいるから美味しい飯も毎日食えてる。やっぱオレは恵まれてるよ、ね?」
「……ぼっちゃま」
「市原さん。オレはすべて納得づくで動いてるんだ、だからわかってほしい」
市原さんは、悲しそうな目をしてオレを見た。オレはそんな彼女に背を向けて、玄関ホールに置いてある電話台に向かった。受話器をとって、まず東京03から始まる番号にかけた。朝6時過ぎだ。寝ているだろうとは思ったけど、どうしても声が聞きたかった。30回ぐらいコールしてやっと出てくれた。
「もしもし、池田です……」
どう聞いても寝ぼけた声。
「オレ、和矢」
「え? 和矢ぁ? なんの用なのよ、こんな朝早くに」
訝しそうな様子のマリナにオレは言った。
「好きだよ」
電話の向こうで息が乱れる気配。これはおそらく「はあ?」といったのが、声にならなかったのだろう。オレはそれだけを確認して「じゃあな。おやすみ」と電話を切った。それから、再び受話器を取り上げて、かけ慣れたシークレットコールのナンバーを押した。
ワンコールで、あいつの声が耳に聞こえた。
「アロー? ジュ マペール シャルル ドゥ アルディ」
冷ややかなテノール。声に色や質感があるとしたら、こいつの声は濃紺の絹なんじゃないかと思う。なめらかですべるような魅惑的な感触なんだけど、実体感がないのだ。
「久しぶり」とオレは上を向いて日本語で言った。反抗しているつもりはないが、日本語を選ぶ点では、オレはどこかで意地になっているのかもしれないなとも思う。「元気か?」
聞くと、オレの惑いなど関係ない様子で、シャルルは淡々と答える。
「オレの方は変化はない」
「アルディ当主に戻ったんだろ?」
「ああ、まあな」
「おめでとう」
「ありがとう」あまり感動の感じられない礼の言葉をシャルルは言った。「カズヤ、君はどうしていた?」
「何にも変わりはねぇよ。そうだ、オレ、大学生になったんだぜ」
オレは四月に入学した大学名をシャルルに告げた。ほう、という感嘆の声が上がった。学部はどこだ、と聞かれて「法学部」と答えた。
「裁判官目指してるんだ。母親を殺された事件をきっかけに、罪について深く考えるようになってさ。罪を弁護する立場でもなく、罪を追求する立場でもなく、公正なジャッジメントをする立場である裁判官になりたいと思って」
「そうか」とシャルル。
「思えば、オレの将来って、知的職業が多いんだぜ、知ってたか?」
水を向けると、「知らない」という返事が返ってきた。シャルルが知らないことがあるというのがなんだか快感で、オレは二次創作界におけるオレの職業事情について少し解説した。
オレの進路についてはたくさんの二次創作でいろいろな進路が設定されている。父親の跡を継いで貿易商、医師、検事、弁護士……な、知的職業が多いだろ? 母親の才能をついでデザイナーになる、なんて設定も面白いと思うんだけど、未だに二次創作界でそれは見たことがない。クロスカズヤってブランド名、割合いけてると思うんだけど、オレにはセンスはないってことかなぁ?
「センスは遺伝しないからな」
あっさりと切り捨てられて、オレは少々ふてくされた。受話器を顎と肩で挟んで、その腕を壁に伝わすようにして上に高く伸ばした。
「マリナのことだけど」
オレから切り出した。
「あと一ヶ月ほど待ってくれ。オレ、今、金を貯めてるんだ。別れる時マリナにパリ行きの航空券をもたせてやりたい。だから、そのためにさ」
「航空券なら送ろうか?」
「いらん」オレはきっぱりと断った。それじゃあ、意味がない。
「別れぐらいカッコつけさせてくれよ。シャルマリ流派のみんなだってそれを望んでると思うぜ?」
「そうか?」と若干懐疑的な様子のシャルル。ああ、とオレは頷いた。
「シャルマリ流派の書くシャルマリの再会は、大きく分けて3パターンある」

①マリナがパリへ行く
②シャルルが日本に来る
③日本でもパリでない異国で再会する

「この3つだ。そのうちで最も多いのがマリナがパリにいくケースだ。オレは今回、①を採用する」
「オレが日本に行ってもいいぜ?」とシャルルはやや早口で言う。
こいつ、そんなにマリナに会いたいのかと鼻白んだ。ほとんどマリナ禁断症状だなと思いながら、オレは「ダメだ」とピシャリと切って捨てた。
「なぜ?」
シャルルの声が不機嫌そうになる。
「②のようにシャルル、お前が動いた形の再会でも、③のように異国での偶然の再会でも、マリナの積極性はあまりない。マリナがやっぱりシャルルを好きだったという展開にするには、②、③は二次創作家の力量が非常に求められる。なぜならば、シャルマリ流派は原作で、ものすごいストレスを抱えているからだ。このストレスの源(ストレッサー)は『自分たちの大切なシャルルをマリナは選んでくれなかった』という事実だ。シャルマリ流派の二次創作の使命は、このストレッサーを取り除くすることにある。つまり、マリナがシャルルを選ぶという物語が一番ストレス解消になるわけだ。そのためには①がマストだろう」
「ふーむ。オレってみんなに愛されているんだな」
ふんとオレは鼻息を荒くする。あたりまえだ、ばかやろう。シャルマリ流派は日本中にいるんだぞ。いや、海外からだって「ブログを見てます」という声が届くんだぞ。今や国境なきシャルマリ団なんだぞ? ……とそこまで考えて、和マリって多分国内限定だろうなとなぜか思った。
気をとりなおして、オレは吹き抜けになっている玄関ホールの天窓を見上げながら言った。
「だが、①の場合に突き当たる問題としてマリナの経済事情がある。知ってのとおりマリナは三流漫画家で食うにも困るほどの大貧乏だ。1990年代の飯田橋、おそらく神楽坂よりだと思われるが、あのあたりのアパートの家賃は6~8万はしただろう。プラス光熱水費と漫画の原材料費を捻出していた彼女には、パリへの旅費などどうやっても出せない。よって、なんらかのミラクルな技がなければマリナは永遠にパリにいけないんだ」
シャルルは「ふむ」と唸る。オレは続ける。
「最もよく使われるのが、漫画家としての仕事が入るというものだな。普通漫画の仕事は入稿後の支払いだから、漫画を描かないと金にならないのだが、口約束の段階でパリ取材というものが多い。大人になったマリナが漫画家では食っていけなくて、イラストレーターになってパリ取材というのもあるあるだ。あとは美女丸や薫が助ける。海外からジル、カーク、ガイ、ミシェルがやってきて援助するケースもある。だがやはり流れとして一番スムーズなのはオレ(黒須和矢)だ。別れる時オープン券を渡してやるのが、スマートで展開的に無理がない」
「なるほど。しごく合理的だ」
受話器の向こうで、白金の髪を揺らしながらシャルルが頷いているのが目に浮かんだ。今頃パリは深夜のはずだ。シャルルはおそらく全裸で、シルクのシーツの海にねそべっているのだろう。シャルマリ流派の悶絶する姿もまた目に浮かぶな。
「ただ、1990年代の成田発ドゴール空港行きの一年期限のオープン券は、二十万円程度だ。オレはこの金を自分が汗して稼いだ金で作りたいんだ。これはオレのプライドだ。三日前からアルバイトを始めた。日当は五千円。だから一ヶ月ちょっとだけ待ってほしい。金が貯まったらすぐにマリナと別れるよ」
シャルルの沈黙が三十秒ほどあった。それから、わかった、と低い声で彼は言った。
「一ヶ月待てるか?」
訊くと、一瞬の間が空いたあと、「待てるよ」という答えが返ってきた。嘘つき野郎め。声が微妙に揺らいでいるぜ。ガキの頃からの親友をなめるな。
シャルルは言った。
「上げ膳食らわされても待ったんだからな、オレは」
「それ、華麗の館のことか?」
「そうだ。好きな女と同じベッドだ。それで待ったオレはしつけのきいた犬だと思わないか?」
犬ね。オレは笑った。シャルル=犬と考えて、ボルゾイという猟犬を連想した。気品があってクールな大型犬で、頭がよく物静かだが、攻撃的な一面もある美しい犬だ。知らない方はネット検索してみてほしい。長毛の華麗な姿がヒットするはずだ。
電話を切ると背中に視線を感じた。振り返ると、やはり市原さんがキッチンのドアの陰からこちらをじーーっと見ていた。でもその視線は好奇心にあふれたものではなく、母性を感じさせた。オレが生まれる前からこの家にいる人だ。オレのことを心配してくれているのだ。
オレはやっぱり幸せだーーー。
市原さんがさっと顔を引っ込めた。オレはリビングに戻った。市原さんは対面式カウンターの中で、素知らぬ顔をして食器を布巾で磨いていた。
「めっちゃ腹が減ったんですけど、がつんと食いごたえのあるもの、ありますか?」と声をかけた。市原さんは待ってましたとばかりに「もちろんですよ」と答えて皿をカウンターに置き、冷蔵庫に向かった。




昼は大学、夜はバイトという生活にすっかり体が慣れた頃、オレは二十万円を貯めた。
それでパリ行きの一年期限付きオープン航空券を買った。その間、オレはマリナに会いに行かなかった。すれ違いを生むように努力した。マリナは電話をしょっちゅうかけてきた。「忙しくて」そんな言い訳を繰り返した。不満そうな、不安そうな彼女の様子を黙殺し続けた。最後の方は市原さんに頼んで居留守をつかった。自分がひどいことをしている自覚はあったけど、前に進むしかオレには道はなかった。
9月最後の日、西の空が焼けたように染まった夕暮れの中で、オレ達は別れた。男が恋人に別れを切り出す場所ランキング1位は、カフェorレストランだ。人目があることから、騒がれずスマートに別れられるということらしい。オレは街の普通のコーヒーショップのテラスで別れを告げた。マリナは覚悟してきたらしく、何もいわなかった。オレはテーブルに航空券を差し出した。チケットの入った封筒を、水のグラスに触れないように気をつけて置いた。
「パリ行きチケットだ」
マリナは目を開いてそれを見つめた。黙り込んでいる。驚いて声がでないのか、怒りか、困惑か、オレへの幻滅か、オレには正確な判断がつかなかったが、もういいと思った。
「金に変えたければ好きにしろよ。餞別だ。じゃあ、元気でな」
それだけ言って、マリナを残して店を出た。紫っぽいグラデーション色の空を見上げて息を吐く。シリーズ正統的ヒーローでありながら、この世界ではアンチヒーローであるオレ。アンチとしての最大の役目を今果たしたぜ、とつぶやいていた。
どうだい、シャルマリ流派のみんな。マリナと別れたぜ。これで君たちは満足なんだろう?
ーーごめん、オレ、嫌な言い方をしているな。でも今日ぐらい許してくれよ。
マリナのことは中一の時からずっと好きだった。誰にもやりたくなかった。でも、この世界ではオレ達は別れないとならなかった。別れる作業は待ち合わせ時間も含めて十五分ほどで終わった。夕焼けの空の色が変わる程度の短い時間だ。人間関係って作るときは気を使うし、時間もかかるのに、切るときはあっという間だと思った。
オレは駅へと急いだ。一旦家に帰って、作業着に着替えないと現場入りに間に合わなくなる。肩の治療費がたまるまではあと半年はかかる計算だった。



5につづく


シャルマリの流儀 5

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タイトル「シャルマリの流儀」


プロローグ
1、小菅拘置所の別れーー「もう離さない、俺のものだ」の真意
2、恋人試用期間?ーー飯田橋と横浜はわりと近い
3、マリナの処女性議論ーーオレ、もらっちゃダメでしょ?
4、期待される別れ方ーーパリ行きの航空券は用意しましょう
5、友情継続問題ーー唯一の親友という十字架
6、将来の希望は?ーー友としてシャルマリを支えます!(模範的回答)
エピローグ
最後の対決


◇◇◇



5、友情継続問題ーー唯一の親友という十字架




オレは25歳になっていた。刑事事件に関わりたいと願った通り、希望した職につくことができ、それなりに忙しい毎日を過ごしている。
マリナとは別れたきり会っていない。あいつとは仲良くやっているだろうか。そうならいいと思う。
犯罪事件に関わる仕事をしてみて、つくづく感じたことがある。それは、一度過ちを犯すと絶対に取り消すことはできないということだ。もちろん償いはできる。そのために裁判があり、罪に応じた量刑を裁判官は課すのだ。だが、本当にそれで罪は消えるのか? 犯した過ちはなかったことにできるのか? 心と体に深い傷を負った人々の姿を法廷で見るにつけ、オレは過ちは過ちとして残すべきなんじゃないかと思うようになった。
罪をゼロにするのではなく、もっとよい考え方はないのかーー今はその暗中模索の日々だ。
オレの一言が裁判を決定する。最初はさすがに身体中嫌な汗をかいた。帰宅してからシャツを脱ぐと、皮膚に張り付いていたほどだった。
その緊張も、時間の経過と回数をこなすうちに慣れてきた。まったく人間というものは慣れる動物だと思う。苦痛に慣れるというのは有名すぎる話だが、使命感や緊張感すら慣れれば日常と化す。
だが日常となるならまだいい。自分の存在が他者のためであるとか、この仕事は崇高な仕事だとか、誰かの役に立っているとか、こういった考え方は危険なサインだ。他者のためにーーと言いながら、じつは自分を満足させているにすぎない。そしてたいていの場合本人は気づいていない。
この「自己満足」という感情は悪魔のささやきだと思う。もっと言えば罪への入り口だと思う。
がんばったぶんだけ必ずリターンはあるーーそう考えるようになった瞬間から、仕事への純粋な克己の精神は消える。
「ねえ、見て見て」
子供はそうやって大人に自分の作ったものを指ししめす。
自分はこんなことができるようになった。こんなにすごいものを作った。こんなに綺麗な絵を描いた。
子供は注目を自分に集めたくて、自分の成果を一生懸命に宣伝する。仕事で自己満足を求める大人は、それと同じではないだろうか。
「こんなにがんばった自分を褒めてよ」
大人は子供よりも始末がわるい。なぜなら大人は無言で自分の仕事を誇り、他人からの評価を求めて精神的なリターンバックを要求するからだ。オレはある事件を通してそのことを知った。
「救われました、ありがとうございます」
公判後、被害者の遺族からかけられた言葉だ。猟奇的殺人事件だった。被害者は、三十代のサラリーマン。独身で子供はなし。老いた母親と二人暮らしだった。犯人はこれまでに8人を手にかけた極悪非常な連続殺人犯でこの事件の被害者が9人目だった。警察、検察のすばらしい捜査のもと、彼の有罪が立証された。
オレのしたことはわずかなことだ。すでにこの犯人の有罪は誰の目から見ても明らかだった。有無を言わせない証拠は整然と出揃っていた。これならば、たとえどんな凡庸な裁判官であったとしても彼に有罪の判決をくだしただろう。
だが、被害者の母親はオレに感謝の言葉を尽くした。
「ありがとうございます、すばらしい裁判でした。ありがとうございます、あなたさまのおかげで、息子は浮かばれます、本当にありがとうございます……っ」
「いえ」
「ありがとうございます、本当にありがとうございます」
放っておくと、百万回でも続きそうな母親の謝辞を、オレはなんとかなだめて帰した。お辞儀を繰り返しながら裁判所の正面玄関から去っていく小さく縮んだ背中を見送っていると、突然背後から肩に何かが載せられた。見るとグレー色のスーツの腕があった。
「よっ、刑事裁判の英雄っ」
同僚のケイだった。陽気で優秀な男だ。いつも英国製のシングルスーツに、白地に黒のストライプの細いタイをしめている。彼もまた刑事事件ではよく用いられていた。そのためか、オレに声をかけてくることが多い。オレとしては少々うっとおしいのだが、邪険にするのも面倒で、適当に相手をしていた。
「最近、刑事事件というと君だな」ケイは言った。「なんだか悔しいな。僕だってがんばってるのに、君のファンだけが増えた気がする」
「ファン? なんだそれ?」
「刑事事件への理解者っていってもいい」
ケイはもう片方の腕もオレの肩にかけた。オレに体重をかけるようにして右側の方から首を突き出してくる。
「僕たちの商売は、所詮日の当たらない仕事だ。事件自体はテレビやなんかで派手に報道されるけど、僕たちの仕事が取り沙汰されることはないし、あってはならない。でも、君だけは別格だな。法廷で君の顔を見てしまったら、忘れられない。特に女性は胸キュンだ。感謝だけでなく恋しちまうぜ?」
「やめてくれよ」
オレはケイの腕を払いのけた。女の腐ったようなことをいう奴だ。そんな姿勢で仕事をしているのかと思うと胸糞が悪くなった。
「オレはそんなこと望んでないよ。ただ仕事を遂行しているだけだ。自分で課したハードルを超えられればそれで満足だし」
「ふーん。冷静だね」
「当たり前だろ。仕事だぜ?」
「じゃあ、自分の仕事が人の役にたってるって、ちらっとでも思ってないの?」
そう言われて、オレはちょっと口ごもった。
「そりゃまあちらっとは思うけど」
「だろ?」ケイがにやりと笑う。「僕たちは悪い奴らをこらしめるんだ。間違いなく世のため人のためになってる。僕たちの仕事は大勢の人間の役に立ってるんだ。もっと感謝されてもいいくらいなんだ」
その言葉にオレは反発を感じた。でも同時にそうだよな、と思う自分もいた。先ほどの事件のために、オレは寝る間を惜しんだ。結果、ああやって関係者に感謝された。オレはどこかでそのことを当然と受け止めていた。「見て見てー」とねだる子供のような感覚が自分の中に生まれていることについて、認めざるをえなかった。
もしかしたら、マリナと別れたのも同じだったのかしれない。
マリナのためとか、あいつのためとか、シャルマリ流派のためとか、いろいろ理由はこね回したけど、最終的には自己満足だったのかもしれないな。だとすると、まだまだオレってガキだな。
「裁判所に出入りする人間の中でも、君って変わり者だろ。目立つよ」ケイは一人でしゃべりつづける。「だってさ、まずすごくかっこいいし、精悍で、魅力的だ。法廷の中でも君のいる場所だけ輝いて見えるもん。だから、君が望もうと望まなかろうと関係なく、君ってやつは人を惹きつけるんだよ。特にその目だ。人を見据えるようなその目が、人を魅了して引き寄せる」
ケイは、男にしては細い腰に両手をあて胸をはる。
「ということで、一緒に合コンいかないか?」
「合コン?」
「ああ。仕事も大事だけど、それだけじゃ人間つまらないぜ」
「せっかくだけど遠慮するよ」
「どうしてさ?」
「女にもてないんだ、オレ」
好きな女にはなーーという言葉は飲み込んだ。
もてなかったというオレの言葉に、ケイは心底びっくりしたようだった。ビー玉のように目を丸くして、オレを食い入るように凝視する。どうやら、その女がオレのどういうところに三行半を突きつけたのかを探そうという魂胆らしい。彼はまずオレの目を見て、次に顔全体を見て、そのあと頭のてっぺんから爪先までをなめるようにながめまわした。すっかり研究者の顔つきになっている。
結果、何も発見できなかったらしく、ケイは大きなため息を吐いた。
「わっかんないなー。僕だったら君みたいないい男。絶対見逃さないのになー」
気色わるいことをいうやつだ。オレは無視して、踵を返し建物内に戻った。ケイが慌てた様子で後をついてきた。
「なあ、おい。いい女、紹介するからさ、合コン行こうぜ」
玄関ホールに響く声でケイが言った。ここは裁判所だぞ。仕事のオンオフをわきまえない奴は苦手だ。
「行かない」
「そういわないでさ。僕、すっげぇいい女知ってるんだ。ちょっとだけでも会ってみたら? もしかしたら気があうかもしれないぜ?」
「本当に女はいらないんだ」
「なんで? 君はゲイか?」
「違うっ」
「女がいらないなんて、正常じゃないぜ」
マリナ以外の女はいらないんだーーと言おうとして、オレは足を止めた。玄関ホールのざわめきが、耳の中で鼓動のように大きく強く反響する。
「どうした?」急に立ち止まったオレの顔を、ケイが不思議そうにのぞきこんでくる。
なんてことだろう。あれから何年も経っているのに、オレはまだ忘れていなかった。
笑った顔。すました顔。困った顔。慌てた顔。怒る顔。困惑した顔。
恥ずかしそうな顔。微笑む顔。嬉しそうな顔。それから別れた時の涙をこらえた顔。
自分からさよならしたくせに、お膳立てまでして彼女をあいつに渡したくせに、まだオレの中で彼女は生きていた。手を伸ばしたら触れられそうなほど色鮮やかな生命力を持って住んでいるーー。
オレはその事実に気づいてしばし呆然とした。そしてこんなことではいけないと思った。




それは雨降りの翌日の水溜りのようものだ。空は晴れているのに、足元はぐちゃぐちゃだ。
叶わなかったオレの恋は、オレの魂の根っこに溜まったままだった。水溜りの水はいつか乾く。そのあとの大地は無残だ。土は干からびて割れ、草木は容易には芽吹かない。荒野となって砂塵を吹くだけだ。急ごう。オレの魂が根こそぎ乾いちまう前に、オレは自分自身を取り戻さなくてはならない。
オレはマリナといい恋愛をした。だからいいだろ? 忘れて他の女の子と恋しよう。そう思って実際いい雰囲気にまでいった女の子はいたんだ。だけど、ダメだった。どの子とも本格的な恋愛関係に至らずに終わった。まるで誰かが呪いをかけているかのようだった。
なぜ、オレは誰ともまともな男女交際をできないのか?
その理由は明白だ。
それはもちろん、この話がシャルマリ流派のための二次創作物だからだ。
オレはマリナを忘れてはいけない運命(さだめ、と読む)になっている。ヒーローらしく、かっこよく別れてあいつにマリナを渡したあとも、マリナだけを一途に思い続けるーーそれがひとみっこの中でのオレという人間のアイデンティティだ。そこにはいささかのブレも修正も入る余地はない。オレは「シャルマリ流派の二次創作物」という世界の中でしか生きられないくせに、その中で自分を幸せにするために、人生を自由意志で動かすことは決して許されていないのだ。
なんというジレンマ。なんという足枷。
オレだって人生を楽しみたい。終わりのない恋愛から離れて、陽気で悩みのない生き方がしたい。




というわけで、オレはまとまった休暇をとり、旅行をすることにした。行き先はロワールだ。
なぜロワール、と問われれば「思い出の場所だから」としか答えられない。オレはあえて自分の傷と向かいあう決意をした。かさぶたを剥がして、その傷から再度血を流して、治療することにしたのだ。ひどく痛むかもしれない。醜い痕になるかもしれない。でももしかしたら、綺麗に治るかもしれない。オレは後者の可能性に賭けた。自分の精神に賭けたと言い換えてもいい。
ロワールは変わらなかった。シャンボール城は豊かな情感をたたえて、青い空の下にたたずんでいた。世界遺産に指定されたことにより、かの日より格段に観光客が増えていた。煩わしいと感じながらも、オレはジャンパーのポッケに手をつっこみながら城の中を散策した。冷やりとした空気が石の床に澱のように沈殿して、過ぎ去った時代の長さを感じさせた。
城を出て青い芝生が敷き詰められた小道を歩いていた時だった。
「ねえ、ひとり?」
後ろからフランス語で声をかけられ、振り向くと、一人の女性が立っていた。腰まである長いブロンドの髪を額で二つに分けている。額には大きな黒いサングラス。化粧をばっちりと施した顔はなかなか美形じゃないかと思われる造作だった。目は翡翠のようにくすんだ緑色だ。グラマラスな体型がよくわかる水色のスーツに、黒革のセカンドバックを持っている。
「ひとりだよ」
オレが答えると、彼女は「じゃあ」と大股で一歩踏み出した。オレと彼女の距離は一気に1メートル弱になった。
「一緒に観光しない?」
「観光?」
「そう、この城を深く知りたいのよ」
オレは首をひねった。逆ナンパか? めずらしいなと思った。オレはあまり声をかけられたことがない。きっとマリナと別れたあとのオレは、なんだか暗く近寄りがたい雰囲気を発しているのだろうと思う。
「城より君が知りたいな。すごく魅力的だ」
オレはすばやく彼女に近付き、きゅっとくびれた腰を右腕一本でさらって引き寄せた。目の前の女は一瞬びっくりしたような顔をした。二人の体は密着した。彼女はまじまじとオレを見て、それからふふと笑った。こういうことに慣れたような笑い方だった。
「ーーいいわよ。どこでする? ホテル?」
オレは首を振る。オレは健全な青少年、もとい25歳の大人の男なのだ。シャルマリ流派のために欲望をおさえてきたが、それもいい加減限界にきている。ここらで発散しないともたない。
「ホテルまで我慢できない。城の片隅で、数百年前の亡霊たちの声を聞きながらなんて、なかなかロマンチックだと思わないかい?」
彼女は口を開けた。暗がりで赤い舌がうごめいている。オレの提案を面白がっている様子だ。
「いいわ。オッケー。あなたの名前を教えて? してほしいことを要求するときに、名前を知らないと不便だもの」
もっともだと思い、オレは自分の名前を教えた。彼女も名乗った。
「アンジェリーナ。アンジェリーナ・フランクよ」
「よろしく、アンジェ。じゃ、行こうか?」
「ええ」
オレたちは体を寄せ合うようにして、城へ向かい、誰もいない柱の陰を見つけると、そこでいきなりディープなキスを交わした。最初は優しく抱き寄せて、髪を撫でて……みたいなスキンシップの手順はすべて無視した。彼女も戸惑いなく応えてきた。彼女の唇は溶かしたショコラのように甘く芳醇な香りがして、オレの脳髄をたちまちのうちにしびれさせた。オレは夢中で吸い続けた。彼女はあわさった唇の隙間から火炎のような吐息を漏らした。その熱い息がオレの顔をなぶるたび、押さえつけていた情念が呼び起こされるのを感じた。この女は導火線だーー。
オレは彼女を柱に押し付けて膝で足を割った。
その時だった。
「何をやってるのよっ」
陶酔している頭に、尖った声が冷水のように浴びせられた。日本語だった。しかも聞き覚えのある女性の声だった。
まさか……。
目の前の女から唇を引き剥がして、声の上がった方角を見て、オレは仰天した。
そこに立っていたのは、マリナだった。いや、その女が本当に池田マリナであれば、だが。
え?え? オレはわけがわからなかった。
なぜ彼女がここにいるんだ?
「何をやってんのよ?」
マリナは再び同じことを言った。オレは信じられなくてまじまじと彼女を見た。マリナは小花柄のスモーキーピンクのVネックニットと、ウエストをしぼった群青色のロングスカートを身につけていた。ルイヴィトンの旅行バックを持っている。左頭頂部の髪を一掴み赤いぼんぼんでしばった、トレード・マークのちょんちょりんはなく、自然なスタイルで肩に垂らしていた。相変わらず小柄だが、以前のおてんばで子供っぽい雰囲気はどこにもない。芋虫が蝶になるのと同じぐらいの劇的変化に、オレは言葉を失い、目を何度も何度も瞬いた。
「あたし、あんたに会いたくて、追いかけて来たの」
マリナは大きな瞳を潤ませた。眼鏡もかけていなかった。コンタクトにしたのだろうか?
「あんな風に別れたままじゃ、どうしてもつらくて」
それにしても、とオレは戸惑った。あまりにもタイミングの良すぎる登場だろ。オレが他の女と関係を持とうとした瞬間に現れるなんてご都合主義がすぎる。
オレはマリナを手招きして、手に口を当ててささやいた。
「おい、登場のタイミングをもうちょっと考えろよ。読者から石投げられるぜ。柱の陰でオレと女がいたしそうになるのをまってたのかって」
マリナは笑う。
「登場のタイミング? そんなもの気にする必要はないわよ」
「よくないだろ。都合の良すぎる展開は、作家の思惑が透けて見えて、読者をしらけさせる」
「そうかしら?」
「そうだ。ご都合主義っていわれるぜ」
「今更よ。まんが家マリナシリーズはもともとリアリティを捨てた物語でしょ。だいたい、東京の飯田橋に住むあたしが、多種多様な美少年ズと出会い続ける展開からしてかなりのご都合主義なのよ。しかもあたしはミーシャを除く全員に惚れられる。それがご都合主義と言わずしてなんと言えばいいのよ?」
オレは思わず低く唸った。確かにそうだ。オレだってすぐにマリナに惚れたじゃないか。
「原作からしてそうなんだから、二次創作物もその土台の上にできてるのよ。一度別れた男女が再会するっていうのも、リアルではないでしょ。普通あわないようにするもんね。でもそれを言っちゃったら二次創作物自体を否定することになっちゃう。だからいいのよ。多少タイミングよく登場するぐらいで読者はツッコまないわ。そのご都合主義をいかにロマンチックに、いかに納得できるように仕上げるかが書き手の力量だもの」
「なるほど。ならこの話の出来は……?」
オレ達は顔を見合わせた。意味深長な笑いをお互いにした。
「この管理人がかわいそうだから、そこは追求しないことにしましょう」
「そうだな。さて、小説世界に戻ろう」
シャンポール城の観光ルートから外れた暗がりで、オレはマリナと改めて向き合った。アンジェリーナという美形の女は、いったい何をやってるんだという顔で、そんなオレ達の様子を眺めている。
「オレのことを追いかけてきたのか? どうして?」
気をとりなおして訊くと、マリナはさっと顔を赤らめた。昔からこういうところは変わらない。マリナは正直なようでいて、自分のしたいことを我慢して言わない傾向がある。
「だって……」
マリナは口ごもる。何かを言おうとしている。それはきっととても大切な真理に違いないとオレは直感した。
「だって、なに?」オレはストレートに訊いた。マリナは無言で首を強く振る。オレがたずね、マリナがかぶりを振るという展開がしばらく繰り返された。先ほどまでオレと抱き合っていた女が「ちょっと何をやってんのよ?」とオレの肩を強く掴んだ。せっかくマリナの心を紐解いているのに、その邪魔をされたくなくて、「うるさいな、黙ってろよ」とオレはその女を睨んだ。女はほおをぴくぴくさせ、顔をさらに歪めた。
マリナは思い切ったように言った。
「あたし、やっぱりあんたが好きなの。どうしても忘れられないの」
その瞬間、オレの中で何かがはじけた。頭の中で風船が割れるような、胸の中で小鳩が飛びたつような、体が空中に浮くような、そんな感覚だった。
オレ達は抱き合った。やっとマリナを手に入れた。今度こそ本当に、正真正銘、本物のマリナだ。もう手放したりしない。あいつにだってやらない。ーーやるもんか!
先ほどの女が無言で去っていくのが目の端に映ったが、そんなことはどうでもよかった。




それからオレたちふたりは、タクシーを駆ってホテルに向かった。昨夜からオレが宿泊していたホテルだ。ゆきずりの女にしようとしたように、情欲にまかせて外でする、などということは彼女にはしたくなかった。マリナは初めてのはずだった。だから、この体験が彼女にとって、これから先何度思い出しても幸福な気持ちに包まれるようにしたかったのだ。
別れのときと同じように、空が赤く染まる中、オレたちは結ばれ、一つとなった。
互いの名を声が枯れるまで呼び合った。破瓜の痛みに顔をよじるマリナを優しく征服するとき、これで死んでもいいーー腹の底からオレはそう思った。




疲れてマリナが眠ったのを確認してから、オレは例の秘密回線を使ってあいつに連絡した。10回目のコールで「もしもし」と応答があった。いくぶん疲れたような声だった。そういえばあちらは深夜だ。寝ていたかと申し訳なく思う。
「オレだ」
「……久しぶりだな。五年ぶりか?」
「七年ぶりだよ」
「そうか、元気か」
「元気だ。変わりない」
挨拶を交わしたあと、オレは謝った。
「すまない」
「何だ、いきなり?」
「マリナを抱いたんだ、オレ」
電話の向こうで一瞬息が止まる気配がした。そうだろう。もしオレが逆の立場だったらーーそう思うと、オレは電話に向かって軽く頭を下げていた。そんなものが気休めにすぎないということはわかっていたが、じっとしていられなかったのだ。
「謝罪の言葉を聞くとは思わなかったよ……」
「ごめんな」
「どうして謝るんだ?」
「わからない。だけど、オレたちはお互いマリナを心から好きだった。正々堂々と戦いたかった。卑怯にかすめとるような真似はしたくなかった。でも、マリナにやっぱりあんただけが好きだと言われて、心が走り出すのを止められなかったんだ。オレは友情より、マリナを選んだんだ」
電話が沈黙した。それは一分間ほど続いた。それぞれの心に言葉では言い尽くせない思いが込み上げている。それをお互い感じあっているのがよくわかった。以心伝心とはこういうときにいうのだーー。
「なあ、カズヤ、君にとってのオレってなんだ?」
「オレにとってのお前?」
「うん、なんだ?」
「決まってるだろ。親友だ。ガキの頃からずっとお前は親友だよ。でもなーーはっきり言うよ。オレはお前にずっと嫉妬してた。天才で、なんでも器用に完璧にこなしちまうお前に憧れながらもねたんでた」
「そうか。実はオレも君に嫉妬していた」
「へ、お前がオレに?」
「ああ、人当たりのいい君が羨ましかった」
「初めて聞いたぜ。オレにもお前が持ってないものがあったんだな♪」
二人で声を立てて笑った。一瞬、昔お互いが少年だった時に戻った気がした。
「ところで、二次創作物におけるオレたちの友情がどういう展開になっているか、シャルル、お前知っているか?」
「二次創作界では、恋愛がメインだからオレたちの友情は二の次だ。だが、基本的にシャルマリ流派は、オレたちの友情を継続させるというパターンが多いな」
「でもさ、普通、ひとりの女を好きになっちまったら、友情は保てなくない?」
「それは、シャルマリ流派たちの年齢と関係がある。シャルマリ流派は30~40代が大半だ。彼女たちは、それまでの人生で友情を失ったり、保てなくなったり、疎遠になったりした経験を少なからず持っている。そういう彼女たちにとって、『一人の女の子をお互いに好きになっちゃったけど、ずっと親友だよ☆』という関係性は憧れに近いんだ。だから、オレたちの関係は壊したくないと願うんだ」
「うーん、なるほどな。理想の投影ってわけか?」
「わざわざ創作の世界でいがみ合う話を読みたくないっていうのも、率直な理由だろう」
「つまり、シャルマリ流派はそれだけリアル生活で苦労してるんだな」
「そういうことだ。だから、オレたちは夢とロマンを与えつづけよう」
「シャルル、お前の役目はもう一つあるよ」
「なんだ?」
「上品なエロさで、ドキドキさせること」
こんな感じで、「シャルルと和矢が憎しみあう」という二次創作物がない理由についての相互理解を深めていると、「う…ん」とマリナがベッドの中で身じろぎした。起こしたかとオレは焦る。
「じゃあな」手早くいうと、相手もすぐに答えた。
「ああ、しあわせにな」
それで電話は切った。「ありがとう、オレの友達」と、オレはつぶやいた。受話器を置いて、窓辺に寄った。窓枠に手を置くと、忍び寄る冷気が指先から心地よく体温を奪っていった。外はすっかり日が落ち、ロワールは夜の闇に包まれていた。重量感のある闇にガラスの粒を振りまいたような星空が広がっている。あの星の一つ一つに、もしかしたら愛を求める生命体がいるのかもしれない、そんなファンタジックなことを思い巡らせた。
パリに帰ったら仕事はセーブしよう。最近は刑事事件の検察側証人として証拠鑑定資料を携えて出廷する機会があまりにも多かった。オレのことを裁判所の職員か科捜研の男だと思っている人間も多い。オレの鑑定結果で裁判の雌雄が決することはやりがいがあった。だがマリナを手に入れた今となってはそれも色あせて見えた。優秀な研究員であるケイ・コスギは、刑事事件の証拠鑑定が大好きなようだから、これからはすべての仕事をあいつにゆずってやってもいい。
そんなことを思いながら魅入られたように夜空を見つめるオレの背後で、ベッドの軋む音がした。
振り向くと、マリナが裸の胸にシーツをかきよせながら上半身を起こしているところだった。とろんとした目つき。だらしなく緩んだ表情。しまりのない口元。寝ぼけているのだろうか? ーーああ、何もかもすべてが可愛い。
「あれ……シャルル、起きてたの?」
オレは微笑みをこらえながら、顔に落ちてくる長い白金の髪を頭頂部に向かってかきあげつつ、彼女の待つベッドに戻っていった。




6につづく

シャルマリの流儀 6

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タイトル「シャルマリの流儀」


プロローグ
1、小菅拘置所の別れーー「もう離さない、俺のものだ」の真意
2、恋人試用期間?ーー飯田橋と横浜はわりと近い
3、マリナの処女性議論ーーオレ、もらっちゃダメでしょ?
4、期待される別れ方ーーパリ行きの航空券は用意しましょう
5、友情継続問題ーー唯一の親友という十字架
6、将来の希望は?ーー友としてシャルマリを支えます!(模範的回答)
エピローグ
最後の対決


◇◇◇



6、将来の希望は?ーー友としてシャルマリを支えます!(模範的回答)





「和矢ぼっちゃま、お電話でございます」
家政婦の市原さんがドアをノックした。デスクで読み物をしていたオレは、振り返らずにたずねた。
「だれから?」
「ヨシダ様とおっしゃる男の方です」
ヨシダ? 誰だろう?
読んでいた本から視線を空中に上げて頭を思い巡らせるが、浮かんでこない。ヨシダ、ヨシダ……。こないだの事件関係者の中にヨシダという姓がいた気がする。だが自宅にまで電話してくるだろうか?
オレは無事司法試験に受かり、現在は神奈川県の裁判所に勤務する司法官となっていた。主に刑事事件を担当している。左陪席と言われる若手裁判官だ。
多くの人と毎日接するので、その中に「ヨシダさん」がいたのかもしれないな。
「わかった、出るよ」
オレはとりあえず電話に出てみようと思って、部屋を出た。一階まで降りて玄関ホールにある受話器をとる。黒須家はなぜか一台しか電話がないのだ。非常に非効率だと思うのだが、親父はわりと頑固でコードレス付き親子電話を絶対に家庭に導入しようとしない。オレももう立派な社会人だから、自分の稼いだ金であたらしい電話をつけてもかまわないのだが、それはしない。ここは親父の建てた家だ。だから、親父の決めたルールに従うつもりだ。
「もしもし、黒須ですが」
名乗ると、元気のいい若い男の声がした。
「オレだよオレ。中学で一緒だったヨシダキョウヘイ」
「え……っ」一瞬戸惑い、コンマ一秒後にそれは確信へと変換された。「ヨシダキョウヘイって、あの野球部だった黒豆か?」
「そー! 甲子園目指していた黒豆だよ、覚えてるか?」
「もちろん、覚えてるぜ!」胸に青いレモンをぎゅっとしぼったような爽快感がこみ上げる。「うわぁ、懐かしいなぁ。元気だったか?」
もちろんだよ、と吉田恭平は笑いながら言った。オレは中学の頃の彼を思い出した。吉田恭平は野球部だった。背が小さくて色黒で、ついたあだ名が「黒豆」だった。彼はピッチャーで甲子園を目指していた。誰もが黒豆には無理だと言った。背の低い奴には力の入った球は投げられないだろう、いきがるなよ、せめて外野手でもしたらどうだ――。そんな周囲の声にめげずに、恭平は毎日懸命に練習に励んでいた。オレは部活が違ったが、暗くなってグラウンドで投げ込みをする恭平の姿を目にしない日はなかった。
やがてオレたちは高校進学とともに別れて、オレは外国資本のハイスクールに、恭平は地元の普通高校に入った。毎年、夏と春になると恭平を思った。だが、彼の高校が甲子園出場したというニュースは、卒業するまで聞こえてこなかった。
でも恭平はきっとがんばったのだろうなと思う。一途に夢に向かって努力したことは、無駄にはならなかったはずだ。こうして耳にする彼の声は、明るく強いハリがあって、今現在の彼の生活が充実したものであることをオレに感じさせた。
「黒須、おまえ、今なにやってんの?」
「神奈川地方裁判所で、裁判官やってるんだ」
「へえ、裁判官!」
恭平の声が跳ねた。電話口で彼は新鮮な驚きを隠そうともせず、息をはっはっと何度もついた。
「すげーな。中学の頃からおまえは何か違うと思ってたけど、それにしても裁判官かよ」
「やめてくれよ。恭平はなにやってんの?」
「オレ? 普通のサラリーマン。横浜駅前にある総合商社につとめてる。営業だよ。毎日取引先に頭下げてるよ」
「そっか。忙しいんだな」
意外だと思った。なんとなく恭平は野球関係の仕事についていそうな気がしていたのだ。もちろんオレの勝手な想像だけれども。
「今日電話したのは、同窓会をしようと計画してんだ。で、その幹事を黒須に一緒にやってほしい」
「同窓会の幹事? オレが?」
「ああ。黒須は女子に人気があっただろ? だから案内のハガキにおまえの名前があったら、女子の参加率があがるとおもうんだよ。だから、ぜひ幹事を一緒にやってくれよ。いいだろ?」
「なんだよそれ。オレ、客寄せパンダかよ」
「いいじゃん、たまには青春時代に戻って語ろうぜ。実はもう男連中には声かけてるんだ。あとは女子だけ。な?」
「仕方ねぇなぁ……」オレは苦笑いしながらも、「ま、いっか」
「引き受けてくれるか?」
「了解。楽しくやろうぜ」
途端、恭平の喜ぶ声が受話器の中ではじけた。耳がいたくなるほどだった。
「じゃあ、早速案内はがきをオレと黒須の連名でだそう。――あ、そうだ。一人、現住所がわかんないやつがいるんだ」
「ん? だれ?」
「ほら、あのチビな子。黒須、おまえが怒れるマンモスゴリラとか呼んでた女がいただろ? 覚えてないか? おまえ確か、平手でぶん殴られたよな? 忘れたのか?」
その瞬間――。オレは心臓を分厚い鉄板で挟まれたように息ができなくなった。忘れてない。忘れるもんか。
「池田マリナだろ」思わず声がかすれた。「そーそー。池田!」恭平が答えた。
そうだった。恭平はオレとマリナがたった一か月間同じクラスだった時の同級生なのだ。
オレは狂ったように動悸を始めた心臓を手で押さえながら言った。
「オレ、知ってるよ。池田マリナの連絡先」
「そうか、じゃあ、案内ハガキ送れるな」
「ああ、大丈夫だ」
「あのマンモスゴリラも大人の女になったかな。けけけ、みんなでいじくってやろうぜ♪」
恭平は昔を彷彿とさせるイタズラ小僧のような声で言った。




二か月後、横浜市内にある居酒屋で、同窓会は開催された。
「それでは◯×中学1年2組の同窓会にかんぱーーーーいっ!
グラスがあわさった。人数は総勢37名。当時のクラスは42名だったので、かなりのいい出席数といえる。1990年代に中学時代を迎えたオレ達は、ベビーブーム真っ只中の世代だ。学校は子供達で膨れ上がり、一クラスの人数も非常に多かった。教室の席は前から後ろまでびっしりと埋まっていた。今こうして大人になって集まって見ても、多いと思う。居酒屋一軒を丸ごと貸切った。
テーブルには、オードブルを始め、ビールやウーロン茶、ジュースと言った飲み物が並ぶ。
総幹事の恭平は乾杯の後、実に細々と席の間を動き回り、みんなの注文を聞いて回ったり、ひとりずつに声をかけてたりして、場を持ち上げることに余念がなかった。昔は野球しか頭になかったどちらかという不器用なヤツだったのに、変わったと思う。営業職のためかな?
副幹事のオレはなにをやっているのかというと……。
「黒須君。ビールのおかわりは?」
「枝豆、たべない?」
「カルパッチョは?」
「テーブルが汚れてる。ふいたげる」
「ねえ、今、何の仕事やってるの?」
こんなぐあいに、身動きもできないほど女子に囲まれていた。
「黒須君がこんなにカッコよくなるなんて……昔はただのガキって感じだったのに」
ぼそっとつぶやかれた女子の声。
「ずるいわ。黒須君の魅力にあたしは中学時代から気づいていたわよ」
「嘘言いなさいよ。あなた、神山君が好きって言ってだじゃない」
「あなたこそ、三条君オンリーだったじゃない」
「あなたは石井君だったでしょ」
「そういうあなたは徳永君派だったはず」
オレを囲んで殺気をみなぎらせる女達に、オレはたまらず立ちがろうとした。
「いや、あの、ごめん、オレ、幹事だから動かないと」
途端、にゅっと細い腕が何本もオレに向かって伸び、オレはたちまちのうちに拘束されて、強引に座布団の上に戻された。その力たるやプロレスラーもかくやと思うぐらいだ。
「そんなの吉田にまかせとけばいいって」
「そうよ。一緒にのも♪」
「黒須君、ねえ裁判官やってるって本当?」
「きゃあ、かっこいい♪ 素敵!」
「おまえは無罪、とかいうの?」
酒が入った女子のテンションはうなぎ上りにあがっていき、オレは問答無用でつぎつぎにビールを注がれ「一気、一気!」と煽られ、箸まで揃えられて「どうぞどうぞ」と食物を無理やり食わされていった。
「おーい、オレたちともしゃべってくれよ」
男子たちの恨めしそうな声が上がる。たちまち女子が「うるさーい、その他大勢の男子は引っ込んでっ」と一喝する。その雰囲気は当時の教室よりもはるかに元気だ。
「もてるなあ、黒須」
恭平がそばに来た。棒切れのように細かった恭平は幾分、腹周りに貫禄がついていた。野球部の象徴だった丸坊主も、今は清潔感あふれる短髪になっている。おい、助けてくれよ――。オレは目で訴えたが、恭平は面白がって笑うだけだ。
「あいつ、まだ来ないぜ?」と恭平。その目は店の出口の方を見ている。
「誰?」
訊くと恭平は言う。「マンモスゴリラ」
ああ、とオレがつぶやいたその時だった。
古民家風の意匠を施した入り口の引き戸が、がらがらと横に開き、笑顔の女が入ってきた。
「おまたせ! 遅くなっちゃった」
「お……」吉田が座敷から下りて、土間にあった店のサンダルをつっかけて行った。「おまえ、池田か?」
「そうよ。あんた、黒豆ね? 丸坊主だった黒豆!」
「そうだよ。いやー、なつかしいなぁ。っていうか、おまえ変わったなぁ~」
「やだ。なに言ってんの」
「本当だよ。マンモスゴリラが来るって楽しみにしてたのに、これじゃ、からかえないじゃん」
恭平の言葉はわずかにうわずっていた。それもそうだろうと思った。なぜなら現れたマリナは彼らの記憶にあるチビで野生味あふれるマンモスゴリラではなかったからだ。大きめの白いシャツに、細身のジーンズ。渋茶色の革製クラッチバッグ。首元には小さなダイヤのネックレスが光っている。化粧はナチュラルで、髪も自然に肩に垂らしているだけだ。他の女子達に比べると地味なのになぜか目を惹きつけた。それは人工物に囲まれた街の中にいると、無性に空の青さを確認したくなるような感覚にとても似ていた。
綺麗になったな――。
夕焼けの中、コーヒーショップのテラスで、パリ行きのチケットを渡したあの日のことが蘇った。あれから七年だ。オレ達は24歳になった。さなぎが蝶に変わるには十分すぎる時間だ。おそらく大人の女になったにちがいない彼女を目にして、オレの胸はスーパーでもらうビニール袋を破ったときのようなうまく破け切らないもどかしさを感じた。
「あのね、付き添いがきちゃったんだけど、いい?」
「付き添い? 誰だよ」首を傾げた恭平は、すぐにはっとした顔をした。
「あ、もしかして、旦那さん?」
「違う違う。まだそんなんじゃないんだけど……」
マリナは否定するが、恭平は独り合点したように手を打った。
「そうか。池田の旦那さんか。そりゃいい。ぜひ紹介してくれよ」
じゃあ、と言ってマリナが開けたままだった外に向かって手招きした。暖簾をくぐって男が一人入ってきた。途端、オレの周囲でガチャンガチャンとグラスを落とす音がけたたましく続いた。そして、先ほどまでは子雀が泣きわめくようにざわついていた居酒屋が、一瞬にして店ごと湖の底に沈んだかのように沈黙した。
その場にいる全員が、悪魔に魅入られたかわいそうな子羊みたいだった。
その悪魔は、突如マリナを後ろから抱きしめた。そして彼女の顎を細く傷一つないしなやかな指先でくいっと持ち上げると、形のいい薄い唇を彼女の唇にかぶせた。
「ん…っ、や、だめ…っ」
マリナは両手を空に泳がせて抵抗するが、男は行為を止めない。彼女の手が男の胸に行き当たり、ぐっと引き離そうとする。男の着ているシルクのシュミズが彼女の手元でしわを作った。だが、ますます口付けは深く、激しくなっていく。男の手は彼女の腰椎をゆっくりと撫で上げていく。唇が触れ合うひそやかな音と吐息が響いた。
小汚い居酒屋の入り口で、突如はじまったフランス映画を彷彿とさせる官能的なキスシーンに、ふたりの至近距離にいる恭平はもちろんのこと、居酒屋全体が時を止める魔法にかかったようにピクリとも動かない。
そのまま十秒、二十秒、一分――。
ストップモーションになってしまった店内を見渡して、オレはため息をつきながら立ち上がった。座敷に座ったまま固まる同級生の間をすりぬけて土間に下りて、四十足以上ある靴の名から自分のものを探して履き、店の戸口に行って、二人に声をかけた。
「そこまでだ」
二人はようやくキスをやめた。マリナはほおを染めて顔をそむけた。
「おい、ちょっと顔かせよ」
「え……」マリナが真っ赤な顔をあげた。オレはそんな彼女を見下ろして言った。
「マリナ、お前はここにいろ。そのうち、連中も正気に戻るだろうから、適当に話合わせとけ」
「う、うん」
「外で話そう。いくぜ」
オレが人差し指でちょいちょいとしながら外に出ると、マリナの付き添い――つまりシャルルだが――やつがついてきた。



オレ達が面と向かい合うのは、パラドクス以後、初めてだ。シャルルはちっともかわっていなかった。相変わらず端正で美しい顔をしている。神々しい、と言ってもいい。
駅前の繁華街。人気のない裏道を探して、オレはやつをそこに引き込んだ。白金の髪が下卑た街のネオンに光っていた。
襟元に贅沢なフリルの施されたシルク素材のシュミズをこれだけ見事に着こなす男は、二十一世紀においては、こいつぐらいしかいなのではないかと思う。普通ならおかまっぽくなりそうなところ、ちゃんと色気を備えた男にみえるのだから不思議だ。
「おまえ、同窓会にもついてくってやりすぎだよ」
ちょっと睨むと、シャルルは平然と胸をそらした。両手は黒のパンタロンのポケットにつっこまれている。
「そうか? 恋人としては当然だろう?」
「やりすぎ。束縛チックだぜ?」
「オレの愛がうっとおしいのは、今にはじまったことじゃない」
「まあな」そう言われてしまえば元も子もない。マリナを忘れるためにといって、バラの中で半永久量の睡眠薬投与を命じてカプセルに閉じこもった奴だ。もともと執着気質なのだ。オレは頭をかきながらたずねた。「おまえ、なにをしに来たわけ?」
「見せつけるためだ」
「オレにか?」
「違う」
「じゃあ、誰にだよ?」
「シャルマリ流派にだ」
「はあ? お前らはもう再会して結ばれたじゃん。前回の第五話では禁断の叙述トリックを使ってまでシャルマリ再会&初ベッドシーンを描いただろ? もう十分だろ。今更なにを見せつけるんだ?」
「カズヤ、君はわかっていないな。シャルマリ流派のあくなき欲求を」
「はああ???」
「シャルマリ流派の二次創作物の使命は、オレとマリナの再会だとかつて言ったな。それは間違いない。だが、それが果たされた後はどうなると思う?」
訊かれて、オレは腕を組んで首をひねって考える。
「別にしあわせな恋人関係をつづければいーんじゃね?」
「そのしあわせをみせつけるのがシャルマリ流派の第二の使命だ。とにかくイチャコラ。ひたすらイチャコラ。どこでもイチャコラ。どういうわけかわからないが、日本人は、フランス人というものは絶えず体をひっつけて愛の言葉をささやきまくり、キスばっかりして、それどころか日常生活の中でセックスの機会ばかり狙っている民族だと思われている。いや、フランス人がというよりも、シャルルドゥアルディという人間がかもしれないが。だが米国の情報誌が調査した『世界の性欲大国』ランキングでは、フランスはトップテンには入ってない」
「そりゃそうだ」オレは呆れるしかない。「オレだって半分はフランス人だけど、そんなに性のことばかり考えてないぜ」
「だろ?」シャルルも右手の人差し指で頭頂部をぽりぽりとかいて、苦り切った様子だ。「しかし、シャルマリ二次創作では、オレはそういうポジションなんだ。マリナ獲得後は異常なまでの嫉妬男、かつ常時肉体接触による愛情確認を求める下半身男になるのだ」
「それ、ビミョー……。少なくとも原作のお前はそうじゃないじゃん? マリナの扱いはかなりひどかったけど、ちゃんと人間として扱ってたなとオレは思ったよ」
シャルルはなにも言わない。オレは続けた。
「なのに、恋が結ばれた途端、肉体交流ばっかになるのかよ? それ、寂しいじゃん」
シャルルは深く長い息を吐いた。
「仕方がないだろう」
「仕方がない?」
「ああ」とシャルルは白金の髪をほおに垂らして頷いた。「精神的なつながりを書くより、肉体のつながりを書くほうが簡単だ。いくら体を毎日よせあってキスしまくっても、それが永遠の愛のあかしではないと、シャルマリ流派だって、わかっている。だが、永遠の愛をどうやって書く? 形のないものを、どうやって字にする?」
「そうか……難しいよな、それ」オレはわかった気がした。「だから二次創作にはR作品やらプロポーズものが多いんだな?」
「そうだ」シャルルは悲しげな顔でオレを見た。青に近い灰色の目はわずかに揺れていた。「原作者が触れなかった場面を書くことが、てっとりばやく読者を納得させられるし、自分も満足できる。原作ではマリナは華麗の館でオレ(シャルル)に性欲を感じずに寝てしまった。だから、もっとも簡単な永遠の愛の表現が、そんなマリナとオレの合意の上での性描写と、結婚なんだ」
「安直」
つい素直な感想を漏らすと、シャルルが「シッ」と人差し指を口の前に立てた。
「それは禁句だ」
「あ、やべっ」
オレはあわてて口を押さえた。
「セックスとプロポーズか。まあ、盛り上がるよな」
「だから再会~セックス~プロポーズまで書き上げると、ほとんどの二次作家たちは一定の満足を得て創作活動から卒業する。再中毒と呼ばれるひとみ作品への傾倒がだいたい一年程度で熱が冷めるのも、それが所以だ。創作活動をしないシャルマリ流派もいつくかのサイトやブログを回り、複数のパターンの創作を読むことによって満たされて卒業していく。それでもなお中毒を続行するかどうかは個人差だろうな」
「ここの管理人はかなりしつこいぜ?」
「ああ、実に変な奴だ。いつまで経っても卒業しない。何種類のパターンを書けば満足するんだって感じだ」
オレたちは笑った。しばし、空気が和んだ。それからオレは表情を引き締めて元の会話に戻った。町の騒然としたにぎわいが近くに聞こえた。
「シャルマリの結婚が、中毒者にとっての卒業のくぎりだってことまでは理解した。でもさ。結婚=永遠の愛だなんて、今どき思ってるやついないだろ?」
「それは原作で、式はランスだって、オレが言っちまったからだ」
「ああ……」オレは目を細めて嘆息する。「新婚旅行は月まで行こうってあれか?」
「シャルマリ二次創作で結婚話があるあるなのも、オレが華麗の館でマリナにプロポーズしたからだ」
「そっか。つまりシャルマリ流派はその言葉に呪縛されてるのか」
シャルルは頷く。
「シャルマリ流派は、原作でかなえられなかった願いをお前にかなえさせてやりたいんだな。シャルマリ流派って本当に愛が深いなぁ~。お前、そんなに思われて幸せ者だぜ?」
ああ、感謝してる、だけど――とシャルルは小さな声で言った。肺の一番隅にある細胞から、たまった空気を吐き出すような言い方だった。
「人前でちゅっちゅやるのだけは、勘弁してほしい。恥ずかしいから」
シャルルは片手で顔を覆った。その顔はこの上なく憂鬱そうに沈んでいたが、白い頬はピンク色に染まっていた。
――照れてるよ、こいつ……。
IQ269のらしくない困惑した様子に、オレは笑いそうになるのを必死でこらえた。同時に、多くのファンを持ち、シャルマリ界のヒーローとして君臨している親友の苦悩を知った。
原作での正統ヒーローのオレ。二次創作界でのヒーローのシャルル。いずれにせよ、ヒーローって辛いよな。
「まあ、がんばれよ。オレ、お前たちの味方だから」
そうなのか、と驚いた様子のシャルル。「それはそうだろ」とオレは口を尖らせた。
「オレはさ、マリナと別れるということと、シャルマリの応援者ということで、シャルマリ界に存在意義があるんだぜ。そうでないと下手したら登場すらしなくなる」
「そういうものか」
「ああ。だから模範的回答。オレはイッショウトモダチだ(笑)!」
オレたちは握手を交わした。よかったとしみじみ思った。これでオレはこのシリーズから消えないで済む。もし「お前たちをゆるせない」なんていったら、ソッコーシャルマリ創作からは消されちまう。
オレははあと深いため息を吐いた。
「そっか。いつかみんな卒業しちまうんだな」
オレは胸が締め付けられるような寂しさを感じた。こんな風に悩んでいられるのも、二次創作物という世界があるからだ。1990年代。バブルがはじけたばかりのまだ世の中が賑やかだったあの良き時代に止まった話を、今も覚えていてくれるファンたちがいるからなのだ。だがその彼女たちもいつかはオレたちをブックオフに売ってしまうのだろうな。
「オレたちのこと、みんな、忘れちまうのかなぁ?」
「大丈夫だ。今、君たちがやっていた同窓会みたいなものだ」シャルルは手を下ろして言った。確信に満ちた強い声だった。「カズヤ、君だって、中学の同級生のことを普段は思い出さなかっただろう。でもふとしたきっかけで思い出したらものすごく懐かしく、慕わしく、会えば話は盛り上がる。当時の気持ちが瞬く間に蘇る。オレたちはそういう存在なんだ。昔、バラ色の背表紙のオレたちを小遣いで買ってくれた少女たちが、大人としての日常に少し疲れて、ときめきを補充したくなった時に、オレたちを思い出して気軽にオレたちの世界に戻ってきてくれたら、嬉しいと思わないか?――」
「思う」
「だろ?」
シャルルはオレの肩にぽんと手を置いた。
「だからオレたちはこれからもネットの世界で生き続けよう」
オレは強く頷いた。シャルルは鮮やかな笑顔で笑った。それから「ただし」と言った。
「不満がひとつある」
「なんだ?」
「原作がアマゾンで1円ということだ」
「は?」
「華麗なるシャルルドゥアルディが登場する本がなんで1円なんだ!? ゆるせないだろ!? せめて269円にしてほしいっ!!」
オレはたまらず噴き出した。そして言った。「小説世界に戻ろう」




居酒屋に戻ると、恭平がマリナを口説いている最中だった。体を寄せ合うようにして隣に座って、マリナの手を両手で包み込むように握り、彼女の耳元に何やらささやいている。マリナは微笑みを浮かべて楽しそうに聞いている。
忘れてた、マリナって、共演者キラーだった――。
オレは殺気を感じてぞっとした。隣に立っていたシャルルが、こめかみに青筋を立てて般若のような顔をしていた。
その後、恭平を襲った悲劇については、オレはもう何も言いたくない。




エピローグにつづく

シャルマリの流儀 エピローグ

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タイトル「シャルマリの流儀」


プロローグ
1、小菅拘置所の別れーー「もう離さない、俺のものだ」の真意
2、恋人試用期間?ーー飯田橋と横浜はわりと近い
3、マリナの処女性議論ーーオレ、もらっちゃダメでしょ?
4、期待される別れ方ーーパリ行きの航空券は用意しましょう
5、友情継続問題ーー唯一の親友という十字架
6、将来の希望は?ーー友としてシャルマリを支えます!(模範的回答)
エピローグ
最後の対決


◇◇◇



エピローグ



浮気は男の甲斐性だなんて、誰が言い出したんだろう――。
ある調査によると、結婚一年後の男性の浮気率はなんと驚きの54.8%なのだ。これを見て多いと思うかどうかは千差万別だと思うが、「一生この人と一緒に暮らそう」と曲がりなりにも決意したにもかかわらず、どうしてパートナーを裏切ってしまうのか、オレには理解できない。
裏切るぐらいなら初めから誓わなければいいではないか。
恋人と結婚。日本においてはたかが紙切れ一枚の違いだ。役所での手続きは簡単。届出をする当人たちが意気込んで行っても、紺色の古びたアームカバーをしたおじさん職員に「はい、結構ですよ」さめた顔で受付されておしまいなのだ。神聖でもなんでもなく、書類上の不備がなければ、あっけなく夫婦になれる。
愛だの恋だので生活が続かないことは、結婚式が終わればわかる。極端な例をいえば「成田離婚」という言葉も流行った。お互いがそれまで生きてきた生活をすり合わせて、共同生活をするわけなのだから、そこには違和感やストレスも生じる。問題はそのストレスを超えて「相手と一緒にいたい」と思うかどうかだ。


オレが最近関わった裁判は、ある夫婦の事件だった。
二人は高校生の時のクラスメイトで、妻は夫にひそかな片思いをしていたという。内向的な性格の彼女はなかなか言い出すことができず、やがて彼と彼女の親友が交際をはじめた。彼女は黙って見ていた。そのうち彼と親友は別れた。別れた理由は知らない。彼女は勇気を出して告白し、晴れて彼と付き合うようになった。それが大学生の時である。
その後、順調に交際を続けた二人は結婚した。子供には恵まれなかったが、幸せな結婚生活を営んだ。
だが、数ヶ月前から夫の様子に異変を覚えた。帰りが遅くなったり、休日には仕事だといって出かけるようになった。「どうしたの?」と聞いても「仕事が忙しくて」としか答えない。なのに、妙に優しいのだ。突然ケーキを買ってきたり、肩を揉んだりしてくれた。夫の優しさは、彼女の心に嬉しさよりも胸騒ぎを巻き起きした。なぜならば夫はどちらかというと冷ややかな性質の持ち主だったからだ。
夫の仕事はある事務機器メーカーの経理だった。残業や休日出勤はこれまでほとんどなかった。なぜ急に仕事が忙しくなったの? どうして突然優しくなったの? 夫にはなにか秘密がある――。日を重ねるたび、その思いは確信にかわった。
ある夜、夫の会社の前で、彼が出てくるのを物陰から待った。そして出てきた彼の後をつけた。
妻は衝撃的な光景を目にすることになった。
夫は町の交差点で手を挙げた。あんなにいい笑顔は見たことがありませんでした、と後に妻は述懐している。夫が笑顔を向けた先にいたのは、なんと、彼が大学時代に別れた、妻の親友だったのだ。
二人が腕を組んだとか抱き合ったとか、そのようなことは妻は見ていないらしい。
それなのにどうしてこんなことをしたのか、と問われた際、妻が述べた陳述だ。
「たとえ指先すら触れ合っていないとしても、あの夫の嬉しそうな顔がすべてです。私はその瞬間、何もかもわかりました。どうして夫の帰りがおそくなったのか。どうして夫が優しくなったのか。夫は浮気をしていたのです。夫は彼女がずっと忘れられなかったのです。私は妻です。戸籍もそうなってます。生活だって共にしています。なのに夫の中で、私は永遠の二番手だったんです――」
妻は物陰から飛び出して、相手の女を車通りの激しい交差点に突き飛ばした。女は転がるように道路に倒れ、通りかかった車にそのままひかれた。女は即死だった。
彼女は、傷害致死罪で懲役5年の実刑判決となった。
浮気があったのかどうかは争点のひとつだったが、夫は最後まで認めなかった。妻側の弁護士もあまりやる気はないようで、殺人罪ではなく傷害致死罪になればそれでよいと考えていた様子で、夫への深い追求はなされなかった。
判決を裁判長が言い渡すとき、彼女は俯いてじっと何かに耐えていた。彼女の夫はついに一度も傍聴席に現れなかった。聞くと、弁護士を通じて離婚の手続きをとったらしい。


夫は本当に浮気をしていたのか?
その問いは、謎のままだ。そして夫はおそらく一生真実を語らないだろう。




――あれは後味の悪い事件だったな……。
通常の勤務を終え最寄りの駅についたオレは、駅舎から出て、真夏の夕焼け空を見上げた。スカイブルーの空と、太陽色で染まったビルディングのでこぼこした輪郭が、絵の具では到底作り出せないようなファジイな紫色でつながっている。
ここのところ激務が続き、頭も体もかなり疲れていたオレは、太ももの筋肉を弛緩させるような歩みで疲労を散らしながら家に向かいつつ思った。
もしこの先、オレが結婚することがあったら、浮気だけはしない。
ただ一人だけを心から愛そう。それが人をしあわせにするってことだし、自分もしあわせになるってことに、ちがいない。
結婚一年後の浮気率54.8%なんて、くそくらえだぜ!
百年後千年後も愛を誓うぞ!!
と、オレはまだ見ぬ愛しい人への熱いラブを胸に、鞄を肩に抱えなおして、坂道を走るように家に急いだのだった。
最後の角を曲がり家が見えた途端、オレは「ん?」と思った。
家の前に誰か立っている。シルエットからして女だ。グレイのパンツスーツの小柄な女。誰だ?
目を凝らしながら近寄って行って、家の前まであと5メートルぐらいという地点まできたとき、その人物の姿をはっきりと認識して、心臓がつよく収縮した。ぎゅーっと引き絞れて身体中のあらゆる血管に送られる血が瞬間遮断する。
「お前、マリナ?」
呼びかけると、彼女はこちらに気づいたようだった。表情筋をあざやかに緩ませて、ダリアの花が咲くように見事な笑顔を浮かべる。
「和矢っ」
「おいおい、本当にマリナかよ?」
オレは慌てて彼女に駆け寄った。オレ達は、オレの家の門の前で向かい合った。マリナに会うのは、二年前の同窓会以来だ。去年シャルルと結婚して、現在はアルディ夫人として公私ともに忙しく過ごしていると風の噂で聞いていた。彼女は言った。
「ごめんね、突然来て」
「いや。別にかまわないよ。まあ、びっくりしたけど。――で、どうした?」
「ちょっと話があって」
そう言って、拳を口元にあてるマリナ。化粧気のない顔に、憂いの影がよぎる。
「ま、とりあえず入れよ」
オレはマリナを家に引き入れた。いつものように迎えに出てきた家政婦の市原さんはオレが女連れで帰ってきたのを見て、肝をつぶしたようだった。そしてその女が、かつてよくこの家にも遊びに来ていたオレの彼女――池田マリナであることを知ると、縁日で子供にすくい上げられた出目金のように目を大きく見開いて口をパクパクとさせた。
「お変わりになりましたねぇ……別人のようでございます」
オレはマリナをリビングに通した。マリナはソファに座った。セカンドバックを足元に置き、つま先は斜め四十五度にぴたりと揃えて伸ばし、腿の上に上品に手をそえている。その姿からは昔の野生児マリナなどまったく想像もつかない。
市原さんが紅茶を淹れてくれた。彼女お手製の菓子も一緒に供された。
「シフォンケーキでございます。あんずジャムと合います」
市原さんはかの日のマリナの食欲をよく覚えているようだった。おかわりも沢山ございますよ、と彼女は言った。だが、マリナは笑みを浮かべながら手をかざした。
「ありがとう。でもお菓子はいいわ。お茶だけいただきます」
まあ、と市原さんがつぶやいた。正直に驚きの声が漏れたという感じだった。
「それではごゆっくり」というと彼女は後ずさりをするようにリビングを出て行った。市原さんは出て行った後、廊下にしゃがみ込んで、リビングの扉をすこーーしだけ開けて、片目をちらっと覗かせて盗み聞きするんだろうなと思った。それを咎める気はなかった。むしろ歓迎したい思いだった。マリナは今や人妻だ。その彼女と二人きりになるつもりは毛頭ない。自らの潔白を証明するためにも、家政婦は見た状態をやるに違いない市原さんの存在はありがたかった。
市原さんが出て行った廊下につながるドアが薄らと開くのを、顔を動かさないまま目の端で確認したオレは、安心してマリナに話しかけた。
「――で、突然、どうしたんだ? なんかあったか?」
「あのね」とマリナは言った。左手で髪をかきあげて、耳にかける。ちょっと色っぽい仕草だった。ドキマギしながら「ん?」と首をかしげる。
「シャルルが浮気してるみたいなの」
「はぁ? 浮気? あいつが?」
「うん」
オレは素直にびっくりした。マリナ一途なあいつが浮気するとは。しかも結婚してまだ一年だ。54.8%のなかにあのシャルルドゥアルディが入ってしまったのか。まさに驚天動地とはこのことだ。これはシャルマリ流派のみんなも相当度肝をぬかれるだろうな。
「おいマリナ、それ、本当か?」
「本人には確かめてないわ。でも、あやしいの」マリナは唇をかみしめた。眼差しを伏せる。「最近帰るのが遅いの。ひどいときは、明け方に帰ってきて、11時までひたすら寝て仕事に行って、また午前様よ。あたしのことなんかまるで無視。それから、電話があったの」
「電話? 誰から?」
「女の人よ。名前は言わなかったわ。でも……」
「でも?」
訊くと、マリナは顔をさっと赤らめてそむけた。
「おたくの旦那さんの右太ももの裏には、二つホクロがあるでしょう?って……」
オレはつい「うっ」と変な声を漏らしてしまった。「ごめん」と消えそうな声でマリナが言った。つまりシャルルと愛人関係にあるとその電話の女は言いたいらしい。妻であるマリナへの宣戦布告なのだろう。
「いや、でもさ」オレは意味もなく辺りを見渡しながら側頭部を右手でぽりぽりとかいた。生々しくなってきた話にどう対応すればよいのか、正直いって困った。なんで別れた女のカウンセリングを受け付けなきゃならないんだよ――若干やさぐれる。
とにかくここは穏便にすませようと、一生懸命考えて、オレは笑顔を作って言った。
「多分さ、それ、いやがらせだよ」
「いやがらせ?」
「ああ」オレは膝の上に両手を置き、前のめりになって、マリナに向かい強く頷いた。「あいつはアルディ家の当主で、その他の分野でもいろいろ活躍する大天才だ。やっかみも多い。お前たち夫婦の仲をこわして、あいつの精神状態を追い込みたいって輩だっているさ。でもなマリナ。そんなのひとつひとつ気にしていても仕方がないぜ。放っとけ。それが一番いい」
「じゃあ、事実無根のことだっていうの?」
「そうさ。あのシャルルがお前を裏切るわけない。そんなこと、お前が一番よくわかってるだろ?」
マリナは考える様子を見せた。一分間ほど黙り込んで、その後慎重な口調で切り出した。
「でも、ただのやっかみな人が、太ももの裏のホクロの数を知ってる?」
オレは低く唸った。それはそうだ。オレだって、いくら親友とはいえ、そんなものは知らない。
「それはさっ」オレは人差し指を立てた。目が泳ぐのを止められない。「えーっと、えーっと、それは多分、昔の女だろう」
「昔の女ですって?」マリナの顔がたちまちこわばる。しまったと思ったが、一度口から出した言葉は引っ込められない。オレは覚悟を決めてその先を続けた。
「マリナ。お前とうまくいくまで、つまりお前と再会するまでにシャルルに女関係が何もなかったと思うか? あれだけの男だ。女が放ってはおかないし、シャルルだってパラドクスでお前を手放して、ものすごく傷ついた。だから、その傷をごまかすために他の女を一時的に求めたからといって、お前にそれが責められるか?」
「…………」
マリナは無言で膝の上の両手をぎゅっと握りしめていた。たとえ酷くとも、真実は言うべきだ。その意思を固めてオレは言った。
「いいか? そもそもこの話はシャルマリ流派のための二次創作物だ。そのシャルマリ流派自体が、パラドクス後のシャルルの乱行を黙認している。むしろそういうシャルルを好む傾向すらあるぐらいだ。もちろん彼女達だって、実際に浮気する男はゆるさないだろう。だけど、愛した女(マリナ)を思い切れない苦しさを行きずりの女で……というシャルルの若い頃のあやまちにはなぜか寛大なんだよ」
沈黙し続けるマリナに、オレは激流のように言葉を叩きつける。
「だから、お前もゆるせ。きっと今回のことは、そういう昔の商売女が、シャルルの敵と手を組んだだけのことさ。陽動されるな。いいか。シャルルはお前を愛している。そうに決まっている。あいつのことはこのオレが保証する。だから、どんなにあいつが忙しくても、無視されているように感じても、寂しくても、今後は絶対にオレのところになんか来るな。夫婦の問題は夫婦で解決しろ。他人を介在させていいことは一つもない。わかったか?」
うつむいたままマリナははらはらと落涙した。彼女の一部がはがれ落ちていくような悲しい姿だった。スマートなパンツスーツの膝がたちまち濡れて色が変わっていった。
負けると思う時が負ける時――それが常套句だった彼女が、自分のために泣く姿は痛々しかった。
さなぎが蝶になるということは、輝きを失うことを意味するのだろうか……。オレは胸を痛めながら、納得してくれたのならいいが、と思った。
その時だった。
玄関チャイムを狂ったように鳴らす音が聞こえた。同時に廊下で「あれぇ」という市原さんの声が上がり、直後、彼女を押しのけるようにして、シャルルがリビングに飛び込んできた。走ってきたらしく、肩で荒い息をしている。
「シャルル、おまえっ!」
叫んだオレの姿など目に入らないとばかりに、シャルルはマリナの元に駆け寄る。マリナは腰を浮かせるように立ち上がった。
「シャルル……」
「ごめん、マリナ」
腕を掴まれながら頭を下げられて、マリナは震えながら頭を強く振った。
「ううん、ううん。あたしこそ勝手に出て行っちゃってごめんなさい……」
シャルルは顔を起こして、微笑んだ。泣き笑いのような顔だった。
「君がカズヤのもとに行ったと知り、気が狂うか思ったよ。君を再び失ったらオレはもう生きていけない」
「あたしも……あたしもあんたがいないと生きていけないっ! 和矢なんていらない。誰もいらない。シャルルだけがいればあたしは幸せなの。世界はそれで完結しているの。シャルル、永遠に愛してるわ!!」
マリナはシャルルの首元にすがりつくように抱きついた。彼女のくびれた腰をシャルルが強く抱え込む。黒須家のリビングルームで抱き合う二人は一本の観葉植物のようだった。
オレはそんな二人の様子をじっと見ていた。いつの間にかリビングに入ってきていた市原さんがぼっちゃま、と小さな声でささやいた。オレは右手の人差し指をすっと差し出して、ある人物を示して言った。
「お前、誰だ?」
部屋の空気が一瞬、止まった。
オレが指差したそいつはくす、と微笑んだ。何もかも計算通りという笑い方だった。それを見て――オレの中の疑惑は確信へと変わった。
「あたし?」とその女は言った。「マリナよ。何言ってるの?」
「いいや、お前はマリナじゃない」オレはかぶりを振る。「今思うとオレはずっと違和感を覚えていた。何時からかはわからないが、目の前にいる女の子は、マリナの姿をした別人じゃないのか――?という気がしていたんだ。確かにマリナっぽかった。この話がはじまった頃の外見描写はちょんちょりんとかもちゃんとあってマリナそのものだったし、食べ物に目がないというエピソードもあった。でも何かが違ったんだ」
マリナはシャルルの胸から身を起こし、彼から離れて、両手を腰に当てた。
「和矢、あんたするどいわね」マリナは顎を引き、オレを上目遣いに見て、声を立てて笑った。「そうよ、あたしはマリナじゃないわ」
「お前、誰だ?」
「ズバリ、あたしの名前はシャルマリ流派よ」
「シャルマリ流派?」
「ええ」
頷く彼女にオレは息をのんだ。シャルルも同じように呼吸を止めた気配がわかった。
「よくわかったわね」
「大人の女を演出しすぎだ。ここ数話の変化はあまりにも極端だった」
「まあね。あたしもちょっとやりすぎだと思ったわ。芸能人かというぐらいスタイリッシュを持たせるんだもの、でも、仕方なかったのよ」
「仕方ない?」
「シャルルに釣り合う女にならなきゃいけなかったから。いつまでもブラウスにキュロット穿いて、しかも赤いぼんぼんのちょんちょりんってわけにはいかないでしょ? 1990年代ならゆるされただろうけど」
マリナは細い腕を組んで、足も交差して、つる植物のようにしなやかに立って苦笑する。そういう風に立つと、体の線を浮き立たせたパンツスーツが艶かしくて、もうどこからどう見てもバスト2センチのマリナと同一人物には見えなかった。むしろどうして今まで騙されていたのかが不思議だった。
シャルルがたずねた。「なぜ、シャルマリ流派がマリナになっている?」
「何言ってんの、今更。二次創作のマリナ=シャルマリ流派だってことは、あんたもわかってたでしょ? シャルマリ流派は『シャルル』と『マリナ』がくっつけば満足なの。その過程でマリナのキャラクター性を犠牲にすることはあまり問題にされない。だから二次創作物でマリナは、かわいい女になったり、妖艶な女になったり、卑屈になったり、素直になったり、根暗な性格になったり、やたら一途になったり、内向的になったりと、原作からはほど遠くキャラ変させられる。結局、シャルマリ流派は、自分たちの性格に『マリナ』という名前を着せているだけなのよ。シリーズ主人公池田マリナを追放したのは他でもないシャルマリ流派よ」
それは正論だった。反論の余地が見つからず、オレは拳を握り締める。
「……本物のマリナはどこにやったんだ?」怒りを抑えながら訊くと、マリナの顔をした女は答える。「封印してるわ」
「封印だと? どこに?」
「どこだと思う?」
オレは考えた。マリナが、マリナでなくなったのはどこだろう――。前回の同窓会? いや、別れを告げたコーヒーショップ? 順調に交際していた頃? いや、この話が連載開始した頃か? ――いやもしかすると――?
「パラドクス?」
「まさか……もっと前?」
オレ達が順に訊くと、偽マリナは答えた。
「さあね。探せば?」
「なに?」
「すべてが思い通りになる二次創作物の世界に首までつかったあんたたちに、原作の破天荒なマリナが見つけ出せるものならばね♪」
その瞬間、ヒュウンという電子音がした。目の前が一瞬真っ暗になる。それはコンマ一秒の千分の一ほどの時間だったと思う。次に明るくなって、視界に再び黒須家のリビングルームが見えた時、そこにいたのはオレとシャルルと市原さんだけだった。大人のマリナの姿をしたあの女はどこにもいなかった。
先ほどの力が抜けていくような音はシャットダウンの音だったのだ。
この二次創作物の世界が終わったんだ、――オレは誰にも説明されることなく、そう直感した。
部屋の中に重い沈黙が立ち込めた。
「これからどうする?」
顔を上げると、オレはシャルルに言った。
「もちろんマリナを探すさ」
とシャルルは答えた。
「だけど、どこに封印されたのか、見当がつかないぜ」
「ふん」
シャルルは空の一点を厳しい表情で見つめていた。「オレは必ず本物のマリナを見つけだす」
「一筋縄じゃいかない感じだぜ」
「かまわない」
「まったくもう……」力の入ったやつの様子にオレは頭をぽりぽりとかく。「よし、オレも付き合うよ」
「え? 君がか? だがこれはシャルマリ創作だ。ラストまで付き合っても君にいいことはないぜ?」
「ケツの穴のちいせぇこと言ってんじゃねーよ」
オレは笑った。
「オレ達、親友だろ。今度こそ一緒に闘おうぜ」オレは、シャツの袖をまくり上げて、シャルルに向けてぐっと力こぶをつくって見せた。いつぞやの夜間工事で稼いだ金で、完治させた腕だった。




最後の対決 につづく

情実の白夜

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おはようございます。
先週以来、別館のパスワードをご請求くださった皆様への感謝創作です。

「情実の白夜」→FC2で限定公開中。


(記事へのPWは、記事のパスワード入力欄のダイアログに質問が出てきます。ひとみっこなら誰でもわかるその答えがPWになってます。ローマ字で入力してください)

内容としては、いつぞやゲスト様とふかーい雑談をしたことが元ネタになってます。
「シャルルの仕事中ラブが見たいっ!」「それもできればラブ度上で」「秘書とかいる前で?」「それはやばすぎ」「じゃあ、夜?」「マリナはネグリジェかな」「シャルルはまだ仕事中でしょ」「じゃあ椅子に座りながらとか」「ながら…なに?笑」「大人だ」「大人だね」
と、アホな妄想で盛り上がったことを書いてみました。ゲスト様、あの節は楽しかったですね~☆
妄想が炸裂しています。朝からすみません。片目つぶってご覧くださいませ(笑)

【薫BD創作】朝焼けを一緒に

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カーテンを開けると、ビルの谷間に朝焼けが見えた。夕焼けよりも透明度の高いオレンジ色で、鳥の音がバックサウンドだ。
「きれいだな」
思わずひとりごちる。
窓を開けて、ベランダに出た。日本の二月は寒い。暦の上では春だが、一年で最も気温が低下する時期だ。この冷たく張り詰めた空気が、薫は好きだった。身も心も引き締まる気がするのだ。
夜が明けて、朝が来る。
毎日がやってくる。
こんな当たり前のことに感謝できるようになったのは、最近だ。生まれて十八年間、いかに何も考えずに過ごしていたかと思う。心臓病を患っていたせいで、命の危険は何度も感じたが、「今日生きていてよかった」と実感するには、薫はまだ若すぎて、数え上げる幸福の数も足りなかった。
だけど、薫は朝焼けの空を見ながら、今、しみじみと思っていた。
生きていてよかった、と。
そう考えている間にも、朝焼けはどんどん色が薄くなっていく。夜を迎える夕焼けとは違い、朝焼けは希望の始まりに似て、色を失っても、光が消えることはない。
「薫、風邪をひくよ」
背後から声がかかる。優しい声だ。振り向いて、笑って見せた。
「一緒に見ない? 空、きれいだよ」
「空か」
「うん。なんてことない普通の空だけどさ。それがすごく素敵なんだ」
サンダルをつっかける音がして、薫のそばに暖かさがちかづいてきた。二人はベランダの柵にもたれて、同じように空を見た。
「本当だ。とてもきれいだね」
「だろ?」
「ああ。ありがとう。声をかけてくれて」
「いいものは一緒に楽しみたい。これ、あたしのわがまま」
くすと微笑む声。
「そういうわがままは大歓迎だよ」
そのまま二人で明るくなっていく空をじっと見ていた。
特別なこともドラマチックな事件も起こらない普通の朝。ただ肩を並べて見上げる空。
幸福な人生って、こういう「今幸せだな」と思えるささやかな瞬間瞬間を積み上げていくことをいうんだなと、薫は思った。



《Fin》
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