Quantcast
Channel: りんごの木の下で
Viewing all articles
Browse latest Browse all 577

君と、この奇跡の聖夜を 2

$
0
0
《ご注意》第一話の注意事項をご確認の上、ご了承いただける方のみ、閲覧してください。







図らずもシャルルのヌードを目撃してしまった日の午後に、それは起こった。

「―――で、松井さん。どうですか?」

あたしはドキドキしながら、受話器に耳をすませてたの。
松井さんは何も言わない。向こう側の編集部のにぎやかな雑音だけが聞こえてきて、ああ、もどかしいったら、ない。

「松井さん? 松井さんったら、聞こえてますか?」
「聞こえてるよ。もう、あんたったら、少しも『間』ってものを理解しないんだから。あんたのマンガと一緒だよね。出逢って、好きになって、突然別れが来るの」
「う」
「今時の中学生でも、もうちょっと『間』を取ると思うけどね」
「うう。それなら、別にあたしは止めてもいいですけど?」

また受話器がシーンとなる。あたしは覚悟した。
ああ、また三度の食事を二度にしないと。近くの公園に雑草をとりに行こうか。
それで一食ぐらいは何とかなるかもしれないと考えていると、やがて松井さんの声が受話器から聞こえた。

「いいよ」
「えっ?」
「条件を飲む」

あたしは思わず受話器を取り落としそうになった。
だって、信じられないっ!

「本当ですかっ!」
「ああ。背に腹は代えられない。じゃあ『聖夜ロマンス物語』を今すぐ持って来て。いや、しばらくあんたの顔見たくない。受付に置いてってくれればいいから。じゃあねっ!」

それだけ言ってガチャンと切れた受話器を本体に戻しながら、あたしはついつい電話機に向かって拝んでしまった。
それぐらい夢みたいだったんだものっ。
マンガ雑誌のクリスマス特集号。
この夢みたいな響きとは裏腹に、その内情は実に戦々恐々。実力ある超人気マンガ家さんが大作で部数を引っ張る一方、新人やあたしみたいな三流にとっては、マンガ家人生をかけた登竜門となる。
だから、是が非でも自分の作品を特集号に載せたい。
けれど、編集部もおいそれとは載せてくれない。
クリスマスは女の子の憧れの日。マンガにだって、当然それなりの夢や希望やロマンが求められるから、それを満たせる水準のあるマンガ家が選ばれるのよ。
だって、変な作品を載せたら、総スカンくらっちゃうもんねぇ。
当然、あたしもいくつものプロットを持参して、猛烈な自己アピールをした。
ネームにもした。さらに、求められていないにも関わらず、完全原稿にまでした。

「あんたを載せたら、クリスマス特集号じゃなくて、クリスマス特殊号だよ。くわばらくわばら」

松井さんはそう言って、あたしの原稿を突っ返したのよ、失礼ねっ!
あたしは心に強く誓った。
みてなさい、今にあたしが必要だって、泣いて跪く時がやってくるんだからねっ!
すると、その日は意外に早く到来した。

「池田ちゃん……たのみがあるんだけどさぁ……」

白妙姫も泣いてごめんなさいと逃げ出しそうなほど、うらめしい声で電話がかかってきたのは三十分前だった。

「あの原稿、まだ持ってる?」

何のことかと思って聞いてみると、なんと校了を明日に控えた今日になって、原稿落ちを出した大先生がいたらしい。なんでも、できあがっていた原稿を眺めながら、満足げに紅茶を飲んでいたら、愛猫が飛びついて紅茶をポットごとぶちまけてしまったんだとか。
ああ、それは気の毒に。
マンガ家の三大敵なのよ。涙と汗と飲み物って。
すぐに拭かないと、インクは滲むし、ケント紙は繊維がよれるし、トーンだって貼りつきが弱くなっちゃうの。それを何とかごまかしたとしても、一旦濡れた場所は、もう点描なんかまともに打てなくなる。
汗は努力の結果だし、涙は作品に力を入れすぎたあまり、といえないこともないけど、飲み物に関しては、完全に自己責任だものねぇ。御愁傷様。
クリスマス特集号だから、差し替えも日延べもできない。かといってページオチのままなわけにもいかない。そこで白羽の矢がたったのが、勝手に原稿まで仕上げていたあたしらしい。
まさしく棚からぼたもち。紅茶から特集号。
でも、はいそうですかと、素直に原稿をあげるマリナさんじゃないわ。
あたしは、交換条件をだしてみることにしたのよ。
すでに完成済みの『聖夜ロマンス物語』をあげる代わりに、次の仕事をくれって、松井さんにお願いしたの。
まさか、いいっていうとは思わなかった、やったわ!
あたしは意気揚々と『聖夜ロマンス物語』を片手に部屋を出て、一路出版社に向かった。



松井さんの言いつけを守って、受付で原稿を手渡したあたしは、とっても気分がよかった。
マンガで人助けできて、ついでに自分の欲望も満たせるって、最高ね。
松井さんも素直に出てきて、お礼の一つも言えばいいのに。
まぁアイツは元から性格の歪んだヤツだから、大先生の原稿オチという異常事態で錯乱してるんだろう。
そう思いながら、心のひろいあたしは彼の無礼な態度については深いあわれみで許してあげることにして、早速近くの食堂に入った。

「トンカツ定食、大盛りね!」

心ゆくまで大好きなトンカツを平らげて、店を出たあたしは、ふうっと空を見た。
ああ、なんて奇麗。
マンガ家としての将来も確保できたし、幸せ。
少し空気が冷たいけど、でも、気持ちいいなぁ……。
そのとき、ふと思った。
シャルルに会いに行ってみようか。
彼の勤務する東京国際医科大学病院は、ここから歩いて十五分ほどだもの。すぐ行けるわ。そう思うと、今まで、どうして一度も行っていなかったのかが不思議にすら感じた。シャルルが勤務医になってから半年もたっているのに。
患者にまぎれて行けば、びっくりさせられる!
よーし、決めた!
待ってなさい、シャルル。
今朝のお返しをするわよ!
あたしは、青になった信号を駆け足で渡った。








next

Viewing all articles
Browse latest Browse all 577

Trending Articles