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Channel: りんごの木の下で
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愛に濡れた黙示録 6

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《ご注意》第一話の注意事項をご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧ください。





マリナが和矢の腕の中でうとうとしていると、電話の音がなった。
無視しよう。
と思ったけれど、電話はひたすらなり続ける。
マリナの電話は黒電話だ。無料でレンタルできたからだ。けれど、沢山の欠点もあった。まず第一に、留守番機能がないこと。口約束だけが商売のマンガ家という仕事の自分にとって、これは少々問題点だった。
第二に、急いで発信したいとき、ダイヤルを回すのに時間がかかることだ。ジーコロコロ。くるっと回して、戻っていくその間を待っているのが、じつにじれったい。
けれど、それらを上回る最大の欠点が、つんざくようなベルの音だった。
まるで怒り狂った全宇宙の蝉が、一斉に耳元で泣いているようなその音は、どれだけマンガに集中しようが、無視できるものではなかった。
そして今、こうして恋人同士が甘い時間を過ごしているときにでさえ。
ジリリリリン。ジリリリリン。
ジリリリリリリリリン。
ベルが五十回を超えたころ、温厚な和矢すら、「しつこいヤツだな」とため息をつきながら、枕から頭を起こした。

「とれば?」
「いいわよ。もう十時だもん、ほっとけば」
「でも、急用かもしれないぜ?」

そう言われて、マリナはふと考える。
そうだ、松井さんかもしれない。仕事の依頼なら、断る手はない。
マリナは勢いよく起き上がって和矢の腕から飛び出し、そばに落ちていたカーディガンだけを羽織りながら、キッチンと部屋のちょうど境目にある棚の上に載っている黒電話に駆け寄った。

「はい、もしもし?」

途端に、耳につややかな薫の声が飛び込んでくる。

「お、思ったより元気そうだな」
「薫! どうしたの?」
「どうしたもこうしたもあるかい。三流マンガ家が、二日酔いで死んでないか確認」

薫らしいシニカルな言い方だった。きっと、受話器をけだるげに片手に持って、ニヤニヤと笑っていることだろう。
マリナは感動した。
心配して電話までくれるなんて、なんだかんだ言っても、やっぱり親友だ。素直じゃないところが玉にきずだけど。

「ありがと、薫。心配してくれて嬉しいわ」
「いちお、飲ませた責任があるからな。―――で、また黒須が来てるわけ?」

ぎょっとして、マリナはカーディガンの襟元を慌ててかき合わせた。

「きっ、来てないわっ!」
「そう?」
「そうよ! あたしはきわめてフツーに過ごしてるわ!」

すると、薫はあっさりと言った。

「フツーね。例えば、今、おまえさんはあられもないカッコで受話器を握ってて、後ろには黒須が寝てるとか?」

マリナはぐっと言葉に詰まる。
なんでバレてるんだろう。まるで、のぞき見されているみたい。

「図星か。まったくわかりやすいな。あれだけ飲んだんだ。黒須もおまえさんも、二日酔いで寝込んでると思ったあたしが甘かったぜ。いや、思いっきり愛された方がいい。まな板みたいなバストも、ちょっとは成長するかもしれないし」

薫はケタケタと笑う。マリナは大声で叫んだ。

「アホ薫! あたしをからかうのが用事なら、もう切るわよっ!」

それでようやく、薫はハッとしたように声色を変えた。

「そうだ、忘れてた。おまえさん、あたしの家にポシェット忘れてるぜ」
「ポシェット?」
「そう、きづいてないのか? あの古ぼけた黄色いの」

そう言われて、マリナはあらためて自分の部屋を見渡した。
薫の家で正体不明になるまでお酒を飲んで、今朝、彼女が呼んでくれたハイヤーで二日酔いでフラフラ状態で帰ってきた。そのまま、何とか部屋の鍵をあけ、倒れ込むように横になっていて、大家がきて、和矢がきて……。
ポシェットの存在自体、あるかどうかすら考えもしなかったが、そう言われてみると、見当たらない。

「ほんとだ、忘れたみたい」
「呆れた。寝ぼけたヤツだ。しょうがないな、あさってそっち方面に行く用事があるから、届けてやるよ」

マリナは「ううん」と受話器ごと首を横に振った。

「あのね、あたし、明日、引っ越すの」
「は?」

驚いた声を出す薫に、マリナは事の次第をかいつまんで説明した。黙って聞いていた薫は、やがて、ふーっと受話器から息が漏れでてきそうなほど、深いため息を吐いた。

「―――で、おまえさん、横浜で暮らす気?」
「だって、そうしないとあたし、ホームレスになっちゃうもん」
「アホ。史上最強のアホだ」

唐突にガチャンと電話が切られた。

「薫? ちょっと、薫っ!?」

何度も彼女の名前を呼んだけれど、虚しいツーツーという音が響くばかり。

「なんだってのよ、薫ってば……」

首を傾げながら受話器を置こうとすると、後ろから、

「響谷がどうかしたのか?」

と和矢の声がした。

「わかんないわ」受話器を戻しながら、振り向いて答えた。「突然切れちゃったの」
「いきなり?」
「うん。何なのかしら?」

和矢は上体だけを起こして、裸の胸を反らせるように後ろに両手をついた。

「ふーん……」

それだけ言うと、天井を仰いで目をさまよわせる。マリナはそんな彼に向かって、大声で言った。

「それよりも、引っ越しの準備を始めましょ!」
「今から? もう夜だぜ」

和矢がびっくりしたように、マリナを見る。マリナは手早く下着を身に着けながら、もちろんとばかりに強く頷いた。

「約束したじゃないの。男たるもの、有言実行よ。まずは荷物整理、次は荷造り、最後は掃除。やることいっぱいあるのよ。すべてはあんたにまかせるから、よろしくねっ!」
「え? おまえは?」
「そりゃ、もちろん決まってるでしょ」

白いセーターから頭をずぼっと出して、にっこりと笑う。

「引っ越しソバを食べるのよ!」







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