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Channel: りんごの木の下で
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愛に濡れた黙示録 7

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《ご注意》第一話の注意事項をご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧ください。






「ふー。おなかいっぱい!」

マリナは湯のみを手に取った。
引っ越しソバは、荷物になると思って、非常用にとっておいた乾麺を全部茹で上げた。少々多かったが、縁起物だ。一本残らずしっかりとお腹におさめた。

「おまえ、ちょっとは手伝えよ」

本棚の前で、山積みのマンガ雑誌を束にしてくくりつけながら、和矢が言った。

「終わんねぇぞ、これ。間に合わなかったら、どうするんだよ」

マリナが答えようとしたとき、ドアが勢いよくドンドンとノックされた。

「だれ? こんな時間に?」

時計をまじまじと見ると、すでに夜中の十一時過ぎだ。和矢がすばやく立ち上がり、マリナを制して、戸口に向かった

「はい―――どちらさま?」

途端、大きな怒鳴り声が上がった。

「あたしだ、マリナ、さっさと開けろっ!」
「響谷!?」

和矢が慌ててドアを開けた。マリナも、大急ぎで戸口に駆け寄った。十一月も末だというのに、真っ白いシャツとジーンズだけという軽装の薫が立っていた。

「薫、どうしたの、急に!?」
「マリナ、行くぞ」
「え?」
「トラックと作業員はあたしが用意した。マリナはあたしと一緒に来いっ!」

言うが早いか、薫はぐいっと乱暴にマリナの手を取って、部屋の外へ連れ出そうとした。マリナは叫んだ。

「ちょっとまってよ! なんのことよ!?」
「響谷、これは一体……?」
「一体もクソもあるか。おまえら、何考えてんだ?」

薫は乱れた前髪の下から、ふたりをガンと睨み上げた。

「特に黒須、おまえだ!」
「え……?」
「おまえ、部屋を追い出されるマリナを、自分の家に引き取って、いったい何がしたい? やりまくろうって魂胆か?」
「薫ったら、何をいうのよ! あたしは和矢の家に下宿をするだけよっ!」
「アホンダラ。世間ではそれを同棲というんだ!」

叩き付けるような薫の言葉に、マリナは驚きを隠せなかった。
―――ドウセイ?
おうむ返しに口にすると、薫は「そうだ」と苛立たしげに頷いた。

「マリナおまえ、マンガ家になってみせるって、中学のとき、あたしに宣言したよな」
「そうよ。それがなに?」
「そのために、人生を賭けるって」
「言ったわ」
「だから親父さんたちを泣かせて、家を飛び出してきたんだろう?」
「そうだけど……」
「それで今は、順調なマンガ家生活なのか? 急にこの部屋を追い出されても、出版社が部屋を用意してくれるぐらいの大先生になったのか? それほどじゃなくても、せめて、原稿を定期的に買い上げてくれるぐらいにはなってるっていうのか?」

最も痛いところを切り込まれた気がして、黙り込むしかなかった。
マリナは今のところ、まったく、マンガ家として名を為していない。むしろ『自称マンガ家』というのが実体かもしれなかった。松井さんに平身低頭して、何ヶ月かに一度、ようやく一作を採用してもらうのがやっとだった。それすら、最近は厳しくなってきた。
だからこそ、このアパートを追い出されるとわかったとき、困った。
蓄えなどあるわけもなかった。爪に火を灯すような毎日の中、今にも倒壊しそうなこのアパートでの生活を維持するのが、精一杯だったのだから。
和矢が自分の家で下宿を、と言ってくれたとき、ふと思った。ああ、これで、衣食住の住は確保できた―――と。
薫がマリナの手を振りほどいた。

「男に甘えないと続けらんないぐらいなら、マンガ家なんてやめちまえ」

マリナは答えられなかった。
確かに甘えていた―――それも恋人に。
和矢がたまりかねたように、口を挟んだ。

「響谷、待ってくれよ。オレはただ……」
「いいか、黒須。別にあたしはおまえさんたちの恋路を邪魔したいわけじゃない。好きな相手と一緒にいたい。その思いは死ぬほどわかるさ。死ぬほどね」

薫は和矢を睨み据えて、淡々と言った。

「でもな、マリナの親友として、これだけは言っておく。夢は砂漠の城だ。恋という嵐で踏みにじると、跡形もなく埋まっちまう。それまでどれだけ努力して美しい城を築いたとしても、だ」

マリナはハッとした。
これは、薫自身のことだ。
バイオリニストとして、ユキ辻口の唯一の愛弟子として、世界中で彼女は活躍していた。それは薫自身の意思でもあり、兄上の意思でもあった。
けれど―――三年前の兄上の死刑がすべてを変えた。薫は心臓破裂を起こし、生と死の狭間をさまよった。
昨夜、飲みながら薫がぽつりと言っていた。今は弾く場所がないと。
音楽界は彼女を忘れたのだ。

「恋は夢をつぶせるんだ。黒須、それを忘れるな。マリナが本当に大事ならな」

そう言うと、薫はマリナに視線を移した。

「マリナ、あたしの家に来い。家賃はこのアパート通りにもらう。三食は実費を払えばつけよう。光熱水費も今まで通りの金額をあたしに払え。もう部屋は用意した。いいな?」

マリナは薫をじっと見て、そのあと、和矢を見た。和矢はうつむいて身動き一つしない。そんな和矢を見ながら、マリナはしぶしぶ頷いた。

「わかった、そうする……」

薫がフンと頷き返した。
反発する思いがないわけでもない。別に和矢の家に住むからといって、自分は下宿のつもりだった。いやらしい思いなど、毛頭ない。けれど、恋人とひとつ屋根の下にいて、適度な距離と節度ある生活を保てるかというと、まるで未知数だった。
学校を休むとまで言い出していた和矢を思うと、そんな思いはさらに現実のものとなっていた。
だから、薫の言葉が正しいと思った。
恋も夢もはかりにかけるようなものじゃない。だからこそ、どちらも守ってみせる。
和矢がぽつりと言った。

「手厳しいな、響谷は」

薫は両手をあわせて、ボキッと指を鳴らす。

「文句があるなら、ハッキリ言えよ」
「ないよ。わかってたから、オレ」
「わかってただと?」
「ああ。電話を突然切られたって聞いて、こうなるって予想してた」
「ほう……。どうしてだ?」
「だってオレ、普通じゃないから。マリナの親友の君が怒ってもしかたがないと思うよ」

薫がピクンと肩を揺らせた。

「……自覚あるわけだ」

薫の問いかけに、和矢は自嘲的に笑って、

「もちろん。でも止められないんだ」

とだけ答えた。
マリナはふたりのやりとりに、ただ黙っているしかできなかった。それきりふたりとも口をつぐんで、しばらく沈黙がつづいた。やがて、薫が言った。

「ひとつ、提案があるんだが」

和矢とマリナは、薫を見た。

「黒須もうちに住めよ、下宿しろ」
「は!?」

マリナが声をあげ、和矢が目を見開く。薫はニヤッと笑った。

「にぎやかになりそうだな。きっと兄貴もびっくりして飛び起きるぜ!」








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