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Channel: りんごの木の下で
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愛に濡れた黙示録 15

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《ご注意》第一話の注意事項をご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧ください。







結局、出版社には行かなかった。
惜しいとは思う。チャンスの神様は前髪しかないと聞く。もう二度とチャンスは掴めないのかもしれない。
けれどマリナは兄上の寝ている部屋を出ると、そのまま自室に戻り、電話の子機を取り上げて暗記してある番号を押した。

「編集部の松井さんをお願いします」

電話口に出た彼にマリナは謝った。心はすでにマンガから離れていた。

「あっそ。じゃあね」

松井さんはあっさりと電話を切った。マリナは子機をチェストの上に戻した。
世の中には秘密を持てる男と持てない男がいる。松井さんは秘密を持てる男だ。大先生には「さすが先生!」と満面の笑顔を見せながら、裏では「あ~つかれた」とクダを巻く。これはもう秘密というよりも変身といったほうが適切だろうが、それが大人社会というものなのかもしれない。
和矢は秘密を持てない男だ。
それは「すき」という恋愛感情をこえて、彼と関わる全員が認めている。いつだって誠実で裏表がない。それが和矢だ。マリナは誰よりもそんな彼を知っている自信があった。
その和矢が薫ばかりか、マリナを裏切るだろうか。
いや、しない。
だから、兄上の秘密を和矢は知らない、と結論づけた。
それにしては、とマリナはベッドにあおむけにドサっと寝転んだ。

「やっぱり和矢、ヘンよねぇ……」

思わずひとりごとが走る。
頭の中を整理してみた。
兄上が昏睡状態のふりをしている。薫はそれを知らずに看病しながら音楽界復帰をめざしている。それを知った和矢は、マリナとの関係に距離を置く。
はぁ、とため息をついた。ダメだ。どうしても最後が納得できない。兄上の寝たきり演技はかなり衝撃的だけど、和矢がヘンになる理由にならない。

「だぁ―――! もう考えるのやめ!」

大声で叫んで、両手両足を大の字に伸ばした。
和矢が帰ってきたら聞こう。それが一番早い。
それから薫には真実を話そう。兄上はあんなことを言っていたけど、きっとみんなで考えれば、兄妹が幸せになれる道がある。兄上はそれを放棄してるだけなんだわ。
マリナはその考えに満足した。途端に、普段あまり使わない脳みそをフル活動させたせいか、泥のような眠気が一気に襲ってきて、あっという間に眠りに落ちていった。









ただいま、という薫の声が聞こえて、目が覚めた。部屋は真っ暗になっていた。飛び起きて部屋を出ると、階下から明るい声が聞こえてくる。

「マリナー? いないのか?」

マリナはパタパタと階段を急いで降りた。

「いるわよっ、おかえり!」

玄関ホールに二人の姿が見える。肩にかけたバイオリンケースを下ろす薫の後ろには、大学から借りてきた本が入っているのだろうか、スポーツバッグを重そうにさげた和矢が立っていた。

「門のところでばったり会ってさ。一緒の電車だったのかもな?」

薫が呆れ顔で和矢を振り返る。

「なに言ってんだ、あたしとおまえさんでは足の長さが違う。おまえさんは一本前の電車に乗ってたんだろ? とろとろ歩いて帰ってきたヤツと、あたしを一緒にするな」
「足の長さって……」

和矢は苦笑する。

「君とオレ、ほとんど身長いっしょだよ?」
「そうだ。だから酷なんだ。まぁ黒須、気にするなよ。男の価値は足の長さじゃないぜ。あたしもこれ以上は言わないでおいてやるからさ」

からかうように肩に腕をのせてくる薫に、和矢は口をすぼめてみせた。

「オレ、十八時六分着の電車。君は?」

薫が目をパチクリさせる。

「うそだろ?」
「ほんと」
「じゃあ、なんでこんな早く家に着くんだ?」
「ここんちのメシがうまくて、最近太ってきたから、ダッシュして帰ってきた」
「まさか駅からずっと?」
「たいした距離じゃないもん。朝もいつもそうだよ」

ふぅーっと大きなため息がもれる。

「信じられんヤツだ……」
「足は短いけどね。100メートル11秒フラットしか出せないし」

薫は少しの間黙ってから、やがて「降参」とくやしそうに両手を高く上げた。和矢が腰をかがめて声を立てて笑った。

「あほらしい。夕食にしよう。マリナ、兄貴は?」

マリナは二人を交互に見上げた。

「薫、和矢、話があるの」
「話? 食べながらにしてくれ。腹が減って死にそうだ」

薫はマリナの食い入るような眼差しをあっさりかわすと、及川の名を呼びながらキッチンに入っていった。玄関ホールに残されたマリナと和矢はふと互いを見る。

「ただいま。巽さんの具合は?」

いつも和矢は帰ってすぐ兄上の状態を尋ねる。今日に限ったことではない。なのに、今日は特別な意味が含まれているように感じた。

「元気よ。すごく。あんなに元気だったなんて知らなかったわ」

つい、試すような口調になった。和矢はいつもと変わりない笑顔で「そっか、よかった」と答えた。その瞬間、マリナは確信した。
和矢は秘密を持てる男だったんだ―――と。
薫がキッチンから出てきた。

「夕食は仔牛のピカタだってさ。ん? どうした、マリナ?」

マリナは我慢ができなくなって叫んだ。

「兄上は目が覚めてるのよ、本当はずっと前から!!」







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