《ご注意》第一話の注意事項をご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧ください。
■兄妹、ちょっとハードな内容です。最終的にはハッピィエンドにしたいと思ってますが、途中ちょっとでも「ツラいのやだ!」という方は、自己防衛お願いいたします。
「兄上は目が覚めてるのよ、本当はずっと前から!!」
薫の足が止まった。マリナが強く頷くと、薫は階段の前に立つマリナを突き飛ばす勢いでそこを駆け上がっていった。
「まって! あたしも行くわ!」
慌てて追いかけた。けれど、足の長さの違いは今こそ顕著で、マリナが階段を上がり二階にたどり着いたときには、薫の背中が兄上の部屋に飛び込むところだった。マリナが全速力で部屋に駆け込むと、薫がベッドに横たわる兄上に覆いかぶさるように叫んでいた。
「兄貴、兄さんっ!!」
マリナもそばに走り寄って彼を呼んだ。
「兄上、起きて」
「返事しろってば! 兄さんっ!!」
幾度呼びかけても返事はない。動きもない。
マリナは信じられない思いで目の前の兄上を見つめた。
なぜ。どうして起きないの。
「さっきみたいに話してよ。ねぇ兄上ってば!」
マリナは半ばわめくように叫びながら彼の体を揺すった。そのとき、後ろで声がした。
「夢を見たんだろ、マリナ?」
びっくりして振り向くと、いつの間に来たのか、和矢がすぐ後ろに立っていた。
「ほっぺたにくっきりと枕のあとがついてるぜ」
和矢は仕方ないなというように、マリナのほおをつつきながら、流暢に説明を始めた。
「夢ってさ、心の中の願望が反映されるんだ。だからさ、願いが強ければ強いほど、夢にでやすい。マリナ、おまえは巽さんの夢を見たんだ。そうだろ?」
思わず呆然とする。信じられない。あれが夢だというのか。松井さんからの電話も、それを聞いていた兄上が「行っておいで」と微笑んでくれたことも全部。そんなわけない。
マリナは声を張り上げた。
「違うわ! あたしは本当に兄上と話したのよ!」
「ねぼけてるんだって」
「違うってば!」
「それとも腹が減って幻覚でも見たのか? それなら夕メシ食べよう。な?」
「何言ってんのよ! 和矢のバカ! あんた知ってるくせに!」
夢遊病者のような扱いをされて、マリナは兄上を力任せにゆさぶった。証明してくれる人は彼以外いない。
「兄上、起きて違うって言ってよ! 兄上!」
兄上は答えない。マリナはひどく何度もゆさぶった。彼の頭が人形のようにカクカクと揺れた。演技でここまでできるものなのか。不気味な気さえした。
震える声が横でした。
「夢、の話……なのか?」
ハッとして薫を見ると、彼女は泣きそうな顔でマリナを見ていた。
「違うわ! 薫、あたしを信じて!」
こんな顔をさせたかったわけじゃない。ずっとずっと耐えてきた彼女が喜びで打ち震える姿を見たかったのだ。夢中で首を振って叫びまくった。
「兄上は本当に起きてるのよ! あたしが松井さんと電話で話してたら、出版社に行きなさいって言ってくれたもの! 未来をつぶしちゃいけないって! あれは兄上よ! どこからどう見ても100%兄上だわ!!」
すると、薫がかなきり声で叫び返してきた。
「―――だったらマリナ、兄貴を説得してくれよ! あたしは兄貴の三文芝居に、ずっと前から付き合ってるんだから!!」
マリナは絶句した。
「あんた…知ってたの?」
薫が小さく頷く。
「……ああ。パリにいるころから」
マリナの息が止まった。思考も止まった。
「でも、最近は自信がなくなってた」
薫はひとつ深い息を吐いてから、ゆっくりと話し出した。
「話しかけても返事をしてくれない兄貴を見ているうちに、もう何がなんだかわからなくなってきてた。兄貴ははじめから気がついてなんてなくて、いや、本当は兄貴は死刑になって、死んだ体をあたしは眺めてるだけなんじゃないのか。そんな気がしてきて……」
衝撃で呆然としている頭の中を薫の声が流れていく。
「薫、あんた……」
「小心者だろ、笑えよ」
薫が背を向けた。
笑えるわけない。兄上のことを打ち明けてもらえなかったショックから、マリナの思いは次第に薫の心中へと移った。
どれほど薫が苦しんだか、ようやくわかった。眠ったふりをしている彼に、きっとこれまで数え切れないくらい何度も話しかけてきたのだろう。名を呼んで、バイオリンを奏でて、ほおに触れて。それでも目も開かず答えてくれない彼に薫は傷つきながら、必死に笑顔を交わし合う日を待ってきたんだ。
その痛々しいまでの心に、マリナは何と言っていいのかわからなかった。
兄上は非情だ。兄上の愛は、どうしていつもこうなのか。薫のためといいながら、一番薫を悲しませる。薫を遠ざけるために、数々の女性と交際した。薫の心臓のためにと、ガダニーニを巡る罪を犯した。薫をあきらめさせるために、拘置所に通うクリスチャン女性を愛してると言った。そして薫を励ますために愛の手紙を寄越した。
薫にとって最善をと、兄上は選んでいるのだろう。その心まで疑ったり貶めるつもりはない。けれど。
薫が本当に望んでいるものを知っていましたか―――?
マリナは兄上をひっぱたいて起こして、そう問いかけてやりたかった。
「マリナならもしかして兄貴を起こしてくれるかもって思ったけど」
突然、薫が振り返った。マリナは悲鳴を上げた。
「何するのっ!?」
薫が兄上の襟を掴み上げて殴りかかろうとしたのだ。
「やめろっ!!」
咄嗟に和矢が制止した。
「離せ黒須! まだ芝居を続ける気なら、ぶんなぐってやる!!」
「巽さんには巽さんの真実がある! それが君の望まないカタチであったとしてもだ! きっと彼は殴られても殺されても変えない! 彼がそういう人だってことは君が一番よく知ってるだろっ!?」
「……っ!」
薫は一瞬だけ動きを止めた。
が次の瞬間、薫は和矢を突き飛ばして、猛然と部屋を飛び出した。和矢がすぐに追った。マリナも慌てて廊下に出ると、和矢が薫の腕を捕まえているところだった。
「どうしろってんだ……っ! これ以上あたしにどうしろって…っ」
マリナはふたりに走り寄った。
「あたしがいるじゃない! 薫、あたしがいるわ!」
「もういいよ。マリナも黒須もみんなでてけよ。もうあたしは誰もいらない!」
「ダメよ、待つのよ! 音楽をがんばれば兄上はきっと起きるわ。つらいけど待つのよ! 絶対によくやったって声をかけないでいられなくなるわ。だって、あんたたち兄妹はそうやって支えあって生きてきたんだもの!」
薫がめちゃくちゃに首を振った。
「もう待てない! もう我慢なんかしたくない!」
和矢が掴んでいた薫の手を強く引いた。
「我慢できないんだったらオレに当たれよ」
「和矢!?」
マリナは仰天した。
「巽さんを傷つけないでオレを殴れ。君の苦しみは全部オレが引き受ける。一緒に待とう。君はひとりじゃない。巽さんが起きるその日まで、オレはこの家にずっといるから」
「なんで…?! あんた、マリナの男だろ…? だからうちにいただけだろ!?」
和矢は両手で彼女の頬を強引に掴んで、魂を注ぐように叫んだ。
「違う! 君がオレの大切な友達だからだ!」
瞬間、薫は大声で叫んで和矢を殴り飛ばした。
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