《ご注意》第一話の注意事項をご確認の上、ご了承いただける方のみ閲覧ください。
■兄妹ファンの方にとっては引き続きハード展開です。物語としてはハッピィエンドが最終目標ですが、それまではくれぐれも自己防衛をお願いします。
8
リムジンが響谷家に到着したのは、午前零時を過ぎた頃だった。
森のような暗がりの中に、門灯だけがぼんやりと浮かび上がっていた。車寄せについた車から急いで降りようとする気配のないシャルルを強いて、マリナは車を出た。空気が研ぎたての刃物のように冷たくて、ポツンポツンとみぞれに近い質量のある雨が落ちはじめていた。
「おかえりなさいませ」
チャイムを押すと、及川がすぐに顔を出した。シャルルを見ても、彼女は驚いた顔を見せなかった。
「薫たちは?」
マリナが聞くと、「巽様のお部屋です」という答えが返ってきた。マリナはシャルルとともに階段を上り、二階にいくつも並んでいるドアを通り過ぎて、一番奥の部屋へ向かった。
「薫、あたしよ。帰ってきたわ。シャルルを連れてきたわよ」
返事がない。焦れて、声が大きくなった。
「開けるわよ」
ドアを開けると、「おかえり」と和矢が言った。声の方角を見てマリナの心臓がドキッと縮んだ。和矢が戸口すぐの壁にもたれかかるようにして床に座っていた。左頬が真っ赤に腫れている。
「ひどい、大丈夫!?」
慌てて彼に駆け寄ると、和矢は笑って彼女の手を制した。
「ああ。こんなのなんともないさ。それよりおまえ、シャルルを連れてくるって出てったって」
「そうなの。ほら!」
首を戸口に向けると、シャルルがドアの陰から姿を見せた。たった数時間で本当に現れた彼に、和矢が面食らうのがわかった。
「何の用で来た?」
薫の声がして、マリナが今度は部屋の中に向かって振り向くと、彼女は窓際に置かれた兄上のベッドの向こう側で、直立不動なままひっそりと立っていた。ベッドに動きはない。彼は相変わらず眠ったふりをしているのだろう。いつまで演技をつづけるつもりなのだろうか、と正直呆れた。
「あんたの顔なんか見たくもないんだけどね」薫がシャルルに向かって言った。
「オレも同意見だ」シャルルは答えながら部屋に入る。「ただマリナに従っただけだ」
ふぅーん、と薫が嘲るように顎を突き出す。
「さすがの天才も、惚れた女だけには弱いわけだ」
「ああ、そうだ」
シャルルはあっさりと肯定した。マリナはぎょっとする。ふたりとも何をいいだすんだ。勝手に人を引き合いにだすのはやめてほしい。
「なら黒須と決闘でもしてからマリナとゴロニャンしろよ。庭先なら貸してやるから」
「それはどうもご親切に」
「どういたしまして。じゃあ、とっととでてってくれ」
薫が手で払う仕草をした。シャルルはベッドから半身ほど離れたところで腕を組んだ。
「本当は君が兄さんとゴロニャンしたいんだろ?」
薫がピクッと手の動きを止めた。
「なのに、できない。だから君は苛立っている。分かりやすい自己防衛反応によるすり替えだ」
「なんだと……っ」
「カズヤを殴った理由がほかにあるか」
「違う!」和矢が口を挟んだ。
「オレがそうしろって言ったんだ!」
「マリナから聞いた。満たされない愛情を暴力で置き換えるというのはよくある事例だが、他人がそれをわざわざ誘導するのは珍しい。カズヤ、君の発想は研究したいぐらい奇抜で面白い発想だと思うよ」
シャルルはちらっと和矢を振り返った。薫が叫んだ。
「マリナっ! なんでこんなヤツを連れてきたんだ!」
マリナは慌てた。
「あたしはシャルルに兄上を説得してもらおうと思って」
「こんなヤツの協力なんかいらない。さっさと追いだせ!」
「それは困る。マリナに頼まれたことを果たさないと帰れないね」
シャルルはそう言うと、ジャケットの胸元に手を伸ばした。半透明のプラケースを取り出し、その蓋をあける。二本の注射器と透明な液体入りの先の尖ったガラスアンプルが数本入っていた。
「なんだ、それ……?」薫が怪訝な声で聞いた。
「タツミを起こしたいんだろ?」
シャルルは注射器とアンプルを一本ずつ取り出し、ケースを胸ポケットにしまうと、片手で器用にアンプルを折り、注射器で中身を吸い上げた。「なんの薬?」マリナも恐る恐る聞く。
「カフェインなんかと同じだ。中枢神経に作用して、活動を活発化させる。結果、心身が興奮状態になって寝ていられなくなる」
マリナはホッとした。カフェインならコーヒーや紅茶に入っているあれだ。それなら害はないだろう。自分も〆切前にはさんざんお世話になっている。寝ている演技を完璧にこなす兄上に、無理やりコーヒーを飲ませることはできなくても、これなら大丈夫だ。
「さすがシャルル! じゃあ兄上は起きるわね!」
和矢が鋭く聞いた。
「薬剤の名前は?」
「別に違法なものじゃない」シャルルが答えた。「ブランデーを飲むのと同じさ。ただ何も知らない方がいいと思うよ」
一瞬、シャルル以外の全員が黙る。薫がシャルルを睨んだ。
「あんた、兄貴に何をするつもりだ?」
「君の代わりに彼を起こしてやろうっていうんだ。感謝しろよ」
シャルルは冷静な顔で、注射器の先からピピっと薬剤を数滴落とした。
そのときマリナは自分がしようとしていることがどういうことなのかを、はじめて悟った。兄上には彼の意思がある。当然のその真実を今まで無視してきた。自分は薫の親友で誰よりも彼女の苦しみも辛さもわかる。だからこそ、兄上としあわせになってほしい―――その願いだけがマリナの真実だった。
人間は自分にとって必要なことだけを聞き分けるのだという。
どんなに騒がしいところでも、自分の名が囁かれたりすると、人はそれを耳にとめる。反対にしっかり面と向かって告げられたことであったとしても、「必要なし」と判断すれば、それを簡単に忘れ去ってしまう。これは『耳』という身体能力を超えて、心理学の範疇だと知ったのは、ごく最近、ミステリーマンガで読んだからだ。
「薫のために」「薫が僕に引きずられないように」「薫の未来をつぶさないために」
兄上の願いをこの耳で聞いたはずだったのに、マリナの心はそれをあっさりと取捨選択していた。
「あたし……」
マリナの狼狽をよそに、シャルルはベッドに近づいていく。
「五分ほどで効いてくる」
シャルルが兄上の腕を取り上げた。瞬間、薫が叫んだ。
「やめろ!」
パシン、と注射器を持つシャルルの手が勢い良く上から下に叩かれた。注射器が床に落ちて割れた。
「彼に起きて欲しかったんじゃないのか」
シャルルが聞いた。薫はハッとしたように彼の手を叩いたその手で自分の口を覆った。と思った直後、彼女はシャルルを突き飛ばすように、部屋を飛び出していった。
「響谷、待てよ!」
和矢が立ち上がって追いかけようとした。
「カズヤ、君こそ待て」
すぐさまシャルルが声をかけた。和矢の足が見えない壁にぶち当たったかのようにピタリと戸口で止まる。
「マリナを連れていかないのか?」
玄関ドアの乱暴な開閉音が聞こえてきた。
「連れていけよ」
マリナはそうだ、と頷いた。一緒にいこう。いって薫を…、と和矢に言おうとした途端、口をつぐんだ。彼の両拳が小さく震えていたからだ。
「マリナは連れていかない」
和矢は背中を向けたまま、苦しむ薫の前でふたりでいくことは、彼女にとってむごいことだろう、と最初の理由を言ってから、辛そうに早口で続けた。
「オレは三年前親友を見捨てた。もうこれ以上、友達を見捨てたくない」
「えっ……」
マリナは食い入るように彼の背中を見つめた。
「ごめん、マリナ」
和矢は振り返りもせずにそのまま駆け出した。足音が階段を下って、玄関を出ていった。
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